sannigoのアラ還日記

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磐田の一言坂古戦場と提灯野、三箇野坂古戦場に袋井の木原畷古戦場

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
浜松在住で『大河ドラマ』ファンでもあるアラ還の私。来年は『どうする家康』が放送されることもあり、戦国武将家康のことを学びながら、家康ゆかりの地をボチボチと訪ね歩いた場所を記事にアップしています。

 

今回は、「家康は浜松ではなく磐田にお城を構えていたかもしれない」といわれる浜松のおとなりさん「磐田」の、一言坂古戦場跡と提灯野を訪ねました。

 

私などは、最強といわれる武田軍と家康率いる徳川軍の戦場となった急な坂道を、上り下りするだけで小汗をかけば息も切れます。ところが、戦国時代の武士達は、さらに重い鎧・兜や弓や刀を身に着け戦ったと思うと、かなり鍛えていたのでしょう。

 

運動嫌いな人たちにとって、戦国の世を生き抜くことは信じられないくらいに大変なことだっただろうと想像できます。

 

まずは、徳川軍にとって退却戦として、非常に巧妙だったといわれる戦が繰り広げられた『一言坂古戦場跡』から始めましょう。

 

「デジタルスタンプラリー」の旗が揺れる一言坂古戦場跡

 

 

 

◯一言坂古戦場跡

 

R1から少し入ったところにも看板があります

 

戦国時代最強といわれる甲斐の武田信玄が、晩年行った西上作戦における古戦場の一つです。

 

場所:磐田市一言 

国道1号線沿いに看板を見ることができます。車から看板が見えるのでこの一帯が一言坂と思ってもらいたいです。駐車場がなく急な坂道で車を停めるような場所もないので、ぜひ公共交通機関か歩きでお出かけください。

アクセス
遠鉄バス「磐田西高」下車 北へ1.7km
駐車場:なし

 

【一言坂の戦い】

 

1572年(元亀3年)、足利義昭の反信長の動きに同調した信玄は、織田、徳川領への侵攻を開始します。

 

三河・遠江の城を次々と落としていった武田軍、対する徳川軍は武田軍の下へと出陣します。内藤信成(ないとうのぶなり)率いる偵察隊が武田軍の先発隊と木原畷で遭遇し攻撃されます。

 

偵察隊はすぐに退却するも、武田軍は素早い動きで徳川軍を追撃し始め、太田川の支流・三箇野川(三箇野台)を抜いて見付宿に突入してきました。

 

徳川軍の望まない形で開戦したこと、さらに徳川軍は三河国への対処などもあり、織田氏からの援軍も望めない状況だったことから3,000の軍勢だったこともあり、家康は撤退を決めます。

 

見付宿に突入してきた武田軍に、慌てた家康は「見付の宿に火を放ち、路を防ぐのじゃ」と、ほうほうの体で見付を引き上げ一言坂の下という不利な地形に陣取りします。一方武田軍は火の海となった見付宿を迂回し迫ってきます。

 

本多忠勝と大久忠佐が徳川本隊と内藤信成隊を逃すために殿(しんがり)を務め、このとき25歳の本多平八郎が、蜻蛉(とんぼ)切りの槍を振り回し、獅子奮迅の活躍をしたおかげで家康は坂を逃げ下り、危機を脱することができました。

 

このように本多忠勝の働きによって、徳川家康率いる本隊は、天竜川を渡り切り味方を一騎も欠かすことなく脱出に成功。撤退戦を完了させました。これが一言坂(磐田市一言)の戦いと呼ばれるものです。

 

ウィキペディアでは、一言坂の戦いの状況をこのようにくわしく解説しています。

 

急戦で陣型もままならぬ本多忠勝隊を、武田軍先鋒の馬場信春隊が突撃し、3段構えの陣方のうちの第2段までを打ち破った。また、武田信玄の近衆である小杉左近は、本多隊の退路を阻むために、本多隊の後方(一言坂のさらに下)に先回りし、鉄砲を撃ちかけた。

 

