🕖2022/11/29 🔄2023/06/14
こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回は、戦国時代の流れを大きく変えたといえる大きな戦い『長篠・設楽原の戦い』が行われた『長篠城跡』。
さらに「長篠攻防」と「設楽原の決戦」の資料が残されており、戦国時代最強といわれた武田軍の滅びや、天下を目指した勝頼の夢のあとを感じることができる『長篠城址史跡保存館』を、紅葉のピークの時期に訪ねてみました。
長篠城址史跡保存館
「長篠攻防」と「設楽原の決戦」の資料が残されている、鳥居強右衛門が磔にされている大きな看板が目印の史跡保存館で、周り一帯が長篠城址になります。
場所:愛知県新城市長篠字市場22番地1
《アクセス》
電車・バス:JR飯田線[三河東郷駅]下車 徒歩約8分
車:新東名高速道路[新城IC]より国道151号を新城方面へ約3km
東名高速道路:豊川ICより国道151号線を新城方面へ約19km
駐車場:あります(50台)
開館時間:午前9時~午後5時(入館可能時間は午後4時30分まで)
休館日:毎週火曜日・年末年始(12/29~1/3)
(火曜日が祝日の場合は次の平日が休館)
トイレ:あります
入館料:一般220円 小・中学生100円
設楽歴史資料館と両館共通券あり
長篠古戦場レンタサイクル:電動アシスト自転車で上り坂も狭い道も楽々!
館内には、「長篠・設楽原の戦い」に関する武田信玄の兜から、鳥居強右衛門に関する「血染めの陣太鼓」、さらに、長篠の戦いに使われた鉄砲などの説明や展示があります。
「長篠・設楽原の戦い」によって、戦国時代最強といわれた武田氏の勢力は大きく衰退し、織田氏の勢力は絶対的なものになりました。まさに、戦国時代の流れを大きく変えた戦いと言えるのが、この「長篠・設楽原の戦い」ではないでしょうか?
その後、信玄が不測の死を迎え、現在のこの平和な時代の礎を築いたとされる豊臣秀吉・徳川家康にとっても、かなり大きな戦いだったと思われる「長篠・設楽原の戦い」を、ざっと見ることで理解することができる展示になっています。
展示物で一番魅力を感じたのが”戦跡全体模型”で、「長篠・設楽原の戦い」の時に、実際にそれぞれの武将が出張っていた場所がわかるものです。(スイッチを押すことで点灯して織田・徳川・武田のいる場所を教えてくれます)
織田信長は極楽寺の本陣から、戦況を観戦するため決戦場からはかなり離れた茶臼山に移っていること、我が殿家康は決戦場の中央に本陣を構えていることから、信長はこの「長篠・設楽原の戦い」では家康軍を前線に押し出し命がけの戦をさせ、遠くから眺めているなんて、いい御身分だわと思ったり、家康を前線に出すってことは「勝つ」と確信していたのかしら?なんて思ってしまいました。
馬防柵にも近い場所で、武田軍を50m近くまでひきつけておいて、「3000挺」とかいわれる火縄銃をバンバン「3段構え」で打ったら、怖くてしかたないだろうに、大久保忠世ががんばってんなー。とか思っていました。
が、現在は3000挺はなかったんじゃない?せめて1000挺でしょ。織田と武田は鉄砲玉の数がちがったのよ。とか、「3段構え」も、一斉にドーンと討つわけではないでしょ。とか、コンビニのレジスタイルで、空いたところへ火薬など諸々準備できた人から入って撃つんじゃない?だって、その方が早くない?なんてことになってきていると、『歴史探偵』で言ってました~。
武田勝頼はここの「あるみ原」に本陣を移して決戦に備えたのね。とか、そのために背後の鳶ヶ巣山を酒井忠次に奇襲され、後退することができず決戦場のここの「設楽原」へ進軍するしかなくなったことなど、具体的に戦跡を見て知れて面白かったです。
ということで、長篠城址史跡保存館を堪能したあとは、ちょうど「紅葉」もピークの時期だったため、深い堀の上の土塁には赤や黄色に色づいた木々も見られた長篠城址を散策していきます。まず、目に飛び込んで来るのは深い内堀です。
