sannigoのアラ還日記

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磐田の家康ゆかりのスポットも巡って「どうする家康」で一緒に盛り上がろう

🕖2022/08/13    🔄2022/08/22

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

浜松と磐田は天竜川を境にしたお隣さん同士のため、天下人として歴史に名を残す徳川家康ゆかりのスポットが磐田にもけっこうあるそうです。

 

そんなことを聞いたら来年放送の大河ドラマ「どうする家康」に興味津々な人々はみんな、磐田に出かけたくなっちゃいますよね。

 

そんなチャンスを利用して、磐田市では「磐田市民にも家康にちなんだ歴史を見つめ直してもらおう」と、8月1日から12月25日まで、徳川家康にゆかりのある市内の史跡、名所を巡るデジタルスタンプラリー「磐田で何した?家康の足あとをたどろう」を始めたそうです。

 

「磐田で何した?家康の足あとをたどろう」はこちら>>

「磐田で何した?家康~家康の足あとをたどろう~デジタルスタンプラリー」を開催します|磐田市公式ウェブサイト

 

家康が関ケ原の戦いや大阪の陣の際に立ち寄った中泉御殿から移築したとされる門が残る西光寺と西願寺(さいがんじ)、武田軍の侵攻からの敗退線で重臣の本多忠勝が活躍した「一言坂の戦い」の古戦場跡など8ヶ所がチェックポイントになっているそうです。


デジタルスタンプラリーですから、やはりお手持ちのスマートフォン、タブレット端末に、アプリ「COCOAR(ココアル)」をダウンロードする必要があります。

 

各ポイントには、しっぺい(磐田市のイメージキャラクター)のプレートが設置されているそうです。プレートを見つけたらアプリで画像を読み取ります。プレートを読み取ることで、アプリ上でスタンプが押されるそうです。

 

プレートの設置場所の目印は、「しっぺい」と家康がコラボしたイラスト入りののぼり旗。

 

12月25日までにスタンプを3つ集めた人には、端末での写真撮影用デジタルフォトフレームがプレゼントされます。

 

訪ねるゆかりの市内8ヶ所のスポットは、市内の図書館や交流センターなどで配布しているマップを載せたチラシに詳しく載っているそうです。

 

ゆかりのスポットの解説も、チラシ裏のチェックポイントの説明文をアプリで読み取ることでしっぺいが説明する動画が見られて便利!

 

ということで、今回はウォーキングでも回れそうな対象の家康ゆかりのスポットをいくつか詳しくご紹介していきます。「どうする家康」放送前に情報をできるだけインプットしたい方のお役に立ちそうな記事になっています。

 

野面積みがはっきりとわかる現在の浜松城を下から眺めたようす

 

 

 

徳川家康と磐田

 

徳川家康が29歳から45歳まで過ごした浜松城のある浜松市とお隣さんの磐田市にも家康とゆかりのスポットがいくつかあります。

 

一番良く知られているのは、見付、中泉支配の拠点として建てられた中泉御殿でしょうか?

 

天正6年(1578年)徳川家康によって築かれた中泉御殿は、家康が東海道往来時に家康の宿として、また大池周辺での鷹狩りをしたとき休憩・宿泊場所としても利用するため築かれたようです。

 

現在でも、中泉御殿の表門は見付の西光寺に、裏門は西願寺に移築されているので見ることができます。

 

大軍で攻めてきた武田軍に退却戦となった一言坂の戦いの際に、「一言観音」に戦勝を願ったところ戦況が有利になった、などのエピソードも残されています。

 

他にも松尾八王子神社や五十子での茶臼エピソードなど、磐田にも家康をしのばせる場所が多数残されているようです。まずは、大日堂 三箇野川(みかのがわ)古戦場跡から始めましょう。

 

①大日堂 三箇野川(みかのがわ)古戦場跡

 

家康たちが三ケ野まで偵察に来た際、武田軍と戦いになった場所。大日堂には本多平八郎忠勝が武田軍を偵察したとされる物見の松がありました。

 

