sannigoのアラ還日記

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家康公は、徳川家ゆかりの長光山妙恩寺を2回も訪れているんですって

🕖2022/12/14    🔄2022/12/27

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

年末らしく寒くなってきた今回の家康公ゆかりの浜松は、家康公が2回も訪ねている浜松市東区天龍川町の『長光山妙恩寺』です。

 

浜松市民にとっては、武田信玄との一言坂での負け戦で浜松城へ逃げ帰る途中、妙恩寺に逃げ込んだ家康公が、天井裏に入って無事に浜松城まで戻ることができたという史実や、「丸に二引き」の寺紋の伝承のお寺と言ったほうがわかるかも!?

 

では、さっそく徳川家康公ゆかりの妙恩寺は、日蓮宗のお寺ってところから始めましょう。

 

徳川家康が17年間居城とした青空の下の浜松城[写真AC]

 

 

徳川家ゆかりの長光山妙恩寺(ちょうこうざんみょうおんじ)

 

 

場所:浜松市東区天龍川町179


《アクセス》

JR東海道:天竜川駅から北へ徒歩約5分

遠鉄バス:橋羽(はしわ)バス停から徒歩約5分

車:東名高速道路浜松ICより南に4km、約10分

駐車場:約40台

 

徳川家康公ゆかりの橋羽(はしわ)妙恩寺は日蓮宗に属します。遺跡発掘から、この地域には少なくとも1200年の間、人々の営みがあったとされています。2011年(平成23年)には、地元の日蓮宗寺院で最古の「創建700年」を迎えています。

 

日蓮宗は、日蓮聖人が一切衆生救済の決意のもと、初めて千葉・清澄寺で南無妙法蓮華経のお題目を唱えた(立教開宗)から765年です。

 

700年もの間、この地に根付く妙恩寺はどのようなお寺で、徳川家康との関係や伝承、井伊直政の居城でもあった頭陀寺との関係、浜松市の指定文化財にもなっている「武田家によって出された禁制」についてなど、くわしく調べていきます。

 

日蓮宗妙恩寺



日蓮宗 長光山妙恩寺 本堂

 

京都布教の遺命を託された日蓮聖人の法孫にあたる日像上人が、布教活動の途中に浜松の地で、金原法橋(きんぱらほうきょう)、妙恩尼(みょうおんに)と再会。金原法橋邸を寺とし、妙恩尼の名を冠し1311年(応長元年)開創。開基は日蓮聖人の叔父にあたり当時蒲之庄を支配していた金原法橋左近将監とされています。

 

平成10年に建て替えられた妙恩寺山門

 

現在の山門は平成10年に建て替えられたものです。以前の山門は11代目住職の日豪上人によって建てられたもので、山号「長光山」の文字も日豪上人の筆によるものでした。表門の左柱に「家康公入出の門」の木札が掲げられていました。現在この木札は宝蔵にあるそうです。

 

山門脇にある妙恩寺の説明板

 

家康公とゆかりの深い11代目住職の日豪上人は、武田家の重臣馬場美濃守も末子。徳川家康が岡﨑から浜松へ本拠を移す際、本陣をおくことを許し、さらに、いわゆる三方ヶ原の戦いの前哨戦「一言坂の戦い」で敗れた家康が、敗走中に妙恩寺に身を隠し、難を逃れたという伝承も残されています。

 

山門を入ってすぐ左側には鐘堂があります。

 

立派な妙恩寺鐘堂

 

見どころは?

 

・本堂内の格子戸

内陣と外陣の狭間、浄土を透かし見る本堂の格子戸で日蓮聖人をお祀りしています。

 

・法橋の松(ほうきょうのまつ)

お寺の200m西側に「法橋の松」があります。妙恩寺の開基、日蓮聖人の直壇 金原法教(きんぱらほうきょう)遺愛の松と伝えられています。

 

広大な前庭にあったものといわれ樹齢700年を超える松で、昭和27年の文化財指定当時は、地上2m、幹周り約5m、枝張り最大約18mといわれる老木だったそうです。現在は2代目の松が境内で育っています。

 

・清正堂

 

熱心な日蓮宗の信者だった加藤清正公をお祀りしている『清正堂』

 