長篠城跡
長篠城は三河国と遠江国の国境に近く。交通の要所にあった長篠城は、今川氏、武田氏、徳川氏が争奪戦を繰り広げた勢力の境目でした。
1575年(天正3年)、徳川家康は武田勝頼の侵攻に備えて、奥平貞昌(おくだいらさだまさ)を城主に任じ、城を改修させるなど城の守備を強化しました。
長篠城は、三河設楽郡長篠にあった城で、天正3年の『長篠の戦い』に先立つ長篠城をめぐる激しい攻防戦でも知られます。現在は国の史跡に指定され城跡として整備されています。
長篠城は、豊川(とよがわ)と宇連川(うれがわ)の合流する地点に建てられており、城の背後を川の流れと切り立った崖に守られています。
大土塁と内堀
現在、長篠城跡には主郭(城の中核)の北東に大土塁と内堀が残っています。が、この大土塁は、主郭に攻め入る敵の側面を土塁上から攻撃する「横矢掛け(よこやがけ)」になっていて、長篠城の防備における工夫を今に伝える、特徴的な遺構となっているそうです。
この深い堀から続く結構な高さのある大土塁を登ることは、まずムリ!でしょう。だって大土塁の上からは、敵が弓矢や大きな石、鉄砲なんでもありで攻めて来ているんですもの。しかもこの傾斜度、かなり鍛えられたアスリートでも難しそう。
それでも敵を攻めるため、城を落とすためにはここを登るしかないとしたら、やっぱり城攻めはむずかしい。織田信長が考えたように「野戦に持ち込むしかない」ってことになりますよね。
このように長篠城は、北側を巧みに配置された土塁と堀に守られ、南側を川の流れと切り立った崖などの自然地形に守られた、防御に優れた城であったことがわかります。
続いて大きな土塁を登っていくと、紅葉に映える『長篠城址』の石碑があります。
「境目の城」長篠城跡
三河国と遠江国との国境に近く、今川氏・武田氏・徳川氏が争奪戦を繰り広げた勢力の境目と言える長篠城。発掘調査により、16世紀後半以降に主郭虎口(出入口)前に丸馬出(まるうまだし/半円状の防御施設)が存在したことや、北側へ曲輪(城の平坦地)が拡大されたことが明らかになっています。
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「長篠攻防」と「設楽原の決戦」とは?
1575年(天正3年)5月、武田信玄のあとを継いだ武田勝頼は、西へ勢力を伸ばすために重要な拠点となる長篠城を1万5千の軍を率いて包囲し攻撃しました。
城主奥平貞昌以下500の兵は、少ない戦力ながらよく戦い、武田軍を何度も撃退したといいます。しかし、相次ぐ大軍の攻撃に抵抗するのも限界となり、援軍がなければ落城を免れない状況に追い込まれます。
長篠城を救うためには、織田信長、徳川家康の援軍がどうしても必要!そこで、岡崎城へ救援を請うため鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を遣わせました。
5月18日、信長3万、家康8千、合わせて3万8千の連合軍援軍は、城の西方約4kmにある設楽原に到着して陣を築きました。
武田軍は20日、長篠城の包囲を解いて設楽原へ進出し、21日の夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入して壮絶に戦いましたが、大量の火縄銃の攻撃にさらされ歴戦の武将を多く失った勝頼は、数騎の味方に守られて敗走しました。
長篠の合戦とは?
戦国時代の1575年(天正3年)5月21日、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐり、名実ともに天下人となった織田信長・徳川家康連合軍3万8千と、武田勝頼1万5千の軍勢が戦った歴史上非常に重要な戦いのことです。
決戦地が設楽ヶ原(したらがはら)および有海原(あるみ原)(「藩翰譜/はんかんふ」・「信長公記」)だったため、「長篠の戦い」ではなく、「長篠・設楽原の戦い」と記す場合もあるようです。
なぜ「長篠の戦い」が起きたのか?
