sannigoのアラ還日記

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家康公ゆかりの地 【出世の街浜松】を訪ねるならなにはともあれ『浜松城』でしょ

🕖2022/10/12    🔄2022/12/12

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

来年は嵐の松本潤主演でNHK大河ドラマ『どうする家康』放送予定ということもあってかなり盛り上がっている静岡県。

 

中でも家康公ゆかりの地【出世の街浜松】は『三方ヶ原の戦い』から450年ということもあり、あっちこちで『家康公ゆかりの地』の旗が遠州からっ風にはためいています。

 

大河ドラマファンで居住地が浜松という筆者が、改めて徳川家康に関して必死に勉強すし始める理由には充分でしょう。

 

ようやく猛暑から開放され金木犀から甘い香りが漂い始めたこの頃は、手近な『家康公ゆかりの地』訪ね歩いています。

 

今回ご紹介するのは、三方ヶ原の戦いにまつわる伝承が多く残る『浜松城』です。天守は1958年(昭和33年)に建てられたコンクリート製の模擬天守であまり注目されないお城ではありますが、2014年(平成26年)には、天竜杉を使って、高さ9.4m、幅11m、奥行き5mの天守門が復元されました。

 

しかも、現在天守は『どうする家康』ドラマ放送開始に間に合うように改修中です。もちろんドラマ館も着々と完成に近づきつつあり、いくつかのイベントも開きながら来年の開館に備えています。

 

徳川家康が岡崎から浜松に移り住み、駿府城(現在の静岡市)に移るまでの17年間を過ごした浜松城を一訪れてみてはいかがでしょう。

 

青空に映える浜松城天守と天守門[写真AC]

 

 

 

浜松城 アクセスと駐車場 入場料など

 

 

 

☑場所 静岡県浜松市中区元城町100-2

 

《アクセス》

 

・遠鉄バス

 バスターミナル(1)乗り場発のすべてのバス

 「市役所前」バス停で下車→徒歩約6分

・マイカー

 浜松ICより約30分

 浜松西ICより約30分

 浜松浜北ICより約40分

 

《入場と駐車場》

 

-浜松城公園-

 

入場料:無料 

浜松城公園駐車場

ご利用時間:8:00~21:30

休日:ー

利用料金:入庫から最初の90分まで無料

     90分を超える分については30分ごとに100円加算

     土・日・祝日は上限520円(当日限り)

     

-浜松城-

 

浜松城入場料金:大人(高校生以上)200円(天守門・天守閣共通)※小中学生は無料

開館時間:午前8:30~午後4:30

休館日:12月29日~30日・31日

駐車所:浜松城公園駐車場利用

 

※現在、浜松城天守閣は外装改修工事中です。2022年12月末までの予定で、天守閣まわりに足場が組まれていますので通行の際は注意が必要です。

追記12/4 浜松城横の道路を通行中、浜松城の足場がなくなってシートも外され、元通り?いや以前よりずっときれいな浜松城を眺めることができました。

 

2022年10月1日現在の工事中の浜松城天守のようす

 

浜松城の歴史

 

今年は、1570年(元亀元年)に徳川家康が引間城(浜松市中区元城町 現在の元城町東照宮とその周辺)を改修し、「浜松城」と名前を改めてから452年になります。

 

織田信長と同盟を結んだ家康は、1868年(永禄11年)、三河(愛知県東部)から遠江(静岡県西部)に勢力を伸ばしました。

 

三河と遠江の2カ国を領地とした家康は、それまでの居城の岡崎城(現在の愛知県岡崎市)を息子の信康に譲り、遠江に本拠地を移すことにしました。

 

家康は、最初、遠江の国府の所在地で政治や商業の中心地であった見付(現在の磐田市見付)に城を築こうとしたそうです。

 

が、いつの日か武田信玄と戦うことを考えると、背後に天竜川が流れる地形は「背水の陣」になって逃げ場がなくなることや、信長の援軍が駆けつけにくいことなどから、浜松に築城することにしたといわれています。

 

家康は、遠江の経路拠点として引間城が手狭だったことから、引間城を西南の丘陵地に広げ、三方原台地の縁の階段状の地形を利用して大規模な築城を行いました。

 

1570年(元亀元年)に家康公が浜松城に入場した際に引間を浜松と改めたといわれています。

 

現在残っている遺構は天守曲輪を中心とする一帯で、荒く刻まれた「野面積み(のづらづみ)」の石垣は、ほぼ戦国時代のまま残っています。

 

