sannigoのアラ還日記

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家康と武田が遠江掌握をかけ攻防を繰り広げた『高天神城』とは?ハイキングコースも!

🕖2022/11/05    🔄2023/05/16

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

長きにわたり争いの絶えなかった戦国の世、天下取りの夢を果たし江戸幕府を開いたのが徳川家康です。

 

遠州地方は若き家康がいくつもの苦難や試練を乗り越え、天下取りの礎を築いた土地です。家康はこの地で生涯最大の危機といわれる『三方ヶ原の戦い』などの苦難を経て、多くのことを学び、天下取りの第一歩を歩みはじめます。

 

今回は、戦国の世の遠江では「高天神を制する者は遠江を制する」といわれ、高天神を落とせば遠江全域を掌握できるという言い伝えが残るほど重要な城とされていた『高天神城』を訪ねてみました。

 

遠州灘にほど近い掛川の南部にあるうっそうとした杉や檜に覆われた高天神城跡には、徳川と武田との間で約10年間も繰り広げられた激しい攻防戦の跡やさまざまな伝承が残っています。

 

徳川家康がこの遠州でいかに苦労したかを知るためにも、戦国ロマンを抱えたこの城跡を訪ねてみてはいかがでしょう。

 

のどかな田園風景の中に立つ「高天神城跡」の看板[写真AC]

 

 

 

《家康と武田が取り合った高天神城》

 

高天神城跡

 

高天神城は、小笠山から南東にのびる尾根の先端、標高132mの鶴翁山(かくおうさん)を中心に造られた山城です。被害側の田園地帯から南側の遠州灘まで見渡すことができる、小笠山の北を通る東海道を牽制できる立地条件にある重要な城でした。

 

激しい攻防戦から450年あまり、高天神城跡は現在往時の遺構をよく残している貴重な城跡として国の史跡に指定されています。

 

 

 

場所は静岡県掛川市上土方嶺向3136

 

アクセス

 

電車・バス:JR「掛川駅」よりバスで約40分
      JR「掛川駅」よりタクシーで約20分

車:東名「掛川IC」より約15分

駐車場:南口(追手門側)約10台・WCあり
    北口(搦手門側/からめてもがわ)約100台・WCあり  

 

掛川城から南へ約10km、徳川と武田の両勢力の境界地帯にあたる高天神城跡。河川や尾根、断崖絶壁に四方を囲まれ「難攻不落」といわれ、東海道を牽制できる立地から、駿河・甲斐の武田信玄・勝頼と三河・遠江の徳川家康により数々の攻防が繰り広げられました。

 

1574年(天正2年)に武田勝頼により攻め落とされますが、ついに1581年(天正9年)には、家康が攻め落とし奪還します。落城とともに廃城となり、高天神城は歴史の表舞台からは姿を消しました。

 

高天神城は、遠江国城東郡土方(ひじかた)にあった、小規模ながら山城として堅固さを誇り、戦国の世の遠江では「高天神を制する者は遠江を制する」といわれ、高天神を落とせば遠江全域を掌握できるという言い伝えが残るほど重要な城とされていました。

 

「高天神城を制するものは遠江を制す」といわれる高天神城は、小笠山から南東に伸びる尾根の先端、標高132mの鶴翁山(かくおうさん)に築かれた山城です。周りが急な斜面になっているため東峰・西峰を中心に城郭が築かれ、東には、本丸、御前曲輪、三の丸、西側には二の丸、西の丸などが配置されていました。

 

乱世ならではの城といわれるのは、山自体が急斜面で効果的な曲輪が配置され、石垣はなく、多くの土塁が曲輪の周囲を取り囲み、掘割も設けられていた非常に実践的なお城だったからでしょう。

 

このように山の地形を巧みに活かした高天神城は”難攻不落の名城”と称され、先日地上波で放送された『最強の城BEST20』というお城の番組でも第9位に選ばれています。

 

現在もその複雑な城の形状や険しい地形を見ることができます。城からは東に広がる田園地帯から南の遠州灘までを見渡せ、小笠山の北を通る東海道を牽制できる立地にありました。