熱心な日蓮宗信者であった加藤清正公をお祀りしている『清正堂』です。妙恩寺の12代目の住職が、加藤清正公の子だったというご縁でこのお堂があるようです。

 

清正堂の中の二つ並んだ紋が由緒あるお寺であることを証明しています

 

お堂の扉の隙間から中を覗くと、白い幕に描かれた二つの紋が並んでいます。右が徳川家の葵の紋、左側が加藤家の蛇の目の紋です。

 

・高柳健次郎氏の墓

 

テレビの父と呼ばれる高柳健次郎氏のお墓

 

近代産業の発展に多大な寄与をした偉人で「テレビの父」と呼ばれ、メディアの幕開けの礎を築いた高柳健次郎氏の墓もあります。

 

・金原明善の墓

 

天竜川の治山治水事業で、農業発展の礎を築いた金原明善のお墓

 

明治時代の実業家で国土発展に生涯をかけ、浜松では天竜川の治山治水事業で、農業発展の礎を築いた金原明善の墓もあります。

 

妙恩寺蔵の文化財

 

宝物殿には妙恩寺蔵の文化財が納められています

 

宝物殿には、日蓮聖人直筆の本尊や御書の断片、日蓮聖人の画像や戦国武将たちの判物、武田家によって出された禁制などが納められています。

 

現在の住職は地域の歴史の語り部として、近所の小学生から歴史愛好家までが話を聞きにお参りにくるお寺です。

 

家康とのゆかり

 

妙恩寺は、徳川家康が最低2度は来ている事になっているお寺です。まずは岡﨑から引間城(浜松城)へ引っ越してくる時。もう1回は三方ヶ原の戦いの初戦「一言坂の戦い」で敗れたあとです。

 

家康が岡﨑から引間城へ引っ越してくる時、1568年2月2日に姫街道を使い三河国から遠江国に入り、奥山方広寺へ。そして、12月4日すぐ近くの井伊谷に宿陣します。

 

家康は、井伊谷三人衆の手引きにより浜名湖北岸を来たことになります。この時点で遠江国の名族・井伊家を味方につけることに成功。続いて、家康は、現在の追分に進み引間城に入るのが最短コースであるにも関わらず大周りをし、12月8日に妙恩寺を本陣、頭陀寺を脇本陣とし、12月18日引間城入場というルートを通ります。

 

最短コースをとらずに井伊谷を出発したあと、東区安間町にある東海道の接続地点に現れたのは、今川義元が桶狭間で討たれてからは衰退の道をたどる今川家ですが、まだ浜松の地では今川家に味方する者も多く、追分から現在の街中に入るルートは危険が伴ったからでしょう。できるだけ犠牲を払わず進めるルートを選択したことになります。

 

妙恩寺から見て西南、直線距離にして2キロほどに位置する頭陀寺では、次期井伊家当主直政(幼名・虎松)の実母・ひよが、松下源太郎清景という武将と再婚していました。

※清景の妹は本家・松下加兵衛之綱に嫁いでいますが、この父の時代に15、16歳の下男がいたとされ、この下男が豊臣秀吉といわれ、大河ドラマ「おんな城主直虎」でも登場したシーンです。

 

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実母・ひよにしてみれば、自分の産んだ虎松(後の直政)は、名族・井伊家の次期当主です。松下家が、名族・井伊家が従うと決めた徳川家康に味方することは、家柄や血縁が重要視された当時なら、当たり前だったのではないでしょうか?

 

このように、頭陀寺周辺を地盤とする松下家協力のもと、頭陀寺の場所を脇本陣として徳川勢に提供したことは想像がつきます。頭陀寺あたりなら、引間城の南東から睨みが利く状態になりますから。

 

東区の中でもこの妙安寺が本陣に選ばれた理由ですが、安間町の東海道との接続地点まできた徳川勢にとって、引間城に入城するには東海道を西進することが早道なわけです。450年以上前には、この近くに他宗の寺などはなかったようです。松下家の頭陀寺なら1200〜1300年、妙恩寺も700年の歴史があり、当時から存在していることは明確です。

 

浜松の街中へ進む道は現在ほどはないので、どうしてもに東海道を進むことになります。そこで選ばれたのが東海道に面している妙恩寺だったとしても、地理的な要因を考えれば何ら不思議なことではありません。

 

