sannigoのアラ還日記

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浜松市天竜区にある徳川氏と武田氏が攻防を繰り返した二俣城址と鳥羽山城址

🕖2022/11/17    🔄2023/03/22

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

徳川家康が遠江に持っていた城は数多くあります。特に浜松城の支城として知られるのが二俣城と鳥羽山城です。武田信玄との間に2度、3度と大きな戦いを繰り返した城になります。

 

また、この二俣城は、1579年(天正10年)徳川家康の長男である岡崎三郎信康が、一説では、同盟を結んでいた織田信長から、信康の処断を命じられた父親である家康の命により切腹したといわれる場所としても知られています。最近は研究が進み、織田信長からの命令ではなかったとする説もあります。

 

二俣城と鳥羽山城は機能の違いがはっきりとした「別城一郭」といわれる戦国時代の城郭の姿を、今の時代に具体的に残すものとしての高い価値があります。

 

二俣城址の尾根つづきにある『清瀧寺』は、長男の信康を供養するために、山号を信康の名前から『信康山』とし、信康の廟所として家康公によって建立されました。

 

今回は浜松市天竜区にある二俣城址と、お花見の時期には眼下に天竜川、遠くに遠州平野を望み、美しい光景の中で桜が鑑賞できる鳥羽山城址についても調べていきます。

 

現在も残る二俣城の遺構石垣が高く積まれた『天守跡』

 

 

二俣城址と鳥羽山城址

 

二俣城址および鳥羽山城址は、山間部と平野の境に位置する浜松市天竜区二俣町にある戦国時代の山城跡です。どちらのお城も周囲を天竜川に面した天然の要害に築かれています。


二俣は天竜川と二俣川の合流地点にあたり、東西南北の伸びる主要な街道の分岐点があったことから古くから交通・交易の中心として栄えてきました。

 

戦国時代には今川氏、徳川氏、武田氏、豊臣氏といった名だたる有力大名がその領有に関わってきました。天正期の二俣地区には、二俣城、鳥羽山城、二俣古城の3つのお城が存在していたそうです。

 

二俣古城(笹岡城)

 

天竜区役所の入口付近に『笹岡城址』の石碑と説明看板があります。城址碑から40mくらい北に登り口があります。主な遺構は市役所建設で失われたようですが、登山道入口から進んでいくと曲輪などが残っています。

 

 

場所:浜松市天竜区二俣町二俣481

 

《アクセス》

電車・バス:遠鉄[西鹿島駅]よりバス[二俣山東]行き[天竜区役所]下車、徒歩2分

車:R152またはR362[栄町]交差点を天竜区役所方面へ約100m

 

二俣城(城山)の始まり二俣古城(笹岡城)の築城年は明らかではないものの、遠江国風土伝記によると、駿河の守護今川氏の家臣二俣昌長によって室町時代末期の文亀年間に築かれた城のようです。

 

現在の天竜区役所の北の本城山に二段になった曲輪跡があり、土塁が残されています。目印は送電線鉄塔です。

 

二俣古城は、南北朝時代(14世紀前半)にも存在し、16世紀前半までの”二俣城”とは、この二俣古城を指すと考えられています。

 

戦国時代になり戦略上の理由から現在の二俣城として城山に移ったとされ、その向かいに鳥羽山城が築かれると2つで1つの城を構成する『別城一郭(べつじょういっかく)』の特徴を持つ城になりました。

 

別城一郭

 

別城一郭とは、2つで1つの城を構成する形態の城で、二俣城と鳥羽山城は機能の違いが顕在化した、戦国時代の城郭の姿を伝える貴重な城跡です。

 

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二俣城址

 

二俣城址は遠江国豊田郡(現在の浜松市天竜区二俣町)にあった風光明媚な16世紀の城跡です。別城一郭の鳥羽山城址には歩いて行くことができます。

 

二俣城は天竜川と二俣川に挟まれた天然の要害に築かれたお城で、中世の城郭として名高く、この城を巡って徳川家康が武田信玄・勝頼親子と激しい攻防を繰り広げた城です。

 

 

場所:浜松市天竜区二俣町

 

《アクセス》

電車・バス:天竜浜名湖線[二俣本町]駅から徒歩約10分

車:新東名高速道路[浜松浜北IC]から約10分

駐車場:二俣城址入口に6台分の駐車場あり

トイレ:公衆トイレあり

 

二俣城跡へは、本丸目指してここからこの階段を登っていきます


二俣城は1560年(永禄3年)『桶狭間の戦い』以降に軍事的強化を目指して、本格的な造営が始まったと考えられます。天竜川と旧二俣川の三方を囲まれた天然の要塞の地に築かれた山城で、この二俣城をめぐり、徳川と武田との間で攻防戦が繰り広げられました。

 