「三方ヶ原の戦い」の前哨戦『木原畷(きわらなわて)・三箇野川(みかのがわ)の戦い』の三箇野川とは、現在の太田川のこと。

 

小高い丘の上に大日堂があり、付近が古戦場跡です。丘の上に立つと袋井方面を見渡すことができます。

 

徳川軍は、武田軍偵察のため、本多忠勝・内藤信成が率いる偵察隊を先行させて天竜川を渡り磐田原台地の見付に到着。

 

磐田原台地東端の三ケ野坂に到着した本多忠勝は、この場所にあった松の大木に登って、袋井市木原に布陣した武田軍の様子を偵察したと伝えられます。

 

現在はその松の木はありませんが、「本多平八郎物見の松」と伝えられる大松が存在していたことが説明看板に書かれています。

 

☑場所 磐田市三ケ野 駐車場☓ JR御厨駅から2.0km

アクセス:東名磐田ICから車で約14分(国道1号線バイパス三ケ野ICの近く)

     JR御厨駅から約2km、徒歩で約30分 

 

※車でお出かけの場合は、大日堂を目指してナビで向かうと、途中から通り抜けできない(行き止まり)道路になってしまうのでご注意ください。

ちなみにUターンくらいできるだろうと、「通り抜けできません」との看板があるにもかかわらず安易に進入してしまった筆者は、結局Uターンする場所もなくバック(後進)で抜け出さなくてはいけなくなって泣きました。

二子塚公園の駐車場に止めさせてもらって徒歩約5分で行けました。坂道を登ることになりますので、ちょっと体力が必要かも!?休憩場所とトイレは大日堂にも二子塚公園にもあります。

 

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②宣光寺

 

宣光寺には地蔵菩薩のために、家康が寄進した鐘があります。鐘には家康の名前が刻まれています。

 

敷地内にある釣鐘は、戦国時代に戦死した多くの武将のために、徳川家康の信仰が厚かった延命地蔵菩薩にその冥福を祈って家康公が寄進されました。

 

遠州三十三霊場の17番札所で、延命地蔵菩薩がご本尊の曹洞宗のお寺です。

 

東海道見付宿にあって、今でも街道沿いにはいくつか横町に入る小路が遺されています。その一つに地蔵小路と呼ばれる小路に宣光寺はあります。

 

地蔵小路の由来は、古来より宣光寺境内の地蔵尊に、延命地蔵を安置するところから付けられた名称とされています。延命地蔵はこの辺りでは有名だそうです。

 

木造地蔵菩薩坐像と木造毘沙門天の二つの仏像が県指定文化財に指定されています。境内はひっそりとした感じで緑豊かで癒やされます。

 

☑場所 磐田市見付1340-1 駐車場◯ 

アクセス:東名高速道路磐田ICより車で約15分、

     旧見付学校(見付駐車場)から徒歩約6分

 

③伝酒井の太鼓(旧見付学校) 

 

酒井忠次が浜松城の櫓門(やふらもん)で打ち鳴らした「酒井の太鼓」が旧見付学校で展示中です。

 

【酒井の太鼓】

 

三方ヶ原の戦いで大敗し、浜松城に逃げ帰った徳川方。酒井忠次は城門を開け、櫓門(やぐらもん)の太鼓を打ち鳴らし、味方の帰城を助けたと伝えられています。

 

なぜなら、開け放たれた城門と大きく打ち鳴らされた太鼓の音に、追撃する武田方はなにか計略があるのでは?罠では?と恐れ、浜松城への攻撃を止めたからです。

 

この時に打ち鳴らされた太鼓が「酒井の太鼓」で、実は現在「酒井の太鼓」として磐田市の文化財に指定され旧見付学校に展示されています。

 

この太鼓は過去には浜松城内にあったこともありますが、明治維新後、民間に払い下げられ見付の有力者の手にわたりました。後の明治8年の見付学校落成を機に見付学校へ寄贈されたとのことです。

 

【濱松篭城之図】にも描かれている太鼓が、現在は磐田の旧見付学校にあるとはびっくりです。ぜひ一度見てみたいものです。

 

