sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

『家康ゆかりの街浜松』で巡りたいスポット国の重要文化財『中村家住宅』

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

いよいよ「行楽の秋」「食欲の秋」に突入したと楽しみにしていた週末でしたが、ここのところ台風の影響でなかなかお出かけできなかった方も多いのではないでしょうか?

 

そこで、今回秋のお出かけにおすすめの『家康ゆかりの街浜松』のスポットは、国の重要文化財『中村家住宅』です。

 

まず、興味があったらお出かけになってみては?有料とはいえ、おとな:200円(高校生:100円)です。なのに、ガイドさんがいらっしゃって詳しい説明は当時の写真や実際の鬼瓦などを見せてくれながら丁寧に説明してくれます。

 

ガイドさんがおっしゃるには、『中村家住宅』は徳川家康の側室お万の方が、第2子・於義丸(おぎまる/後の結城秀康)を産んだ屋敷として知られ、当時の上層農家の生活を知る上にも貴重な遺構であるとのことで国の重要文化財に指定されているとのこと。

 

さらにネットで調べてみれば、母のお万の方が家康の正室築山殿の世話係だったことや、双子で産まれたことなどの複雑な環境のもと産まれた秀康は、家康の重臣本多重次と交流のあったこの「中村家」の屋敷に預けられ養育されていたことなど簡単にわかります。家康公ファンにとっては、なんとも興味深くないでしょうか?

 

受付では、来週末の10月14日(金)~16日(日)に、『中村家住宅』でNHK大河ドラマ「どうする家康」が来年1月から始まるのを機に、地元高校生たちの協力のもと地域を盛り上げるためのぷちイベントも開催されることも教えてもらいました。

 

イベントのパンフレットもいただきましたので、最後にイベントの詳細もアップしていきます。

 

ある晴れた日の浜松城のようす[写真AC]

 

 

 

重要文化財『中村家住宅』

 

 

場所:浜松市西区雄踏町宇布見4912-1

開館日:金・土・日・祝日※12月28日~1月4日を除く

営業:9:30~16:30 ※最終受付16:00

駐車場:有り

観覧料:
 おとな:200円
 高校生:100円
 70歳以上:無料

アクセス:
 バス:浜松駅から宇布見山崎線🚏宇布見領家下車 南へ徒歩1分
 車:東名浜松西ICから南へ15分

 

中村家住宅は徳川家康の側室お万の方が、第2子・於義丸(後の結城秀康)を産んだ屋敷として知られ、主屋が国の重要文化財に指定されています。約3,000㎡(約1000坪)の敷地に立つ寄せ棟造り茅葺(かやぶき)平屋の木造住宅です。

 

中村家住宅は、戦前の沖縄の住居建築の特色をすべて備えている建物

 

沖縄本島内では第二次世界大戦の沖縄戦を経てこのように屋敷構えがそっくり残っている例は極めて珍しく、当時の上層農家の生活を知る上にも貴重な遺構であるとのことで、1956年(昭和31年)に琉球政府から、1973年(昭和48年)6月2日に日本政府によって国の重要文化財に指定されました。

 

中村家由緒書によると、中村家の初代中村正範(まさのり)は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の六男範頼(のりより)の末裔の武士と伝えられています。

 

※源範頼は、頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。遠江国蒲御厨(みくりや)(現在の浜松市東区)で生まれ育ったため「蒲冠者、蒲殿」と呼ばれ、現在でも浜松市民にはよく知られています。現在放送中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場し、迫田孝也が演じたその最期は話題になりました。

 

初代正範は大和国広瀬郡中村郷に住んだと伝えられ、文明13年(1481年)には、14代正實(まさざね)が応仁の乱に際し駿河国守護の今川氏に招かれ磐田郡大橋郷に領地を賜ります。

 

その後武功を挙げ、5つの領地(和田、平松、宇布見、山崎、大須賀)が与えられ、その一つであった宇布見の地に文明15年(1483年)構えた屋敷が中村家住宅になります。

 

江戸時代には、徳川御三家や老中など諸大名が東海道を通行する際、中村家歴代当主はお目見えすることのできる格式の高い庄屋でした。

 

中村家の屋敷が今の場所に置かれたのは、15世紀後半とされています。残念ながら、当時の様子を伝える資料が残っていません。

 

 

なぜ?お万の方がここで出産を?

