sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

秋葉神社上社といえば火まつりですが、ニノのお手植えの梅ともみじ、天狗の皿投げも忘れずに!

<PRを含みます>こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

待ちに待ったゴールデンウイークも過ぎてしまえばあっという間でしたが、徳川家康ゆかりの駿府城公園や浅間神社を「さわやかウォーキング」で訪ねることができました。

 

さらに、ご近所さんなのになかなか出かけるチャンスのなかった『高天神城』や『横須賀城』も改めて訪れることができて、かなり充実した幸せな9日間でした。

 

「浜松まつり」が開催された3日~5日、心配されたお天気も運良く晴れて「松潤効果」もあってか、騎馬武者行列には68万人、浜松まつりの3日間の人出は255万人と最近20年で最多だったそうです。本当に全国からお越しくださった皆さまお疲れ様でした。

 

ちなみに、行列は応募したものの「落選」でしたが、うれしいライブ配信があったので、そちらで楽しむことができてラッキー!でした。

 

そんな松潤で湧く街中からは少し離れ、車で2時間程度北へ走り、この時期は新緑が目にやさしい「北遠」へ足をのばしたアラ還は、かねてから死ぬまでに一度はお参りしなくちゃ!と思っていた『秋葉神社上社』を訪ね、「ニノ」こと二宮和也氏が若かりし頃植えたという「梅」と「もみじ」も見てきたのです。

 

この「北遠」とよばれる地域は、春には桜と新緑、夏は夜空、秋の紅葉、冬の渡り鳥など、風光明媚な四季折々の風景が楽しめます。が、少々車の運転に自信のない私は山道が怖くて、近くまで出かけても「このカーブはムリだ」と何度か諦めてUターンした経験があります。

 

今回はゴールデンウイークということで同居人が運転してくれたので、緑豊かな山々や天竜川の流れに心を癒やされながら「秋葉神社上社」で、絶景といわれる景色や、「幸福の鳥居」と呼ばれるGOLD(金色)の大きな鳥居もくぐることができ、さらに念願のニノお手植えの梅ともみじを見学できて、かなりうれしい還暦の思い出になりました。

 

標高866mの秋葉山山頂にある秋葉神社上社は、昔から火災防止(火防の神)として広く信仰を集めています。特に徳川綱吉の時代から、秋葉大権現は神道、仏教および修験道が混淆(こんこう)した「火防の神」として、日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着したといいます。

 

この頃の参詣者による賑わいは、お伊勢参りにも匹敵するものだったそうで、各地から秋葉大権現に通じる道は「秋葉路(あきはみち)」や「秋葉街道」と呼ばれ、多くの常夜灯(秋葉灯篭)が建てられました。そして、未だ現在も残っているのです。

 

秋葉山への参詣道を示したさまざまな古図は、秋葉山を中心に蜘蛛の巣のように道が張り巡らされ、遠江(遠州中部西部)では「すべての道は秋葉山に通じる」ととまでいわれるほどだったそうです。

 

今回は、毎年12月25・16日に行なわれる恒例の「秋葉の火まつり」は、特に大勢の参拝者でにぎわう『秋葉神社上社』をご紹介しましょう。

 

「幸福の鳥居」と呼ばれる金色の大鳥居が眩しい秋葉神社上社

 

 

秋葉神社上社

 

浜松市は全国で2番めに広い面積を誇るだけあって、海も湖も、里に川に山も、とかなり豊富な自然に恵まれています。今回訪ねた「秋葉神社上社」も、北遠と呼ばれる自然豊かな場所にあります。

 

 

場所:浜松市天竜区春野町領家841

 

《アクセス》


電車・バス:遠鉄電車[新浜松駅]→約32分→[西鹿島駅]下車、遠鉄バス[西鹿島駅]→[春野車庫行き]→約45分→[秋葉神社前バス停]下車→徒歩約1分→秋葉山本宮秋葉神社下車

車:新東名高速道路[浜松浜北IC]より約40分
  東名高速道路[袋井IC/磐田IC]より約1時間
  下社から上社まで車で約40分

駐車場:無料であります(300台)

・山頂の上社と、麓の気多川畔にある下社では、徒歩で約1時間半から2時間、標高差約750mほどある古くからの参道で通じています。

・山頂に至る車道は、西側の麓を走る天竜川沿いの国道152号線から車で20分ほど登る、やや狭くカーブの多い舗装された林道になっています。

 

参拝:6:00~21:00
社務所:9:00~17:00(ご祈祷は9:00~15:30)
定休日:無休
料金:境内自由

御朱印:あります(300円)


