🕖2022/10/12 🔄2024/03/19
こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
来年は嵐の松本潤主演でNHK大河ドラマ『どうする家康』放送予定ということもあってかなり盛り上がっている静岡県。
中でも家康公ゆかりの地【出世の街浜松】は『三方ヶ原の戦い』から450年ということもあり、あっちこちで『家康公ゆかりの地』の旗が”遠州からっ風”にはためいています。
大河ドラマファンで居住地が浜松という筆者が、改めて徳川家康に関して必死に勉強すし始める理由には充分でしょう。
ようやく猛暑から開放され金木犀から甘い香りが漂い始めたこの頃は、手近な『家康公ゆかりの地』訪ね歩いています。
今回ご紹介するのは、三方ヶ原の戦いにまつわる伝承が多く残る『浜松城』です。天守は1958年(昭和33年)に建てられたコンクリート製の模擬天守で、お城としてはあまり注目されないお城ではありますが、2014年(平成26年)には、天竜杉を使って、高さ9.4m、幅11m、奥行き5mの天守門が復元されました。
しかも、現在天守は『どうする家康』ドラマ放送開始に間に合うように改修中です。もちろんドラマ館も着々と完成に近づきつつあり、いくつかのイベントも開きながら来年の開館に備えています。
徳川家康が岡崎から浜松に移り住み、駿府城(現在の静岡市)に移るまでの17年間を過ごした浜松城を一訪れてみてはいかがでしょう。
浜松城
場所:静岡県浜松市中区元城町100-2
《アクセス》
電車・バス:[浜松駅]バスターミナル(1)乗り場発のすべてのバス乗車「市役所前」バス停で下車→徒歩約6分
車:東名高速道路[浜松IC]より約30分
東名高速道路[浜松西IC]より約30分
新東名高速道路[浜松浜北IC]より約40分
-浜松城公園-
入場料:無料
駐車場:浜松城公園駐車場
ご利用時間:8:00~21:30
休日:ー
利用料金:入庫から最初の90分まで無料
90分を超える分については30分ごとに100円加算
土・日・祝日は上限520円(当日限り)
-浜松城-
入場料:大人(高校生以上)200円(天守門・天守閣共通)※小中学生は無料
開館時間:午前8:30~午後4:30
休館日:12月29日~30日・31日
駐車所:浜松城公園駐車場利用
※現在、浜松城天守閣は外装改修工事中です。2022年12月末までの予定で、天守閣まわりに足場が組まれていますので通行の際は注意が必要です。
追記12/4 浜松城横の道路を通行中、浜松城の足場がなくなってシートも外され、元通り?いや以前よりずっときれいな浜松城を眺めることができました。
浜松城の歴史
今年は、1570年(元亀元年)に徳川家康が引間城(浜松市中区元城町 現在の元城町東照宮とその周辺)を改修し、「浜松城」と名前を改めてから454年になります。
織田信長と同盟を結んだ家康は、1868年(永禄11年)、三河(愛知県東部)から遠江(静岡県西部)に勢力を伸ばしました。
三河と遠江の2カ国を領地とした家康は、それまでの居城の岡崎城(現在の愛知県岡崎市)を息子の信康に譲り、遠江に本拠地を移すことにしました。
家康は、最初、遠江の国府の所在地で政治や商業の中心地であった見付(現在の磐田市見付)に城を築こうとしたそうです。
が、いつの日か武田信玄と戦うことを考えると、背後に天竜川が流れる地形は「背水の陣」になって逃げ場がなくなることや、信長の援軍が駆けつけにくいことなどから、浜松に築城することにしたといわれています。
家康は、遠江の経路拠点として引間城が手狭だったことから、引間城を西南の丘陵地に広げ、三方原台地の縁の階段状の地形を利用して大規模な築城を行いました。
1570年(元亀元年)、家康公が浜松城に入城した際に、引間を浜松と改めたといわれています。
現在残っている遺構は天守曲輪を中心とする一帯で、荒く刻まれた「野面積み(のづらづみ)」の石垣は、ほぼ戦国時代のまま残っています。
現在の復興天守閣は1958年(昭和33年)に、天守門は2014年(平成26年)に建てられたものです。天守閣は3層3階地下一階の建物で、場内には家康や城下町浜松にまつわる歴史的資料などが展示されています。
地下には石組みの井戸を見ることができます。この井戸は復興天守閣建設の際の発掘調査で発見され、現在も保存されています。天守台に設けられた井戸は籠城戦や長期戦を意識したものと考えられます。最上階の展望台からは浜松市内が一望できます。