また、遠州灘に面した河口には浜野浦という港があり、中世には水軍の拠点として知られていました。

 

\家康とお城に興味があるなら/

家康と家臣団の城 (角川選書 652)

 

高天神城の歴史

 

室町時代、今川氏が守護大名から戦国大名に成長する過程で築かれたとする説が有力といわれています。今川義元の先祖にあたる今川範国(いまがわのりくに)が三河から入りやがて駿遠に城を築いていきます。この今川範国の命を受けた家臣が高天神城を築いたとされます。

 

室町時代から駿河(今の静岡県中部)と遠江(今の静岡県西部)守護の今川氏の家臣が城主を務めていました。今川氏の滅亡後高天神城は徳川家康の持ち城となり、小笠原氏助(長忠)が引き続き城主となり、家康は遠江をほぼ平定したことになります。

 

この後、約10年の長期間にわたり、高天神城を巡って徳川氏と武田氏の激しい攻防が繰り広げられます。

 

遠江侵攻を企てた武田信玄は、1571年(元亀2年)、2万5千の大軍を率いて高天神城攻めに取りかかりました。小競り合いはあったものの、難攻不落の城であるのを見た信玄は力攻めを諦め、その日に甲斐(今の山梨県)に戻ったといわれます。

 

1572年(元亀3年)、武田氏の西上作戦で遠江侵攻において、高天神城と浜松城を結ぶ遠江の要所二俣城が陥落し、その後、歴史上有名な『三方ヶ原の戦い』が展開され、徳川は武田に大敗します。が、この時点では高天神城は徳川氏の拠点として機能しています。

 

武田が高天神城を攻めたのは、その2年後のことで、1574年(天正2年)武田信玄死後、後をついだ勝頼は、2万5千の大軍を率いて遠江支配の要としての高天神城を攻撃しました。

 

時の城主小笠原氏の味方は1,000であったため、武田軍襲来とともに徳川家康に援軍を要請、家康は徳川家の総兵力が1万程度に過ぎないことから。織田信長に援軍を要請しました。

 

信長はただちに兵をあげ高天神城へ向かうも間に合わず、浜名湖の今切付近で高天神落城の知らせが入り引き返したといわれています。

 

勝頼軍の猛攻が繰り返され、約2ヶ月後に開城しました。城は勝頼の手に落ちましたが、城内の武士たちは勝頼か家康のどちらに付くか判断が分かれたようです。開城に反対した家康の家臣は城内の牢に閉じ込められました。

 

高天神城を奪われた徳川家康は、高天神城を取り戻すため、抑えとして馬伏塚城を改修し横須賀城を築城、その後6つ(三井山砦、中村砦、獅子ヶ鼻砦、火ヶ峰、龍ヶ坂砦、小笠山砦)の砦を築きました。

 

高天神城が武田の城となった翌年の1575年(天正3年)に「長篠の戦い」があり、織田・徳川連合軍に武田が大敗したため、勝頼は高天神城を遠江の重要な拠点としての守りを固めていきました。

 

一方勝利した家康は北遠の城を次々と取り返し、攻勢を強めていきました。1580年(天正8年)家康は、高天神城攻略のため城を包囲しました。が、城は容易には落ちず兵糧攻めをおこない、兵糧が尽きた翌年ついに武田が打って出て城兵はほぼ討死しました。

 

家康の家臣として波乱の生涯をおくった松平家忠が遺した「家忠日記」には、天下統一への道を切り開いた信長、秀吉、家康をはじめ、諸大名の動きや当時の武士の姿が詳しく記録されていました。

 

中には、高天神落城の記録も残されており、”3月22日午後7時ごろ、討ち取った城兵の数は全部で730人余り”と記録されており、死者で堀が埋まったという壮絶な戦いによって高天神城は再び徳川の城となりました。

 

1581年(天正9年)数年の籠城を経て万策尽きると、900人の兵は城から討って出て戦死しました。死者730人余りが堀に埋まったと伝えられています。

 