1572年(元亀3年)、遠江に大軍を率いて侵攻した武田信玄が、徳川との三方ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる二俣城を攻め始めます。

 

武田軍は天然の要塞である二俣城を攻めあぐねますが、城に立てこもる城兵が崖に櫓を建て川から水を汲み上げているのを知り、上流から筏を流し井戸櫓の釣瓶を破壊します。徳川勢は約2ヶ月籠城の末、水の手を断たれ降伏しました。

 

1575年(天正3年)、長篠の戦いで武田勝頼に勝利した家康は、武田勢を一掃すべくすぐに二俣城を攻撃しました。この時家康が本陣を置いたのが鳥羽山城、他に3ヶ所に砦を築いて二俣城を完全に包囲したといわれています。

 

激しい攻防戦の末、兵糧が尽きた武田は7ヶ月に渡る籠城の末降伏し、二俣城は再び徳川の城となったのです。

 

徳川の城となった二俣城には大久保忠世が入城します。が、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原の北条氏征伐後家康が関東に移ると、豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴が両城を領有します。その時代に石垣や天守台を持つ近世城郭へ整備されたと考えられます。

 

1600年(慶長5年)『関ケ原の戦い』ののちに、堀尾氏が転封し再び徳川の城となりますが、江戸時代初頭に二俣城と鳥羽山城は廃城になりました。

 

二俣城の主要な遺構は南北300m、東西250mの範囲にあり、堀で区画された施設の要所には石垣がみられます。2009年から2015年に行われた丘陵全体の測量調査・発掘調査によって二俣城の遺構が明確になりました。

 

現在、二俣城址は城山公園となり、今も何重にも巡らされた深い堀切や切岸や土塁が残されており、その急斜面や高低差から軍事施設として充実していた戦国時代の城の姿を思い浮かべることができます。

 

さっそく、桜も咲き始めたと聞く【本丸跡】を目指して登っていくと、かなり広い本丸跡に到着です。なかなか広いです。遠足やピクニックには最適!

 

本丸跡

ボール遊びもできそうなかなり広い【本丸跡】

 

かなり広い本丸跡の西側には、小規模な野面積みの【天守台】が残っています。

 

天守台

【天守台】は、野面積みが残っている石垣を実際に登ってみるとかなり高さを感じます。

 

二の曲輪跡と蔵屋敷跡の間、そして蔵屋敷と南曲輪跡の間にはそれぞれ【堀切】があり、城跡の北側には深い空堀が残っています。やはり攻めにくい作りになっています。

 

堀切

敵が峰の上を伝ってやってくるのを防止するため、峰の方向に垂直に
造る堀【堀切】

 

「皇太子同雅子妃両殿下御成婚記念」平成5年6月9日建立

 

旭ケ丘神社

旭ケ丘神社

 

本丸目指して坂を登っていると眼下には天然の要塞天竜川の流れが見えます。

 

天竜川

 

 

などが見られ、二俣城は土造りの戦国時代のお城から、石垣や瓦葺きの建物を持つ近世城郭へと姿を変える過渡期の様子を今に伝えます。

 

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鳥羽山城址

 

場所:浜松市天竜区二俣町

 

《アクセス》

電車・バス:天竜浜名湖線[二俣本町]駅から徒歩約10分

車:新東名高速道路[浜松浜北IC]から約10分

駐車場:駐車場あり

トイレ:公衆トイレあり

 

鳥羽山城址は、二俣城の南に広がる東西1000m、南北500mほどの独立した丘陵地にあります。二俣城址とは南北500mほどの至近距離にあります。

 

桜の花が咲く季節には、眼下に天竜川、遠くに遠州平野を望む美しい景色の中で桜を楽しむことができます。

 

開花時期には鳥羽山城址へ登る途中の鳥羽山中腹から山頂がピンクに染まり、圧巻の光景を楽しみながら散策できます。小高い山にある公園内には約1000本のソメイヨシノなどの桜が咲き乱れます。

 

2023年の今年は少し桜の開花が遅れているのかしら?3月21日の『春分の日』に参加したさわやかウォーキング時点では、まだつぼみが少し開いた「咲き始め」くらいでした。今週末あたりは見頃を迎えるかも?