家康が築いた城郭は、三方原台地の斜面に各曲輪が隣接しながら階段状になっている様式『梯郭式(ていかくしき)という様式です。本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られる様式で、本丸北側には守りに適した湿地が広がっていたと推定されています。
西側の一番高い所から東に本丸、二の丸などを配置し、周りに堀や土塁を巡らした東向きの城です。
家康は駿府城(現在の静岡市)に移るまでの17年間を浜松城で過ごしました。1590年(天正18年)家康は関東に移り、豊臣方の堀尾吉晴が入城します。
【浜松城の石垣 野面(のづら)積み】
浜松城の石垣は、1590年(天正18年)豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴が城主になり高い石垣や天守を築きました。
石垣は「野面積み」という自然の石を上下に組み合わせて巧みに積み上げる技法が用いられています。
一見表面にすき間があり崩れやすそうに見えるのですが、奥が深く内側に小石や砂利を詰めてあるため、水はけもよく堅固です。高さが5mを超えるところもあったようです。
石材は、浜松市内の大草山、根本山、湖西市知波田産の珪岩で、浜名湖や佐鳴湖などの水路を船を使って運ばれました。
江戸時代初期以前まではよくこの方法が用いられ、現存する石垣としては「彦根城」「竹田城」、そして「安土城」にも用いられていたといわれています。浜松城の石垣は400年以上の時を経て、当時の面影を伝えています。
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【浜松城の天守】
現在の復興天守閣は、1958年(昭和33年)に建てられたコンクリート製の模擬天守です。3層3階、地下1階の約200平方メートルの広さです。堀尾氏が築いた天守台を3分の2ほどに縮小して建てられています。
堀尾氏の建築した天守は現在の天守より1.5倍ほどの大きさがあり、4層5階地下1階であったと推定され、実際に建てられた天守は270平方メートルほどあったようです。
関ケ原の戦い以降は、徳川譜代の大名が城主になりました。江戸時代初期の絵図を見ると天守や櫓はすでになく、天守台だけがあることがわかります。
江戸時代になり、軍事的な緊張が緩むに伴い、天守曲輪や本丸は象徴的な空間に変化し政治の中心から外れていきました。
現在残されている遺構は『天守曲輪』を中心とする一帯で、堀尾氏の時代に構築され江戸時代に受け継がれたものです。
荒く積まれた野面積みの石垣は、ほぼ戦国時代そのままの姿で残されています。浜松城の石垣は天守曲輪からの死角をなくし、防御機能を高めるために複雑な形状をしているのが特徴です。
天守曲輪の西側には、内側に大きく弧を描くように積まれた石垣「邪(ひずみ/輪取り)」と、尿部を負ったように積まれた石垣「屏風折」の特徴を見ることができます。
【天守台地下にある井戸】
城にとって重要なのが「水」です。浜松市史によると、浜松城には天守台の穴蔵、天守曲輪の理門そば、本丸に各1、二の丸に3、作左曲輪に4、計10本の井戸、清水曲輪にわき水があったといいます。
天守台の井戸は、再建の時に残し今の天守閣の地下室にあります。直径は1.3m、深さ1mほどで、底は砂利や砕石を敷き詰めています。もちろん、今は水がありません。
戦国時代、城の水利は極秘だったため、浜松城の場合も資料がなく、詳しいことはわからないそうですが、やはり籠城や長期戦の備えとして「水」は重要だったと考えられます。
【浜松城の曲輪】
曲輪(くるわ)とは、城やとりでを石や土で囲んだところです。
浜松城には、天守曲輪の他、清水・西端城作左の3つの曲輪がありました。作左曲輪の由来は、譜代家臣の本田作左衛門重次が構築したからといわれています。
【浜松築城を作った三人、木原大念仏】
浜松築城を家康から命じられたのは、倉橋宗三郎(普請奉行)と木原吉次、小川家次(ともに惣奉行)の3人で、このうち吉次が中心で、440石に出世し徳川家の大工頭になっています。
吉次ら一族が住んだと伝わる袋井市木原に、建築関係者の信仰を集めていた許禰(こね)神社(木原権現社)があります。