 

永禄11年(1568年)徳川家康が遠江に入国した時、中村家18代正吉(まさよし)が船を出して迎えるなどの御用を果たし、徳川氏に仕え今切軍船兵糧奉行や代官を務めていたことなどから密接な関係ができました。

 

こうした関係から天正2年(1574年)2月8日に徳川家康の側室お万の方が家康の第二子である於義丸(おぎまる/後の結城秀康)を出産し、その胞衣(後産)を埋めた胞衣塚(えなづか)が残されています。

 

『中村家住宅』主屋の概要

 

現在の建物は1686年に起きた地震で大破した後、1688年にそのままの構成で立て直したと考えられるそうです。

 

その後、平成12年(2000年)雄踏町は主屋など建物の寄付を受け、平成13年度から15年度にかけて解体修理を行いました。その際の調査で建築当初の姿とその変遷が概ね明らかになったため、当初の姿に復元されたとのことです。

 

主屋の建物はまさにあこがれの古民家!

 

『中村家住宅』家族が暮らした主屋。国の重要文化財

 

家族が生活した正面が南向きの主屋(おもや)が国の重要文化財に指定されています。

 

主屋の建築年代は、大棟の瓦葺に使われていた鳥衾(とりぶすま/現在も棟に使用しています)と、貞享5年(1688年)の箆書きがある鬼瓦との取合いが一致していることからその貞享5年(1688年)頃と考えられているそうです。

 

『中村家住宅』貞享5年(1688年)の箆書きがある鬼瓦

 

東側が土間で、西側は9部屋に間仕切りされた平屋建て、一部に中二階がある桁行(間口)21.3m、梁間(奥行)11.2m、平面積238.7㎡と大規模です。屋根は寄棟造(よりむねづくり)の茅葺き※です。

※茅葺きはt江戸時代当初は浜名湖にたくさん自生していた葭(よし)を使っていたのですが、平成の修理の際には葭が足りなかったため、青森の葭を使い奈良県の宮大工が施工したそうです。と、ガイドさんが教えてくれました。

 

土間は、土と石灰、にがり(塩)を混ぜ合わせた「たたき」仕上げです。床は土間から56cmも高くなっています。

 

風通しをよくするとともに、中村家の主人が座ったまま村人と話をするのに視線の高さがちょうど良いことから、中村家の格式の高さによるものだと考えられるそうです。

 

天井を見上げると、現在の家屋にでは見たこともないほど太くて立派な木材が使われているのがわかります。煤で黒光りしているのも魅力です。

 

専門的なことはよくわかりませんが、棟通り(むねどおり)と梁間方向中央の柱通りを揃え、これを境として、桁行方向に部屋が食い違いの配置になっているのが特徴だそうです。

 

主屋の構造は、側柱(がわばしら/外回りの柱)は省略なく、部屋境は2ヶ所を除いて柱を1間ごとに、楚石の上に直接立て、おもに貫で相互を連結している釘を使わない構造になっているそうです。

 

部屋は18畳の畳の間や板の間など、使う目的によって広さも造りもさまざまです。

納戸構(なんどかまえ)・押板・格子窓といった古民家に共通する特徴があります。

 

茅葺き(かやぶき)の古民家は全国的にも珍しく、屋根の最上部の大棟は本瓦ぶきになっています。

 

関連記事>>

『どうする家康』がよりおもしろく視聴できるように!徳川家康の年表をかんたんにまとめてみた - sannigoのアラ還日記

 

於義丸の胞衣塚(えなづか)

 

『中村家住宅』主屋の西側に残る於義丸の胞衣塚。鉄のには葵の御紋がついています。

 

大正時代までは、主屋の横に於義丸を育てた「養育の間」の離れ座敷があったそうです。

 

主屋の西側に玉垣をめぐらせた塚があります。この塚が、於義丸が生まれた時に造った胞衣塚(えなづか)です。塚上の梅の木は、徳川家康のお手植えと伝えられ数代を経ています。

 

正面の鉄の扉には徳川家の三葉葵の紋がついています。胞衣塚は、屋敷の出入り口の長屋門(ながやもん)と共に、浜松市指定文化財になっています。

 

長屋門(市指定文化財)

 