落城翌日、徳川軍によって残党を捜索する山狩りが行われ、その後浜松に戻ったと「家忠日記」に記録されているように、家康は城内を検視し、高天神城を焼き払って浜松に戻りました。残された家康の家臣はこの時助け出されました。

 

高天神落城は徳川氏の遠江における羅権を確実なものにし、武田氏が救援を行う余力がないことが誰の目にも明らかになりました。

 

戦国の世には全国に何万もの城が築かれ、籠城戦も何度も行われています。が、城兵が全滅した城はほとんどないそうです。ですから、この高天神城は、壮絶な戦いの後、全滅、廃城になった数少ない城の一つだそうです。

 

高天神城は、遠江支配の鍵を握る一大拠点として良好な遺構が残っている国指定史跡です。訪ねてみれば、きっと「兵(つわもの)どもが夢の跡」を感じることができるでしょう。

 

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現在の高天神城跡

 

曲輪の構造や土塁・堀割をうかがい知ることができるように史跡としてよく整備され、現在はハイキングコースを楽しむことができます。

 

太平洋戦争前の時期に模擬天守が建造されたこともあったようですが、落雷で焼失したため現在はコンクリートの土台のみが残っています。ですが、戦国時代はもちろん天守のない城でした。

 

では、「搦手門(からめてもん)」側にある北口駐車場(約100台駐車可)に車を停めて、小笠原長忠と家康公からの「我々が厳しい戦いをした当地を訪ねてくださり『ありがとう』通路が不安定なため、転んで怪我をしないよう注意され見学してください。」という看板を励みに、さっそく鳥居をくぐって「高天神城跡」を散策していきましょう。

 

左が大きな高天神城想像図、右がありがたい励ましの言葉

 

◯搦手門(からめてもん)跡

 

北側の入口からすぐのところに「搦手門跡」があります

 

高天神城の北側の入口「搦手門」です。1571年(元亀2年)の信玄の高天神城攻めの時には、250人が守備したところと伝わります。

 

◯三日月井戸

 

階段を登っていくと、左側に「三日月井戸」があります。

 

「三日月井戸」は、高天神城内にある三日月状の井戸で、城の守りには欠かせない貴重な飲料水だったと書かれた史料もあれば、ここには「飲料水としては使われていなかった」という看板もあります。

 

「三日月井戸」の碑を過ぎて、しばらくして「的場曲輪跡」に出ます

 

現在は地層の断面から水が染み出して溜まっている感じですが、水はたっぷりと溜まっており、なぜかちょっと大きめな金魚が生息しています。ボランティアの方とかがえさをあげているんでしょうか?けっこう元気に泳ぎ回っていましたよ。

 

◯大河内石窟

 

さらに進むと、左側に先ほど登場した”1574年(天正2年)の開城時に降伏しなかった大河内源三郎政局(おおこうじげんざぶろうまさちか)が7年もの間幽閉された”と伝わる「石窟入口」の看板が出てきます。

 

大河内石窟の看板通りに足元が悪い道を進みます

 

案内通りに、木の根っこなどが多く足元が悪い道を進むと、そこには「大河内石窟」が残されています。

 

大河内源三郎政局が7年もの間幽閉された”と伝わる「大河内石窟」


ここが、1574年(天正2年)の開城時に、最後まで武田勝頼に降伏しなかった大河内源三郎政局が7年に渡って幽閉された石窟です。大河内源三郎政局は三河・遠江国主、徳川家康の家臣だった男です。

 

家康が三河・遠江の二国の国主となって浜松に拠点を移した際に、遠江と駿河の境に位置する高天神城の城主・小笠原氏興は今川を捨て、徳川に味方しました。

 

1574年(天正2年)5月、信玄の後を継いだ武田勝頼が2万5千の兵を率いて高天神城に攻め込んだ際、高天神城の城主小笠原氏興の子・小笠原与八郎はすぐさま浜松城の家康に援軍を要請。家康は、手勢が9千足らずでとても武田と戦えるものでなかったため、盟友の織田信長に援軍を求めたのです。

 

