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徳川四天王の一人浜松が生んだイケメン武将『井伊直政』

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

井伊直政とは、徳川家康に仕え『徳川四天王』の一人として名を馳せた、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、遠江国井伊谷近くの祝田(ほうだ/現在の浜松市北区)の生まれで浜松が生んだ武将です。

 

井伊直政といえば『井伊の赤備え』がまっさきに頭に浮かび、真っ赤な兜に鬼のような飾りをつけている武将でイケメンというイメージがあるのではないでしょうか?

 

大河ドラマファンの方なら、2017年放送『おんな城主直虎』で幼少期を寺田心君が、青年期は菅田将暉が演じた素直で頭脳明晰な虎松のイメージが強いかもしれません。となると、家康が一目見ただけで「家臣になれ」と言ってしまうほど絶世の美青年だったのも、きっと腑に落ちることでしょう。

 

井伊直政が生まれた頃の井伊家は駿河国今川家の支配下にあり、お家断絶の危機に晒されていました。井伊家の再興のため、徳川家康の恩義に報いるため、家康の天下取りを全力で支えた功臣としてよく知られています。また人気の「ひこにゃん」が生まれた彦根発展の基礎を築いた人としても有名です。

 

このように、武将としての信念を貫いた井伊直政の生涯はいったいどんなものだったのでしょう?今回は、家康とゆかりの深い浜松生まれの武将井伊直政の生涯について調べていきます。

 

彦根駅にある馬に乗った井伊直政の銅像[写真AC]

 

 

 

『徳川四天王』の一人井伊直政

 

井伊虎松の誕生!まわりは敵だらけの幼少期

 

1561年(永禄4年)2月、井伊直政は、遠江国祝田で今井氏の家臣井伊家19代当主「井伊直親」の嫡男「井伊虎松」として誕生しました。母は奥山朝利の娘「おひよ」です。

 

井伊氏は先祖代々井伊谷の国人領主で、当時の井伊家当主の「井伊直盛」(虎松の父直親の従兄で養父)は、今川義元に仕え桶狭間の戦いで戦死しました。

 

虎松の父「井伊直親」は、虎松が生まれた翌年の1562年(永禄5年)、松平元康(のちの徳川家康)との密通の嫌疑をかけられ、今井氏12代当主「今川氏真(いまがわうじざね)」により掛川にて謀殺されてしまいます。

 

今川氏が、井伊家再興の期待を背負った虎松を葬ることを諦めていなかったため、新野親矩(にいのちかのり/遠江国新野新城[船ケ谷城]主/現在の御前崎市新野地区)が助命嘆願して、親矩のもとで生母・おひよと共に暮らしました。この事は井伊氏の菩提寺・龍潭寺の住職に「井伊氏の歴史で最大の危機を救った」と評されています。

 

当時虎松はわずか2歳だったため、井伊直親の養父「井伊直盛」の娘にあたる出家していた「次郎法師」が「井伊直虎」と名乗り、井伊氏の当主を引き継ぎました。井伊家を守るため、井伊直虎がおんな城主として奮闘しますが、今川家の謀略により井伊家は滅亡してしまいます。

 

ちなみに、井伊直虎といえば大河ドラマ『おんな城主直虎』の主役で、井伊直政の養母ということで知られています。

 

1564年(永禄7年)に親矩が討死したため、虎松は今川氏に怯えながら各地の寺院(鳳来寺など)や親戚の家を転々としながら過ごします。1568年(永禄11年)井伊直虎が今川氏真の徳政令命令を受け入れて出家するに伴い、虎松も龍潭寺で母のおひよと一緒に暮らします。

 

井伊万千代として徳川家康の小姓に

 

1574年(天正2年)虎松が父直親の13回忌のため龍潭寺を訪ねた時に、祐椿尼、直虎、おひよ、龍潭寺住職南渓瑞聞(なんけいずいもん)が相談し、徳川家康に仕えさせようとします。

 

まずは、虎松を鳳来寺に帰さないために、井伊直政の母「おひよ」は徳川家康の臣下「松下清景(まつしたきよかげ)」と再婚し、虎松を「松下虎松」として松下家の養子にしたようです。そして、虎松は浜松へ移住しました。

 

1575年(天正3年)虎松にとって、大きな転機が訪れます。徳川家康の「初鷹狩(はつたかがり/年が明けてから最初の鷹狩り)」を行なったときのことでした。

 

虎松は徳川家康の家臣となるため、家康の目に留まるようにと直虎と母のおひよがあつらえた着物を着て、「四神旗(ししんき/中国の四雲獣、青龍、朱雀、白虎、玄武)」を描いた旗を持ち目立った服装で家康の目の前に現れました。