「浜松篭城の図」には、太鼓を打ち鳴らす酒井忠次と家康や家臣、城門の外には武田方の武将が描かれています。

 

-濱松篭城之図-

歌川芳虎(うたがわよしとら)は、幕末から未時期に活躍した浮世絵師で、師匠の歌川国芳(うたがわくによし)から破門され永島孟斉(ながしまもうさい)とも名乗りました。(個人蔵)

 

【旧見付学校】

 

現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎である旧見付学校

 

旧見付学校は明治5年(1872年)の学制発布を受け、翌年8月に宣光寺、省光寺などを仮校舎として開校した学校です。

 

見付学校の校舎は移転を繰り返し、明治8年(1875年)から大正11年(1922年)まで使用された建物が旧見付学校と呼ばれ、他の校舎と区別するために「五階校舎」と呼ばれることもあります。

 

1875年に竣工した擬洋風建築の旧見付学校は、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎です。隣接する磐田文庫とともに、「旧見付学校附磐田文庫」として国の史跡に指定されています。

 

学校としての見付学校は、見付高等小学校→見付第一尋常高等小学校→磐田町立見付国民学校→昭和23年(1948年)に磐田市立磐田北小学校という変遷をたどってきました。

 

☑場所 磐田市見付2452 駐車場◯

アクセス:東名磐田ICより車で約14分

     JR磐田駅から徒歩で約32分

休日:月曜

営業:火曜~日曜9:00~16:30(月曜休み)

 

④西光寺(さいこうじ)

 

 

徳川家康公のゆかりの中泉御殿大手門などの文化財の宝庫。西光寺の正面の立派な門は、徳川家康の別荘として使用したという「中泉御殿」の表門(市指定文化財)を移築したものといわれています。

 

見付宿西側に位置する時宗の名刹で、徳川秀忠の娘である東福門院から寄進された観音像の他、市天然記念物の大クスとその根本から生えた、ナギの木があります。

 

ナギの葉は切れにくく、男女の縁が切れないといわれ、縁結びのパワースポットとしても知られています。

 

おすすめは

・境内を覆う大クスとナギの木(恋愛成就と縁結びのパワーを持つ)

・日限地蔵尊(願掛けに訪れる参拝者が途絶えない尊像)
・薬師如来坐像(平安時代作、磐田市指定文化財)
・庭園もあり男石と女石という御石様

などです。

 

東福山西光寺は、縁結びでブームになっているパワースポットなためか、参拝者が途切れなく訪れているといいます。

 

テレビやラジオで紹介された境内を覆う大クスとナギの木は、恋愛成就と縁結びのパワーを持つと、良縁に恵まれた人の喜びの声が続いているそうです。

 

☑場所 磐田市見付3353-1 駐車場10台 

アクセス:東名磐田ICより車で約9分

     JR磐田駅から徒歩で約26分

 

⑤西願寺(さいがんじ)

 

西願寺の門は中泉御殿の裏門を移築したもの

 

移築された旧中泉御殿の裏門の説明看板

 

山門は徳川家康が別荘として使用していたといわれる「中泉御殿」の裏門と伝えられ、御殿の廃止後にこちらに移築されました。裏門は市有形文化財に指定されています。

 

西願寺は磐田市にある真言宗大谷派の寺院です。

 

主殿も移築されて本堂として使用していましたが、改築されて現存していません。表門は西光寺に移築されて現存しています。

 

境内に残るマキの老木が、このお寺の歴史を物語っています。入母屋造りの新しい本殿も重厚な感じがするものとなっています。

 

☑場所 磐田市中泉254-1 駐車場☓ 

アクセス:東名磐田ICより車で約14分

     JR磐田駅から徒歩で約10分(北口)

 

⑥御殿遺跡公園(ごてんいせきこうえん)

 

御殿とは徳川家康が鷹狩りのおりに休憩・宿泊施設として築いた「中泉御殿」のことで、関ヶ原の戦いや大坂冬の陣・夏の陣への往来の前後にもこの御殿に立ち寄ったといわれます。

