🕖2022/12/22 🔄2023/03/30
こんにちはsannigo(さんご)で。いつもありがとうございます。
まさに遠州地方の紅葉の盛りとも思われる12月中旬に、赤や黄色に染まる木々の間から、歴史ある建物を思う存分に楽しむことができる「可睡斎」を訪ねました。
「可睡斎」の名は、故事から家康公が名付け親ともいえ、600年の歴史を刻む曹洞宗専門僧堂「禅の寺」として知られています。
数世紀の歴史のある仏教寺院で、春の牡丹・百合や、寺一面にお雛様が飾られるひなまつり、夏は風鈴まつり、秋の紅葉まで4時間以上散策も楽しめます。最近話題の健康食として人気の高い「精進料理」も人気です。
ご利益は火災消除をはじめ、厄除守護、無病息災、生業繁栄、商売繁盛、学業成就、合格祈願、良縁成就、安産祈願、交通安全等、どんな願い目でも大丈夫。
紅葉を楽しみながら今回訪れてみて、思ったより広くすべてを回りきることができませんでした。今後何度でも訪ねて、広い境内を隅から隅まで散策してみたいと思えた「可睡斎」のいろいろを調べてみました。
萬松山 可睡斎
徳川家康が名付け親の古刹に作られた枯山水庭園に、文化財建築まで。日本でも有数の32段・1200体が展示されるひな祭りのひな壇は圧巻!!可睡斎を一通り見学するには4時間30分必要とされるほど広く、ゆっくりと散策するのに適しています。
地元の皆さんは親しみをこめて「お可睡さん」と呼ぶそうです。四季折々の自然や、静かな禅を感じたくなったら、5時間くらいかけてのんびり散策したくなる場所です。
場所:静岡県袋井市久能2915-1
《アクセス》
JR袋井駅より遠州森町行きまたは気多行きバスに乗車、「可睡斎入口」バス停下車(バスで約12分)
車:東名高速道路袋井ICより約5分
新東名高速道路森掛川ICより約15分
東名高速道路掛川ICより約30分
駐車場:あり
開園時間:8:00~17:00
休業日:なし
拝観料:500円
※駅から離れていることから車の方が便利です。車椅子対応の駐車場もあります。駐車場から坂や階段の昇り降りがあるので、足の悪いかたは難しいかもしれません。
御朱印あり:300円 総合受付で申込みをし、お参りしたあとに僧侶から受け取れます。
精進料理:日本一の典座和尚(料理長)が作る精進料理(1週間前までに要予約)
体験:座禅、写経、宿坊等(要予約)
おみくじ:種類が豊富で楽しい
※上の写真の「安鯛おみくじ」と「勝おみくじ」のように、カツオやタイの魚型のおみくじを竹竿で釣り上げるかなりユニークなおみくじもあります。
他にも快適な眠りを守ってくれるお守りも置かれているそうです。睡眠不足の私は見つけられず(泣)。境内のどこかにあるはずの、昔々の可睡斎の和尚さんのようにゆっくり眠れるような可睡斎の眠りのお守りを次回こそ見つけてみます。
1401年(応永8年)如仲天誾禅師が開山した600年の歴史を刻む名刹です。聖観世音菩薩をご本尊とし、高祖承陽大師(こうそじょうようだいし)と太祖常済大師(たいそじょうさいだいし)が両祖です。
徳川家康との故事により「可睡斎」と称され、秋葉の火伏として信仰を集める秋葉総本殿三尺坊大権現を祀る祈祷道場として、また多くの雲水たちが修行する曹洞宗専門僧堂「禅の寺」として知られています。
約33万㎡、東京ドーム約10個分と広大で、建造物は25棟、拝観ポイントも40ヶ所もあるそうです。誰もが、座禅を組む体験、宿坊で過ごす体験もでき、精進料理をおいしくいただくこともできます。
「可睡斎」の名前の由来
可睡斎の名前の由来には、徳川家康が大きく関わっていることをご存じの方も多いでしょう。
こちらの可睡斎は、家康が浜松城主だったころに幼い頃より縁のあった11代目住職の仙鱗等膳和尚を城に招き、その席上で和尚が居眠りをする姿から、「和尚、眠る可し」と称したことから、等膳和尚は「可睡和尚」と愛称されるようになり、寺号を東陽軒から「可睡斎」に改めたと伝わります。