当時の頭陀寺が城郭的な作りだったように、妙恩寺も一種の砦の様相を呈していました。というのも、妙恩寺は東海道から入るとすぐに総門があり、続いて4つの末寺がありました。仮に攻められたとしても、山門を破り、4つの末寺を抜け、妙恩寺までたどり着くには時間がかかります。

 

さらに、妙恩寺の裏側の南面は天然の堀ともいうべき、芳川から船が入ることができる入江でした。ですから、大人数を収容でき、もしもの時にも入江を通じて脱出、兵糧が調達できる最適な場所だったのです。

 

先ほどの武田勢との「一言坂」での負け戦、天竜川を渡り敗走する徳川勢が一次避難所に「妙恩寺」を選んだ理由も、きっと砦の要素を呈していること、浜松城に対して東に位置し、南にある頭陀寺とともに、浜松街中を伺うには絶好の位置だったことがあるのではないでしょうか?

 

それに加え、妙恩寺は井伊家の親戚筋に日蓮聖人がいるとされ、橋羽(はしわ)の妙恩寺は日蓮がかわいがった孫弟子が建てた寺ともいいます。徳川勢が妙恩寺を頼りにするのもうなずけます。

 

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日蓮宗の家紋は「井筒に橘」

 

日蓮宗の家紋は「井筒に橘」で、井伊家の家紋は「井伊橘」で同じです。これは、当時の仏教各宗派は、宗派内の存在する由緒正しい出自の者との関係から、そこの氏族より家紋を拝借していたそうです。

 

諸説ありますが、日蓮宗宗祖の日蓮聖人は、井伊家から分かれた支流の出とも伝えられています。

 

井伊氏の始祖・共保から5代のちの正直が、分家して貫名(ぬきな)氏と称します。正直の孫にあたる重忠が、鎌倉幕府成立後、伊勢平氏の乱に加担したため、安房国片海(現在の千葉県安房小湊)に流罪になり、そこで生まれたのが日蓮聖人だといわれます。

 

袋井市にある貫名山妙日寺は、重忠の遺言により、遺骨を貫名に帰して葬り、居城跡に創建されたといいます。

 

妙恩寺の寺紋は「丸に二引き」

 

モデルはお茶碗にお箸という「丸に二引き」の寺紋がわかります。

 

伝承では、11代目住職の日豪上人は、三方ヶ原の戦いで敗れた家康を妙恩寺の天井裏に隠し食事をお出しし救ったことで、家康からの信頼も厚く、家康の浜松城在城時には囲碁の共として親交を深めています。

 

後に幕府を開いた家康から「丸に二引き」の寺紋を与えられ、さらに、日豪上人の為に浜松城内に一宇の精舎を建立し与えられています。現在の長光山妙恩寺がそれにあたります。

 

妙恩寺の現在のお手水

 

現在は手水鉢や飾られている飾瓦に「丸に二引き」の寺紋を見ることができます。この寺紋は、家康が助けられた時に出された食事のおわんに箸を載せた形をかたどったものだそうです。ちょっと笑っちゃいます。

 

妙恩寺の寺紋については、下記の中日新聞で連載中『浜松 歴史のとびら』の記事を参考にしています。

 

《妙音寺の寺紋》

 

三方原の戦いで大敗を喫してしまった徳川家康軍は磐田の一言坂の戦いで殿(しんがり)を務めた本多忠勝が信玄軍を食い止めたおかげで、家康はどうにか天竜川を渡ることができました。

 

「家康に過ぎたるものが二つあり 唐(から)の頭に本多平八」と信玄軍が感心したのは、この戦いのことだったといわれています。

 

天竜川を渡った家康は、妙音寺(浜松市東区天竜川町)にたどりついたときに、三河(愛知県岡崎)から遠江(静岡県西部)に兵を進めた時に宿陣したことがある寺だったことに気づきます。

 

「これで運が向いて来たぞ」とホッと息をつき寺に入り、「信玄軍に追われているから身を隠すことはできないか」と住職の日豪上人に尋ねます。

 

すべてを察した上人は「本堂の天井裏をお使いください」と、普段から妙音寺が万が一暴れ天竜が反乱した時のため避難所として造ってあったところに家康を匿いました。

 