この時に遣わされた軍監が大河内源三郎政局でした。6月18日城主小笠原与八郎が武田に降伏し城を開け渡してしまい、高天神城は武田の手に落ちました。

 

大河内源三郎政局は体を張って最後まで武田に降伏と開城に反対したのですが、与八郎の意思は変わらず、とうとう源三郎を高天神城の地下の岩牢に幽閉してしまったのです。

 

一方、勝頼は浜松城を落とすことをあきらめ、やむを得ず家臣の横田伊松を城代として甲府に引き上げてしまったため、源三郎は幽閉された時からずっと高天神城の岩牢で苦渋の日々をおくることになったのです。

 

そして迎えた1581年(天正9年)、兵糧も尽き勝頼からの援軍も来ないため「開城か城を枕に決戦するか」の選択を迫られた高天神城主岡部丹後守は、7年も石牢に幽閉されていた大河内源三郎政局に開城の使者を頼みます。が、「従わねば斬る」と抜刀されても「斬りたければ斬れ」と断ったため、今度は苦渋の拷問をしかけます。それでも首を縦に振らない源三郎。

 

源三郎を使者に使っての開城をあきらめた岡部は、城内の残兵を率いていよいよ討って出たのですが、大久保七郎右衛門忠世の実弟大久保彦左衛門と大久保家の家臣本多主水に討ち取られました。

 

徳川方が高天神城の城内巡検の際に、岩牢の中に一人の囚われ人を発見します。すぐに謁見した家康の前に現れた老武者こそ大河内源三郎政局だったのです。

 

天正9年高天神城が再び家康の手に落ちた際、救出された源三郎政局を家康は忠義の範として評したと伝わります。

 

参照元:岩牢に八年以上も幽閉された男・大河内源三郎: レキドラ!〜歴史はドラマの1ページ〜

 

石が詰められていて中は見えませんが、それほど広くはなさそう。しかもジメッとした感じで、さぞや辛かったことでしょう。7年間もよくぞ生き延びてくれました。家康に助け出された時はどれだけ弱っていたかを思うと、戦国の世はなんとも恐るべし!

 

◯本曲輪跡

 

本曲輪跡はちょっとした広さがある平面

 

「本丸」は、高天神城東嶺の最高所に位置し、高天神城内で最も広い面積の曲輪であり、城内でも最も最大規模の建物が見つかっていることから、城主やそれに近い身分の人びとが生活していたと考えられています。

 

西側には土塁が作られているものの、東側はまさに絶壁!急斜面になっているため、人の手による防御施設のない天然の要塞です。まさに自然地形を活かした守りを固めてるといえます。

 

本丸跡は2003年(平成15年度)に発掘調査が行われ、調査の結果、本丸に建物の跡と土塁があることが判明しています。建物は堀立柱建物跡と礎石建物跡の2つが本丸北西隅から見つかっており、籠城に備えて食料や武器などの備蓄を目的とした倉庫として使われていたと考えられています。

 

そして、本曲輪から見下ろす景色には、こんもりとした高天神城跡六砦の一つ「火ヶ峰砦」が見えます。

 

本曲輪からは茶畑の中にある高天神城跡六砦の一つ「火ヶ峰砦」が見えます

 

◯御前曲輪跡

 

御前曲輪跡で記念写真を!2層の模擬天守跡も残っています


御前曲輪跡には、戦国ロマンの里の看板と、小笠原与八郎長忠と奥方を形どった顔抜きがあります。階段を一生懸命上ってきた思い出にぜひ!

 

2層の模擬天守跡

 

昭和9年に地元出身の軍医少将が、故郷を偲び2層の模擬天守を建てられました。残念なことに昭和20年落雷によって焼失してしまいます。ですが、天守跡は残っています。

 

”一説には陸軍が駐屯していたんで目につきやすい事から自ら爆破させたとも・・・?”と案内板には書かれています。

 

◯元天神社

 

本曲輪にある「元天神社」


毎年3月の最終日曜日に神様が里帰りをする神事が行わているという「元天神社」。遷座したのは、江戸時代の中頃と言われているそうです。

 

まだ、「高天神社」にお参りしていませんでした。本曲輪から「高天神社」に移動中に大きな『高天神城跡略図』と『高天神城年表』の案内板がありました。わかりやすい!