『中村家住宅』安永4年(1775年)に屋敷南側に建築された長屋門

 

受付をする前に、まず通り抜けるのがこの『長屋門』です。江戸時代、式台や玄関と同じように、一定の格のある家で建てられた門です。

 

中村家が農家でありながら、今川氏時代には家臣であり浜名湖の軍船を支配したり、徳川氏に仕えた時代も今切軍船兵糧奉行や代官を勤めたほどの格のある家だったことが伺えます。

 

この長屋門は安永4年(1775年)、屋敷南側に建築されたものを、その後、屋敷東側に移設したものだそうです。

 

石灯籠(五重塔)

 

『中村家住宅』胞衣塚の横にある石灯籠(五重塔)

 

胞衣塚の横に佇んでいる石灯籠(五重塔)は、”高さ296cmで各層に火袋があるため、庭園の飾りとしての意味合いが強く、また貞享5年(1688年/鬼瓦の制作年代と同じ)という年号が見られ、この年に江戸日本橋の中村清兵衛から中村家に贈られたものと考えられます。”という看板がありました。

 

結城秀康って?

 

 

結城秀康は家康の子でありながら、数奇な運命を背負った戦国武将として知られています。

 

なぜなら、元服前には豊臣秀吉の養子に出されただけでなく、豊臣秀吉が甥の豊臣秀次を後継者に定めると、今度は下総国(現在の茨城県南西部)の結城晴朝(ゆうきはるとも)の養子となり、豊臣家の中枢から遠ざけられます。

 

結城秀康は徳川家康の次男として生まれ、幼名は於義丸(おぎまる)。今回ご紹介している遠江国敷知郡宇布見村(現在の浜松市西区雄踏町宇布見)で天正2年(1574年)に産まれています。

 

母は永見吉英の娘於古茶で家康の側室お万の方です。が、実はお万の方は、正室築山殿の世話係で身分が低かったこと、さらに、秀康は当時は「畜生腹(ちくしょうばら)」と忌み嫌われる双子で産まれたこと。(双子のうちもうひとりは産まれてすぐに亡くなったと伝えられています)。

 

このようなことから、秀康が複雑な環境のもと産まれたことがわかります。いろいろな理由から家康は、秀康が3歳になるまでは一度も対面しなかたっといいます。

 

ただ、自分に異母弟がいると知った家康の長男信康が、弟が父親と対面したことがないことを憐れみ、岡崎で家康に弟と対面するように仕組み無事叶えたといわれています。

 

こんなに優しくて武将としても有望で将来を期待されていた信康は、母である家康の正室築山殿が暗殺されたあと、二俣城で切腹してしまいます。

 

信康自該の数年後には、家康は信長とともに武田氏を滅ぼし勢力を広げます。が、その年「本能寺の変」が起きます。信長の亡き後も家康は武田の領地であった甲斐・信濃と勢力を広げます。

 

そして、いよいよ徳川家康は信長の後を継いだ豊臣秀吉との対決のときを迎え、「小牧・長久手の戦い」が天正12年(1584年)に起きます。結果的には徳川家康が勝利を収めたのに、豊臣秀吉が家康と同盟を結んでいた織田信雄(のぶかつ)と勝手に和睦を結んでしまったのです。

 

けっきょく戦いを続ける理由がなくなってしまった家康も和睦に同意し、豊臣家の家臣となり、結城秀康を人質として豊臣家に差し出したのです。

 

ただ、当時嫡男の信康が織田信長の命で自害してこの世を去っていたため、次男の結城秀康は嫡男の立場でした。にもかかわらず、異父弟の松平定勝を差し出す予定だった家康は於大の方の反対に遭い、あっさりと秀康を人質として差し出しました。

 

そして、異母弟の長丸(ちょうまる/後の秀忠)を後継者に据えたところからも、結城秀康の複雑な環境を伺い知ることができます。

 

豊臣秀吉の養子として大坂に迎えられた秀康は、秀吉に気に入られ実の息子のように可愛がられたといいます。天正12年(1587年)12月には養父の「秀」と実父の「康」の字をもらい元服し、羽柴秀康と名乗るようになりました。

 

羽柴秀康は、天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を飾り、岩石城(福岡県東部)攻めでは先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の戦いでも戦功を上げるなど、着実に功績を積み重ねていました。