天下統一を狙っていた織田信長には多くの敵がいましたが、中でもカリスマ性のある最強の武将として名高い甲斐の武田信玄は、最大の敵と言われ、信玄の代で武田の領地を7倍に拡大し、さらに勢力を西に広げる野心を持っていました。
当時の信長は、将軍・足利義昭や越前の朝倉義景、近江の浅井長政、河内の三好義継など、西方の反信長勢力の塀を取られ、東の守りであり同盟を結ぶ徳川家康に援軍を送ることができない状況でした。
そんな状況下に信玄は家康の領地・三河侵攻を開始、1573年(天正元年)の三方ヶ原の戦いに圧勝。信長や家康にとっての危機的な状況の中、信玄が病に倒れ急死するという思いがけない出来事が起きます。
信玄を失った武田軍は甲斐へ撤退、その間に信長は将軍・足利義昭を追放し、室町幕府を滅亡させ、朝倉、浅井、三好などの反信長勢力を一気に滅ぼしてしまいました。
そして、浜松ゆかりの武将徳川家康も、この期を逃すことなく信玄に取られた三河・遠江の失地回復に務めました。
武田家のあとを継いだ四男武田勝頼は、信玄の側室の子でしかも四男。信濃諏訪家の後継者としてみなされていたため、武田家の通字「信」が兄弟の中で一人だけつけられておらず、諏訪家の通字「頼」がついています。
諏訪氏を継いだものの、諏訪上原城には入城しなかった勝頼は、「諏訪四郎勝頼」あるいは信濃国伊那谷の高遠城主だったため「伊那四郎勝頼」とも呼ばれます。本姓は源勝頼で、信長や家康より格式は高かったようです。
本来武田家を継ぐ立場ではなかったものの、正嫡の長兄義信は「義信事件」を契機に廃嫡され、三男は夭折、次男は天然痘で失明しており、五男はまだ11歳といったことが重なり四男の勝頼が家督を継ぐことになってしまいます。
父信玄存命中から勝頼は「武田」に復姓したり、信玄とともに各地で転戦を重ねてはいたのですが、古参の重臣たちには同僚とみなされ、さらに諏訪家の人という印象も強かったからか、なかなか政策も認められず対立しがちでした。それでも、信玄の意志を引き継ぎ、織田・徳川との戦いを継続します。
一方、家康は1573年(元亀4年)5月以降、二俣城の付城として、社山城、合代島(亀井戸城)、和田ヶ島城を取り立て、二俣城奪回に動き出します。さらに、長篠城攻めのために奥平定能・信昌父子への凋落を進め、信昌と亀姫の祝言を含む破格の条件で武田氏からの離反を促します。
ついに、奥平定能・信昌父子は、秘匿されていた信玄の死を疑う父定能の決断により徳川方へ再属、武田との前線である長篠城に配されます。長篠城を陥落させた家康は、続いて、堀越(袋井市)での合戦で武田軍を初めて撃破したのです。
明けて1574年(天正2年)2月、一方の勝頼は東美濃に出陣、織田方の諸城へ攻撃をはじめ、東美濃の城砦を18城も攻め落とし、武田軍は東美濃で勢力を拡大します。そこで、家康は越後の上杉謙信と”武田を挟み撃ちすること”に決め、二俣城攻略のため犬居城を攻めるのですが、ここでも大水や気田村人々の神出鬼没な攻撃に大敗を喫します。
6月には勝頼が、家康の領地・遠江において、信玄も落とせなかった「難攻不落の城」といわれる高天神城を落城させてしまいます。高天神城を開城させた勝頼は9月、三河から遠江に入り、浜松城に進軍、1572年(元亀3年)信玄が進んだルートを利用し、浜松に迫ってきたため、家康は危機を迎えます。
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その後、順調に三河・遠江侵攻をすすめてきた勝頼は、奥平氏の謀反から2年後の1575年(天正3年)には、いよいよ信長の本拠地三河の要所であり、徳川に奪われていた「長篠城」で、徳川と織田の連合軍と決戦を交えることになったのです。
武田勝頼襲来
1575年(天正3年)の5月1日、武田勝頼は約1万5千の軍勢で、奥平信昌・松平景忠らが籠城する長篠城を包囲し、激しく攻め立てました。
城を守る奥平勢約500は少ない戦力ながらよく戦い、また、周囲を谷川に囲まれた地形のおかげで武田軍の猛攻を何とか持ちこたえていました。
しかし、相次ぐ攻撃に次第に追い込まれていき、兵糧蔵の焼失により食料を失い、援軍がなければ数日以内に落城必至の状況に追い詰められます。そこで、城主の奥平信昌は、自らの命と引き換えに、籠城している者たちの助命嘆願を決意します。