11代目住職の仙鱗等膳和尚は、幼少期今川家の人質として過ごした松平竹千代(後の徳川家康)の教育を受け持っていたとのこと。その時にお世話になったお礼をしたいということで、浜松城に招いたそうです。
家康に保護された「可睡斎」は、江戸時代には10万石の待遇を得た遠州を代表する大寺院です。さらに、”火の神様”秋葉山(秋葉神社)秋葉三尺坊大権現様の御神体を安置した「秋葉総本殿」としても広く信仰を集め多くの人が訪ねています。御真殿の「秋葉山総本殿」の扁額は有栖川宮幟仁親王の筆によるものです。
先日12月15日〜16日の夜には「火防大祭・秋葉の火まつり」が行われ、火渡りなどの神事がおこなわれ賑わったようです。
袋井には他に、厄除けだんごが有名な『法多山』、目の仏として厚く信仰される『油山寺』があり、「可睡斎」も合わせて『遠州三山』と呼ばれています。
では、さっそく初冬の寒さも感じた”遠州で最も紅葉がきれいだった”と思えた「可睡斎」をお参りしていきましょう。
左右に晩秋なら紅葉した木々を眺めながら参道を通り、山門をくぐると正面に本堂。右手には瑞龍閣、左手には坐禅堂が見えます。
本堂の左の階段を登ると秋葉総本殿、位牌堂の左手を通り、水行池を右手に見ながら山を登っていくと白亜の護国塔があります。
総門
高麗式の珍しい総門は、檜の本柱2本と控柱2本からなり、本柱上に立派な切妻屋根と、控柱に小さい切妻屋根がかかっています。現在の総門は2019年11月末に再建されたものです。
酒塚観音
総門をくぐって、左手の枯れ葉を踏みしめながら森の中の階段を登ると、その「酒塚観音」があります。酒ダルに座った観音様でなんとも珍しいお姿ではありますが、熱心な信徒さんがお酒の功徳に感謝して建立されたそうです。
井伊直勝の墓
国宝の彦根城を築城した徳川四天王の一人、しかも浜松生まれの武将ということで名高い「井伊直政」の息子である直勝のお墓がこのような場所にあるとは・・・。
思いもかけず見つけてしまったのですが、あまりにもひっそりと佇んでいるのはどうして?なんて思いながらお参りさせてもらいました。機会があったら「井伊直勝」のことも調べてみたいです。
井伊直好の墓
なんと、直勝の長男、「直好の墓」までありました。こちらは水行池の手前を右手に折れた木々の間を抜け、分かれ道を左に入ると五重塔があるのでわかります。
井伊直好は掛川藩の初代藩主で、掛川城の城主だったのです。こちらもしっかりとお参りさせてもらいました。
山門
建築界の重鎮だった伊東忠太氏が設計した山門です。1935年(昭和10年)に設計された設計図をもとに2010年(平成22年)に完成した門です。
山門両脇の金剛力士像の阿形像と吽形像は「憤怒の相」をし、山門をくぐり抜ける時に上を見上げると梁に阿吽の獅子が二対にらめっこ状態です。
さらに、屋根を見上げると、龍とも魚とも見えるものがいくつか並んでいますが、これらは妖怪好きで知られる伊東忠太氏の遊び心あふれる妖怪どもらしいのです。
瑞龍閣(ずいりゅうかく)
山門をくぐり、石段を登ると右手に見える板塀が多く使われている趣深い建物が、瑞龍閣です。正面に大唐破風(おおからはふ)の曲線屋根が印象的な玄関が開かれています。
瑞雲閣は1937年(昭和12年)に建築された、総檜造りの2階建ての建物で、安土桃山時代を彷彿とさせる書院造り風です。築地本願寺の本堂を復興させた建築家伊東忠太の弟子である金子清吉が設計を手掛け、2014年(平成26年)に国の登録有形文化財に指定されました。
『可睡斎』のホームページによると、1階の6部屋を歩けばまるで迷宮に迷い込んだような気持ちになるそうです。迷い込んでみたい!