現在の天守閣は1958年(昭和33年)に、天守門は2014年(平成26年)に建てられたものです。

 

浜松城は、西側の一番高い所から東に本丸、二の丸などを配置し、周りに堀や土塁を巡らした東向きの城です。

 

家康は駿府城(現在の静岡市)に移るまでの17年間を浜松城で過ごしました。

 

【浜松城の石垣 野面(のづら)積み】

 

野面積みがよくわかる浜松城の石垣

 

浜松城の石垣は、1590年(天正18年)豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴が城主になり石垣や天守を築きました。

 

石垣は「野面積み」という自然の石を上下に組み合わせて巧みに積み上げる技法が用いられています。

 

一見表面にすき間があり崩れやすそうに見えるのですが、奥が深く内側に小石や砂利を詰めてあるため、水はけもよく堅固です。高さが5mを超えるところもあったようです。

 

石材は、浜松市内の大草山、根本山、湖西市知波田産の珪岩で、浜名湖や佐鳴湖などの水路を船を使って運ばれました。

 

江戸時代初期以前まではよくこの方法が用いられ、現存する石垣としては「彦根城」「竹田城」、そして「安土城」にも用いられていたといわれています。

 

浜松城の石垣は400年以上の時を経て、当時の面影を伝えています。

 

【浜松城の天守】

 

現在の天守は、1958年(昭和33年)に建てられたコンクリート製の模擬天守です。3層3階、地下1階の約200平方メートルの広さですが、実際に建てられた天守は270平方メートルほどあったそうです。

 

2014年(平成26年)天竜杉を使って、高さ9.4m、幅11m、奥行き5mの天守門が復元されました。

 

門の上にある櫓には武器や食料を保管し、城を攻めてくる敵を弓矢や鉄砲で迎え撃てるようになっていました。

 

【天守台地下にある井戸】

 

城にとって重要なのが、水。浜松市史によると、浜松城には天守台の穴蔵、天守曲輪の理門そば、本丸に各1、二の丸に3、作左曲輪に4、計10本の井戸、清水曲輪にわき水があったといいます。

 

天守台の井戸は、再建の時に残し今の天守閣の地下室にあります。直径は1.3m、深さ1mほどで、底は砂利や砕石を敷き詰めています。もちろん、今は水がありません。

 

戦国時代、城の水利は極秘だったため、浜松城の場合も資料がなく、詳しいことはわからないそうです。

 

【浜松城の曲輪】

 

曲輪(くるわ)とは、城やとりでを石や土で囲んだところです。

 

浜松城には、天守曲輪の他、清水・西端城作左の3つの曲輪がありました。作左曲輪の由来は、譜代家臣の本田作左衛門重次が構築したからといわれています。

 

【浜松築城を作った三人、木原大念仏】

 

浜松築城を家康から命じられたのは、倉橋宗三郎(普請奉行)と木原吉次、小川家次(ともに惣奉行)の3人で、このうち吉次が中心で、440石に出世し徳川家の大工頭になっています。

 

吉次ら一族が住んだと伝わる袋井市木原に、建築関係者の信仰を集めていた許禰(こね)神社(木原権現社)があります。

 

1578年(天正6年)8月、高天神城(現在の掛川市)から徳川軍の様子を探りにきた武田勝頼の家臣・笹田源吾は、この地で村人達に討ち取られてしまいました。

 

その後。村には疫病が流行り、言語の霊のたたりではないかと言われるようになりました。村人は、笹田源吾の墓を建て、その前で行った供養祭が木原念仏の始まりと伝えられています。

 

木原大念仏は、1981年(昭和56年)に袋井市指定無形民族文化財に指定されました。毎年8月13日・14日の2日間、新盆の家をまわり行われます。

 

-木原大念仏 発祥の地-

 

JR袋井駅から西。磐田からR1を袋井市方向に進むと、磐田バイパスとの分岐点でバイパスと合流せずに県道413号(旧東海道)を進むとおよそ1kmで『木原』交差点に出ます。

 

この木原交差点を北に入り込むと「夢舞台東海道」という案内標識があり、ここに『木原大念仏発祥の地』と書かれています。

 

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【出世城と呼ばれた浜松城】

 

-1つ目の理由-

 

浜松城が「出世城」と呼ばれるようになった1つ目の理由は、徳川家康の出世です。後に天下人となった徳川家康は、引間城を改修して浜松城を築城した初代城主ですから。

 

