sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

家康が武田と初めて戦った『一言坂の戦跡』、敗走中に神頼みした『一言観音』、戦死者を弔った『提燈野』

🕖2022/11/23    🔄2023/05/28

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

浜松在住で『大河ドラマ』ファンでもあるアラ還の私。『どうする家康』が放送されていることもあり、徳川家康のことを学びながら、家康ゆかりの地をボチボチと訪ね歩いては、その場所の記事をアップしています。

 

今回は、「家康は浜松ではなく磐田にお城を構えていたかもしれない」という、浜松のおとなりさん磐田にある『一言坂の戦跡』と『一言観音』、さらに『提灯野』を訪ねました。

 

私などは、戦国時代最強といわれる武田軍と家康率いる徳川軍の戦場となった”急な坂道”を上り下りするだけで、小汗もかけば息も切れます。ところが、戦国時代の武将達は、さらに重い鎧・兜や弓や刀を身に着け、しかも馬上で戦ったと思うと、尊敬の念しかありません。

 

そんな武将たちの中でも、1572年(元亀3年)に三ケ野(磐田市)で武田軍との戦いに敗れた徳川軍が浜松城へ退却する中、『一言坂』で追いつかれ激しい戦いになった際、殿(しんがり)を務め大活躍して家康を無事浜松城へ逃がしたことで知られる本多忠勝は別格です。

 

このように激しい「一言坂の戦い」の最中、逃げている家康が観音様に立ち寄り「助けてくれ」と頼んだところ、戦雲が有利になったと伝えられているのが『一言観音』です。

 

さらに、徳川軍にとって負け戦だった「一言坂の戦い」ですが、退却戦として非常に巧妙なものでした。徳川軍は挑燈やのぼりで軍がいるように見せかけ、真っ暗な中、坂を駆け下りてくる武田軍を誘い込み、石動の沼地に落とす策を講じたのです。

 

武田軍は見事にこの策にはまり、次々と石動の沼地に落ちていき、徳川軍に討ち取られます。おかげで徳川軍は無事に浜松城に帰ることができたといいます。

 

ここの村人たちは、この地での戦死者達を弔い、『挑燈野(ちょうちんの)』と名付けたといいます。現在も「旧蹟提灯野」の石碑が残り、「挑燈野の由来」と書かれた看板も立っています。

 

では、そろそろ『一言坂の戦跡』と『一言観音』、さらに『提灯野』をくわしくみていきましょう。

 

 

一言坂の戦跡の石碑が立つ国道沿いの一言坂

 

一言坂の戦跡

 

一言観音から一言坂に上る途中の左側には[池田の近道]があります

 

一言坂の戦いとは、1572年(元亀3年)10月に武田信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、武田軍と徳川軍の二俣城の戦いを含む『三方ヶ原の戦い』の前哨戦のことです。

 

このときの本多平八郎忠勝が殿として奮闘し、武田方の進軍を防ぎ、家康を無事に浜松城へ帰還させました。この活躍を武田方に称賛され、信玄の近衆が「家康に過ぎたる物は二つあり。唐の頭に本多平八」と落書きしたと伝わります。

 

国道1号線沿いに看板を見ることができます。車から看板が見えるのでこの坂が「一言坂」で、あたり一帯が『一言坂戦跡』と思っていただけたらと思います。実際にどこで戦ったとかはあなたのイメージ次第ってことです。

 

一言観音から一言坂を『一言坂の戦跡』へ上って行く途中の左側には『池田の近道』があります。ここから天竜川畔の『池田の渡し』へ行くことができた名残りです。

 

 

場所:磐田市一言

 

《アクセス》

電車・バス:JR豊田町駅から徒歩で約34分

      『一言観音』から徒歩約11分

車:東名高速道路[遠州豊田スマートIC]から約9分

  東名高速道路[磐田IC]から約8分

駐車場:なし ※駐車場がなく急な坂道で車を停めるような場所もないので、ぜひ公共交通機関か徒歩でお出かけください。

 

一言坂の戦い

 

1572年(元亀3年)、甲斐国(山梨県)から織田・徳川領へ進攻しはじめた武田信玄と、遠江国(静岡県西部)の領主であった徳川軍との間に起きた戦いのことです。

 

