sannigoのアラ還日記

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『旧見付学校』に展示されている『酒井の太鼓』から酒井忠次を想う

🕖2022/11/26  🔄2023/06/26

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回、徳川家康ゆかりの地磐田で訪ねたのは、『酒井の太鼓』が展示されている『旧見付学校』です。

 

現在磐田の中心部である静岡県磐田市見付は、江戸時代には、東海道五十三次の28番目の宿場「見附宿」として賑わった場所です。京側から旅をしてきてここで初めて「富士山」が見れたため、『見附』という名前がついたともいわれています。

 

こちらに展示されている『酒井の太鼓』は、徳川家康が大敗し多くの伝承が残る『三方ヶ原の戦い』で登場する、徳川四天王の一人酒井忠次が打ち鳴らした太鼓として知られています。

 

まずは、旧見付学校に展示されている『酒井の太鼓』の解説から始めましょう。

 

三方ヶ原の戦いにおける伝承が残される『酒井の太鼓』

 

 

 

伝承に残る『酒井の太鼓』(旧見付学校) 

 

『三方ヶ原の戦い』で家康が大敗し、やっとの思いで逃げ込んだ浜松城。その時に酒井忠次が浜松城の櫓門(やぐらもん)で打ち鳴らした「酒井の太鼓」が旧見付学校の1階で展示中です。

 

 

場所:磐田市見付2452 

 

《アクセス》

電車・バス:JR磐田駅から徒歩で約32分

車:東名磐田ICより車で約14分

駐車場:あり

営業:火曜~日曜9:00~16:30

休日:月曜

入館料:無料

 

酒井の太鼓

 

徳川家康のことを勉強中の私が、心から楽しみにしていた『酒井の太鼓』は、大太鼓というだけあってかなり大きく、立派です。が、約450年も前に作られた太鼓にしては、かなりキレイで、バチがあったら叩いてみたい!きっと音も出るはず!と思える太鼓でした。

 

太鼓を眺めながら、徳川四天王だった酒井忠次について考えていたのは当然のこと。ちょっとだけ、酒井忠次についていろいろ書き綴ってみます。

 

酒井忠次とは?

 

家康の父親である松平広忠の時代に家臣として仕えていた「酒井忠親」の次男として1527年(大永7年)に誕生し、成長し元服を終えると松平広忠の家臣になった忠次は、酒井小五郎、のちに左衛門尉と称しています。

 

忠次の正室は、家康の祖父松平清康の娘・碓井姫(家康の母於大の方と碓井姫は異父姉妹なので、家康にとっては叔母にあたる)です。つまり忠次は家康の叔父にあたります。

 

これまで、竹千代(のちの家康)が6歳で織田、8歳で今川家の人質になった際も、幼い竹千代に付き添っている家臣の中で酒井正親に次ぐ高齢者(23歳)として同行し、ずっと傍で見守っていたのは忠次といわれていました。が、その後の研究で、家康が織田家・今川家で人質となっていた時、酒井忠次は岡﨑奉行だったという新説があります。

 

1560年の『桶狭間の戦い』以降は、徳川家の家老を務め、酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し忠次は家康に従ったこともあり、家康の信頼も厚く、一度も家康を裏切ることなく最後まで徳川家に仕えた忠義の人として知られる忠次。

 

あだ名は小平次(幼名)、小五郎、左衛門尉(通称)。あの織田信長も認めるほどの戦の才能と強さを兼ね備えた名将だった忠次。

 

1573年(元亀3年)三方ヶ原の戦いでは右翼を担い、敵軍の小山田信茂隊を打ち破り、その後、浜松城に帰り「櫓門」で大太鼓を叩き続け、武田軍に「何か策略があるのでは?」と困惑させて武田軍を撤退させたと伝わる忠次、多分36歳。

 

三方ヶ原の戦いの後、元亀4年正月、武田家から「松枯れて竹たぐひなき明日かな」(松平は枯れて武田は類ないようになる将来だ)と詠んだ句が送られてきた際、家康や家臣団は激怒したのに、忠次はその句の要所に濁点を入れ替えて、「松枯れで竹だ首なき明日かな」とし、(松平は枯れず武田は首がない将来だ)と読み返したそう。

 

このことから、正月には門松の竹を斜めに切り落とすのが習慣になったという。


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1575年(天正3年)の長篠の戦いを前にした軍議で「鳶ノ巣山」の攻略を提案、夜襲を命じられ強襲を決行。鳶ノ巣山を陥落させ長篠城を救出した忠次は、その後も家康の主な戦いにはすべて参加しています。