1542年(天文12年)三河岡崎城主の松平広忠の長男として誕生し幼名は竹千代。たったの6歳で生国の岡崎を離れ、今川義元の人質として駿府(現在の静岡市)へ。

※城を出て今川家に向かう途中、戸田康光により連れ去られ織田家で2年過ごした後に駿河へ。

 

1555年(弘治元年)駿府で元服し今川義元の元をもらい松平元信と名前を改めます。16歳で築山殿と結婚、そして初陣を果たし、尊敬していた祖父松平清康の康をもらい元康と改名します。

 

嫡男信康と亀姫も誕生後、1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで織田信長に今川義元が奇襲され討ち死にすると、岡崎城に戻り1562年(永禄5年)織田家と同盟(清洲同盟)を結び、翌年今川義元の元を名前から外し家康と改めます。

 

1564年(永禄7年)一向一揆を治め三河国を統一、1566年(永禄9年)ついに徳川家康と名前を改め、遠江に侵攻。

 

1570年(元亀元年)29歳で、武田信玄の遠江攻めに備えるなどの理由から浜松城に入城します。長く続く戦国の世を終わらせ、平和な徳川300年の礎となったといわれるのが浜松城で過ごした17年間といわれます。

 

なぜなら、浜松城時代の29歳~45歳で、今川、武田、織田など戦国の世に名を上げた周辺諸国の名家、強大な戦国大名に囲まれ、戦いに継ぐ戦いを生き抜き、天下取りの夢をつかんだからでしょう。

 

17年間の浜松城時代に家康が、三河(愛知県東武)と遠江(静岡県西部)の二ヶ国を治める大名から、駿河(静岡県中部)を得て三カ国、その後、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)を加えて五カ国の大名になったこと。これってすごい出世物語ですよね。

 

ただ、浜松在城中はすべてが順調というわけではなく、生涯最大の敗戦といわれる三方ヶ原の合戦もあります。

 

が、浜松城から駿府城を経て、江戸城に入城、そして江戸幕府初代将軍として天下人に出世していたことは誰もがよく知る出世物語です。

 

-2つ目の理由-

 

二つ目の理由は、江戸時代になってからのことです。浜松城に入った大名の多くが出世したからです。「家康公ゆかりの城」浜松城は、幕府の重要な役職を担う大名の登竜門として位置づけられました。

 

江戸時代の浜松城は概ね五万石前後で浜松藩政300年の間、関ヶ原の戦い以前から徳川家の家臣であった譜代大名の居城になりました。

 

再任を含め25代の城主が誕生し、歴代の浜松城主の中から、老中に5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行に4人(兼任含む)が登用され要職に就いています。

 

ですから、「浜松城主になれば幕府で出世する可能性が高くなる」いわゆる「浜松城は出世城」といわれるようになったわけです。

 

特に有名な城主は「天保の改革」で知られる水野忠邦で、幕府の要職に就きたいと願い、家来に反対されながらも自ら進んで浜松城主になったといわれています。

 

なんと、この水野忠邦は、大坂城代、京都所司代と順調に昇進し、老中首座に上り詰めました。

 

浜松生まれの松島十湖(まつしまじっこ)の句

 

「はま城は 出世城なり 初松魚(はつがつお)」(松島十湖)の句が残されています。

 

待ちに待った初ガツオの季節がやってくるうれしさと、歴代の浜松城主が活きの良い初ガツオのように出世していった様子を重ね合わせて詠んだ句だそうです。

 

松島十湖は、明治、大正時代に第二の芭蕉といわれ、全国に多くの門弟を持った俳人です。

 

1849年(嘉永2年)3月17日に豊田郡中善地村(現在の浜松市東区豊西町)の昔からの農家の家に生まれ、6歳から撰要寺で教育を受け15歳から俳句に興味を持ち、当時遠州で有名な俳人だった栩木夷白(とちぎいはく)の弟子となり雅号を十湖としたそうです。

 

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三方ヶ原の戦い 

 

三方ヶ原の戦いは、元亀4年(1573年)1月25日の出来事といわれ、遠江国敷地郡・三方ヶ原(現在の浜松市北区三方原町)で、甲斐の武田信玄が、織田信長・徳川家康連合軍に圧勝したた戦いで、浜松城在城時の徳川家康にとって最大の敗戦ともいわれています。

 