 

が、御殿遺跡公園は付近の開発事業の際に堀と土塁が発掘され、遺跡の一部を公園として整備・公開しているもので、「中泉御殿」は現在市街地に没しています。

 

古絵図を見ても、大池を背後にした広大な敷地はまさしく城郭構えになっており、軍事的に利用されたことがわかります。

 

遺跡そのものは、御殿・二之宮(ごてん・にのみや)遺跡といって弥生時代から江戸時代までいろいろと使われてきた場所で、特に奈良時代には遠江国の国府が置かれていたと推定されている遺跡です。

 

御殿遺跡公園に設置された案内板には、後には天領を管理する中泉陣屋が、中泉御殿の一画に設けられたと書かれています。

 

遠江国が幕府直轄領となった家康の死後、中泉御殿の北東に隣接する地域は「御陣屋」と呼ばれる中泉代官所があったとのこと。

 

☑場所 磐田市中泉2270-17 駐車場☓ 

アクセス:東名磐田ICより車で約23分 近所の駐車場リベーラ磐田(市営駐車場🈶)

     JR磐田駅南口から南へ100m 徒歩約3分

     

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\又吉直樹さんも大絶賛!誰もがスルスル理解できます/

 

※スタンプはないけど、JR磐田駅から徒歩10分程の場所にある中泉歴史公園(旧秋鹿家庭園)は、ぜひ寄ってみることをおすすめします。

 

◯中泉歴史公園(旧秋鹿家庭園)

 

かつて今川家・徳川家に仕えた「秋鹿家(あいかけけ)」の屋敷の遺構の「扇子の池」

 

中泉歴史公園(旧秋鹿家庭園)には、かつてこの場所には当地の武将・旗本・代官として今川家・徳川家に仕えた「秋鹿家(あいかけけ)」の屋敷がありました。現在残るこじんまりとした池泉回遊式庭園はその遺構です。

 

元亀元年(1570年)徳川家康は浜松城に入城し、磐田二之宮にある大池にしばしば鷹狩りに来ては、その近くに屋敷を構える秋鹿家を宿舎と定めて遊猟していたそうです。

 

天正6年(1578年)に磐田中泉を支配していた中泉府八幡宮神主の秋鹿直朝は、秋鹿邸を家康に献上し、代わりに久保の地(此所)に移り住みました。

 

御殿の地には天正6年(1578年)に仮別荘が建てられ、さらに天正12年(1584年)からは城塞を築き要塞を備えた新御殿の建設に着手、天正15年(1587年)には堅固な新御殿の完成となりました。

 

※中泉御殿は、磐田原台地の南端に位置し、標高は2m〜6mです。敷地は1万坪といわれる広大な敷地で水源に恵まれた土地。その南側約1kmには大池(1ha)が広がり、今でもその一部が磐田大池として市民の憩いの場になっています。

 

その秋鹿家からの拝領地は、明治維新における廃藩置県により一時は明治政府に返上し、お屋敷跡は「中泉公園」として親しまれていたそうです。

 

その後、明治政府により払い下げられ再び秋鹿家の所有となり、明治の中頃には一部が料亭(旧開莚楼)、遊郭、芝居小屋、そして、芝居小屋「照月座」、医院、借家、一般住宅として使用されるようになりました。

 

料亭「開莚楼」は1998年(平成10年)まで営業していたそうですが、幕末に建てられた建築物ということで老朽化で廃業し、その後この場所は市の所有となったそうで「不老斎跡」の碑が残っています。

 

これらの建物は現存しませんが、当時の中庭「常磐の森」と「扇子の池」は今も面影を残しています。

 

まだ徳川家康が浜松城主だった頃、磐田には鷹狩りでしばしば訪れ遊猟していたなんてことを想像するだけでも楽しくなってしまいます。

 

ちょっと小耳に挟んだ話には、家康が浜松城に入城する前には磐田にお城を構えようとしていたとか、しかも実際に着工。

 