1578年(天正6年)8月、高天神城(現在の掛川市)から徳川軍の様子を探りにきた武田勝頼の家臣・笹田源吾は、この地で村人達に討ち取られてしまいました。
その後。村には疫病が流行り、言語の霊のたたりではないかと言われるようになりました。村人は、笹田源吾の墓を建て、その前で行った供養祭が木原念仏の始まりと伝えられています。
木原大念仏は、1981年(昭和56年)に袋井市指定無形民族文化財に指定されました。毎年8月13日・14日の2日間、新盆の家をまわり行われます。
-木原大念仏 発祥の地-
JR袋井駅から西。磐田からR1を袋井市方向に進むと、磐田バイパスとの分岐点でバイパスと合流せずに県道413号(旧東海道)を進むとおよそ1kmで『木原』交差点に出ます。
この木原交差点を北に入り込むと「夢舞台東海道」という案内標識があり、ここに『木原大念仏発祥の地』と書かれています。
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【出世城と呼ばれた浜松城】
-1つ目の理由-
浜松城が「出世城」と呼ばれるようになった1つ目の理由は、徳川家康の出世です。後に天下人となった徳川家康は、引間城を改修して浜松城を築城した初代城主ですから。
1542年(天文12年)三河岡崎城主の松平広忠の長男として誕生し幼名は竹千代。たったの6歳で生国の岡崎を離れ、今川義元の人質として駿府(現在の静岡市)へ。
※城を出て今川家に向かう途中、戸田康光により連れ去られ織田家で2年過ごした後に駿河へ。
1555年(弘治元年)駿府で元服し今川義元の元をもらい松平元信と名前を改めます。16歳で築山殿と結婚、そして初陣を果たし、尊敬していた祖父松平清康の康をもらい元康と改名します。
嫡男信康と亀姫も誕生後、1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで織田信長に今川義元が奇襲され討ち死にすると、岡崎城に戻り1562年(永禄5年)織田家と同盟(清洲同盟)を結び、翌年今川義元の元を名前から外し家康と改めます。
1564年(永禄7年)一向一揆を治め三河国を統一、1566年(永禄9年)ついに徳川家康と名前を改め、遠江に侵攻。
1570年(元亀元年)29歳で、武田信玄の遠江攻めに備えるなどの理由から浜松城に入城します。長く続く戦国の世を終わらせ、平和な徳川300年の礎となったといわれるのが浜松城で過ごした17年間といわれます。
なぜなら、浜松城時代の29歳~45歳で、今川、武田、織田など戦国の世に名を上げた周辺諸国の名家、強大な戦国大名に囲まれ、戦いに継ぐ戦いを生き抜き、天下取りの夢をつかんだからでしょう。
17年間の浜松城時代に家康が、三河(愛知県東武)と遠江(静岡県西部)の二ヶ国を治める大名から、駿河(静岡県中部)を得て三カ国、その後、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)を加えて五カ国の大名になったこと。これってすごい出世物語ですよね。
ただ、浜松在城中はすべてが順調というわけではなく、生涯最大の敗戦といわれる三方ヶ原の合戦もあります。
が、浜松城から駿府城を経て、江戸城に入城、そして江戸幕府初代将軍として天下人に出世していたことは誰もがよく知る出世物語です。
-2つ目の理由-
二つ目の理由は、江戸時代になってからのことです。浜松城に入った大名の多くが出世したからです。「家康公ゆかりの城」浜松城は、幕府の重要な役職を担う大名の登竜門として位置づけられました。
江戸時代の浜松城は概ね五万石前後で浜松藩政300年の間、関ヶ原の戦い以前から徳川家の家臣であった譜代大名の居城になりました。
再任を含め25代の城主が誕生し、歴代の浜松城主の中から、老中に5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行に4人(兼任含む)が登用され要職に就いています。
ですから、「浜松城主になれば幕府で出世する可能性が高くなる」いわゆる「浜松城は出世城」といわれるようになったわけです。
特に有名な城主は「天保の改革」で知られる水野忠邦で、幕府の要職に就きたいと願い、家来に反対されながらも自ら進んで浜松城主になったといわれています。
なんと、この水野忠邦は、大坂城代、京都所司代と順調に昇進し、老中首座に上り詰めました。
浜松生まれの松島十湖(まつしまじっこ)の句