1570年(元亀元年)29歳になった家康は、今川の領国だった遠江に進出し浜松城を居城としました。

 

諸説ありますが、1572年(元亀3年)9月、武田信玄は足利義昭からの織田信長討伐に応える形で、上洛のための西上作戦を発動し甲斐(現在の山梨県)を出発したとこれまでいわれてきました。

 

武田信玄は軍を3つに分け、山県昌景率いる5,000の兵は三河国へ、秋山虎繁(信友)率いる伊那衆を美濃国へと先行させ、自ら率いる本隊3万を信濃国の青崩峠から徳川領の遠江国へ侵攻しました。

 

※研究が進み現在は東(駿河)から西に向かって遠江に入ったという説が有力とか・・・。

 

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甲斐からの信玄軍は、一言坂(磐田市)、二俣城(浜松市天竜区)を攻略します。家康は必死に応戦しますが、武田信玄率いる大軍に為す術もなく、頼みとする織田信長は周辺の敵と対峙しており、援軍は期待できません。

 

遠江北部を手中にした武田軍はなおも進軍を続けます。次の標的が浜松城と予測した家康は、徳川の兵8,000に加え、織田信長の3,000の援軍とともに浜松城に籠城します。

 

ところが、3万の武田軍は浜松城(浜松市中区)の近くを通り過ぎ、三方原(浜松市北区)へ軍を進めました。

 

浜松城を素通りされたことで、腹を立てた家康は「武将として、自分の領地を通るものを、黙って見逃しては一生後悔する」と声を荒げ、信玄軍を追いかけ背後から攻撃すれば勝機ありと見て戦いを挑みました。

 

織田家の武将や家臣は反対したのですが、プライドを傷つけられた家康はこれを押し切って出陣したのです。とこれまでは言われてきましたが・・・。

 

浜松の地では珍しく雪が降る中、戦いが始まりました。家康軍が三方原台地に着くと、諜報活動を重視し情報戦にも長けた信玄軍は戦う準備を整えて、武田八陣形のひとつ「魚鱗の陣(ぎょりんのじん)」で待ち構えていました。

 

家康軍は、やむなく「鶴翼の陣」で応戦するも、数で勝る武田軍の疾風の如き攻撃にまたたく間に総崩れになりました。

 

三方ヶ原の戦いは夕刻に始まり、日没までのわずか2時間ほどで勝敗を決したとされています。


家康は「もはやこれまで」と敵陣に切り込もうとすると、夏目吉信や鈴木久三郎らの家来が駆け寄り、「大将が死に急いではいけませぬ。城に戻り、ぜひとも再起を!」と叫びながら、家康の乗っている馬をたたきました。

 

そして、夏目吉信や鈴木久三郎らは、家康の兜などを借り受け、目くらましとして的中に突入。家康の敗走の時間稼ぎのため犠牲になりました。

 

その甲斐あって、徳川家康は辛うじて命からがら浜松城まで逃げ帰ることができました。

 

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三方ヶ原の戦いにおいての伝承

 

三方ヶ原の戦いにおいての伝承は、掘ればいくつでも出てくる感じで非常に数多く残っています。

 

詳細は不明ではありますが、これだけたくさんの伝承が残っているのも徳川家康という武将に親しみを感じていた人々が多かったからではないでしょうか。

 

ここで、伝承のいくつかをご紹介します。が、ほとんどの伝承が中日新聞に現在も掲載中の『浜松 歴史のとびら』からの引用になっています。

 

ネットでいろいろ調べてみたどんな資料よりも、この新聞に掲載された記事がわかりやすく、これ以上の内容はない!ということで申し訳ありませんがこのような形になりました。

 

総崩れ家康軍 城の門開ける策

 

家康は命からがら城に逃げ帰ると、当然追っ手が来るだろうと家来は急いで、門を閉じ、守りを固めようとしました。

 

そんな家来を目にした家康は、「門は開けておけ!戻ってくる家来が必ずいる。攻めてくる敵も、門が開いていれば何か策があるにちがいないと思うはず」と声を掛けました。これが「空城計」という戦術でした。

 

家来は、わざと城門を開け放ちあちこちに赤々とかがり火を焚き、中の様子が外から見えるようにし、大太鼓を鳴らし続けました。

 

すると、どうしたことでしょう。浜松城にせまった信玄軍の山形正景は、この情景を見て不審に思いそのまま引き返していったのです。「空城計」の戦略が成功し、ようやく家康は窮地を脱することができたのです。