これに対し、本多忠勝は、大滝流れの陣をとり、坂の下で待ち受ける小杉隊に敵中突破し逃亡を図る。これは無謀な突撃で本多隊は死兵であったが、左近はこれを迎え撃たず、道を空けるように指示して本多忠勝隊を見逃す。このとき忠勝は左近に名を聞き感謝の言葉を述べたといわれる。

 

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一言坂といえば、よく耳にするのが「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という狂歌です。

 

唐の頭に本多平八

 

一言坂の戦いの後、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌・落書が登場しました。

 

これは、小杉左近が「家康にはもったいないほど本多平八は良い」と褒めて書いた。といわれていますが、実際は信其なる人物が日記で若き頃の忠勝をうたったものだともいいます。

 

「本多平八」とは、もちろん本多忠勝のことです。「唐の頭(からのかしら)」とはヤク(牛の仲間)の毛で作られた兜のことで、中国四川省やチベット原産(つまり「唐」原産)の日本では珍しい品であったそうです。一説によると、家康が難波した南蛮船からこの兜を入手して、愛用していたとも。

 

また、後年これを真似た狂歌として「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」というものまで登場しています。

 

また、近くには徳川家康が戦いの途中に「助けてくれ」お願いしたと伝わる観音様があります。

 

◯一言観音

 

一言観音は、徳川家康ゆかりの観音様です。

場所:磐田市一言797

徳川家康が一言坂の戦いで逃げている時に立ち寄り、観音様に「助けてくれ」と頼んだところ、戦雲が有利になったと伝えられているのがこの「一言観音」です。

 

この観音は、一生に一度、それも一言だけ願いを叶えてくれると伝えられており、徳川軍は戦いには敗れたものの、無事に退却に成功しました。

 

その後、この観音様は「一言観音」とよばれるようになったそうで、元は姫街道沿いの台地にあったものが、今は、知恩斎(ちおんさい)の山門脇に移されています。

 

◯挑燈野(ちょうちんの)

 

とあるパチンコ屋さんの西隅にある「提灯野」の石碑

 

場所:磐田市(旧豊田町)上万能

現在この場所はパチンコ屋の敷地になっており、「旧蹟提灯野」の石碑が残り、「挑燈野の由来」と書かれた看板も立っています。

 

一言坂の戦いは徳川軍にとって負け戦だったのですが、退却戦として非常に巧妙なものでした。

 

戦国時代に武田軍に敗れ、磐田原台地を下り退却していた徳川軍が、当時は万能村といった天竜川までにはまだ距離がある湿地帯辺りで武田軍に追いつかれそうになりました。

 

そこで、周囲の地形に詳しかった家臣から「この辺りは『石動(ゆるぎ)』と呼ばれる沼地で、大きな石を足場に渡ろうとしても石が動いて沼に落ち、命を落とすこともある沼地」だと注意を促された家康は、この地が底なし沼であることを知ります。

 

話を聞いた家康は、日が暮れて見にくくなっていく沼の前で思案し、「沼や川に架かる橋すべて落とせ。手の空いている者はわらや竹、縄をかき集めろ」と指示を出します。

 

指示を聞いた家来達が橋を落とすと、家康は落とした橋の跡に布で橋を架けさせ、さらに、わらや竹、縄などを集まると、今度は兵士に見せかけたわら人形を沼地にいくつも立てさせました。

 

徳川軍は挑燈やのぼりで軍がいるように見せかけ、真っ暗な中、坂を駆け下りてくる武田軍を誘い込み、石動に落とす策を講じたのです。

 

提灯の明かりに気づいた武田軍は、雪崩のようなものすごい勢いで襲いかかりました。渡れるはずのない布の橋を橋があると思い込み、次々と石動の沼地に落ちていきます。沼にはまって動けなくなりおぼれ死んでしまう者もいます。

 

ぬかるみに足を取られて動けなくなった武田軍を次々と討ち取り、徳川軍は無事に浜松へ無事に帰ることができたといわれています。

 