 

1585年(天正13年)に同じ家康の家老石川数正が出奔してから、家康第一の重臣とされたのは忠次です。

 

海老すくいという踊りが得意で、重臣なのに諸将の前で踊りを見せ盛り上げる忠次。1586年(天正4年)の家康が北条氏政と同盟を結ぶために伊豆三島に赴いた際の酒宴でも披露しているとのこと。

 

1588年(天正16年)10月長男の家次に家督を譲り隠居する。要因は眼病を患い、ほとんど見えていなかったからだといわれています。1596年(慶応元年)10月28日、京都桜井屋敷で死去。享年70歳。

 

【三方ヶ原の戦い】

 

元亀3年12月22日(1573年1月25日)の出来事といわれる『三方ヶ原の戦い』とは、戦国時代最強といわれた甲斐(今の山梨県)の武田信玄軍27,000(山縣率いる別働隊5,000+武田信玄軍22,000)が、遠江(今の静岡県西部)の徳川家康打倒のため、最大でも13,000の兵力の徳川軍を攻めてきた戦いです。

 

「風林火山」で知られる武田信玄軍の別働隊(山縣隊)は、1572年(元亀3年)9月末に信濃へ向け甲斐を出陣、信玄本隊は10月3日甲府を出陣します。山縣の軍勢は諏訪から伊那に入り大島城代秋山伯耆守虎繁(ほうきのかみとらしげ)と合流し、徳川氏の支城・武節城の攻略をはじめとし南信。東三河の重要な支城である長篠城を攻略した後、信濃と遠江の国境青崩峠か、兵越峠から遠江に侵入。

 

信玄本隊は駿河から大井川を渡り、遠江に侵入。小山城、相良城を経て、塩買坂(菊川市)を越え怒涛の勢いで進軍、高天神城に迫ります。高天神城主小笠原氏助は抵抗を見せるが10月21日までに降伏し、武田軍は遠江の要衝高天神城を手中におさめることに成功します。

 

徳川軍にとっては高天神城を取られたことで、馬伏塚城(まむしづかじょう)の存続が危ぶまれ、さらに懸川城と遠州灘の交通が遮断されました。ところが、武田軍は馬伏塚城を攻略することなく、海沿いの狭い陸路は避けるように、高天神城から入山瀬を経て、懸川城をそのままに先を急ぎ移動、原川、国本、袋井へと至ったとされます。

 

武田軍が遠江侵攻を始めると、国衆や土豪らは次々と武田氏へ加担し始めます。それは、武田軍の遠江衆の調略の効果が出たともいえそうです。

 

武田軍は、懸川から東海道を進み、大田川の手前で停止、木原、西島に布陣しながら久野城主久野崇能を攻撃します。が、宗能は降伏しなかったといいます。

 

そこで、家康は本多忠勝・内藤信成らを物見(偵察隊)として派遣、自らも3,000の軍勢を率いて出陣、天竜川を渡ったのです。先陣の本多忠勝らが磐田の三箇野台(みかのだい)に布陣し、物見の松に登り袋井方面を望見すると、木原、西島に武田の大軍がひしめいていたといいます。

 

偵察隊はすぐに退却するも、武田軍は素早い動きで徳川軍を追撃し始めたため、木原畷(きわらなわて/袋井市)、三箇野川や一言坂(磐田市)で戦いが始まります。

 

多勢に無勢で危ういと考えた徳川軍は浜松へ撤退することなり、見付け方面に逃げ込みます。見付に布陣していた家康は本多や内藤と合流し、天竜川を渡り浜松に向けて撤退することを決めます。

 

見付の町に火を放ち、地の利にくらい武田軍を足止めしようとしたのですが、遠江の土豪などを案内役にすばやく見付を迂回し火の手から逃れ、徳川軍は一言坂で追いつかれてしまいます。ここで「一言坂の戦い」が始まります。

 

家康を逃がすため本多忠勝と、内藤信成が殿(しんがり)を務め、一言坂の下という不利な地形に陣取り、無謀な突撃で逃走を図った本多隊を、武田軍の小杉左近は道を空けるように支持して本多忠勝隊を見逃したと伝わります。

 