 

この時大太鼓を打ち鳴らしたのは、徳川四天王の酒井忠次といわれています。「酒井の太鼓」と呼ばれる太鼓は、明治時代になると磐田市にある見付小学校(旧見付学校)に寄贈されました。

 

太鼓は5階に据えられ、1922年(大正11年)まで毎日時を知らせるため打ち鳴らされました。太鼓は今も磐田市にある「旧見付学校」の1階に展示されています。

 

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鎧掛松

 

浜松城公園の南側にある『鎧掛松(よろいかけのまつ)』

 

☑場所 浜松市中区

浜松城公園の南、市役所の西側に、鎧掛松(浜松市中区元城町)があります。

 

説明板には、徳川家康が三方ヶ原の戦いから城に帰り、大きな松の木陰で休んだとされ、そのときに鎧を脱いでその松に掛けたとの伝承が残ることから、鎧掛松と呼ばれている。と書かれています。


「この松は1981年(昭和56年)に元城町の人々の手により植樹された三代目であり、初代は浜松城内の堀のそばにあったとされます」と書かれています。

 

三方ヶ原の戦いは、真冬の雪が降る中で戦われたといわれています。武田信玄に大敗した家康は家来の助けもあり、何とか戦場を抜け出しました。

 

逃げ帰る途中でも、家康の身代わりに何人もの家臣が討ち死にしました。家康は命からがら駆け戻ったのです。

 

心身ともに疲れ果てやっとの思いで浜松城の城門をくぐることができた家康は、鎧を松に掛け、そこに座り込み何を思ったのでしょう。

 

城の近くに残されたゆかりある地名

 

城の近くには、三方ヶ原の戦いなどの負け戦で戻った家康にまつわる地名がいくつも残っています。

 

・馬冷(うまひやし)

 

鎧掛松から100mほど西に、松城緑地(まちじょうりょくち)という小さな公園(浜松市中区松城町)があります。

 

この公園には以前「馬冷(うまひやし)」と書かれた標識が立っていました。江戸時代の地図を見ると、この辺りに二つの池があったことがわかります。

 

武将を乗せ、戦場を駆け抜けてきた馬の疲労も武将以上に大変なものだったことでしょう。家康はそんな疲れた愛馬をいたわるために、清水の流れを止めて造った池で「馬の体を冷やしてやれ」と家臣に命じたそうです。

 

こうしてできた「馬冷」の地名は、今でも松城町の字として残っています。

 

・下垂町(しもだれまち)

 

市役所の東側に、尾張町があります。この町は大正時代の終わりごろまで「下垂町(しもだれまち)」といわれていました。

 

戦いに敗れた家康が命からがら城に戻る際、今の尾張町の辺りを通ったときのことです。疲れ果てた家康の兜(かぶと)の緒が、解けかけて垂れていたそうです。

 

気づいた家来が「御殿様、兜の緒が垂れております」と声を掛けましたが、家康は直すこともなく、城に戻ったとか。

 

そんな出来事から、この辺りを「下垂町」と名付けました。由来のある町名ですが、下垂という言葉があまり良くないのではという声が聞かれるようになり、尾張町にしたといわれています。

 

・徳川秀忠公誕生の井戸

 

中区常盤町にある2代将軍徳川秀忠公誕生の井戸

 

☑浜松市中区常盤町141-25

 

歴代の将軍の中で唯一浜松で生まれた将軍、江戸幕府二代将軍徳川秀忠公(1579年~1632年)の出生の地とされています。秀忠の幼名は長丸で、元服の時に豊臣秀吉から秀の一字をもらって秀忠と名乗りました。

 

実は、秀忠が生まれた場所は、早馬(浜松市中区早馬町)と浜松城内(中区元城町)の二つの説があります。

 

早馬説


早馬説は「徳川秀忠公誕生の井戸」(中区常盤町)の説明板で紹介されています。

 

西郷局(さいごうのつぼね)が秀忠を産んだ時、産湯にこの辺りにあった井戸水が使われたという伝承をもとに作ったそうです。実際の井戸はこの場所より西に約50mのところで、家康の在城時に下屋敷があったそうです。

 

城内説

 

城内説の根拠は、「浜松御在城記」に「天正七年四月七日秀忠様の御童名長丸様、今の御城内にて御誕生」と書かれていることです。

 

江戸時代のいくつかの浜松城絵図にも、本丸と二の丸の間に「御誕生場」が記されています。

 