ただ、当時敵対していた武田氏に攻め込まれたら、天竜川の向こう側にいた時に天竜川が氾濫でもした場合応援に行けないと思い直し、作り始めた磐田の城作りをやめて浜松城に移動したとか。

 

その後、秋鹿家からこの場所を譲り受けたことや、後に要塞を備えた「中泉御殿」を建立し、関ヶ原の戦い、大坂冬の陣・夏の陣への往来の前後にはこの中泉御殿に泊まり、ここで二代目将軍・徳川秀忠と対面していたと思うと、家康にとって磐田はかなりお気に入りの場所で重要視していたことが想像できます。

参照元:二代将軍 徳川秀忠公

 

磐田市中泉に40年以上暮らしていた友人は、戦国時代は好きだけど「狸おやじ」で知られ「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに食うは家康」と歌われる徳川家康には興味が持てなかった、と言います。まさか遊郭までとは・・・。と驚いていました。

 

というわけで、中泉歴史公園とは「中泉御殿跡」でもあり、想定外ですが「近代にはこの場所に中泉遊廓もあった」というすごい歴史を持つ「旧秋鹿家庭園」ということです。

 

現在開放されているお庭は、ボランティアの皆さんが荒れ放題のお庭を一生懸命に手入れしたおかげで、狸ばかりかカワセミまで飛んでくるそうです。池の周辺にはモミジもあり晩秋には紅葉の庭園も見られます。

 

現在は住宅街の中にあるため、目立つ庭園とはいえませんが、ここまで深い歴史があり家康公ともゆかりが深いお庭が見れる公園ですから、ぜひ、立ち寄ってみてはいかがでしょう。

 

立ち寄ったら絶対に見ていただきたいのが『ベンチ』なのです。

 

旧秋鹿家が遊郭として使われていた頃の建物の柱がベンチになっています

 

この公園の『ベンチ』ですが、じつは旧秋鹿家が遊郭として使われていた頃の建物の柱をそのまま横たえて、ベンチとして再利用しているようです。しっかとその目に焼き付けていただければうれしいです。

 

☑️場所  磐田市中泉1335-167 駐車場◯

アクセス:東名磐田ICより車で約20分 

     JR磐田駅から徒歩約9分

 

⑦一言坂古戦場跡

 

他にも歩いていける距離にスポットが点在しているため、看板の一つには姫街道など磐田市周辺の地理の解説も詳しく載っているようです。

 

元亀3年(1572年)磐田市三ヶ野の小高い磐田原台地の上での戦い「三箇野川(みかのがわ)の戦い」で上洛を目指す武田信玄との戦いに敗れ、浜松城に向かって敗走する徳川家を武田軍が追い、再び合戦になった場所が一言坂です。

 

「一言坂の戦い」で得意の大槍を振り回し一人奮戦し、味方の軍を無事退却させ、敵軍である武田軍の小杉左近から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と、その武勇を讃えられた本多平八郎忠勝の活躍でも有名な戦いです。

 

一言坂の周辺には他にも「京見塚古墳」や「かぶと塚公園」「秋葉灯籠」「宮之一色一里塚」など歴史スポットが多数点在しているので、休日にのんびりと散策してみるのもいいかもしれません。

 

元亀3年、上洛を目指す武田信玄が遠江に侵攻し徳川方と遠江各地で戦いを繰り広げ、磐田市内でも三ケ野や一言坂で戦いが行われました。当時の様子が林大功の絵画、明治初期に作成された浮世絵からうかがえます。

 

【本多平八郎一言坂合戦之図】

 

図案家として宝塚歌劇団の舞台装飾も手掛けた林大功の作品。林は従軍画家としてかぶと塚公園にあった中部第129部隊に在隊し、平八郎の伝承を描きあげました。

 

【一言坂の合戦と本多平八郎忠勝】

 

元亀3年、三方ヶ原の戦いに先立ち、遠江の各所で徳川家康と武田信玄の戦いが行われました。

 

袋井市の木原に本陣をおいた武田方と三ケ野に偵察に出た徳川方との間でも、小競り合いが行われました。その後、浜松へ撤退する徳川方とそれを追撃する武田方とが一言坂で戦火を交えた戦いを「一言坂の戦い」と呼んでいます。