「はま城は 出世城なり 初松魚(はつがつお)」(松島十湖)の句が残されています。
待ちに待った初ガツオの季節がやってくるうれしさと、歴代の浜松城主が活きの良い初ガツオのように出世していった様子を重ね合わせて詠んだ句だそうです。
松島十湖は、明治、大正時代に第二の芭蕉といわれ、全国に多くの門弟を持った俳人です。
1849年(嘉永2年)3月17日に豊田郡中善地村(現在の浜松市東区豊西町)の昔からの農家の家に生まれ、6歳から撰要寺で教育を受け15歳から俳句に興味を持ち、当時遠州で有名な俳人だった栩木夷白(とちぎいはく)の弟子となり雅号を十湖としたそうです。
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鎧掛松
☑場所 浜松市中区
浜松城公園の南、市役所の西側に、鎧掛松(浜松市中区元城町)があります。
説明板には、徳川家康が三方ヶ原の戦いから城に帰り、大きな松の木陰で休んだとされ、そのときに鎧を脱いでその松に掛けたとの伝承が残ることから、鎧掛松と呼ばれている。と書かれています。
「この松は1981年(昭和56年)に元城町の人々の手により植樹された三代目であり、初代は浜松城内の堀のそばにあったとされます」と書かれています。
三方ヶ原の戦いは、真冬の雪が降る中で戦われたといわれています。武田信玄に大敗した家康は家来の助けもあり、何とか戦場を抜け出しました。
逃げ帰る途中でも、家康の身代わりに何人もの家臣が討ち死にしました。家康は命からがら駆け戻ったのです。
心身ともに疲れ果てやっとの思いで浜松城の城門をくぐることができた家康は、鎧を松に掛け、そこに座り込み何を思ったのでしょう。
城の近くに残されたゆかりある地名
城の近くには、三方ヶ原の戦いなどの負け戦で戻った家康にまつわる地名がいくつも残っています。
・馬冷(うまひやし)
鎧掛松から100mほど西に、松城緑地(まちじょうりょくち)という小さな公園(浜松市中区松城町)があります。
この公園には以前「馬冷(うまひやし)」と書かれた標識が立っていました。江戸時代の地図を見ると、この辺りに二つの池があったことがわかります。
武将を乗せ、戦場を駆け抜けてきた馬の疲労も武将以上に大変なものだったことでしょう。家康はそんな疲れた愛馬をいたわるために、清水の流れを止めて造った池で「馬の体を冷やしてやれ」と家臣に命じたそうです。
こうしてできた「馬冷」の地名は、今でも松城町の字として残っています。
・下垂町(しもだれまち)
市役所の東側に、尾張町があります。この町は大正時代の終わりごろまで「下垂町(しもだれまち)」といわれていました。
戦いに敗れた家康が命からがら城に戻る際、今の尾張町の辺りを通ったときのことです。疲れ果てた家康の兜(かぶと)の緒が、解けかけて垂れていたそうです。
気づいた家来が「御殿様、兜の緒が垂れております」と声を掛けましたが、家康は直すこともなく、城に戻ったとか。
そんな出来事から、この辺りは「下垂町」と名付けられました。由来のある町名ですが、下垂という言葉があまり良くないのではという声が聞かれるようになり、尾張町にしたといわれています。
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まとめ
【出世の街浜松】は、家康ゆかりの地があちこちに残されています。
中でも、29歳から45歳までの時を浜松城で過ごした徳川家康は、この17年間で長く続く戦国の世を終わらせ、260年続く平和な時代の礎を築いたといっても過言ではないかもしれないのです。
今回は出世の街浜松で最も家康にゆかりの深い『出世城の浜松城』の歴史から、アクセスから駐車場情報までをご紹介しました。
浜松城は、熊本城や犬山城ほどのお城としての魅力はないかもしれません。ただ、戦の世を終わらせ天下を統一、江戸幕府を開いてからの260年以上の平和な時代の礎を築いた徳川家康の築いた城と思って見ると、また違った魅力あふれる城と感じるのではないでしょうか?
NHK大河ドラマ『どうする家康」を見ることで、若き日の徳川家康公が、今川、武田、織田などのの巨大な戦国大名に囲まれながらも、戦い生き延びて天下取りの礎を築いた遠州の地、家康ゆかりの地を巡ってみたくなりませんか?
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。