三河・遠江の城を次々と落としていった武田軍、対する徳川軍は武田軍のもとへと出陣します。内藤信成(ないとうのぶなり)率いる偵察隊が武田軍の先発隊と木原畷で遭遇し攻撃されます。

 

偵察隊はすぐに退却するも、武田軍は素早い動きで徳川軍を追撃し始め、太田川の支流・三箇野川(三箇野台)を抜いて見付宿に突入してきました。

 

徳川軍の望まない形で開戦したこと、さらに徳川軍は三河国への対処などもあり、織田氏からの援軍も望めない状況だったことから3,000の軍勢だったこともあり、家康は撤退を決めます。

 

見付宿に突入してきた武田軍に、慌てた家康は「見付の宿に火を放ち、路を防ぐのじゃ」と、ほうほうの体で見付を引き上げ一言坂の下という不利な地形に陣取りします。一方武田軍は火の海となった見付宿を迂回し迫ってきます。

 

本多忠勝と大久保忠佐が徳川本隊と内藤信成隊を逃すために殿(しんがり)を務め、このとき25歳の本多平八郎が、蜻蛉(とんぼ)切りの槍を振り回し、枯れ草に火をかけ、その煙の中を獅子奮迅の活躍をしたおかげで家康は坂を逃げ下り、危機を脱することができました。

 

このように本多忠勝の働きによって、徳川家康率いる本隊は、天竜川を渡り切り味方を一騎も欠かすことなく脱出に成功させ、撤退戦を完了させました。これが一言坂(磐田市一言)の戦いと呼ばれるものです。実は家康は天竜川を渡ってから、浜松城に帰らず本多忠勝を待っていたというエピソードも残されています。

 

ウィキペディアでは、一言坂の戦いの状況をこのようにくわしく解説しています。

 

急戦で陣型もままならぬ本多忠勝隊を、武田軍先鋒の馬場信春隊が突撃し、3段構えの陣方のうちの第2段までを打ち破った。また、武田信玄の近衆である小杉左近は、本多隊の退路を阻むために、本多隊の後方(一言坂のさらに下)に先回りし、鉄砲を撃ちかけた。

 

これに対し、本多忠勝は、大滝流れの陣をとり、坂の下で待ち受ける小杉隊に敵中突破し逃亡を図る。これは無謀な突撃で本多隊は死兵であったが、左近はこれを迎え撃たず、道を空けるように指示して本多忠勝隊を見逃す。このとき忠勝は左近に名を聞き感謝の言葉を述べたといわれる。

 

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一言坂といえば、よく耳にするのが「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という狂歌です。この狂歌を書いた札を磐田市国府台に立てたと伝わります。(案内板より)

 

唐の頭に本多平八

 

一言坂の戦いの後、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌・落書が登場しました。

 

これは、小杉左近が「家康にはもったいないほど本多平八は良い」と褒めて書いた。といわれていますが、実際は信其なる人物が日記で若き頃の忠勝をうたったものだともいいます。

 

「本多平八」とは、もちろん本多忠勝のことです。「唐の頭(からのかしら)」とはヤク(牛の仲間)の毛で作られた兜のことで、中国四川省やチベット原産(つまり「唐」原産)の日本では珍しい品であったそうです。一説によると、家康が難波した南蛮船からこの兜を入手して、愛用していたとも。

 

また、後年これを真似た狂歌として「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」というものまで登場しています。

 

また、近くには徳川家康が戦いの途中に「助けてくれ」とお願いしたと伝わる、一生に一度一言だけ叶えてくれるという観音様『一言観音』があります。

 

一言観音

 

姫街道沿いにあったものを、今は知恩斎の山門脇に移されている『一言観音』

 

一言観音は、徳川家康ゆかりの観音様です。徳川家康が『一言坂の戦い』で逃げている時に立ち寄り、観音様に「助けてくれ」と頼んだところ、戦雲が有利になったと伝えられているのがこの「一言観音」です。今は手軽なスポットとして人気です。

 

場所:磐田市一言797

《アクセス》

電車・バス:JR豊田町駅から徒歩約32分

      JR磐田駅から遠鉄バス80番[磐田営業所行き]乗車→7分→[宮之一色西]バス停下車、徒歩で約16分

車:東名高速道路[磐田IC]から約15分

  東名高速道路[豊田スマートIC]から約7分

駐車場:ありません

御朱印:いただけます。※書き置きで300円でした。

 