実はこの日豪上人は追手の信玄軍の大将の父親だったにもかかわらず、仏の前では敵味方の区別はなく困っている人を助けるのが務めと考えた上人は「ここに逃げ込んできたものはいないか」と問われても読経をやめなかったそうです。

 

信玄軍は、上人の言葉を待つことももどかしくあちこち探した後、「どうやらいないようだ」と出ていってしまいました。

 

信玄軍が出ていくと、上人は家康に「もう下りても大丈夫です。」と声をかけ、食事までもてなしてくれたそうです。

 

無事に浜松城にかえることができた家康は、後日、城に上人を招き「今の自分があるのは上人の機転のおかげ」とあの時のお礼にと「丸に二引き」の寺紋を授けたと伝わります。

 

この寺紋は、家康が助けられた時に出された食事のおわんに箸を載せた形をかたどったものだそうで、今も妙音寺の寺門になっています。

 

引用元:浜松歴史のとびらP16 浜松歴史のとびら

 

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武田家によって出された禁制(浜松市の指定文化財)

 

家康が浜松で過ごした17年間で最も知られる出来事といえば、やはり『三方ヶ原の戦い』でしょう。放送前から大評判の大河ドラマ『どうする家康』がもしなかったとしても、きっとこの名前やエピソードは聞いたことがあるのではないでしょうか?

 

ちなみに、放送開始の1月8日の主演のマツジュンや、魅力的なキャストの皆さんが登場するイベントの抽選倍率は、浜松20倍、静岡で23倍、なんと岡﨑では196倍だとか!?織田信長まつりのキムタクを越えてしまった!そうです。

 

マツジュンや魅力的なキャストも皆さんも楽しみなのですが、徳川家康が生きていた時代の歴史がわかる文化財だって、かなり面白いんです。

 

今回いろいろ調べている妙恩寺(浜松市東区)には、武田家によって出された禁制が残されているんです。私は毎月届く「広報浜松」で知ったのですが、この禁制、1572年(元亀3年)11月1日に妙恩寺に出されたもので、浜松市の指定文化財になっているんです。

 

禁制とは、禁止令のことで、戦国時代には寺社などが戦いに巻き込まれないように有力な武将にお願いして、戦いに巻き込まないことを約束したものです。妙恩寺の他にも全国津々浦々で残されているようで、大阪の願泉寺には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が貝塚寺内に宛てて出したものがあり、日付の異なる三通が現存しているそうです。

 

この妙恩寺の禁制には、武田家の軍勢が妙恩寺において、濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)をすることを禁止し、もしそれに背いた場合厳しく処罰するという文言があるそうです。

 

戦で軍隊が通過するとなると、大掛かりな略奪や、女・子供への激しい暴力があることを実際に経験していますから、人々はさぞや恐れていたことでしょう。そこで、戦国時代の寺社などが、その軍隊を率いる大名に上記のような禁制を出してもらっていたということです。

 

この妙安寺の禁制の右上部には、武田家の竜の朱印が押されており、武田家が出した禁制であることがわかるそうです。今も残るこの禁制は、三方ヶ原の戦いに至る緊張感を伝える重要な文化財ということです。

 

実は、浜松市にはこの武田家の禁制のように三方ヶ原の戦いのころに作成された古文書はあるそうですが、それほど数が多くないそうです。

 

一方、三方ヶ原の戦いにまつわる由緒書(ゆいしょがき)は、自らの家や歴史を主張するために作成されたもので、徳川家康とのつながりを主張しているものや誇張しているものが多いそうです。

 

由緒書とは、皇室、公家、武家、庶民とあらゆる階層で、自己の家系や履歴、親族関係を記録して備忘に供したり、官職に就くなど人事上の手続きに際して作成、提出されて根拠とされてきました。江戸時代以降広く行われ、とりわけ武家では君臣関係を示す根拠として全家臣のそれを集めたものが、由緒書もしくは類似の署名を付して保存されたそうです。

 

最近よく耳にする「一次資料」「二次資料」など、まあよくわからないのですが・・・。由緒書が作成されたのは三方ヶ原の戦いより後の江戸時代のようですから、きっとたくさんの由緒書が残っているのでしょう。特に浜松のさまざまな階級の人達による、三方ヶ原の合戦についての由緒書には、徳川家康がやたらと登場しているのではないでしょうか?

