🕖2022/10/26 🔄2023/04/03
こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今年の大河ドラマ『どうする家康』放送前の準備といいますか、地元浜松に家康ゆかりの地が多い影響もあり、昨年から必死で戦国時代の小説などを読み漁っているこのごろです。
徳川家康の唯一の敗戦といわれる「三方ヶ原の戦い」から450年という年月が流れた昨年。
平和に暮らしているこの世の中は、コロナや異常気象、首相暗殺といろいろなことがあるとはいえ、戦(いくさ)に駆り出され数秒で槍で突き上げられるような戦国時代の生活に比べたら、どれだけ安穏と暮らせているかを実感しています。
平和な世の中が一番だと思いながらも、小説から武将たちの並々ならぬ戦略や戦法、忍びによる間諜網の凄さを知るたびにワクワクしてしまう自分が、なぜアラ還世代になるまで時代劇や時代小説などを通じて戦国時代に興味を持てなかったのかが非常に悔やまれます。
ということで、今回は「三方ヶ原の戦い」は、広い三方原台地のどこで繰り広げられたかを具体的に調べていきたいと思います。
三方ヶ原の戦い-決戦地-
さっそく結論から言ってしまいましょう。地元に残る伝承や書物、歴史研究家などによって考えられる「三方ヶ原の戦い」の決戦地は下記の3つの説があるそうです。
①現在の浜松市中区小豆餅付近の『小豆餅説』
②現在の浜松市北区細江町中川の『祝田坂説』
③現在の浜松北区大山町『本坂通・大山説』
徳川家康が29歳の時の負け戦『三方ヶ原の戦い』の決戦地は、なんとなく浜松の伝承に残る「犀ヶ崖」や現在も地名として残っている、「小豆餅」や「銭取」「布橋」などから現在の浜松市中区小豆餅辺りの高台で見通しの良い場所と思い込んでいました。
ですが、浜松や磐田・袋井などに残る伝承から想像するに、三方ヶ原の戦いの負け戦から浜松城への敗走ルートにしてはいささか範囲が広すぎるのでは?と考えていたところ、地元のケーブルテレビで放送されている「家康がいた街・浜松三方ヶ原の戦い」(10/1~10/31月~金|21:30)という家康への感心が一気に高まりそうな番組でほぼ解決したのです。
三方ヶ原の戦いとは?
上洛の途上にあった信玄率いる武田軍は、1,200人の兵力しかなかったにもかかわらず降伏を拒否した二俣城を攻撃しました。12月19日助命を条件に開城・降伏した二俣城をあとに遠州平野内を西に進みます。
これは浜名湖の庄内半島の北部にある堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を標的とする進軍だったようです。
諸説ありますが、最近は当時の堀江城付近(現在の西区村櫛町付近や湖西市新居町)には船関があり、往来する船の接岸が義務付けられるなど、水運の要塞であり、海運を持たない甲斐国にとっては喉から手が出るほど手に入れたい領地だったこと。
そのため、海沿いの東海道だけでなく、城近くの本坂通(姫街道)や鳳来寺道(金指街道)などの陸路を抑える拠点にも兵を置き、三方原に進軍してきたと考えられているようです。
逆に家康は、堀江城を奪われれば、武田の海賊衆により遠州灘の制海権が危うくなり、愛知県三河方面からの補給ルートが封鎖される恐れがあることを察したのではないか、そして、籠城して戦う予定だったものを、一部の家臣の反対を押し切り三方ヶ原から武田軍を背後から襲う攻撃策に変更し、二俣城の戦いに間に合わなかった織田からの援軍を率いて浜松城から追撃に出たのでは?というのが新説により考察されたコースです。
ですから、これまでの「わしの居る浜松城を無視して素通りするのはけしからん」と思わせるコースを進む武田軍に、家康はカッとなり自身のメンツのため、家臣の反対を押し切り出陣した。というわけではない!というパターンになります。が、まだはっきりしてはいないようです。