2階には50畳の広間「牡丹の間」「菊の間」、合わせて100畳の大広間が広がっているそうで、100畳って?どのくらいなんでしょう。見当もつかないほど広いんでしょうね。
2部屋の境にある欄間彫刻や、折り上げ格天井から吊るされた和製シャンデリアも豪華だそうで、また、趣のある木枠の窓から外を眺めると、袋井の町並みを一望できるようです。
天井画と襖絵は
山口玲嚥画伯が40年かけて完成させた大作で、梅、鶴、桜、菖蒲、藤、牡丹、菊などの花鳥風月が描かれています。華やかな格天井と調和する襖絵の花鳥画や欄間は、部屋ごとに移りゆく季節をたのしむことができます。
床脇や障子の腰板に慎ましく咲く草花をよく見ると、下書きの黒い線だけが残る未完成の部分もあるんですって。長い年月をかけて作り上げられた空間ということがよくわかります。
さらに、この襖絵は、「一度見た時、二度見た時」、また年齢とともに見え方が変わっていくともいわれているそうで、試してみたくなります。
おさすり大黒
山門をくぐった右手には、大きな笑みを浮かべた『おさすり大黒天』が打ち出の小槌を持った左腕を上げています。大黒様といえば、財運を高めるご利益のある七福神の一柱として知られます。「ひとさすりで福を招き、ふたさすりで徳を授かり、みさすりで満足を戴く」とのこと、もちろんテカテカ光るお腹と足をひとさすりしてまいりました。
本堂(法堂)
重厚な入母屋造りの本堂は、明治の中頃の冨里(旧浅羽町)の松秀寺から移築したものだそうです。向拝の軒下や梁の上には美しい装飾彫刻がなされています。もちろん徳川家康ゆかりということで「三つ葉葵」も、あちらこちらで見られます。
御真殿(ごしんでん)~秋葉総本殿~
秋葉総本殿である御真殿に向かう階段の途中、両脇の大きな天狗像に驚かされます。
左を護る鳥天狗は何やら剣を持っているし、秋葉総本山を護る鼻高天狗の目はぎょろりとして、想像通り鼻が高い天狗様です。どちらの天狗様も人々を救おうと立ち上がった姿だと言われているそうです。
御真殿は、1300年の歴史を持つ秋葉三尺坊大権現様の御ご真体を祀る火防の総本山だけあって、向拝には、有栖川宮幟仁親王により賜った「秋葉総本殿」の扁額が黄金に輝いています。
拝殿には、数々の天狗の画や、掛け軸、徳川家康公と仙鱗等膳和尚の「睡る可し(ねむるべし)」の一場面を描いた絵などが飾られています。
もともと、秋葉三尺坊大権現様の御真体は、秋葉山山頂の寺に祀られていましたが、明治6年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺になってしまったため、可睡斎が三尺坊様の御真体、仏具すべてを引き取ったとのこと。
殿内は薄暗く、多数の千社札が貼られており、現在も365日休むことなく読経と祈祷大鼓の音が響きわたっています。ある意味独特な雰囲気ですが、このように厳かに大切にお祀りしているからこそ、現在も火災除け、火伏の信仰を多く集めているのでしょう。
僧堂(坐禅堂)
入母屋造桟瓦葺の僧堂は、雲水が畳一畳で寝泊まりする修行の場でもあり、中央には僧の形をした文殊菩薩像が座禅を行う人々を見守っています。
予約は必要なようですが、朝5時から雲水たちと一緒に座禅体験ができるそうです。
護国塔
円形ドームの白亜の塔が「護国塔」で、「東の靖国、西の護国塔」とその名をよく知られる1911年(明治44年)に建立された、高さ17.1mの鉄筋コンクリートづくりで、青空によく映えます。
日露戦争の戦死者の霊を祀るために建築されたもので、正面入口には柱頭の三方に馬頭を模したエンタシスの柱が左右に立っています。昭和53年3月24日に静岡県指定有形文化財に指定されています。
輪蔵堂(りんぞうどう)
八角堂の中には大きな輪蔵があり、中心軸に沿って回転させることが可能です。一人ずつ階段を登り、左側からぐるりと輪蔵を時計回りに一回転させると「大蔵経」を読んだことと同じ功徳を得られると知り、欲深い私はしっかりと回しました。
看板にもあるように、輪蔵とは仏教の寺院内等に設けられる経蔵の一種です。回転式の書架であり、正しくは転輪蔵というようです。
出世六の字穴
戦国時代、三方ヶ原の戦いで武田信玄率いる武田勢に追われた徳川家康公が、この可睡斎の洞窟に隠れて命拾いをしたと伝わる洞穴もあります。
命拾いをした徳川家康公は、その後国を平定し、天下泰平の世を作ったという出世の故事になぞらえて、出世六の字穴と呼ばれるようになったそうです。