 

一言坂の戦いでは家康の家臣本多平八郎忠勝が活躍し、武田軍方の進軍を防ぎました。

 

一言坂で徳川方を破った武田方は、匂坂城などの小城を落としつつ天竜川沿いに北上します。

 

途中、信玄は合代島(ごうだいじま)付近に陣を敷きました。徳川方は天竜川流域各所で苦戦し、北遠の拠点だった二俣城(浜松市天竜区)も落城し、いよいよ三方原の戦いを迎えます。

 

「天竜川御難戦之図」には、硝煙がけむる天竜川を背景に、家康を支えた本多平八郎などの家臣が描かれていますので、当時の様子がうかがえます。

 

-天竜川御難戦之図-

 

最後の浮世絵師と呼ばれた月岡芳年(つきおかよしとし)が明治7年に書いた浮世絵です。(個人蔵)

 

☑磐田市一言坂2918-2 駐車場☓

アクセス:東名磐田ICより車で約16分

     磐田駅から徒歩約33分

辺りには看板がいくつか設置されています。現在はスタンプラリーののぼり旗もあり目立ちます。が、R1沿いということで歩いてご覧になるのは大丈夫そうですが、車を止めて見ることはムリかもしれません。

 

⑧豊田 池田の渡し公園

 

武田軍に追われる家康は、池田の渡船衆に助けられ、無事に天竜川を渡り、浜松城へ逃げ込むことができました。

 

池田の渡し公園は、東海道天竜川の渡しとして知られる「池田の渡船場」を河川敷に再現した公園です。公園内を流れる小川のせせらぎは、天竜川をイメージしているそうです。

 

公園の下流側の堤防沿いには渡船場の跡を示す「天竜川渡船場跡」の碑があります。

 

のびのびと遊べる天竜川の広い河川敷にある芝生公園です。強い日差しを遮ることができる赤いパラソルにベンチもあったりして、真夏でもちょっと涼し気な公園で珍しい遊具もあります。

 

ちょっとしたランチを持ってパラソルの下で広げたら、あっという間にリゾート気分!たっぷりと開放感が味わえそうです。

 

【池田の渡し風景館】

 

池田の渡し公園から、土手を超えて「熊野の長藤」で知られる〇〇に向かっていくと「池田の渡し風景館」があります。

 

天竜川で行われていた池田の渡しは、1000年も前から続いていたと記録されているとのこと。橋がないんだから仕方ないかもですが、あまりにもすごく長い歴史です。

 

中でも有名なのが、徳川家康が池田の船渡衆に助けられたお話。お礼として与えたとされる朱印状のレプリカなども展示されています。

 

【池田の渡し】

 

十返舎一九が書いた滑稽本『東海道中膝栗毛』に200年ほど前の江戸時代に、弥次さんと喜多さんが見付宿に入った時のお話があります。

 

長旅で疲れた喜多さんは「長旅でくたくただ。ここから先は馬に乗っていこう」と馬を用意してもらったところ1頭しか用意できなかったそうです。

 

浜松目指してしばらくすると『天竜川に出る近道』という看板を見付けると、馬子は「ここから北へ行くと、1里(約4km)ほど近くなりますが、狭い道で馬は通れず、歩いていくのがやっとです」と教えてくれました。

 

そこで、弥次さんは馬に揺られながら、喜多さんは歩きで「池田の渡し場」を目指します。

 

どちらが早く着いたと思われますか?そうです!先に着いたのは歩きの喜多さんで、馬の弥次さんを待っていたんです。

 

☑場所 磐田市池田地先 国一天竜川橋を北へ約1km先の河川敷 駐車場◯

アクセス:東名遠州豊田スマートICより車で約13分

     磐田駅から徒歩約67分

 

※スタンプはないけど、JR磐田駅から徒歩11分程の場所にある姫街道(池田近道)は、ぜひ寄ってみることをおすすめします。

 

◯姫街道(池田近道)