ともあれ、夕刻には三方ヶ原台地に到着した徳川軍を、武田軍は魚鱗の陣をとって待ち伏せていたため、背後から襲う計画だったのに、武田の大軍が目の前に現れてびっくりした家康は、まだ戦経験も少なく若かったため鶴翼の陣をとって戦闘が始まってしまったのです。
しかし、武田軍に対し兵力・戦術面ともに劣る徳川軍に勝ち目はなく、わずか一刻(約2時間)の戦闘で痛恨の敗北を喫しました。
戦いがあった場所については、三方原台地であるということ以外、詳しいことはわかっていません。ですが、1984年(昭和59年)に、その歴史を長く伝えようと「三方原歴史保存会有志」の手によって、三方原の1角である北区根洗町に建てられたのが上の写真です。
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問題はこの戦闘が始まった場所なのです。まずは『小豆餅説』から始めましょう。
①現在の浜松市中区小豆餅付近の『小豆餅説』
旧参謀本部刊行「日本戦史三方原役」によると、平地から三方原台地に続く勾配の強い「大菩薩の坂」(現在の浜松市東区有玉西町/武田軍ルートの1つ)を進軍し、大菩薩山に陣を構えたといわれています。
現在『大菩薩坂』の看板があるところから旧姫街道の大菩薩の坂を上ると、『最古の道標』と書かれた場所に出ます。ここから拡張された広い道路を上がっていくと、一里塚橋交差点辺りまで(上記の地図にある現在の浜松市中区小豆餅付近)出ます。
ここまでくると、三方原の台地の一番北側の部分に出たことになり、浜松城から出陣した徳川軍を魚鱗の陣をとって待ち伏せする武田軍にとって見晴らしの良い絶好の場所になります。
三方ヶ原の戦いでは、武田軍は武田軍ルートの1つ「大菩薩の坂」を上って三方原台地に出たと考えて①の説があります。
②現在の浜松市西区中川町の『祝田坂説』
昭和33年発行 高柳光寿著書『武田信玄の戦略(三方原の戦い)によると、江戸時代大久保忠教(彦左衛門)の『三河物語』の中に”家康 浜松より 3里において 討ち出されたまひく”とあるそうです。
これにより「浜松城より3里」の場所がこの祝田坂付近になることから、この②の説があります。
③現在の浜松北区大山町『本坂通・大山説』
浜松市三方原町の歴史研究家鈴木千代松氏(平成10年没)平成7年度著書『三方原の戦いの研究』、三方原歴史文化保存会の鈴木康之氏によると、大山には徳川・武田両軍の本陣跡があるといいます。
畑の中には大正時代中頃まで「おんころ様」という卒塔婆塔が大きな松の下にあったそうですが、この卒塔婆塔の建立者は不明とのこと。
大正12年の関東大震災の余波で倒壊したようです。が、実は細江町の中川寺(ちゅうせんじ)には、今も「おんころ様」の石碑が大切に保管されているというのです。
『浜松御在城記』※によると次のような記述があるそうです。
此合戦ノ時 甲州方(武田軍)小藩尾張重定四男
又八郎昌定 討死 三方原に塚を築く
卒塔婆を立候と信玄全書に見たり
武田軍の家臣が「ここに卒塔婆を建ててくれ」と遺言したため、武田軍が建てたという意味です。これらから「おんころ様」は、武田軍の家臣の墓である可能性が高いということになります。
さらに『精鎮塚跡』の看板が、浜松市中区花川町178-1に立っています。現在ここはあたり一面畑が広がる場所で、徳川本陣が置かれた場所では?とのことです。
三方原で最も古い本乗寺(浜松市北区三方原町637)には、『精鎮塚』の石碑があります。大正時代の青島淳雄住職が『精鎮塚跡』の看板がある徳川本陣跡といわれる場所から、この本乗寺に石碑を移したようです。
なぜ?青島淳雄住職が石碑を移したかというと、三方原の戦いの時の本陣跡の徳川軍の戦死者の墓(地元の伝承)として『精鎮塚』が残されていたからです。