赤石山脈の遠州平野に突出した最南端、天竜川の上流に位置する秋葉山。標高866mの山頂付近にあるのが、古くから火防の神として広く信仰を集めた『秋葉山本宮 秋葉神社』です。

 

この秋葉山本宮 秋葉神社は、本宮の名が表す通り、全国に400社以上ある秋葉神社の総本宮でもあります。御祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)。秋葉山に鎮まる神で「秋葉大神(あきはのおおかみ)」とも称されます。

 

火之迦具土大神は、伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冊(いざなみ)二柱の神の御子で火の玉宰神です。火の光は時間的、空間的に人間の活動の範囲を拡め、その熱は人間に冬の寒さをも克服させ、食生活を豊かにし、そのエネルギーは工業・科学の源になると共に、その威力は総ての罪穢を払い去るのである。光と熱と強いエネルギーを与えられたこの神は、文化科学の生みの親として畏敬され、崇められて来たのである。

御神徳は火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防関連の神として、火災消除・家内安全・厄除開運・商売繁盛・工業発展の御霊験あらたかなるものとして、全国津々浦々から信仰されている。

 

引用元:秋葉山本宮 秋葉神社パンフレット

 

江戸時代までは秋葉権現を祀る秋葉権現社(あきはごんげんのやしろ)と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(しゅうようじ)とは同じ境内にある神仏混淆(しんぶつこんこう)の山でした。

 

駐車場から階段を上っていくと、黄金に輝く幸福の鳥居が見えます。この幸福の鳥居をくぐって振り返ると、遠州地域や天竜川のほか、浜松市内や浜名湖までも望むことができます。山頂からの眺望は、東海一ともいわれ、天気が良ければ、袋井のエコパや浜松駅近くのアクトタワーも見えます。さらに夜景も素晴らしいそうです。

 

現在も火防の神として全国各地から、消防・火力発電・調理師など火を取り扱う仕事の関係者など多くの人が、お参りとお礼のためにやってくるそうです。ちなみに、こちらの神楽殿に大きなジュビロ磐田の絵馬が掲げてあったのもそんな理由からでしょうか。

 

ジュビロ磐田の絵馬が掲げてある神楽殿

 

山頂から参道を徒歩で10分ほど下ると、8合目程の場所に秋葉山秋葉寺(しゅうようじ/三尺坊とも呼ばれる)があります。地元の人びとの強い願いにより、1880年(明治13年)にご本尊を観世音菩薩とする寺として改めて創建されたものです。

 

秋葉山本宮 秋葉神社の歴史

 

秋葉山本宮 秋葉神社上社『本殿』

 

《創建》

 

古来神が宿る御神体山として崇拝されていた秋葉山、この地に初めて社殿が建てられた時期は諸説ありますが、社伝では今から1300年以上も前の709年(和銅2年)とされています。

 

もともと秋葉神社は社殿がなく、山そのものが御神体だそうです。709年に山が鳴動し炎がようなオーラが上がったため、人びとがそれを見て「神様が何か要求されているに違いない」と考えました。

 

ただ、何をすればよいのかわからなかったため、朝廷にお伺いをたてたところ、元明天皇より「社殿を建ててお鎮めなさい」という命令が下り、山の神様を鎮めるため社殿が建てられたといいます。

 

それが709年のことと伝わり、その時点ではすでに「火まつり」は行なわれていたといいます。その後、仏教や修験道が入り、神仏習合の霊山として発達しました。また、江戸時代に僧侶が編纂した「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」などでは、行基開山説が説かれ、701年(大宝元年)に寺を開いたとされます。

 

地元春野町には「波小僧」という伝説も伝えられています。社殿建立時の人手が足りなかったため、藁で人形を作り祈ったところ、人形に魂が宿り一緒になって働いたため予定より早く完成したといいます。その働きに感謝して人形を川に流したところ、波の音で風雨の災害を知らせてくれるようになったという伝説です。

 

《上社と下社》

 

現在、秋葉山本宮 秋葉神社は、山頂にある上社(かみしゃ)と、山の南東麓にある下社(しもしゃ)とに分かれています。

 

上社には、内宮社(天照大御神)、外宮社(豊受大明神)などのパワースポット力を高める末社(本社に属する神社)が11もありますので、本殿と合わせて参拝されることをおすすめします。

 