達筆な一言観音の御朱印は書き置きでした

 

この一言観音は、一生に一度、それも一言だけ願いを叶えてくれると伝えられており、徳川軍は戦いには敗れたものの、無事に退却に成功しました。

 

その後、この観音様は「一言観音」とよばれるようになったそうで、元は姫街道沿いの台地にあったものが、今は、知恩斎(ちおんさい)の山門脇に移されています。

 

『知恩斎(ちおんさい)』の山門と一言観音の案内書

 

『知恩斎』と『家康と一言観音』の案内板

 

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挑燈野(ちょうちんの)

 

とあるパチンコ屋さんの西隅にある「提灯野」の石碑

 

場所:磐田市(旧豊田町)上万能

 

現在この場所はパチンコ屋の敷地になっており、「旧蹟提灯野」の石碑が残り、「挑燈野の由来」と書かれた看板も立っています。

 

一言坂の戦いは徳川軍にとって負け戦だったのですが、退却戦として非常に巧妙なものでした。

 

戦国時代に武田軍に敗れ、磐田原台地を下り退却していた徳川軍が、当時は万能村といった天竜川までにはまだ距離がある湿地帯辺りで武田軍に追いつかれそうになりました。

 

そこで、周囲の地形に詳しかった家臣から「この辺りは『石動(ゆるぎ)』と呼ばれる沼地で、大きな石を足場に渡ろうとしても石が動いて沼に落ち、命を落とすこともある沼地」だと注意を促された家康は、この地が底なし沼であることを知ります。

 

話を聞いた家康は、日が暮れて見にくくなっていく沼の前で思案し、「沼や川に架かる橋すべて落とせ。手の空いている者はわらや竹、縄をかき集めろ」と指示を出します。

 

指示を聞いた家来達が橋を落とすと、家康は落とした橋の跡に布で橋を架けさせ、さらに、わらや竹、縄などを集まると、今度は兵士に見せかけたわら人形を沼地にいくつも立てさせました。

 

徳川軍は挑燈やのぼりで軍がいるように見せかけ、真っ暗な中、坂を駆け下りてくる武田軍を誘い込み、石動の沼地に落とす策を講じたのです。

 

提灯の明かりに気づいた武田軍は、雪崩のようなものすごい勢いで襲いかかりました。渡れるはずのない布の橋を橋があると思い込み、次々と石動の沼地に落ちていきます。沼にはまって動けなくなりおぼれ死んでしまう者もいます。

 

ぬかるみに足を取られて動けなくなった武田軍を次々と討ち取り、徳川軍は無事に浜松へ無事に帰ることができたといわれています。

 

村人たちは、戦死者達を弔い、その地を「挑燈野(ちょうちんの)」と名付けたといわれます。その後、夏が近づくと「万能蛍」と呼ばれる大きな蛍が辺りを飛んだことから、武田軍戦死者たちの魂だと伝えられています。

 

参照元:説明板 浜松歴史のとびら

 

まとめ

 

今回は、少し過ごしやすくなった秋の1日を使って「一言坂古戦場」と「提灯野」、さらに「一言観音」を訪ねてみました。

 

一言坂はかなり急で、実際に上ったり、下ったりがすごく大変で、戦国時代を生き抜いた武将さんたちは、さぞや大変だっただろうと戦国の世を憂いてみました。

 

急な坂道で「架かっている橋を壊して架けた布の橋」や「おびき出すための提灯やのぼり」、「わらや竹、なわで作った兵と思わせる人形」に「石動という沼地」などを想像して、家康ってやっぱりこわーい!と思った私です。

 

が、真田昌幸とかのすごい罠を思えば、戦国の世だもの仕方ないのかな。戦のない平和な国にするためですもの。と思うことにします。

 

そんなことよりも、あの頭部がとがった突破稲荷兜(とっぱいなりかぶと)に、鹿角の脇立と獅噛の前たてがついた兜をかぶった、いかにも恐ろしげな本多忠勝が自慢の蜻蛉切りの槍を振り回している姿を想像するのが何より楽しかった。

 

ということで、今回はおしまい。

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。