実はこの合戦で、徳川軍の長谷川藤九郎英一19歳と長谷川紀伊守正長32歳が戦死しており、この二人は本乗寺の青島住職の祖先だったそうなんです。
本乗寺の4代目青島淳雄住職は、祖先の徳川軍戦死者を弔うため『精鎮塚』を移したのではないでしょうか?(大正時代の三方原台地の開発で場所を移す必要があったともいわれています)本乗寺では代々徳川軍・武田軍の戦死者を弔うため、毎年盆供養を行っています。
戦があったのは事実ですし、この2つの塚以外には遺構は見つかっていないのです。こういった徳川・武田両軍の本陣跡が大山にあったという伝承により、③の説があります。
※『浜松御在城記』は17世紀後半三方原の戦いから110年後、徳川家康の遠江国平定や武田氏との戦いを描いた作品です。内閣文庫に所蔵されており、内閣文庫本を底本とした翻刻テキストが『浜松市史 史料編』1に収録されているそうです。著者の名前は明確ではないのですが、浜松城主青山忠雄の家臣永井随庵が編纂したといわれています。
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三方ヶ原台地に登ったといわれる3つの坂
ここまで解説してきました通り、三方ヶ原台地はかなり広範囲のため、実際に『三方ヶ原の戦い』が行われたのはココだ!というピンポイントで示せる場所は不明で、おそらくこの辺だろうと思われる場所が上記の3地点でした。
さらに、この戦場になったであろう三方ヶ原台地の戦場まで武田軍が進軍したルートも実は、先ほど説明した『大菩薩の坂』だけではないようです。他にも『欠下坂』、さらに『宇藤坂』と、全部で3つの坂を登った可能性があると伝わります。まずは、『大菩薩坂』から実際に登ってみました。
①大菩薩坂ルート
先ほど、合戦が行われた場所としてあげた『小豆餅説』は、平地から三方原台地に出るため信玄が上がったのは「大菩薩坂」と推察しての決戦地になります、とお伝えしました。
確かに武田軍は三方原の戦いの時「武田軍は大菩薩から三方原台地へ上がった。」という記録が残っているそうです。
現在の旧姫街道の狭く薄暗い大菩薩坂を上ると、「最古の道標」と書かれた場所に出ます。浜松市域の姫街道沿いに残る道標の中では最も古いもので1832年(天保3年)の建立です。かつてはここが姫街道と庄内道の分岐点で、ここから姫街道の二重坂を上がると三方原台地でした。
ここからは旧道が残されていなようなので、拡張された広い道路を上がっていくと、一里塚橋交差点辺りまで(上記の地図にある現在の浜松市中区小豆餅付近)出ます。
ここまでくると、合戦の場として武田軍が待ち伏せするのにピッタリと思われる広い場所が開けます。
ですが、大菩薩には太平洋戦争まで、三方原台地へ上がる坂はなかったといいます。そこで有力視される”この時武田軍が行軍した道”は、【欠下坂ルート】ともいわれています。
②欠下坂ルート
『欠下坂ルート』とは、欠下城の南側から台地に上がり、追分までのルートを指します。欠下の旧道坂を上ると、八町歩という部落があり、そんな事から八町歩の人々は信玄が通ったこの道を『信玄街道』と呼んだそうです。
『信玄街道』は初生小学校より南へ200mの場所にあり、有玉西町付近の欠下坂から三方原台地へ上がり、追分方面に向かう道で今も残っています。『信玄街道』の碑は橋本工務店の横にあります。
現在は常葉大学有玉グラウンドの脇を通っています。全長180mほどの結構きつい坂で、上がりきるとそこには三方原台地が広がっています。実際に歩いてみたところ、やはりこのルートもかなりの急な坂道でした。
欠下城の詳細は不明ですが、現在は工場の前に『欠下城跡』の木碑が立っています。こんもりとした森になっており、かつては城の遺構として南側には空堀や土橋を確認できたそうですが、見つけられませんでした。
