こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうござます。
先回JRと天浜線、さらに遠州鉄道がコラボした『さわやかウォーキング』で、家康の支城として知られる二俣城と鳥羽山城、そして戦国の悲劇信康が眠る清瀧寺を訪ねました。
今回は、その際、立ち寄った家康公ゆかりの『筏問屋 旧田代家住宅』をご紹介しましょう。旧田代家とは、江戸時代には北鹿島村の名主で、渡船場船越頭(とせんばふなこしがしら)を勤める一方、天竜川筏の受け継ぎ問屋も経営していた旧家です。
家康公から天竜川の材木流運の特権を与えられた筏問屋”田代家”の建物は、現在登録有形文化財として保護・公開されています。
筏問屋 旧田代家住宅
江戸時代前期には、この場所に田代家の屋敷が築かれていたそうです。屋敷は江戸時代末期から明治時代の自然と共生した田代家の人々の風情が残され、天竜地域の歴史、文化を語る貴重な文化財です。
場所:天竜区二俣町鹿島489
《アクセス》
電車・バス:遠鉄電車[西鹿島駅]下車徒歩約10分
天浜線[二俣本町駅]下車徒歩約20分
車:東名[浜松IC]より約25分
新東名[浜松浜北IC]より約15分
駐車場:あり
営業時間:10:00~16:00
休館日:平日、年末年始
開館日:土曜、日曜、祝日
入場:無料
田代家は、五ヶ村(北鹿島村・西鹿島村・瀬崎村・佐崎野村・川口村)の草分けです。
1580年(天正8年)2代目九郎左衛門の子の、孫丞(孫尉)の時、徳川家康の遠州経略に協力して、天竜川の筏川下等の御朱印を賜り、諸役免除の特権が与えられました。
江戸時代には北鹿島村の名主と、渡船場船越頭(とせんばふなこしがしら)を勤める一方、天竜川筏の受け継ぎ問屋も経営していた旧家です。
また、鹿島拾分一(じゅうぶんいち)番所(幕府が天竜川を上下する船、筏の貨物に10分の1の課税をした役所)の役人や請負人になったりしたこともあり、現在まで多くの古文書類を持ち伝えました。
明治維新後に10代嘉平次は、国学や俳譜、書道をたしなみ、歴史にも詳しく、初代二俣町長にも選ばれました。また11代の田代栄作は二代二俣町長に就任しています。
その田代家の主屋は、天竜川畔の敷地中央に南面して建つ木造2階建てです。1859年(安政6年)に再建され、良材をふんだんに使った筏問屋にふさわしい建築で、来客用の玄関(式台/しきだい)も設けられ、軒先の木組(せがい造り)も特徴的な大型民家です。
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筏問屋 旧田代家住宅主屋・土蔵は、国登録有形文化財
屋敷の広さは2030平方メートル(614坪)で、鳥羽山を背に主屋、納屋、土蔵、水屋等で形成されています。
現在の主屋は江戸時代の1859年(安政6年)の再建ですが、1769年(明和6年)に家屋築造の記録があり、遡って1698年(元禄11年)の北鹿島村絵図に既に現在地に描かれていることから、江戸時代前期には、この場所に屋敷が築かれていたことがわかります。
間口11間、奥行6間の2階建て瓦葺の民家ではありますが、虫籠窓や出桁造りに筏問屋としての町家風の特徴がみられます。
日常の主要な出入口の大戸口が東寄りにありますが、南側に式台を構え奥の間、床の間があり襖、障子で仕切られる書院造りとなるなど、庄屋としての格式の構えがみられます。
二階の北側は、数寄屋風となっていて興味深いです。建築材は檜、杉、桜、栗、松、欅等の優良材が使用されていて、欄間の彫刻などと共に往時の盛況が偲ばれます。
旧田代家住宅土蔵
土蔵は昭和前期の建造で、敷地南東隅に建っています。屋敷構えを引き立てる旧道具蔵です。(工事中のため見学できませんでした)
庭園は池廻遊式で、庭木には椿、ウスギモクセイ、サザンカ、ナギ、サルスベリ等があり、景石、石組により、古庭園としての趣深いです。
屋敷は江戸時代末期から明治時代の自然と共生した田代家の人々の風情が残され、天竜地域の歴史、文化を語る貴重な文化財となっています。
浜松市の案内板には以上のことが書かれていたため、この建物には貴重な文化が残されていることがわかります。
また、建物の内部には、田代家より寄せられた天竜川船運関係などの多くの資料が展示され、「旧田代家住宅主屋」と「旧田代家住宅土蔵」の2棟は国の有形文化財に登録されていますので、じっくりと見ることをおすすめします。
施設自体はそれほど大きくはありませんが、見学無料でボランティアさんが親切に案内してくれます。住宅の裏からもつづら折りながら鳥羽山城址へ登る道へショートカットできるようでしたが、なかなか急だったのであきらめ、正規ルートで鳥羽山城へ向かいました。
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天竜川の玉石
屋敷の母屋への踏み石通路や井戸裏山の土止め石垣には、天竜川の玉石が使用されていて、河畔の民家の特色ある光景になっています。
天竜川の筏について
筏は南信州や北遠州の山林資源(杉、檜、松、桜、竹など)を並べ繋ぎ合わせて、船のように藤蔓で組んだもので、筏師が乗って天竜川を下りました。筏は前後二艘からなり、鹿島を経て遠州灘河口の掛塚まで運ばれ、船積みされて江戸や全国に運搬されました。筏流しはトラック陸送とダムの完成により姿を消しました。
田代家は竹筏で家康公を助けた等の功により筏下しの特権を得て、受け継ぎ問屋を経営していた旧家です。
田代家のとなり(天浜線のトンネル側)には船頭宿が残っています。内部を見学することはできませんでしたが、当時を偲ぶにはもってこいの風情のある建物でした。
船頭宿(船頭御宿)
この建物は明治30年に建てられ、天竜川の急流を下った筏師や船頭はこの宿に泊まり20キロ離れた自宅に歩いて帰りました。部屋10室で当時の様子を伝えています。浜松市地域遺産に認定されています。
参照元:筏問屋 旧田代家住宅(天竜川筏問屋・嘉平治)浜松市正直観光協会 | 【公式】浜松市正直観光協会
最後に
今回は鳥羽山城跡や、二俣城を訪ねるお城好きの皆さんも、お城を守る急流で知られる天竜川を、南信州や北遠州の山林資源を並べ繋ぎ合わせた筏に乗った筏師が、颯爽と天竜川を下る様子を思い描くためにも、国登録有形文化財【旧田代家住宅主屋・土蔵】に立ち寄られることおすすめします。
その筏は前後二艘からなり、鹿島を経て遠州灘河口の掛塚(現在の磐田市掛塚)まで運ばれ、船積みされて江戸や全国に運搬されたといいます。
現地にはそれぞれの案内板が設置されていますし、ボランティアさんの案内や住宅内の展示物をご覧になることで、「筏問屋って?」や「田代さんって?」なんて疑問も解けて、天竜川畔の古の様子が船頭さんの掛け声とともに脳裏に浮かんでくることでしょう。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。