徳川軍は無事に浜松城まで撤退できたものの、武田軍にはそのまま二俣城を包囲されてしまいます。家康はこれといった対処をすることも出来ず、武田軍は苦戦の末、城の水の手を絶ったことで、ついに12月19日に「二俣城(浜松市天竜区)」を開城・降伏させました(二俣城の戦い)。これによって家康の遠江支配は揺らいでしまいます。

 

織田信長による援軍は、二俣城落城の少し前に派遣されたといわれ、また織田軍から派遣された武将・援軍数には諸説あるといいます。

 

二俣城を落とした3日後、武田軍は二俣城を出発し、大菩薩(東区有玉西町)から三方原台地に登りました。老練な信玄の戦略だったのか、武田軍は浜松城(浜松市中区)を避けるような形で、城の近くを通り過ぎ、三方ヶ原(浜松市北区三方原町近辺)へ軍を進めます。

 

これは浜名湖に突き出た庄内半島の北部に位置する「堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町/舘山寺パルパルのある所)」を標的とするような進軍でした。

 

多勢に無勢で勝ち目もなく、当時同盟を結んでいた織田信長からも「城に立てこもるように」と進言されており、しかも出撃に反対する家臣も多かったのです。が、浜松城の城主・徳川家康は、家臣の反対を押し切り「武将として、自分の領地を通るものを、黙って見逃しては一生後悔する」と声をあらげ、信玄軍におびき出された形で戦いに挑みます。

 

つまりは、籠城策を三方ヶ原から祝田坂(ほうださか)を下る武田軍を背後から襲う攻撃策に変更し、織田からの援軍をくわえた連合軍を率いて浜松城から追撃に出たのです。

 

浜松という暖かい地では珍しく雪が降る中、夕刻から始まったこの三方ヶ原の戦い。

 

家康軍が信玄軍を背後から討とうと三方原台地に着くと、信玄軍は戦略通り『魚鱗の陣』を敷き万全の構えで待ち構えていました。

 

眼前にいるはずのない大軍を見た家康軍は、『鶴翼の陣』で挑みますが、やはり多勢に無勢で、またたく間に総崩れになります。

 

家康が「もはやこれまで」と敵陣に切り込もうとすると、家来が駆け寄り「大将が死に急いではいけませぬ。城に戻り、ぜひとも再起を!」と叫びながら、家康の乗っている馬をたたき、自ら敵に飛び込んでいきました。

 

結局大敗し、何人もの家臣を失い浜松城に命からがら逃げ帰った徳川家康。逃げ帰る際に馬上で脱糞し家臣に「クソですな」と言われ、「これは味噌じゃ」とごまかした、とか。この大敗を今後忘れないようにと、負け戦で弱った姿をそのまんま書かせ「しかみ像」として残したとか、いろいろな伝承が残されています。

※「しかみ像」に関しては、この時に書かせたものではないとも言われています。

 

酒井の太鼓登場

 

徳川軍は武田軍に追い込まれるかたちで、浜松城に籠城することになり、家来は急いで、門を閉じ、まもりを固めようとしました。

 

そんな家来を目にした家康は、「門は開けておけ!戻ってくる家来が必ずいる。攻めてくる敵も、門が開いていれば何か策があるにちがいないと思うはず」と声を掛けました。

 

家康の命により、家来は、城門を開け放つとあちこちにかがり火をたき、徳川四天王の酒井忠次は櫓門(やぐらもん)の上で太鼓を鳴らし続け、味方の帰城を助けたと伝えられています。

 

実はこれ「空城の計(くうじょうのけい)」という戦術だったそうです。あえて自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う計略のことで、敵方に見破られた場合は全滅の危険性もある心理戦の一種といいます。

 

敗走する徳川軍を追撃して、浜松城門近くまで押し寄せた山県昌景・馬場信春は大手門が大きく開かれ、かがり火が焚かれているのを見て、不審に思い警戒して攻撃をためらって引き返して行ったというのです。

 

この時に打ち鳴らされた大太鼓が『酒井の太鼓』と呼ばれる太鼓です。この太鼓は過去には浜松城内にあったこともありますが、明治維新後、民間に払い下げられ見付の有力者の手にわたりました。

 

後の明治8年、磐田市の見付学校落成を機に見付学校へ寄贈されたとのことです。太鼓は5階の楼上に据えられ、1922年(大正11年)まで毎日時を伝えるため、打ち鳴らされました。太鼓は今も旧見付学校1階に展示されています。

 

【濱松篭城之図】にも描かれている太鼓が、現在は磐田の旧見付学校にあるとはびっくりです。しかも、旧見付学校ではこの「酒井の太鼓」を打ち鳴らし、時を報せていた時期があったなんて。