 

いよいよ「高天神社」を目指します。途中にあった「高天神城跡」の略図と年表

 

◯高天神社

 

また階段!と思ったけどそれほどではなくてホッとしました

 

場所は掛川市上土方嶺向2650

 

戦国時代には高天神山に高天神城が築かれていたため、高天神社は城が廃城となるまで高天神城の守護を担う神社でした。約290年前に御前曲輪跡から現在の場所に移されました。

 

江戸時代に入り高天神城は廃城となり、高天神山には戦乱の犠牲者を弔う慰霊碑が建立されましたが、高天神社はそのまま高天神山に残され、地域の住民の信仰を集めました。

 

階段を上って鳥居をくぐる前に、大事な「かな井戸」登場です。

 

◯かな井戸・井戸曲輪跡

 

かな井戸と案内板

 

きれいな形でのこっている「かな井戸」

 

高天神城は、大きく東西2つの嶺がつながって大きな城域を形づくる「一城別郭」と呼ばれる城です。その東西の嶺をつないでいるのがこの「井戸曲輪」です。

 

現在も「かな井戸」と呼ばれる大きな井戸が、高天神の中心部に残っています。埋まってはいるもののきれいな形で残されています。

 

高天神城は水源が乏しいため深井戸を掘って籠城中の飲み水を確保し、1574年(天正2年)の勝頼率いる武田軍の猛進を必死の防戦に務めた場所と伝わります。

 

この付近は、東西の曲輪の中央で馬の背にあたるところで、激しい戦いが行われた場所といわれています。かな井戸の「かな」は鉄分が含まれているという意味だとか・・・?

 

鳥居をくぐって、さあ「高天神社」をお参りです

 

「高天神社」の碑と扁額

 

西の丸跡

 

西の丸跡

 

西の丸は岡部丹波守真幸が守備していた時期があり、丹波曲輪とも呼ばれているそうです。

 

堀切

 

堀切

 

敵の侵入を防ぐため尾根を断ち切る堀のことを堀切といいます。

 

続いて景色のすばらしい「馬場平」です。

 

◯馬場平

 

馬場平からの景色は遠州灘まで見えて絶景!

 

かつては城の南側を見張るための番屋があったところと考えられています。現在は展望台があり、遠州灘が一望できる場所です。


「馬場」とは番場のあて字で、見張番所があったと思われる場所です。昔はこのようにあて字が多かったといいます。山の高い所を馬場と言われることが少なからずあったようです。

 

◯甚五郎抜け道

 

甚五郎の抜け道はここから

 

大東町教育委員会の看板によると、天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告するため、馬を馳せて、是より四方約1,000mの尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去りました。とのこと。

この難所を別名「犬戻り猿戻り」というそうです。

 

高天神城西峰に残る曲輪群

 

高天神城西峰には、尾根の北側先端から井楼曲輪(せいろうやぐら)、 堂の尾曲輪、袖曲輪、三の丸といった曲輪が一列に並ぶようにして配置されています。それぞれの曲輪は堀切、土塁、竪堀(たてぼり)により分断され、 曲輪の西側には100mにも及ぶ横堀と土塁を築くことで守りを固めています。 

 

こうした防御施設が存在することにより、 西側から侵入した攻め手は西峰の曲輪に上がることができません。 最終的に攻め手は、 横堀を通路として使わざるを得ない状況におちいります。

 

一方で、 曲輪の上にいる守り手は攻め手側の頭上を攻撃することができるため、的を絞って迎え撃つことが可能になりました。

 

西峰は本丸などの曲輪がある東峰と違い、西側の斜面が緩やかとなっています。1754年(天正2年)に高天神城を攻略した武田勝頼が、地形の弱点を克服するため、 西峰の大改修を行ったと考えられています。

 

◯堂の尾曲輪跡

 