第二次世界大戦中に、山頂の上社が山麓から発生した山火事の類焼により、本殿東側の山門を除く建物すべてを消失しました。戦中戦後の立て直しは時間もかかったため、山麓に下社を造営し祭祀を継続したそうです。下社は、上社とは違って、静かな森の中にひっそりと佇んでいる感じです。

 

下社の御祭神は上社と同じ火之迦具土大神、そのため、鉄鋼業関連の方も多く参拝しているとのことです。秋葉神社下社の境内には日本一大きいとされる、鉄製の「十能」と「火箸」が奉納されています。

 

ちなみに上社には、あの嵐のニノこと二宮和也氏が、『嵐にしやがれ』での取材ロケをした平成27年6月23日に参拝を記念して植えた梅ともみじの樹があるので、ぜひ探してみてください。お手水舎の近くに「もみじ」、少し戻った角に「梅」があります。

 

左がお手植えのもみじ、右がお手植えの梅です

 

他にも上社の名物に「天狗の皿投げ」という珍しい願掛けがあります。初穂料500円で、選んだ3枚のお皿に筆ペンで願い事を書いて、その願掛けしたお皿を「投射所」から林の中に浮かぶ輪っかをめがけて投げ入れるものです。

 

投げたお皿が、輪に近づくほど願い事が叶うというものですが、見る限りなかなか輪に入れるのは難しそうでした。貧乏暮らしの私はもちろん皿は投げず、他人様が皿を投げるタイミングで願い事をするのみ!

 

投げたお皿が、この輪っかに近づくほど願い事が叶うというものです

 

《秋葉の名の由来》

 

大同年間に時の嵯峨天皇から賜っ御製の中に「ゆく雲のいるべの空や遠つあふみ秋葉の山に色つく見えし」とあったことから秋葉山と呼ばれるようになったと社伝に謳われています。が、一方「行基が開山したことによる」「焼畑に由来する」などの異説もあるようです。

 

《近世期》

 

戦国時代までは真言宗との関係が深かったようですが、徳川家康と関係にあった可睡斎の禅僧茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に、次第に発展を遂げることになりました。

 

徳川綱吉の治世の頃から、秋葉大権現は神道、仏教および修験道が混淆(こんこう)した「火防(ひぶせ)の神」として、日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着しました。

 

特に度重なる大火に見舞われた江戸には、数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになったといいます。

 

この参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものだったといわれ、各地から秋葉大権現に通じる道は「秋葉路(あきはみち)」や「秋葉街道」と呼ばれ、信仰の証や道標として多くの常夜灯(秋葉灯篭)が建てられました。

 

西ノ閽(かどもり)の神門

 

西ノ閽の神門

 

駐車場から見える西ノ閽の神門は、御鎮座1,300年記念事業の一環で、スーパー林道沿いの参道に造営されました。材料は地元の天竜杉を使用しています。

 

左が青龍、右は白虎だと思われますが、なんとも素晴らしい!

 

また、神門の四隅には四神の、 「青龍・朱雀・玄武・白虎」の素晴らしい装飾が施こされており、南部白雲作とのことです。

 

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秋葉信仰の道をたどる

 

遠く浜松市街のアクトタワーまで見える秋葉神社上社からの景色

 

秋葉山への参詣道を示したさまざまな古図を見ると、秋葉山を中心に蜘蛛の巣のように道が張り巡らされ、遠江(遠州中部西部)では「すべての道は秋葉山に通じる」ととまでいわれるほどの広がりが見られます。

 

起点となる東海道の掛川宿や袋井宿、浜松宿、そして三河の鳳来寺から延びる道筋はそれぞれ9里(およそ35km)で坂下宿の入口である九里橋にたどり着きます。

 

これらの道筋に多く残る秋葉山常夜灯やその鞘堂(さやどう/竜燈)の数は1000を超え、このうち600基あまりは浜松市内に建立されており、愛知県三河地方、長野県南信地方にも残っているそうです。

 

中には、浜北区小松八幡町内会のように今でも毎夜、住民によって明かりの点灯や、年中の祭礼行事が続く地域もあり、浜松市天竜区にある火防の神の秋葉信仰の広がりと常夜灯への愛着が感じられます。

 

九里橋を渡り坂下宿を抜けると表参道である登山道に入り、険しい山道を登り終えると、秋葉神社の「神門(しんもん)」が参詣者を出迎えます。市指定有形文化財の「神門」は、1831年(天保2年)に建造されました。その後、幾度かの修理を重ね、1943年(昭和18年)の大火も逃れ今に伝わっています。

 