 

※「濱松篭城之図」には、太鼓を打ち鳴らす酒井忠次と家康や家臣、城門の外には武田方の武将が描かれています。描いたのは歌川芳虎(うたがわよしとら)で、幕末から未時期に活躍した浮世絵師です。師匠の歌川国芳(うたがわくによし)から破門され永島孟斉(ながしまもうさい)とも名乗ったそうです。「濱松篭城之図」は個人蔵で見られません。

 

先日こちらを訪ねた際、駐車場から旧見付学校まで歩いていく途中、まず目に飛び込んで来たのが『酒井の太鼓』でした。なんと1階の入口に近い場所に展示されていました。太鼓の大きさは胴回り2.65m、長さ79cm。それほど古さを感じなかったのは、これまで9回革が張り替えられていたからかもしれません。

 

59年ぶりの太鼓の革張り替え

 

中日新聞の記事によると、磐田市の指定文化財になっている『伝酒井の太鼓』ですが、59年ぶりに太鼓の革を張り替えたそうです。

 

磐田市が調べたところ、江戸から昭和にかけて9回張り替えられ、大切に受け継がれてきたとのこと。確認できる最初の張り替えの記録は江戸時代中期の1758年(宝暦8年)、当時の浜松藩士が京都の太鼓屋に依頼したそうです。(大正期発行の『磐田郡誌』)

 

その後、江戸時代に2回、明治に2回、大正期に2回、昭和に3回張り替えていたとのこと。(『磐田郡誌』や地元に伝わる大正時代の記録『酒井警鼓由来』など複数の記録)最後は1964年(昭和39年)で、太鼓の胴裏に職人が残した墨書で7回は確認もできたそうです。

 

きれいに革の張替えが終わった『伝 酒井の太鼓』ですが、5月21日の中日新聞の記事でなんと年代測定を行ったことを知りました。

 

三方ケ原の戦いで武田軍を撤退させたと伝わる「酒井の太鼓」 江戸期の作か 静岡・磐田市が年代測定:中日新聞しずおかWeb

 

『伝 酒井の太鼓』実は江戸時代の作か?

 

革を張り替えた太鼓を、所有している磐田市が専門業者に依頼して放射性炭素を測定したそうです。きっと、『酒井の太鼓』が1572年(元亀3年)三方ヶ原戦い以前に作られたものだと確信するために、調査を依頼したのでしょう。

 

ですが、残念なことにこの『伝 酒井の太鼓』は、江戸時代に製作されたとみられることがわかったんですって!ショックですね。

 

それでも、「三方原の戦いの30年以上後に作られた可能性は高い」とのことで、「江戸時代の人々が歴史をどう認識していたかを知る上で貴重な品であることに変わりはない」と、専門家は指摘しているそうです。

 

30年くらいの誤差なら、あながち作り方や材料などにそれほど変化はなさそうだし、ロマンを大事にってことで、改めてまた見に行きたいと感じている今日このごろです。

 

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旧見付学校

 

石垣の土台に立つ白亜の五階建ての旧見付学校

 

石垣の土台に立つ白亜の五階建ての建物は、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎である旧見付学校です。当初は4階建てだったのですが、明治16年に増築され現在の5階建てになりました。

 

旧見付学校は今から150年前の明治5年(1872年)の『学制発布』を受け、翌年8月に宣光寺、省光寺などを仮校舎として開校した学校です。

 

『学制』とは、日本の子どもたちが等しく学ぶ機会が持てるようにと、はじめて作られた制度です。じつはそれ以前の日本での子どもたちの教育は、藩校や私塾、寺子屋などで行われていました。

 

「明治」という新しい時代を迎えると、「近代国家の建設には、すべての子ども達が学校で学ぶ環境を整える必要がある」という考えのもと、全国各地で学校の整備が進んだといいます。

 

当時の学校の建設費と運営費の多くは、なんと住民からの寄付金だったそうです。文明開化の先端をいく小学校校舎を、住民が力を合わせて建てたことは全国的にも珍しいといいます。

 

この地区には当時600人ほどの子どもたちがいたのですが、家庭の事情などで進学できない子どもも多く、実際に入学できた子どもは300人ほどだったようです。

 

その後、明治中期の磐田市見付の就学率は、全国を大きく上回る85%に達していたそうで、街の発展や識字率の向上にも影響を与えた学校として知られるようになったのです。

 