東海道と同様に、東西交通の主要道の本坂道を扼する(やくする/要所を押さえる)位置にあったため、歴史的にさまざまな事件が起きているようです。
1514年(永世11年)の朝比奈氏が大河内氏らと「大菩薩」と呼ばれるこの山のあたりで戦ったと記録が残っているそうです。さらに、説明看板によると、1572年(元亀3年)の武田信玄の遠江進軍の拠点となった場所で、武田信玄が三方ヶ原の戦いに臨んだ際には、天竜川を渡り、城跡南側の大菩薩坂をのぼり、大菩薩に陣を構えたようです。
しかも、それ以前にも今川家と井伊家の攻防で何度も舞台となっていたとされています。
永正年間の遠江は尾張を拠点とした斯波(しば)氏と駿河を拠点とした今川氏による勢力争いがつづいていました。1533年(永正10年)、斯波方に味方していた井伊領の深嶽(三岳)城を攻めるために、今川氏親軍は市野砦を経由してこの山に布陣しました。この戦いでは今川方が勝利して遠江を手中にし、後に井伊家は今川方に仕えることになりました。浜名湖北回りの東海道(姫街道)は、戦国時代を通じて軍事上の重要な交通路でした。
1563年(永禄6年)、今川氏真の命で社山(現在の磐田市)に向けて出陣した井伊直平は、この付近の有玉旗屋(畑屋)宿(現在の有玉南町)で毒殺されたと井伊家の記録にあります。幼少の直政以外に光景の男子を失って存亡の危機を迎えた井伊家は直虎を女性ながら後継しました。
と書かれています。以前放送された大河ドラマ『おんな城主直虎』で登場したお話しの舞台だったとは、たった今まで知らなかったことが悔やまれます。
有玉旗屋(畑屋)宿(現在の有玉南町)で毒殺された井伊直平とは、井伊直虎にとっても、徳川四天王の一人井伊直政にとって祖祖父に当たるみたいです。
上の3つの写真からもわかるように、欠下が地名に残されいる公園、歩道橋、橋などが現存しています。これまでもウォーキングで何度も通り過ぎていたこの場所ですが、馬込川で遊ぶ鴨ばかり見ていたため、このような歴史的に重要な場所なんて気付きもしませんでした。
今回『徳川家康』に興味を持ったことで、ただのウォーキングコースだった場所も大きな戦があったり、歴史的な陰謀や攻略が張り巡らせた場所だったことに感動しています。
③宇藤坂ルート
そして、さらにもうひとつ現在の姫街道沿いにある『宇藤坂』の看板付近から三方原台地まで登ったという説もあり、はっきりとはわかりません。
まとめ
先日参加させていただいたYes!家康プロジェクト 浜松 特別講演会でチーフプロデューサーさんもお話されていた中で、「三方原台地は広いけど実際にどこで決戦が行われたかはわからない」という疑問をあげていらっしゃいました。
地元民としても、そういえばはっきり「ココです」と聞いたこともなかったな。と思いまして、今回はあの家康が大敗し命からがら浜松城に逃げ帰った『三方ヶ原の戦い』は実際にどこが決戦地だったのかを調べてみました。
現在の浜松市中区小豆餅付近の『小豆餅説』、現在の浜松市北区細江町中川の『祝田坂説』、現在の浜松北区大山町『本坂通・大山説』の3つがあるとわかったので、寒くなる前に一度ウォーキングしながら訪ねてみようと思っていました。
けっきょく、2023年が明けて清々しい気分でウォーキングがてらですが、小豆餅付近を「ここが大きな戦があった場所」だったことや、「この坂を登っていたのか」などと、想像しながら歩くことができました。
家康が敗走中に食べたという「小豆餅」も、現代バージョンですが食してみました。なかなかあっさりとした味で、これはいくつも食べられそうだ!と実感したところです。しっかりお代は払ってきましたよ。
ということで、今回はこのへんでおしまい。最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。