 

虎松の狙い通り、徳川家康は井伊直政に興味を持ったため、虎松は徳川家康に「自分は井伊家の人間であるため徳川家康に仕えたい」と伝えます。

 

徳川家康は、かつて「桶狭間の戦い」で先鋒を務めた井伊直盛(祖父)の親類である虎松に対して「召し抱える以外にない」と言い、井伊直政を小姓として迎え入れました。

 

一説では虎松があまりの美少年だったため、家康はつい見とれて家臣にしたともいわれています。また、虎松の父井伊直親が徳川家康との内通を疑われ謀殺されたことを不憫に思い、仕官を認めたという見方もあるようです。

 

この時には、300石と16人の同心衆(軍役を負わされた百姓のこと)を与えられ、虎松の名を「松下虎松」から、徳川家康の幼名「竹千代」にちなんで「井伊万千代」と変え、井伊家の再興を許されたのです。

 

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勇敢果敢!武勇に長けた井伊直政の本領発揮!

 

徳川家康に召し抱えられた万千代は、翌年の1576年(天正4年)遠江芝原(柴原/横須賀城の北西にあった柴の郷を指しているといわれる/現在の掛川市)で、高天神城に兵糧補充のため侵攻してきた武田勝頼軍を相手に初陣を飾りました。

 

この時井伊直政は、本陣の芝村で徳川家康暗殺に仕向けられた武田軍の刺客1名(近藤武助)を打ち取るなどの武功を立て、家康から3,000石を拝領します。

 

直政は、敵陣に対して真っ向から切り込む「突き掛かり戦法」を得意としていました。この初陣でも先陣を切って敵と戦っているので、やはり「突き掛かり戦法」で功績を上げたのだろうと思われます。

 

直政は初陣以来、「突き掛かり戦法」を主な戦法とし16回出陣しているのですが、一度も負けたことのない負け知らずでした。が、最前線で敵陣につっこみ敵の陣形を崩し混乱させる戦法のため、生傷が絶えなかったそうです。

 

ちなみに、同じく徳川四天王の一人「本多忠勝」は生涯の戦で傷一つ負わなかったとされていますから、井伊直政との違いが面白いところです。

 

1579年(天正7年)には武田勝頼から高天神城を奪還するための「高天神城の戦い」で、「徳川四天王」である「本多忠勝(ほんだたたかつ)」や「榊原康政(さかきばらやすまさ)」らと共に先鋒をつとめ、兵糧攻めの際には忍者を遣わせて城に供給される水源を断つことに成功。井伊直政の活躍により徳川家康は7年越しに高天神城を奪還したのです。

 

この「高天神城の戦い」でも、直政は2万石に加増されていることから「異例の出世」ということがよくわかります。

 

徳川家康伊賀越えでの逸話

 

1582年(天正10年)、22歳で元服し井伊直政と名乗ります。

 

先程も登場した大河ドラマ『おんな城主直虎』では、次郎法師こと井伊直虎(柴咲コウ)とその許嫁だった井伊直親(三浦春馬)、さらにこの2人の幼友達だった小野但馬守政次(高橋一生)の関係が初々しく描かれていました。

 

そして、ドラマティックな直虎と政次の別れのシーンが評判となり、直政という名の「直」は直虎から、「政」は正次からとファンは騒いでいたのですが・・・。さて、実際名前の「直政」の由来はどうだったのでしょう?

 

この年の6月「本能寺の変」により「織田信長」が明智光秀に討たれた時、徳川家康は摂津国堺(せっつのくにさかい/現在の大阪府堺市)で茶会を開いていました。この時、徳川家康が供回りとして連れていたわずか34名の家臣の中の一人が井伊直政でした。

 

徳川家康は織田信長の死に対して、はじめは自分も自害すると言っていましたが、本多忠勝らの説得により三河国(現在の愛知県東半部)へ帰国することを決意します。

 

「神君伊賀越え」として有名な出来事ですが、この時、随行していた井伊直政に関して、江戸時代に作られた『名将吉行録』に以下のような逸話が残されています。

 

伊賀越えの途中徳川家康一行は、空腹に耐えかねて神社にお供えされていた赤飯を拝借しました。赤飯を唯一口にしなかった井伊直政に対して、徳川家康が「遠慮はいらんから食べるが良い」と勧めたところ、井伊直政は毅然とした態度でこう言ったそうです。

 

「敵が迫ってきたらその時は自分がここに踏みとどまる。討ち死にしたあとに腹の中から赤飯が出たら飢えのあまりに供え物に手を出したことを知られてしまい、そのようになれば武士の名折れです」