村人たちは、戦死者達を弔い、その地を「挑燈野(ちょうちんの)」と名付けたといわれます。その後、夏が近づくと「万能蛍」と呼ばれる大きな蛍が辺りを飛んだことから、武田軍戦死者たちの魂だと伝えられています。

 

参照元:説明の看板 浜松歴史のとびら

 

◯木原畷(きわらなわて)古戦場

 

木原畷古戦場とは、「三方ヶ原の戦い」の前哨戦『木原畷・三箇野川の戦い』の木原畷の戦いが行われた場所。

 

☑場所 袋井市木原

旧東海道沿いにある許禰神社(こねじんじゃ)境内に木原畷古戦場碑が立っています。

 

袋井市木原にある許禰神社(木原権現)の地は、元亀3年(1572年)9月、甲斐から信濃へと領地を広げた武田信玄が、遠江や三河など徳川領への侵攻を開始し徳川方の城を次々と落とし木原付近に陣を張った場所です。

 

武田軍の侵攻を抑えるべく徳川軍が出陣し、偵察に来ていた本多平八郎忠勝と内藤信成が木原で武田軍と遭遇しました。偵察軍はすぐに退却するのですが、武田軍の追撃を受けて戦闘になったのが三箇野坂(みかの坂)や一言坂の戦いです。

 

しかし、本多平八郎忠勝や大久保忠佐らの活躍で徳川軍は無事に浜松城へ退却することができました。

 

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◯三箇野坂(みかのざか)古戦場

 

磐田原台地の東端(標高38m)の東海道三箇野坂に位置しています。三箇野坂は、鎌倉・江戸・明治・大正・昭和・平成時代に築かれた7本の道が通る交通の要です。

 

場所:磐田市三ヶ野

甲斐の武田信玄が遠江へ進出し、犬居城(浜松市天竜区春野町)から、飯田城(周智郡森町飯田)などの城を次々と落とした後、久野城(袋井市鷲巣)を包囲し、木原(現在の袋井市木原)に陣を敷いたのは、上記の木原畷古戦場の中に記しています。

 

一方、これを迎え撃つため浜松城を出た徳川軍。内藤信成と本多忠勝の偵察軍がこの三箇野坂に到着し、この場所にあった松の大木に忠勝がのぼり、木原に布陣した武田軍の様子を偵察したと伝えられています。

 

木原に向かった際に武田軍と遭遇した偵察軍はすぐに退却したのですが、武田軍の追撃を受けて戦闘になったのがこの大日堂の高台です。この戦いが三箇野坂の戦いといわれています。

 

三箇野坂古戦場の高台には、本多平八郎物見の松と伝えられる大松があったといいます。現在は、大日堂と書かれた石碑やお堂などが残されています。

 

この丘陵に立つと、太田川から遠く袋井まで一望できるため、本多平八郎が物見の松にのぼって木原の偵察をしたという伝承はかなりうなずけます。

 

まとめ

 

今回は、少し過ごしやすくなった秋の1日を使って「一言坂古戦場」と「提灯野」を訪ねてみました。

 

一言坂はかなり急で、実際に上ったり、下ったりがすごく大変で、戦国時代を生き抜いた武将さんたちは、さぞや大変だっただろうと戦国の世を憂いてみました。

 

急な坂道で「架かっている橋を壊して架けた布の橋」や「おびき出すための提灯やのぼり」、「わらや竹、なわで作った兵と思わせる人形」に「石動という沼地」などを想像して、家康ってやっぱりこわーい!と思った私です。

 

が、真田昌幸とかのすごい罠を思えば、戦国の世だもの仕方ないのかな。戦のない平和な国にするためですもの。と思うことにします。

 

そんなことよりも、あの頭部がとがった突破稲荷兜(とっぱいなりかぶと)に、鹿角の脇立と獅噛の前たてがついた兜をかぶった、いかにも恐ろしげな本多忠勝が自慢の蜻蛉切りの槍を振り回している姿を想像するのが何より楽しかった。

 

ということで、今回はおしまい。

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。