 

ところが、小田原征伐の勝利で豊臣秀吉の天下統一がほぼ実現した矢先、秀康は再び下総国の結城晴朝のところへ養子に出されてしまいます。

 

これは、豊臣秀吉に実子(鶴松)が生まれたことと無関係ではないでしょう。※鶴松は幼くして亡くなってしまいます。

 

秀康は天下人徳川家康の家に生まれながらも、豊臣家に人質に出され武将としても厚遇されますが、武勇に優れた「養子」ということから後継者にはなれず、結局は17歳で豊臣家から出て結城家を継ぎ、11万1千石の地方大名になったのです。

 

結城家は鎌倉時代から続く名家で、室町時代には下野(しもつけ)守護も務めています。当主結城晴朝に実子がなく、秀吉に養子縁組を願い出ていたそうです。

 

関連記事>>

浜松の犀ヶ崖古戦場(犀ヶ崖資料館)は観覧無料 三方ヶ原の戦いで大敗した家康が偲べます - sannigoのアラ還日記

 

このように数奇な運命を背負った武将、結城秀康が生まれ育った『中村家住宅』では、「ゆうとうまちづくり協議会」により、10月14日〜16日の3日間、お茶会や書画展&コンサートなどが楽しめるぷちイベントが開かれるそうです。

 

家康公ゆかりの中村家住宅に立ち寄って観るのじゃ!

 

ぷちイベントは「ゆうとうまちづくり協議会」が、NHK大河ドラマ「どうする家康」が来年1月から始まるのを機に、日本の伝統や文化を学んでいる高校生たちと地域を盛り上げたいと企画されたものだそうです。

 

◆イベント開催日

2022年10月14日(金)~16日(日)

◆イベント開催時間

9:30~16:30

◆入場料

中村家住宅観覧料のみ

一般:200円
高校生:100円
ただし、70歳以上、中学生以下は無料

 

◆イベント内容

 

・近隣の湖南、湖東、大平台の各高校が協力し、15、16日は茶道部が宗徧流や裏千家流でお点前を披露してくれるそうです。
※参加無料、いずれも1日6回、各席先着12名様まで

・吹奏楽部はアンサンブルコンサートを開催。

・書道部は徳川家康公の人生訓を書いて3日間展示。

・15日は中村家ゆかりのシンガー「ERIKO」を迎えての凱旋コンサート

・16日は「結城秀康と越前」がテーマの歴史講演会。福井市立郷土歴史博物館学芸員の中西健太さんのお話が聞けます。

参照元:遠州 歴史のとびら188、中日ショッパー10/7号

 

まとめ

 

栗が見事に実った木々で癒やされる『中村家住宅』のお庭

 

今回「秋のお出かけ」におすすめしたのは、『家康ゆかりの街浜松』でのスポット、国の重要文化財『中村家住宅』です。

 

徳川家康の側室お万の方が、第2子・於義丸(おぎまる/後の結城秀康)を産んだ屋敷として知られ、国の重要文化財に指定されています。

 

当時の上層農家の生活を知る上にも貴重な遺構であるとのことで、1972年(昭和47年)国の重要文化財に指定されました。

 

徳川家康という天下人の子孫でありながら、母がお万の方が家康の正室築山殿の世話係で身分が低かったことや、当時忌み嫌われていた双子で産まれたことなどの複雑な環境のもと産まれた秀康は、数奇な運命を背負った戦国武将としてもよく知られています。

 

結城秀康は家康からの愛情を受けることなく、家康の重臣本多重次と交流のあったこの「中村家」の屋敷に預けられ養育されました。

 

にもかかわらず、人質に出された豊臣秀吉に可愛がられ立派な武将になり、立派過ぎた結果豊臣家の後継者にはなれなかったけども、鎌倉時代から続く名家を継ぎ大名になれたのだから、それはそれで幸せだったのではないでしょうか?

 

そんな結城秀康が生まれ育ったこの『中村家住宅』を、栗が見事に実った木々を眺めながら、「どうする家康」のドラマ放送前に一度巡ってみることができてよかったです。本当に詳しく説明してくださったガイドさんに心から感謝です。

 

駐車場にはしっかりと真新しい『家康公ゆかりの地』の旗が、風に揺らめいたいたのですぐにわかると思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。