 

井伊直政の心意気に居合わせた者は感心し、その後無事に三河へと帰国した折には徳川家康から孔雀の羽で織られた陣羽織「孔雀尾具足陣羽織」を贈られたといいます。

 

天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん) 甲斐・信濃の平定

 

無事に伊賀越を成して三河国に戻った徳川家康は、織田信長の弔い合戦のために挙兵しますが、尾張に来たところで明智光秀が討たれたことを知るのです。

 

踵を返して甲斐・信濃の平定に取り掛かりました。甲斐・信濃は滅亡して武田家の領地でしたが、統治者がいなくなったことで一揆が各地で発生、混乱に陥っていたのです。「天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)」と呼ばれるこの戦いのため、織田信長の遺臣達が開催した「清州会議」に家康は参加できませんでした。

 

相模国(現在の神奈川県)の北条氏と越後国(現在の新潟県)の上杉氏が相手となる三つ巴のこの戦いでしたが、主に徳川と北条の争いだったといえます。

 

柴原の戦いで敵陣に突き進み武勇を馳せた井伊直政でしたが、今度は徳川方の使者として、旧武田勢の遺臣を懐柔するとともに北条氏とも和議を成立させ、外交能力の高さで徳川家康の甲斐・信濃掌握に大いに貢献しました。

 

この外交能力は、幼少の頃から鳳来寺で過ごした経験が由来すると考えられています。なぜなら、当時のお寺とは現代の学校、特に大学で学ぶようなことを教育する役割を果たしていたからです。特に『鳳来寺』に関しては寺の中でも最高峰だったと考えられています。これより以降の直政は、合戦後の調停役などを任せられることが増えたようです。

 

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武田家の遺臣を引き継ぎ井伊の赤揃え結成へ

 

「天正壬午の乱」が終わり、家康は武田氏の旧領地である甲斐国・信濃国と武田軍家臣団の両方を得ることができました。井伊直政は武田家家臣団を家康から預けられ一部隊を編成することになり、旗本先手役の侍大将になったのです。

 

これによって直政は徳川重臣の一翼を担うことになり、その部隊は家康の命により武田の兵法を引き継ぐものとされ、その代表が山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を継承した『井伊の赤備え』という軍隊でした。

 

家康の命により直政は、兜や鎧を始めとする戦で使う全ての装飾品を赤色で統一させましたが、これはかつての武田の赤揃えの将であった山形昌景の意思を継ぐという意味もあったのですが、その他にも、赤色だと目立ちやすく、戦の最中にどこに自分の部下がいるのかが一目でわかるという意味もあったそうで、以後井伊氏の軍装は幕末まで赤揃えを基本とされました。

 

1582年には井伊直虎が亡くなり、1583年(天正11年)1月11日、家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院/とうばいいん)と結婚します。直政にとってこの正室の唐梅院は恐妻だったようで、家臣には厳しいが奥様には頭が上がらなかったと伝えられています。

 

1584年(天正12年)豊臣秀吉と家康・織田信雄が、織田信長の後継を争って対立し「小牧・長久手の戦い」が行われました。

 

この戦いで、直政は初めて武田軍を引き入れて結成された、赤い軍装を身に着けた「井伊の赤揃え」を率いて出陣し武功を挙げ、一躍その名を知られるようになりました。

 

直政は小柄な体型で顔立ちも少年のようだったといいますが、赤備えを纏って、兜には鬼のつのような脇立(わきだて)をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられたそうです。

 

さらに、家臣に気安く声をかけることもなく、わずかな失敗も許さないようなところから「人斬り兵部」などと称されたといいます。

 

もちろんこの戦でも、直政は「突き掛かり戦法」で、先頭を切って敵陣に突っ込んでいきました。三河武士の中では外様だった井伊直政ですが、死に物狂いでの奮闘により、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政とともに徳川四天王の一人の数えられるようになりました。

 

井伊の赤揃え発祥の地【浜松秋葉神社】

 

家康公への忠誠を誓った旧武田軍の家臣団の起請文が奉納されており、家康公は、これにより手中にした戦国最強の武田の赤揃えを徳川四天王の一人、井伊直政に任せました。このことから浜松秋葉神社は「井伊の赤揃え発祥の地」といわれています。

 

小田原城内にまで攻め込んだ武将


1585年(天正13年)、真田攻めの撤退を指揮するために上田城に派遣されます。1586年(天正14年)10月、家康が上洛し豊臣秀吉に臣従すると、直政の武勇や政治的手腕が秀吉に高く評価され、11月には従五位下に叙位し豊臣姓を下賜したといいます。

 