六の字は六観音(正観音、千手馬頭、十一面、准胝(じゅんでい)、如意輪(にょいりん))から名付けたものといわれています。洞窟は奥行きが10mほどで、内部は数字の6の字の形状をしていて、ぐるりと回ることができる穴となっています。が、現在は入洞できませんでした。
3/30追記
県外のほら穴事故をきっかけに立入禁止になっていた出世六の字穴ですが、安全面で問題なしということで一般公開が再開されました。
地蔵堂(旧東陽軒)
可睡斎に入る総門の手前の参道脇に立ちお地蔵さんが並んでいる地蔵堂は、可睡斎の始まりとされる、”五五世太路一遵が如仲天誾禅師について出家し、久野城外の松樹下の大通庵を探り当て、坐禅をしていたところ、毘沙門天から奇瑞を感得し、お告げ通りお堂を建て、東陽軒と名付けました”という『旧東陽軒』になります。
ゆり園
初夏には隣接するゆり園が見頃になりますし、4月〜5月には境内のぼたん園でも2,000株の牡丹が咲き誇り、遠州の牡丹の名所としてもよく知られています。四季を問わず、花や自然を愛する人々も多く訪れます。
可睡斎の寺院内の拝観
可睡斎の寺院内の拝観も有料ですが可能です。今回は異常な寒さでささっと帰ってきてしまいましたが、暖かくなったら出かけようと思います。
徳川家の御霊屋がある「本堂」、日本一のトイレとして有名な「大東司(だいとうす)」、雲水たちの修業の場「僧堂」、40年もかけて山口玲熙画伯が完成させた「天井画」や「襖絵」が美しい「瑞龍閣」を拝観できるんです。
可睡斎庭園
現在庭園は3つあり、現在の形になったのは昭和初期とされる大庭園「法華蔵界の池(はちすのいけ)」と、2019年(令和元年)に修復と新規に作庭された「玲和の庭」と「鶴亀庭園」です。
3つある庭園のうち無料で見学できるのは、令和元年に完成した「鶴亀庭園」です。昭和12年に建築された瑞龍閣の下の位置にあります。
左にあるのが亀石組で、右に鶴石組が配された「鶴亀庭園」で三ヶ日石を利用しています。ですが、現在(2022年12月15日)台風15号の豪雨による被害で、境内の斜面が崩れてしまっているため工事中でした。
ちなみに、復旧工事のためのクラウドファンディングを【遠州三山 可睡斎】台風15号豪雨によるがけ崩れ復旧工事にご支援を(Kasuisai 2022/12/19 公開) - クラウドファンディング READYFORで、募集されています。
法華蔵界の池
拝観料を支払って入館すると、まずは高祖廟(こうそびょう)から大庭園「法華蔵界の池」の額縁庭園が見れます。まるで額縁に描かれた絵のようなお庭です。
左手に大書院を望みながら眺める大庭園が「法華蔵界の池」です。背後の山の斜面を活かした枯滝石組と鶴と亀を配し、水をたたえる池を配した特異な枯山水庭園だそうです。が、かつては滝に水がながれていたこともあったそうです。
続いて、大書院に隣接するのが日本一のトイレ「可睡斎大東司(だいとうす)」です。大東司中央には、威圧感のある烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)が立っています。
日本一の大東司と烏蒭沙摩明王
大庭園を左手にして廊下を進んだその先に、昭和12年に完成した、日本一の大東司と謳われる男女兼用の水洗トイレがあります。
日本一と称される可睡斎のトイレの神様はここ大東司にいるのでしょう。まさに、凛と張り詰めた空間になっていて、とてもトイレだとは思えません。
水洗トイレが珍しかった当時は、このトイレを一目見ようを大勢の人が押し寄せたといいます。しかも、中央にはなにやら不気味な大きな像が立っているのです。
大東司の中央に烏蒭沙摩明王像
大東司の中央には、踏み入るのもためらうほどの威圧感がある烏蒭沙摩明王像という不浄を清める仏様の像が立っています。
この烏蒭沙摩明王像は、高村晴雲の一大傑作で、日本一大きな御尊像だそうです。もちろん賽銭箱もありますので、お参りできるってことでしょう。
トイレの右手には、男性用の白い筒型小便器が並び、正面には木の扉の個室があります。たくさんの見物人がこのトイレを訪れるのですから、しっかりと見えないようになっているみたいです。
天井を仰ぐと、トイレとも思えないほど豪華な作りで、中央のドーム型天井からモダンな照明が下がっています。
ピカピカに磨かれた木の床に降りると、まるで和風モダンのリビングのようです。ここがトイレだとは到底思えない感じですが、今でも現役で使用されているそうです。
可睡斎が建てられた当時は病院や薬も充分でなく、トイレから発する病の元を断ち切って欲しいという願いが込められているそうです。
烏蒭沙摩明王とは?