建造から190年を経過し、地面の沈下や建物全体の歪み、倒木による損傷や部材の傷み等がみられたため、令和2年度から文化財保存修理を実施していました。屋根は金属板(アルミニウム)葺だったものを、こけら葺に復したそうです。

 

広報浜松によると、柱の上部や欄間に取り付けられていたすべての装飾彫刻の修理が、2022年(令和4年)11月には完了、市民にも公開されました。

 

神門の彫刻は、江戸時代後期に、幕府から「内匠(たくみ)」の称号を与えられていた信州上諏訪の立川流(たてかわりゅう)二代目、立川和四郎富昌率いる立川流の彫刻師によって施されたそうです。

 

中でも柱上部に取り付けられる「力人(りきじん)」「獅子」「虎」の造形は迫力があり、獅子と力人が力強く屋根を支え、その横で虎が前方を見据えているとか。修復では欠けや割れ、無数の虫害の痕が丁寧に埋められ、古色を施し元の姿を取り戻したそうです。

 

また、欄間に取り付けられる「迦陵頻伽(かりょうびんが)」も一木(いちぼく)から掘り出されたもので、江戸時代後期に多くの名作を残した立川流らしいとのこと。迦陵頻伽の修復では、諏訪市博物館を訪ね、博物館所蔵の下絵図を確認するなど、忠実な修復となるよう情報収集もされているたそうです。

 

秋葉山への道は、長野県の飯田市や諏訪湖付近からも通じています。神門建築当時の彫刻師も秋葉山への道をたどり建築に関わったことでしょう。

 

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小松八幡の常夜灯

 

浜北区小松八幡町内の常夜灯は、450戸ほどが毎晩持ち回りで常夜灯にろうそくを灯し続けているそうです。

 

住民さんはお当番さんになると、午後5〜7時ごろ、ろうそくとマッチ、ライターが入った小さな手提げ袋を持って出かけ、長さ15cmほどの細いろうそくに灯をともすと、胸の高さほどの場所に設けられた木箱の中の燭台に立てます。

 

近年、ろうそく代わりの電球もつけたそうですが、住民の灯をともす行事は続いているといいます。本当に頭が下がります。

 

道路脇の常夜灯は、浜松市浜北区の道路脇でしっかりとした土台の上に立つ、高さ4mほどある立派な石製です。灯籠にはめ込まれた銘板によると、建立時期は不明ですが、大正時代にはあったことが確認されています。

 

本来明かりを灯す場所の火袋(ひぶくろ)には、毎年新年に天竜区の秋葉神社から全戸分の御札と一緒にいただいてくる火伏せの御札が供えられているそうです。

 

最近は、八幡町内のように「安全や厄除けを祈る」人に大切にされている常夜灯がある一方で、設置者や管理者が不明だとして撤去されるケースも相次いでいるそうです。

 

参照元:中日新聞 【連載】はままつ文化財の散歩道 – 広報プラスーはままつー

 

秋葉の火まつり

 

秋葉神社上社といえば、浜松市内を見下ろせる景色と「火まつり」でしょう。秋葉の「火まつり」とはつまりは防火祭のこと。

 

毎年12月15日、16日に行なわれる「火まつり」は3つの儀式から成り立っています。

 

3つの儀式

 

儀式① 『御阿禮祭』 

毎年12月15日 午後2時30分

もともと秋葉神社には社殿がなく「山」そのものがご神体

御阿禮祭は祭壇を組み、神様をお迎えする・出現していただく儀式です。

 

儀式② 『例大祭』

毎年12月16日 午後1時30分

神様に1年の感謝として穀物をささげ、また来年もよろしくお願い申し上げますと伝える祭りです。

 

儀式③ 『火まつり(防火祭)』

毎年12月16日 午後10時

社殿のない時代は神様にお帰りいただく儀式でしたが、社殿が出来てからの御阿禮祭は、神様をお迎えする儀式ではなく、神様に新しい力に更新していただき、我々は1年の感謝を申しあげて一番神様の気分がよく、力が高まっている時に、皆さまのお願い事をする。神様のお力を借りて3つの舞を行う。それが「防火祭」になるそうです。火まつりが行なわれている時こそ、1年のうちで最も霊験あらたかな時間帯だそうです。

 

3つの舞とは?どんな舞なの?