1588年(天正16年)4月、秀吉の演出した聚楽第行幸が盛大に行われ、豊臣政権の実質的な成立を天下に知らしめるために行われたといわれます。

 

この聚楽第行幸の際には、徳川家中で当時筆頭家老であった酒井忠次を始め、古参の重臣たちが諸大名に留まる中、直政のみが昇殿を許される一段身分が上の「公家成」に該当する侍従に任官され、徳川家中で最も高い格式の重臣となりました。

 

この時に「井侍従藤原直政」という署名が見られ、豊臣姓ではなく藤原姓を称したとのこと。

 

直政は新参ながら数々の戦功を評価され、1590年(天正18年)の小田原征伐では数ある武将の中で、唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ武将としてその名を知られます。

 

小田原攻めで北条氏を破った豊臣秀吉は、徳川家康に関東6カ国240万石の地への領地替えを命じ、家康は1590年(天正18年)8月1日に江戸城に入城しました。

 

また、秀吉は関東北辺の重要防御拠点にあたる上野国箕輪城(現在の群馬県高崎市)を井伊直政に治めるよう命令し、8月には徳川氏家臣団の中で最高の12万石の城主として配置されました。直政は1598年(慶長3年)の高崎城に城を移すまでの8年間、箕輪城主を務めました。

 

直政は、1591年(天正19年)の奥州仕置(おうしゅうしおき)を行う豊臣政権に対して起こした反乱「九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)」でも仕置軍の先鋒を務めました。

 

1598年(慶長3年)には箕輪城を廃し、南の和田城を改築して高崎城と改称して新たな居城としました。この時に箕輪城下に住んでいた民衆達も高崎に移っています。

 

1598年(慶長3年)、直政が番役として京都にいる家康のもとにいたときに秀吉が死去し、この後の政治抗争で直政は豊臣方の武将との交渉を引き受け、家康の味方に引き入れることに成功しています。特に黒田如水・長政父子とは盟約を結ぶまでの関係を築き、黒田家を通じてその他の武将も親徳川に組み入れました。

 

関ヶ原の戦いの先鋒抜け駆け

 

井伊直政は1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いでは家康軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在でした。

 

同時に、合戦の始まる前には、全国の諸大名に調略(自陣の東軍につける計略)を行い、直政の誘いや働きかけにより、京橋高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込んだのです。

 

さらに、懇意にしている黒田長政を通じて、小早川秀秋(こばやかわひであき)に裏切りを約束させ、毛利軍の武将吉川広家(きっかわひろいえ)には軍を動かさないよう約束させたともいわれています。

 

関ヶ原本戦では、先陣は福島正則に決まっていたにもかかわらず、直政は「物見のため」と松平忠吉の隊列を連れて前に出て、西軍の宇喜多秀家(うきたひでいえ)隊に発泡したという抜け駆けによって戦闘が開始されたとされています。

 

諸説ありますが、実際は抜け駆けとされている行為は、本当に物見のために霧の中を進んでいたところ、よく見えないために偶発的に敵に遭遇してしまった遭遇戦で、本当の戦闘開始はそれに続く福島隊の宇喜多隊に向けた銃撃だったとした説があります。

 

この説は、家康からは諸将あてに出されていた軍法で抜け駆けは禁止されていたし、合戦開始時や合戦後においても福島正則からの抗議はなかったそうで、正則の名誉を傷つけないようにかなり抑制されたものと推測されるからでしょう。

 

他にも、この抜け駆けは徳川家康の指示であり、天下を狙う家康にとって名誉ある先鋒を直属の家臣に取らせることに意味があったのだろうという説もあります。

 

そして、小早川秀秋の裏切りによって関ケ原の戦いの勝負の大半が決まった頃、「島津の退き口」という島津義弘が東軍の真っ只中を正面突破しての撤退が始まります。

 

正面から向かってきた島津軍を直政と忠吉は迎え撃ちます。特に直政は家臣が追いつけないほど島津軍を追撃しました。が、この時に島津軍の柏木源藤(かしわぎげんとう/もとひさ)に足を狙撃され、落馬してしまった直政。島津義弘をあと一歩のところまで追い詰めたにも関わらず、島津義弘の撤退を許してしまいます。

 

しかし、関ヶ原の戦い後は、足に大怪我を負ったにもかかわらず、戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力しました。西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和交渉役を務め、毛利家の取り潰しを回避し、長曽我部盛親(ちょうそかべもりちか)の取次ぎ、手傷を負わされた島津義弘との交渉もおこなっています。

 

輝元からは、直政の取り成し、特に周防・長門の2国が安堵されたことに感謝され、今後の「御指南」役を請う起請文を送られています。

 