 

そんな中で生まれたのが伝承だとすると、こんなにもたくさんの伝説が残る家康は「たぬきじじい」だとか「計算し過ぎ」とか言われるけど、割と庶民派で村の百姓達にもそのおっちょこちょいなことや、世間知らずなこと、お礼はしっかりする、甘いものが好き、なんてこともバレバレなのかも!?歴史っておもしろいですね。

 

こんな感じで「どうしてこのように書いたのか?」だとか、「本当にこんなことがあったとしたら、どういう背景で起きたのだろう?」と考えると歴史が面白くなるとyoutubeで研究員の方もおっしゃっていました。おっしゃるとおり本当でした。

 

参照元:広報浜松11~はままつ文化財の散歩道~第18話

    https://temple.nichiren.or.jp/2071009-myouonji/

 

最近ハマっている徳川家康。本も、動画も、映画も!と、寝る間を惜しんで頭に情報をインプットしている状況です。

 

そして、いろんな点が線で少しずつつながってくると、今度は大河ドラマ「どうする家康」のタイトル通りで、いろんな場面でどうしよう?と悩んでいる家康の姿が想像できてしまいます。なんせ、歴史にしっかりと2回自害しようとした様子が残っていますから。

 

健康オタクで薬草を自ら煎じるし、早寝早起きの鷹狩りで体力づくり、『延喜式』や、いままさに旬の『吾妻鏡』の和本、さらに『論語』『中庸』『史記』『漢書』『三略』『定観西洋』などの本を片っ端から読んでいる。どうみても弱っちい感じです。

 

1回目は、桶狭間の戦いで、主君今川義元を失い、敗軍の将として当時まだ17歳の家康が、織田軍の追っ手を振り払い、岡﨑城には入れず菩提寺の「大樹寺」にたどり着いたものの、門の外には迫ってくる敵兵が気勢を上げています。観念した家康は先祖代々の墓の前、特に祖父である清康の墓前で自害しようとしています。

 

そこへ現れた登誉上人から「厭離穢土 欣求浄土」を授けられ、平和国家建設に邁進せよと励まされ、自害しなかった。それからは「金色の扇」を馬印に、「厭離穢土 欣求浄土」を旗印に、「天下泰平」と書かれた軍配を振るってがんばるのです。

 

が、今度は「本能寺の変」が起き、明智光秀の謀反で信長、信忠父子が討たれます。大阪の堺にいた家康は「人生最大の受難」と嘆き、京都の知恩院でまたもや自害を考えます。

 

こいつはいかん!光秀には俺がここにいることがバレバレだし、伊賀越えをして三河に帰るにしても、一揆勢と遭遇してやられてしまうかも!?あーやだやだ。って感じでしょうか?

 

だけども、大丈夫!普段から家臣や周りのものに優しい家康を助けるのは、我らが本多忠勝。「なんとか生き延びて三河へ脱出し、光秀を討って信長の供養をするのです」と辛抱強く説得し、「うん!がんばる」と無邪気に自害をあきらめる家康。

 

だけども、なんやかんやで、250年も戦のない時代の礎をしっかりと築いていたんです。ってな感じで、いろんな由緒書や禁書などがせっかく残っているんだし、いろんな先生や家康好きな皆さんが研究してくれてますから、勝手にいろいろ想像したりして楽しみましょう。皆さんもぜひ!

 

\今売れてるって!私も買っちゃった/

徳川家康と武田信玄 (角川選書 664)

 

まとめ

 

今回の家康ゆかりの浜松は、東区天龍川町の妙恩寺をいろいろ調べてみました。まずは伝承を頼りに、どうして東区の妙恩寺に本陣を置き、頭陀寺を副本陣にしたのか?

 

家康が一言坂の戦いで負けて、必死で逃げている時に匿ってくれて、ご飯までいただけるなんて、徳を積んだ素晴らしい住職だったからなのはもちろん、やっぱり、弱っちいなりに、いつも家臣や周りの人のため頑張っている家康の人徳なのか?

 

そして、江戸幕府を開いてからだとしても、遅ればせながらとしっかり寺紋に土地、お寺まで作って差し上げる立派な家康を知ることができてよかったです。

 

昨日、映画『関ヶ原』を見て感じた家康とは、ちょっとちがう弱っい家康公をイメージしてしまうのは、やっぱりマツジュンの影響かしら?

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。