さらに、2011年(平成23年)の発掘調査で御誕生場と伝わる場所に井戸が確認されました。内部から秀忠が生まれた十世紀後半を中心とした時期の陶磁器が出土しています。

 

・五社神社は2代将軍秀忠の産土神(うぶすながみ)

 

中区利町(とぎまち)のある五社神社は秀忠の産土神(うぶすながみ)です

 

☑浜松市中区利町302-5

 

現在、浜松市中区利町(とぎまち)にある五社神社は、秀忠の産土神(うぶすながみ)です。

 

秀忠が生まれた時、五社神社は浜松城内にあったそうです。大坂の陣の時、秀忠は将軍として江戸に住んでいましたが、戦勝祈願と成就の報告に二度参拝した記録が残っています。

 

秀忠は家康の三男ですが、江戸幕府の2代将軍になっています。なぜかというと歴史好きの方ならよくご存知でしょうが、戦国時代ですからいろいろあるんです。

 

長男の信康は?

 

長男の信康の母は関口親永の娘で今川義元の姪である築山殿で駿府城で誕生しています。

 

秀忠が生まれた数カ月後に、武田勝頼よりとの関係を織田信長に疑われ、父である家康の命で浜松の二俣城で21歳の若さで自害しています。

 

次男の秀康は?

 

次男の秀康(幼名於義伊/おぎい)の母は側室長勝院で通称於古茶(おこちゃ/他にもお万の方とも呼ばれています)で、1574年(天正2年)遠江国敷地郡宇布見(現在の浜松市西区雄踏町宇布見)の中村家で誕生しています。

 

秀康の母長勝院(通称於古茶)は、はじめは築山殿の奥女中で家康の手付となり、秀康を産んだとされています。そんなことや当時忌み嫌われた双子であったことなどからでしょうか?秀康は家康と3歳になるまで対面できなかったとか。

 

その後、秀康は11歳で豊臣秀吉の養子(人質)になり、羽柴秀康と称しました。が、17歳で秀吉の命により、結城晴朝の養子となって下総国結城10万1000石を治め、結城秀朝と改めたのですが、後に秀康と復しています。

 

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このように、長男信康、次男秀康にもいろいろな事情があり、三男秀忠が5歳になった正月、浜松城で父家康と並んで家臣の祝いのあいさつを受けた頃から後継者として扱われていたとのことです。

 

将軍になった秀忠は、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)や武家諸法度などの整備・定着を図り、江戸幕府の基礎を固めました。

 

大御所として将軍秀忠を見守った家康は、守成の時代の主君としてふさわしいと頼もしく思ったそうです。

 

後に死期を悟った家康が、「わしの命もわずかしか持たない。この後、天下はどうなると思うか」と問いかけると、秀忠は「乱れます」と答えたそうです。家康は「それさえわかっていれば問題なし」と安心したとのことです。

 

・城下町由来の町名を辿る

 

魚を商いする店が多い肴(魚)町、鍛冶町(刃や鋤(スキ)の製造)が多く住んだとされる鍛冶町。

 

通信交通・荷役のための伝馬があった伝馬町。背負子(連雀)で運搬する行商が多く住む連尺。

 

染物商(紺屋)が多い紺屋町や、大工の多い大工町など、東海道の宿場町・城下町として賑わった家康公浜松城居城時代の浜松の地名が、現在にも脈々と受け継がれています。

 

参照元:浜松歴史のとびら

 

まとめ

 

【出世の街浜松】は、家康ゆかりの地があちこちに残されています。

 

中でも、29歳から45歳までの時を浜松城で過ごした徳川家康は、この17年間で長く続く戦国の世を終わらせ、平和な徳川300年の礎を築いたといっても過言ではないかもしれないのです。

 

そんな出世の街浜松で一番家康にゆかりの深い『出世城の浜松城』を今回はご紹介しました。浜松城の場所やアクセス、歴史はもちろん、浜松城在城時代一番の大敗とされる『三方ヶ原の戦い』での敗走中の伝承や今も残る地名の由来まで網羅してみました。

 

浜松城は、熊本城や犬山城ほどのお城としての魅力はないかもしれません。ただ、戦の世を終わらせ天下を統一、江戸幕府を開いてからの200年以上の平和な時代の礎を築いた徳川家康の築いた城と思って見ると、また違った魅力あふれる城と感じるのではないでしょうか?

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。