高天神城は、2度の大きな戦いで落城しています。そのどちらも堂の尾曲輪が攻め落とされました。比較的傾斜が緩やかで高天神城の弱点とも言える場所で、周囲には堀切・横堀などの防御設備が施されています。

 

堂の尾曲輪は発掘調査で大量の茶碗や土鍋、陶磁器などが見つかったそうです。高天神城は長期間にわたる籠城を余儀なくされたため、堂の尾曲輪や二の丸などの戦いの最前線の曲輪でも生活していたと考えられています。

 

堀切

 

敵の侵入を防ぐ堀切で、幅約9m・深さ約6mあります。堀底から橋脚跡と考えられる穴が発見されていて、橋が架けられていたと考えられています。

 

横堀 

 

横堀とは尾根筋に沿って横方向に続く堀です。北・南・東が断崖絶壁であるのに対し、西だけ緩斜面となっており西を弱点とした武田氏によって長大な横堀が作られました。

 

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◯追手門

 

追手門は城の正門にあたる場所です。攻め込まれた際にも敵がなだれ込まないように道は狭く、右に折れるルートになっています。

 

追手門の標柱の西側には、追手門の礎石と伝わる平らな石が残されています。

 

\家康と武田の攻防を楽しむなら/

家康の東部戦線: 三遠駿をめぐる武田二代との死闘 (歴史ソウゾウ文庫)

 


このように現在は、かつてこの場所で激しい攻防があった戦場だったとは思えないほど深い緑に包まれた高天神城跡、戦国のロマンを秘めながら静かに時を刻んでいます。

 

ここまでで、一旦駐車場から出て、R251まで進み「千人塚」を目指します。

 

千人塚(掛川市下土方)

 

小笠橋の袂にある高天神城跡の石碑

 

R251の城東交番前の東側に曲がってすぐの「小笠橋」、南側に広がる田んぼの中に1本の木がこんもりとしています。田んぼの中の細い道を歩いていくと、そこに「千人塚」がぽつんと残っています。

 

田んぼの中にぽつんと1本の木があり、そこに「千人塚」があります

 

高天神城落城時の戦死者を埋葬した場所

 

高天神城から東へ約1km、田園の中に位置する「千人塚」は、1581年(天正9年)に高天神城が落城した際、徳川に打って出て討死した武田の城兵を埋葬したと伝わる塚が残されています。

 

参照元:・ウインディ『ふるさと歴史発見!』・遠州 歴史のとびら192・ウィキペディア

 

まとめ

 

じつは掛川で生まれ育った筆者ですが、小学校の遠足ででかけた際の道中の過酷さがトラウマで、その後50年以上訪れていません。が、現在のマイブームが「絶賛家康公」ですので、2022年の秋の良き日に訪ねてみたいと思いいろいろと調べてみました。

 

あれよ、あれよと言う間に2022年も越し、2023年5月のGWに念願かなって「高天神城跡」を訪ねることができました。

 

実際に訪ねてみて高天神城は「高天神を制する者は遠江を制する」といわれるほど、難攻不落のお城で、徳川軍と武田軍が約10年間も攻防を繰り広げた戦国ロマンあふれる場所であることがよくわかりました。

 

ハイキングコースにもなっているためでしょう。朝早くからトレッキングスタイルのツワモノや、あくまでかわいいペットのお散歩ですって感じで軽く坂道を登っていく人などさまざまな人達が、「高天神城跡」を楽しんでいました。

 

家康のファンである私はというと、鼻息荒く「追手門」や「本丸跡」、水源が乏しい高天神城にとって重要な「かな井戸」や「堂の尾曲輪跡」、ちょっと離れた「千人塚」などを訪ね、徳川家康が江戸幕府を開くまで、耐えに耐えてきた生き様を感じようと必死でした(笑)。

 

現在NHK大河ドラマ『どうする家康』も絶賛放送されています。ぜひ!徳川家康公が天下取りの夢を果たし江戸幕府を築きあげる前の、「戦に継ぐ戦」でまさに死にものぐるいで平和を目指していた頃の苦労を感じることができる『高天神城跡』を訪ねてみてはいかがでしょう?

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。