また、真田昌幸とその次男・信繁(幸村)の助命にも本多忠勝とともに尽力しました。これは、東軍に味方した昌幸の長男・真田信之の懇情を受け入れたもので、信之は将来まで徳川家に尽くすだろうと考えての行動だったといいます。

 

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明治時代になるまで彦根藩は井伊氏の藩

 

直政はこれらの功によって、石田三成の旧領だった近江国佐和山(現在の滋賀県彦根市)18万石を与えられ、初代佐和山藩主となりました。家康は、西国の抑えと非常時の朝廷を守るため、京都に近い佐和山に井伊家を配したと伝えられています。

 

直政は、1602年(慶長7年)2月1日、彦根城建築途中に佐和山城でこの世を去りました。享年42歳。

 

死因について2つの説があります。一つは関ケ原の戦いで受けた鉄砲傷による破傷風が原因とされる説。もう一つは大怪我を押してまで働き詰めていたことが原因の過労死。

 

遺体は遺意により、当時芹川の三角州となっていた場所で荼毘に付され、その跡地に長松院が建立されました。

 

家督は長年の直継(後の直勝)が継いだのですが病弱だったため、大阪冬の陣に出兵するのに際し、家康の勅命により、次男である井伊直孝が指名されました。

 

その後、彦根城が築城されると同時に佐和山藩(18万石)は廃藩となり、代わってこの地には新たに彦根藩(30万石)が置かれました。それ以来、彦根藩は明治時代になるまで井伊氏の藩として栄えることとなりました。

 

井伊家の家紋「彦根橘(ひこねたちばな)」

 

井伊家が橘を家紋として使用し始めた理由は諸説あります。一つは初代井伊家の「井伊共保(いいともやす)」が井戸から生まれた時、傍に生えていたのが橘だったため家紋として用いるようになったという説。

 

もう一つは、赤子の井伊共保が井戸のそばに捨てられていた時、その手に持っていたのが橘だったという説。細かい部分は違いますが、初代当主井伊共保の出目が橘紋を使い始めた理由として挙げられます。

 

「橘(たちばな)とは柑橘類の樹木の一種、季節を問わず緑色の葉が茂っていることから「永遠」を象徴する存在であり、その果実は「非時香果(ときじくのかぐのこのみ)」とも呼ばれ、「日本書紀」や「古事記」には「不老不死」の霊薬のもとになる果実と記載される縁起の良い樹木です。

 

参照元:井伊直政 - Wikipedia https://www.touken-world.jp/tips/34813/

浜松歴史のとびら

 

まとめ

 

今回は徳川四天王の一人で、遠江国井伊谷近くの祝田(ほうだ)の生まれで浜松が生んだ武将井伊直政について調べています。

 

戦国時代の人気の武将であり、地元が生んだ武将でもあるというのに、これまで何の興味も持たなかったのですが、今回徳川家康を調べている内に「」「美少年」「イケメン」など、たびたび登場する文言にかなり煽られ必死で調べた結果を記事にしています。

 

井伊家の混乱に巻き込まれたったの2歳で父親を謀殺され、その後も今川氏から井伊家再興の期待を背負った人物として命を狙われ、今川氏に怯えながら各地の寺院(鳳来寺など)や親戚の家を転々としながら過ごした虎松。

 

そんな辛い幼少期に鳳来寺で教育された処世術や身につけた戦術、その人柄で家康に仕官し、まずは300石を与えられ、虎松の名を徳川家康の幼名「竹千代」にちなんで「井伊万千代」と変えてからどんどん武功を挙げ出世していきます。

 

敵陣に対して真っ向から切り込む「突き掛かり戦法」で突き進み、『井伊の赤備え』で敵をこてんぱんにやっつけ、関ヶ原の戦いでは本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在でした。

 

同時に、合戦の始まる前には全国の諸大名に調略を行い、直政の誘いや働きかけにより西軍から東軍に何人もの武将を東軍に引き入れることに成功、さらに関が原の戦いの一番の勝因「小早川秀秋の裏切り」も、井伊直政によるものとして伝えられているようです。

 

そして、ついに石田三成の旧領だった近江国佐和山(現在の滋賀県彦根市)18万石を与えられ、初代佐和山藩主となったのです。明治時代まで続く彦根藩の礎を築いたのは間違いなく井伊直政といえるのではないでしょうか?

 

享年42歳と早すぎる死は、生まれてからずっと井伊家のために生傷が癒えるまもないほどに、「突き掛かり戦法」と井伊谷で学んだ高い「外交能力」で出世し続けてきたせいかもしれません。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。