 

見付宿から池田渡船場までの近道「池田近道」はここから

 

見付宿から西に向かう小道を進み一言坂を通り池田渡船場に行く道が「池田近道」と呼ばれていた道です。

 

江戸時代に、見付宿から天竜川畔の渡船場のある池田へ行く道は2つありました。

 

一つは東海道で見付から南下し、中泉代官所(磐田駅南部にあった)方面に向かい、次に、西に曲がり、天竜川手前で右折し川沿いに北上して池田に至ります。

 

もう一つは、見付宿から西に向かう小道を進み一言坂を通り池田渡船場に行く道で池田近道と呼ばれていました。

 

この池田近道の起点は見付で、この道が浜名湖を迂回する本坂街道(姫街道)に通じることから、いつの頃からか姫街道とも呼ばれるようになりました。

 

「東海道中膝栗毛」では弥次さんが歩いた道で、本来「作道」(農道)で幅3尺(約91cm)と記録されているそうですが、江戸時代には多くの旅人がこの近道を利用しました。

 

また、貞享元年(1685年)貝原益軒の書いた「東路紀」の中に「見付の台より直に田の中を通りて、天竜川の畔、池田に出る小道あり、本道より近し、馬は通らず。池田の里名所也。古歌有り。見付の南に今之浦とて大きな池あり。湖なり。」という記載があるそうです。

参照元:豊田町誌

 

☑場所 磐田市見付 見付宿の西木戸跡付近 

アクセス:東名遠州磐田ICより車で約15分

     磐田駅から徒歩約26分

 

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『どうする家康』がよりおもしろく視聴できるように!徳川家康の年表をかんたんにまとめてみた - sannigoのアラ還日記

 

\参照したコミックでとてもわかりやすい/

 

 

まとめ

 

2023年放送予定の大河ドラマ『どうする家康』、放送前から勝手に盛り上がってイベントに参加したり、徳川家康ゆかりの地をあっちこっち調べたり、実際に訪れているsannigo(さんご)が、今回は磐田で8月1日に始まった徳川家康にゆかりのある市内の史跡、名所を巡るデジタルスタンプラリー「磐田で何した?家康の足あとをたどろう」に登場する8ヶ所のゆかりの史跡、名所を調べてみました。

 

①大日堂 三箇野川(みかのがわ)古戦場跡

家康たちが三ケ野まで偵察に来た際に武田軍と戦いになったところ。

②宣光寺

家康が寄進した鐘があります。鐘には家康の名前が刻まれています。 

③伝酒井の太鼓

家康が三方ヶ原の戦いで大敗し浜松城に逃げ帰った際、酒井忠次が太鼓を叩き、武田軍に罠だと思わせ退却させたといわれ、その太鼓が展示されています。

④西光寺

正面の立派な門は、家康が利用した中泉の御殿の表門を移築したものといわれています。

⑤西願寺

山門は徳川家康が別荘として使用していたといわれる「中泉御殿」の裏門と伝えられ、御殿の廃止後にこちらに移築されました。

⑥御殿遺跡公園

家康は中泉に御殿を築き、鷹狩りで遊猟した際の休憩・宿泊場所、さらに、関ヶ原の戦いや大坂の陣の際にもこちらに立ち寄っていたといわれます。

⑦一言坂古戦場跡

三ケ野での戦いに負けて逃げる家康たちは、一言坂で追いつかれ激しい戦いが行われました。このとき本多平八郎が活躍して家康を無事に浜松城まで逃しました。

⑧豊田 池田渡し公園

武田軍に追われる家康は池田の渡船衆に助けられ、無事に天竜川を渡り、浜松城へ逃げ帰ることができました。

 

ちなみに、さんごからのおすすめスポット

◯中泉歴史公園(旧秋鹿家庭園)

◯姫街道(池田近道)

も詳しく調べています。

 

ちょうど夏休みということもあります。「どうする家康」放送前に家康ゆかりのスポットを巡って盛り上がってみませんか?

 

ってことで、今回はこのへんでおしまい。

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。