sannigoのアラ還日記

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家康が初めて手掛けた磐田見付の『城之崎城』ところが幻の城に!どうしたらええんじゃ~

🕖2023/3/15    🔄2023/05/18

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

岡崎で生まれた徳川家康、幼少時代は今川家の人質として駿府で過ごし人質生活を終えた19歳の時に岡崎に戻ります。

 

今川家の衰退をきっかけに尾張の織田信長と同盟を結び、三河での一向一揆が治まると、浜松のある遠江地方の領土化を進めます。そのため浜松に入り、その後17年間45歳までを浜松で過ごすことになります。

 

現在放送中の大河ドラマ『どうする家康』に登場するかは不明ですが、もしかしたら家康が岡崎から移った城は浜松ではなく、磐田の見付だったかもしれないというお話をご存知でしょうか?

 

確かに磐田の見付は奈良時代から遠江の政治・経済の中心地として栄えていましたし、遠江国の国府・守護なども磐田の見付に置かれました。

 

北には東海道見付宿、南には今之浦の低湿地が広がるこの地は交通の要所であり、居城を岡崎城(愛知県)から遠江国に移し、領内の支配を図る家康が本拠地として注目したのがこの見付でした。

 

ですが、なぜか家康は見付ではなく、浜松の引間城を広げる形で浜松城を築き入城します。そこで、今回は磐田にあった家康ゆかりの城『城之崎城(きのさきじょう)』について詳しく記していきましょう。

 

徳川家康が浜松城入城の前に作った「城之崎城」が今は「城山球場」に!

 

 

家康が手掛けた初めての城は『城之崎城』

 

磐田原台地の南、城之崎丘陵上の磐田市見付に位置する城山球場・中学校は、徳川家康ゆかりの城之崎城跡に造られていることをご存知でしょうか?

 

 

場所:磐田市見付190

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR[磐田駅]から遠鉄バス80番→約6分→見付バス停下車、徒歩で約6分

車:東名[磐田IC]より約10分

  磐田バイパス[見付IC]より約7分

駐車場:球場の駐車場があります。(152台)

    有料駐車場も近くにあります。

御城印:4/1から限定販売で城之崎城、中泉御殿、社山(やしろやま)城、3古城の御城印を作り、JR磐田前の観光案内所+磐田市下神増の農産物直売所+「とよおか採れたて元気むら」で販売しています。※私は5/17に「元気むら」で購入しました。

 

5/17に「元気むら」で購入できた磐田三古城の御城印

 

1568年(永禄11年)遠江に侵攻した徳川家康は岡崎城を長男の信康に任せ、翌年永禄12年に遠江を治める拠点として注目した見付に城之崎城を築き始めます。

 

江戸期と思われる城之崎城の絵図が残されています。絵図からはいろんなことがわかります。※名古屋市蓬左文庫所蔵『遠州見付古城図』。

 

城之崎城は北を除く三方を入江や沼地で囲まれた要害地に築かれ、本曲輪を中心に二の曲輪、東曲輪が配されています。曲輪は土塁や堀で囲まれていました。

 

北側を通る東海道や見付宿を見下ろし、入江があるため水路と陸路の両方を使える交通の要衝にありました。

 

家康がなぜ城之崎城を中止したのかは諸説あるようですが、家臣の住居の建設までも進んだ城之崎城、家康はきっと「この城でどのように乱世を生き抜いて、やがて戦のない平和な世の中にしよう」などと旗印である『厭離穢土欣求浄土』の実現を目指していたことでしょう。

 

ですが、城之崎城は完成することはありませんでした。1570年(元亀元年)家康は築城途中で造営を中止、城之崎城は幻の城となったのです。

 

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家康はなぜ城之崎城の造営を中止したのか?

 

城之崎城の造営を中止した理由は諸説ありますが、水の確保が十分でなかったことや、武田との関係が悪化したことなどが考えられます。

 

東から攻めてくる武田に対し、天竜川を背にすることは織田の援軍を受けにくく、戦略上不利と考えたためと推測されます。当時、同盟関係にあった織田信長の意見に従った結果とも考えられています。

 

それは石川正西見聞集(いしかわしょうさいけんぶんしゅう/17世紀に川越藩主松平周防守の家老である石川正西が記した覚書)によれば、「信長公より御意見ありて見付の新城やめさせられ候」との記録があるからです。

 

そのご意見とは?「もし、信玄と敵対した場合、家康が見付にいたら天竜川がじゃまになって救済に向かうことができない。たとえ、渡ることができたとしても、川を背にすることになる。居城は浜松にしなさい」だそうです。

 

このような意見が示されたといいます。ここまで進んでいる城之崎城を途中で切り上げるなんて負担が多すぎる。でも、そのまま続ければ信長を裏切ることになる。と悩んだ結果、家康はしかたなく磐田見付での築城をあきらめたということのようです。

 

城之崎城跡の遺構

 

工事中の土塁や、東側の深い谷に続く横堀

 

城之崎城跡は現在形を変え、城山球場や城山中学校となっていますから、その遺構は多くはありませんが、土塁(どるい/敵を防ぐため造った土手)や堀などの一部を見ることができます。

 

本曲輪の土塁は、球場のスタンドなどに利用されており、形は変わっていますがおおよその規模を見ることができます。東側の深い谷に続く横堀(斜面に対して直角に作られた堀)では、当時を偲ぶことができそうです。

 

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最後に

 

浜松とはお隣さんのよしみでよく出かけますから、城山球場は知っているし、城山中学だって見かけます。確かに「城山」という地名ですが、本当に城の山だったとは!

 

なんか高い場所にあるし、旧東海道からはえらい坂道だとは思っていたのですが、お城の跡なら納得です。

 

遠江見付は東海道の宿場町でもあるし、遠江国の国府・守護なども置かれ政治・経済の中心地であったことから、もし信長との同盟がなかったら『浜松城』が幻の城となり、『城之崎城』を中心に見付や磐田はもっと栄えていたことでしょう。

 

現在の浜松市民としては、織田信長に感謝すべきかもしれません。だって磐田駅前に飾られている”7層のゴールドの『遠江国分寺』”の復元模型を見るだけで、奈良時代の栄えた様子が伺えますから。

 

なんせこの『七重の塔』の高さは、なんと66.5mと判明しているのですよ。そんな歴史ある場所で幻の城となってしまった『城之崎城』。かわいそうです。

 

城之崎城築城を中止した家康は、結局改めて引間城を取り込んだ丘陵一帯に新城を築き、そこを『浜松城』と改め本拠地を移したのでした。

 

やっぱり「どうする家康」のネーミングがピッタリ!築城を始めて家臣の住居までできていたのに、なんの因果かすべて白紙になってしまうなんて。多分家康公も「どうしたらええんじゃ」と叫んだことでしょう。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。