 

鳥羽山城は、徳川家康が二俣城攻略の際に本陣を置いた地として伝えられます。旧二俣川をはさんで二俣城と向き合う鳥羽山の頂きに位置し、天竜川を眼下に見下ろし遠く浜松城までも見渡せる場所にありました。

 

1575年(天正3年)、織田とともに武田勝頼に勝った家康は、すぐに二俣城奪還に乗り出します。二俣城の南の鳥羽山城に本陣を置き、東の毘沙門堂(本多忠勝が布陣した砦として知られる)、北に蜷原(になはら)、西に和田ヶ島(わだがしま)に砦を築き、二俣城を包囲しました。

 

二俣城攻略後の1590年(天正18年)から1600年(慶長5年)の間、二俣城を領有した堀尾氏によって石垣を備えた城郭に改修され、別城一郭となる二俣城の一部として利用されました。

 

高い軍事機能を持った二俣城に対し、鳥羽山城は破格の大きさで開放的な大手道や枯山水式庭園が構築されるなど、居館や迎賓館的な性格が強いことが特徴といえます。

 

では、さっそく【鳥羽山城跡】の本丸目指して、桜もちらほらと咲き始めた坂道をよいしょよいしょと登っていきます。

 

桜の花も咲きはじめた坂道

桜の季節なら坂道を登るのもお花見気分で楽しめます

 

桜の花が咲く季節には、眼下に天竜川、遠くに遠州平野を望む美しい景色の中で桜を楽しむことができます。戦国時代は敵を見張るため重要な場所だったでしょうに。

 

展望台

展望台から見た景色

 

桜の開花時期には登る途中の鳥羽山中腹から、山頂までが桜のピンクに染まり、圧巻の光景を楽しめます。

 

本丸

鳥羽山城跡の【本丸】

 

本丸東側に残された庭園は【枯山水式庭園】で、滝石組(たきいわぐみ)や配石から京用の意匠が読みとれ、美意識や技術の高さが伺えます。

 

※滝石組とは、石で組まれた滝のことで、水を落とすように石を組むのですが、池泉庭園や枯山水などで、最初から水を落とす意思がなく組まれた枯滝石組も、同様の名称を持ち入ります。また、これとは逆に、元々は水が流れていたものが現在では枯れてしまっていることから、枯滝石組と称してるものもあるそうです。

 

枯山水式庭園

美意識や技術の高さが伺える【枯山水式庭園】

 

大手道の内側や正面には石垣が積まれ、その美しい景観は迎賓機能を持つ景観としての性格を表しています。

 

大手道の内側や正面の石垣

きれいに積まれた石垣が迎賓的なお城を感じさせます

 

開放的な幅6mの櫓門(やぐらもん)であったと考えられる大手門、大きな石を織り混ぜ、ゆるやかに積まれた石垣は優美な雰囲気を感じさせます。

 

大手門跡

開放的な幅6mの櫓門であったと考えられる【大手門跡】

 

鳥羽山城跡に残る石垣は、土塁の下部に築かれた【腰巻石垣】と、上部に築かれた【鉢巻石垣】が残されています。

 

「この石を、戦国時代の機械も電気もない時代に、どれだけ苦労して運んだんだろうね」と同居人と話しながら歩く坂道は、桜が咲いていなくてもけっこう楽しめました。

 

土塁の下部に築かれた【腰巻石垣】

土塁の下部に築かれた【腰巻石垣】

 

何やら歌のようなものが書かれた石碑もありましたが、残念ながら読めません。あしからず!

 

歌が書かれた石碑

なにやら書かれた石碑

 

鳥羽山公園と言えば『長~い滑り台』と答える方も多いかも!?

 

お子様のお目当ての『ローラー滑り台』は全長約20mで、高低差は10mほど。鳥羽山公園の頂上からはどこまで続いているのかはっきりしないカーブもありありの滑り台。

 

頂上目指して登っているアラ還にとっては、見るだけで恐ろしい滑り台。何度も登って繰り返しすべろうとするお子様がうらやましい!

 

「長~い滑り台」は子供たちに人気!

 

 

参照元:二俣城 - Wikipedia

 

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まとめ

 

今回の家康ゆかりの地浜松は、天竜区にある桜の名所『鳥羽山城址』、さらに徳川家康の嫡男信康が不幸な死を遂げた『二俣城址』について調べています。

 

『鳥羽山公園』には小学生の頃から遠足でよく出かけましたし、社会人になってからは桜の名所のため「お花見」にも何度か出かけています。が、調べれば調べるほど、何気なく通り過ぎてきてしまった事を後悔するほど、天竜という場所は歴史的にどえらい場所でした。

 

現在のこの平和な時代(最近はちょっとコロナや戦闘でそこまで平和ではないかも)も、実は、かつて鎧兜で人の命を軽んじ続けてきた日本という国に、約260年以上も続く戦争のない平和な時代を築いてくれた徳川家康のおかげだと知ったのは最近です。

 

大河ドラマで遅まきながら歴史に興味を持ち、学校では教えてくれなかった(学ぼうとしなかった)戦国の世を勉強している今がとっても楽しいアラ還です。

 

さらに、その歴史にゆかりの場所を『JRさわやかウォーキング』で周ることができるのは本当にしあわせ!自分だけじゃなかなかたどり着けない目的地も、ぞろぞろと人が歩いていく方向を目指すだけで、知らぬ間に到着してしまうのだから。

 

ということで、今回はこのへんでおしまい!最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。