ただ、最後の手段として、5月14日の夜、城側は信昌の家臣で自ら密使にと名乗り出た鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を放ち、約65km離れた岡崎城の家康へ緊急事態を訴えて、援軍を要請させることにしました。
新城市を車で走る際に何度か見かけた「裸の男が磔にされている看板」は、この鳥居強右衛門だったと、今知ることができました。
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)
家康に援軍を求める密使に自ら名乗り出た鳥居強右衛門は、長篠城主奥平家の陪臣で、このとき数えで36歳だったといわれています。
長篠城を救うため夜の闇に紛れ下水を通り、ようやく城を脱出した強右衛門。豊川に潜って武田軍の厳重な警戒線を突破し、15日の朝には雁峰山(がんぽうさん)でのろしをあげ脱出成功を知らせています。そして、奇跡的に15日の午後に岡崎城にたどり着くことができたのです。
岡崎城では強右衛門の到着を知った奥平定能が、強右衛門の話を聞き、すぐに家康に戦況を伝えます。すると、岐阜城で軍勢と鉄砲足軽の募集し岐阜を13日に出陣、14日には岡崎城に着陣、家康父子と合流していた信長もいたため、強右衛門は信長と家康の御前で援軍の要請をしたそうです。
信長と家康は、強右衛門から戦況を聞き、明日にも織田と徳川の大軍が長篠城救援に向かうことを告げ、しばらくは城を守り続けるよう伝達することを命じられます。強右衛門は大喜びで、周囲が「岡﨑に一晩泊まってゆっくりせよ!」と止めるのも聞かずに、そのまま長篠に引き返していきました。
ところが、長篠へ到着した16日の夜、武田軍の包囲網と警戒が厳しくなかなか城に入ることができず、武田の陣場で雑兵に紛れ働き、竹束を背負ったまま城に戻ろうとしたのです。
背負った竹束が疑われ合言葉をかけられたが、強右衛門は答えることができずに、城の目前まで来たのに、武田軍に捕らえられてしまいます。
最初から死を覚悟していた強右衛門は、武田軍の厳しい尋問に服せず、自分が長篠城の使いであること、さらに織田・徳川の援軍が長篠城に向かう予定だと堂々と語ったと言います。
強右衛門の豪胆さに感心した勝頼は、今から城の前に連れて行くから、お前が城に向かって「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と叫べ。そうすれば、命も助けるし、所領も望みのまま与えよう。と取引をもちかけました。
強右衛門は、表向きはこれを承諾し、「城の近くで早く磔にしてください」と答えたといいます。が、いざ城の前に引き出されると、「あと、2〜3日で数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と逆のことを大声で叫び、城兵を勇気づけたのです。
激怒した勝頼は、その場で部下に命じて強右衛門を磔にして槍で突き殺しました。しかし、強右衛門の決死の報告のおかげで、援軍が来ることを知った長篠城の城兵達は、強右衛門の死を無駄にしてはならない!と、援軍が到着するまでの2日間見事に城を守り抜いたのです。
鳶ヶ巣山奇襲
5月15日、織田軍3万と徳川軍8千の連合軍は、長篠城の救援のため出陣し、5月16日に牛久保城、17日に野田原の到着します。信長は18日には設楽郡の極楽寺山に本陣を据え、息子の信忠は御堂山に布陣。
この一帯が窪地だったため、信長は武田軍に織田が大軍で布陣したとわからないように、ここに3万の兵を配置したとのこと。
一方、徳川家康は高松山に布陣し、19日から長篠城手前3km離れた設楽原の連吾川前に、織田軍の滝川一益らとあらかじめ用意した木材で柵を作り始めます。
これがあの有名な『馬防柵』です。豊川までの南北約2kmに及ぶ木製の柵で、一説によると、2重、3重の柵で、わずか1日で構築したともいわれ(2日説もあります)、織田の武将滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀らも設楽原に進み武田を牽制したといいます。
設楽原は川に沿って丘陵地が幾重にも重なる地形だったため、川を堀に見立て柵を城壁の代わりとし「臨時の砦的」な陣地を一夜にして出現させ、当時の日本では珍しい野戦築城を行ったといえます。
自軍にとって有利に戦略を進められる場所に即席の城を作り上げ、武田方からの攻撃を待つというのが信長の作戦でした。
勝頼の選択
織田・徳川の大軍の到着を見て、武田軍は軍議を開きます。意見は3つに分かれました。