見付学校の校舎は移転を繰り返し、明治8年(1875年)から大正11年(1922年)まで使用された建物が旧見付学校と呼ばれ、他の校舎と区別するために「五階校舎」と呼ばれることもあります。

 

1875年に竣工した擬洋風建築の旧見付学校は、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎です。隣接する磐田文庫とともに、「旧見付学校附磐田文庫」として国の史跡に指定されています。

 

磐田文庫は国学の祖・賀茂真淵の流れをくむ幕末の国学者である大久保忠尚が、私邸を開いて近隣子弟の教育に努め、1864年(元治元年)に創設したものです。現在は本や史料などはなく、建物自体を眺められるようになっています。

 

学校としての見付学校は、見付高等小学校→見付第一尋常高等小学校→磐田町立見付国民学校→昭和23年(1948年)に磐田市立磐田北小学校という変遷をたどってきました。

 

実際にこちらの『旧見付学校』を見学させてもらうと無料でこんなに見せてもらってよいのかしら?というほどの昭和の史料を見ることができます。

 

旧見付学校の明治初期の様子がうかがえるオルガンと教師の姿

 

着物姿で授業を受ける子どもたちや机の上に置かれた”ノート代わりに石筆で書くちっちゃな石盤”などは、「エモい」ものを探しているZ世代にも喜んでもらえそう。

 

旧見付学校で着物を着て勉強する子ども

 

「酒井の太鼓」を当時の子供たちが打ち鳴らしたという校舎の5階まで上るには、昭和らしい”ちょっと急で狭い階段”を上らねばなりません。アラ還はスリッパも靴下も脱いで安全第一で臨みました。

 

5階の窓から見える風景はすばらしい

 

木造建築で5階建て、外から見ただけでもこれだけのものが木造でできるんだ!と感動しますが、実際に上ってみた5階は狭いながら眺望もよく、まさに忍者でも隠れそうな「秘密基地」的な感じがする子どもたちが喜びそうな場所でした。

 

ただ、当時の子ども達が「時を報せるため」1階や2階の教室から、校長室のある階を覗きながら太鼓のある5階まで上るのは、ある意味スリルとサスペンスの大冒険でワクワクしたのではないでしょうか?

 

最近新聞で見つけた記事によると、”今の小学校と違う大きな点は、半年に一度ある進級試験や卒業試験の成績がよくないと、進級・卒業ができない留年があったこと”だそうです。

 

逆に、”成績が良ければ、早く次の学年に上がれる飛び級も可能でした”とのことで、なかなか画期的な学校だったようですが、小学生でものんびり竹馬やメンコで遊んでいられなかったことを思うと私は昭和生まれで良かったかも。

 

参照元:浜松歴史のとびら 酒井忠次 - Wikipedia 中日新聞

 

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まとめ

 

今回訪れたのは、徳川家康ゆかりの地磐田の『旧見付学校』。実は展示されている『酒井の太鼓』が目的だったりします。

 

三方ヶ原の戦いで大敗し、浜松城に逃げ帰った徳川軍。浜松城で籠城することになった家康は「門を開いておけ」と命じます。家臣は城門を開け、かがり火を焚き、徳川四天王の一人酒井忠次は櫓門の上で大太鼓を鳴らし続けました。

 

そしたら、なんと武田軍が「なにか罠くさくない?」ってことで撤退してくれたんです。という、伝承に残る『酒井の太鼓』は、磐田の旧見付学校に展示中とのこと。

 

さっそく、家康が人質として今川氏のもとで過ごす頃からそばで見守っていた、家康が最も信頼していた武将酒井忠次を想いながら、その太鼓を眺めてきました。

※その後の調査で江戸時代に製作されたとみられることがわかりましたが、「三方原の戦いの30年以上後に作られた可能性は高い」と専門家は指摘しているそうです。

 

そんな『伝 酒井の太鼓』をはじめ、旧見付学校には膨大な昭和時代の遺産ともいうべき資料が展示されていてビッくらポン!もちろん木造で、あの素敵な5階建ての校舎を外から眺めるのもいいですが、1階から5階まで、ちょっと危険な勾配の階段を上って、昭和のエモい展示を楽しんでみてください。

 

日本では、この校舎ができた頃の明治時代にやっと、「どの子どもも等しく教育を受けられるような学校教育制度」ができ、現在のように誰もが文字を読み書きできるようになったんだなと実感できます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。では、またです。