 

①弓の舞

②剣の舞

③火の舞 これらが3つの舞です。

 

舞と言うと「神楽」を想像されると思いますが、「神楽」とは人間が神様に喜んでいただくためにお見せする・奉納する舞のことですが、秋葉神社の「火まつり」での舞は、「神楽」とは意味が違うそうです。

 

「火まつり」での舞は神様のお力を借りて呪術的な儀式を行い、人びとに幸せになっていただくもので、儀式の一つになるとのこと。で、「火まつり」は西暦709年よりも前から行なわれている歴史のあるものなのです。

 

709年に山が揺れ動き炎のようなオーラが上がったといいます。人びとがそれを見て「神様は我々に何か要求されているに違いない」と考えました。ただ、何をして良いのかわからなかったため、朝廷にお伺いをたてたそうです。

 

「社殿を建ててお鎮めなさい」という命令がくだり、社殿を建てたのが、709年(和銅2年)のことと伝わっています。つまりは、すでにその時点では「火まつり」をしていたというわけなんです。

 

毎年12月16日 午後10時からの「火まつり(防火祭)」の様子は?

 

PM9:45頃 手筒花火 

秋葉の火まつりの始まりを告げる手筒花火。花火職人たちにより行なわれます。

神職たちが提灯を下げ本殿へ向かいます。

 

PM10:00 本殿で祭事が始まります。

本殿にはこのあとの舞で使う道具が祀られています。

 

神楽殿に舞人たちがやってきます。

この神楽殿は、秋葉の火まつりの時にのみ開かれるそうです。

 

いよいよ3つの舞が始まります。まずは弓の舞からです。

 

①弓の舞 

一の神職が弓を左手に、鈴を右手にとって始めは静かに、次第に激しく舞い出し舞い狂います。東西南北、そして中央の天井に向けて矢を放ち豊年吉凶を占います。

 

②剣の舞

舞人は剣を両手に持ち振りかざして罪や穢れを切り払う舞を舞います。神楽殿や本殿の明かりは消され、あたりは真っ暗になります。

本殿から火がつけられた松明が運ばれ火の舞が始まります。

 

③火の舞 

火災焼亡、洪水波沈、諸厄諸病の難を免れ給うと、多くの人々の願いを込めて神職によって舞が泰されます。お祓いのとき、塩や水で祓うことがありますが、中でも一番強い祓いは「火」で祓うこととされているそうです。

 

「秋葉の火まつり」3つの舞が終わると、今度は翁所の前には長い列ができます。というのも、翁所では火まつりで使われた縁起物の道具が当たる抽選会が行なわれるそうです。

 

松明やお菓子、御弊(みへい)などが当たるようです。なんと、お供え物を乗せたりする台まで当たるんです。手筒花火はまだ火薬のニオイがする状態でもらえるとか。夜の12時過ぎになっても、まだ「秋葉火まつり」は賑わいを見せているそうです。

 

秋葉神社は例年年末・年始に訪れる人が多いそうで、毎年山頂から初日の出を拝みたい人びとが夜のうちから訪れるそうです。黄金に輝く「幸福の鳥居」越しに初日の出を拝めたら、その年はきっとハッピーな一年になることでしょう。ぜひ!今年の年末から来年にかけて、初日の出を拝みにお出かけになってみてはいかがでしょう。

 

参照元:ケーブル・ウィンディ

 

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最後に

 

今年のゴールデンウイークはさわやかウォーキングを利用して、家康公が幼少期から青年期まで今川氏のもとで人質として、さらに江戸幕府を開いた後、秀忠に江戸を任せてからの晩年を過ごした「駿府城」を訪ねる以外予定はなかったのです。

 

ところが、これまで何度となく近くまで出かけていながら、自身の運転技術の甘さであきらめていた「秋葉神社上社」に、同居人の運転で出かけることができて喜んでいます。

 

秋葉信仰についてはまだ小さい頃(50年以上も昔)から、なんとなく知っていました。というのも、毎年年末になると父親が近所の皆さんと「秋葉講に行ってくる」とバスで出かけ、ヘベレケに酔っ払って帰って来るのですが、その手にはしっかりと「御札」が握られていたから(笑)。

 

今回は、噂に聞いていた黄金に輝く「幸福の鳥居」をくぐる事もできたし、念願の「ニノのお手植えの梅ともみじ」に至っては、毎年初春と秋の様子を聞くたびにうらやましく思っていたので、かなり目立つ場所で元気に育っていることを知ってかなり満足です。

 

浜松市は全国で2番めに広い面積を誇るだけあって、まだまだその存在も知らず、もちろん出かけたこともない名所がいくつもあるようです。今後も家康公ゆかりの神社・仏閣を訪ねるスキをねらって、市内を制覇してやろうと思っています。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。