一つは信玄時代からの家臣たちの「撤退」と、もうひとつは「長篠城を奪って迎え撃つ作戦」。そして、勝頼とその側近たちの「設楽原での決戦」。そこで、勝頼が選択したのは「設楽原での決戦」。
勝頼は信長が戦略的に設楽原に布陣し、攻撃を仕掛けてこないことを、「連合軍は手立てを失い、一段とひっ迫している」と判断し、戦況を見誤ったものと捉えられます。もし、ここで、勝頼が長篠城から動かなければ、歴史は大きく変わって居たのかもしれません。
信長の脅威と、勝頼を知る古参の重臣たち(山県昌景や馬場信房)は、「武田の終わり」を予感し、死を覚悟して水杯を交わしたといわれています。
「設楽原での決戦」を選んだ武田勝頼は、長篠城や鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)などに一部の兵を残し、主力部隊を設楽原(したらがはら)へ移動させ、織田・徳川連合軍と対峙します。
織田・徳川連合軍は、勝頼に馬防柵近くへの攻撃を仕掛けさせるため、数を少なく見せるように兵を隠して配置。
さらに、弓・鉄砲に優れた約4,000名の別働隊を、酒井忠次に率いさせて鳶ヶ巣山へ移動させます。酒井たちは前日の夜から武田に気付かれないように遠回りして、鳶ヶ巣山砦を奇襲させ武田信実らを討ち、長篠城を救出するとともに、武田軍の退路を断ち、設楽原に前進させました。
この戦略には、織田・徳川連合会議での酒井忠次の鳶ヶ巣山砦急襲の発案を、武田の諜報を恐れた信長が一旦却下。その後すぐに酒井を呼びつけ、その作戦を実行させたという逸話が残されています。
設楽原決戦
5月21日早朝、設楽原に強固な陣を構築した武田軍は、多数の鉄砲を備えた織田・徳川連合軍に突撃を行います。
信長の狙いどおり、連合軍が実際よりも少数に見えていたため、脆弱に見える柵なら容易に突破できるだろうと、騎馬隊が果敢に突撃。信長の鉄砲隊の連射で次々と倒れていきます。
戦いは8時間にも及んだといわれ、戦いの最中に長篠城を包囲していた砦が陥落したという知らせを受けますが、退路を断たれた武田軍は前へと攻撃するしか道がありません。
ところが、「前へ」という総大将勝頼の命令を聞かずに、中央にいた武田軍の重鎮たちは勝手に退却を始めます。
けっきょく、武田軍の陣型は大きく崩れ、多くの名だたる武将たちが討ち死にする結果となり、勝頼を敗走させ大の文字の旗印が消えるまで見送り、一気に取って返し戦死した勇敢な馬場信春に守られ、武田勝頼は信濃方面に敗走しました。
これを契機に戦国最強とされた武田軍の勢力は、衰退していきました。その後、勝頼は少数の兵とともに一時的に武節城へこもった後、伊那郡へ退却します。
戦いが終わってみると、織田・徳川連合軍側の名だたる武将は一人も亡くなることがなかったのに対して、武田軍の被害は甚大で資料によると1,000人とも10,000人ともいわれています。
参照元:https://www.touken-world.jp/tips/7124/ 長篠の戦い - Wikipedia 徳川家康と武田勝頼 (幻冬舎新書)
\勝頼のことを知りたいならこちら/
最後に
今回は、浜松ゆかりの武将徳川家康と同盟を結んだ織田信長 対 武田勝頼 の戦い「長篠・設楽原の戦い」が行われた『長篠城跡』と『長篠城址史跡保存館』を訪ねて感じたことや「長篠・設楽原の戦い」が起きた理由や戦況などを、自身が撮影した写真とともに解説してみました。
ちょうど、11月最後の日曜で雲ひとつない行楽日和で、しかも『紅葉のピーク』ということもあり、目に優しい景色と、脳にうれしい戦国時代の知識の両方を楽しむことができました。
先日、大河ドラマ『どうする家康』の放送開始前ということで、NHKBSで放送された特別番組内で松潤も訪れていた「設楽原の馬防柵」を見ることができて喜んでいます。
なるほど!けっこう急ごしらえ感たっぷりの柵だけど、これを3段構えにして、「臨時の砦的」な陣地を一夜にして出現させ、当時の日本では珍しい野戦築城を行った織田信長ってすごい!
さらに、織田と同盟を結んでいた浜松のHERO家康には、最前線で戦ってさぞや大変だったことでしょう。酒井忠次をはじめ、大久保忠世とか立派な家臣げ居てくれて良かったね。と、そばで、ねぎらってあげたくなりました。
ということで、今回はこのへんでおしまい。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。