古代インド神話に於いて元の名をアグニと呼ばれた炎の神で、人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧(かしょうざんまい)」と呼ばれる炎の世界に住むといわれ、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう、聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くすといわれています。
また、”清浄なる自己に目覚めさせる徳をもつ”といわれ、禅宗では東司の仏様として祀られています。
大東司を見守る烏蒭沙摩明王像は、腕が4本で、左手は天を指し、されこうべを持ち、右手は宝棒と独鈷(とっこ)を持っているとか。右足で磐石の上に立ち、左足で歓喜天を踏んでいるそうす。
憤怒の顔をしており、首には瓔珞(ようらく)をかけ、頭の毛は逆立ち、殺気迫る感じがするそうです。もしかして、トイレで用を足している場合ではないのではないでしょうか?
可睡斎には全国でも珍しいトイレの札
可睡斎には全国でも珍しいトイレの札があります。烏蒭沙摩明王様のお札を、トイレの中かのドアや、壁の目線より少し高い場所に画鋲を使わずに貼るか、お札入れの中に入れ、棚に置きます。
トイレを使用する時や掃除をする時に、日々健康でいられるようにと感謝の念を送ると良いとされています。
参照元:
日本一の大東司(だいとうす)と烏蒭沙摩明王 | 秋葉総本殿 可睡斎
ここで、家康と可睡斎がいったいどんな関係があったの?と思われた皆さまに、一番わかりやすい記事を引用しておきましょう。
御朱印
今回も貴重な御朱印をいただけるチャンスということで、張り切っていた同居人。可睡斎では、お参り前に総合受付で申込みをしておいたようです。
お参りしたあとに総合受付に寄ったら、何人かの僧侶がいらっしゃって「これから遠州三山へおでかけですか?」などと話しかけていただき、大変喜んでいました。
家康と可睡斎
徳川家康が浜松城の殿様だった時のことです。
「等膳という名前の和尚がいる。どうしてもお会いして話をしたいので、なんとか探し出して欲しい」
家来は各地を手分けして探しましたが、なかなか見つかりません。ようやく篠島(愛知県知多半島の南の沖の三河湾に浮かぶ島)の寺にいることが分かりました。
「等膳様は、篠島の寺で住職を務めています」
家康のたっての願いで等膳和尚を直ちに浜松城に召し出すことにしました。
20年前、家康は駿府(今の静岡市)で人質生活を送っていました。亡くなった父親の墓参りをするために三河国(今の愛知県東部)に戻りたくても、今川氏は許してくれませんでした。
「あの時は、そなたの格別のはからいで無事に岡﨑(今の愛知県岡崎市)へ帰ることができた。遅くなったが、礼を言わせてくれ。」
和尚は、篠島から夜を日に継いで駆けつけてきました。殿様の御前であるものの次第に緊張がほぐれて気が緩み、とうとう居眠りをしてしまいました。殿様に無礼ではないかと家来は気が気でなりません。
正体なく眠る和尚に気づいた家康は「大変お疲れのようだ。ゆっくり休んで眠る可し(べし)」と笑いながら仰せになり、そっと部屋を出ました。この様子を見ていた家来は、等膳和尚のことを「居眠り和尚」と噂し合いました。
家康は家来に「和尚の居眠りを無礼と思うかもしれないがそうではない。和尚は我を見ること愛児の如し。ゆえに安心して眠る。我はその親密の情を喜ぶ。和尚眠る可し」と話しました。
翌朝、家康は「昨夜はたいそう眠ったのか」と尋ねると、和尚は「長旅の疲れとはいえ失礼しました」と答えました。家康は「篠島にいてはお会いするのも難しい。遠州の地の寺の住職になってくれ。後世に無ニの信忠を残すため、寺の名を可睡と唱えるべし」と仰せられました。
こうして家康が名付け親になった「可睡斎」という名前の寺が生まれたと伝えられています。
引用元:中日新聞「遠州歴史のとびら〈202〉」より
中日新聞朝刊浜松・遠州版連載を書籍化した 浜松歴史のとびら(山崎章成さん著)は、現在絶賛発売中です。「歴史」をキーワードに、浜松市の魅力をたっぷり紹介する一冊で、もちろん私も購入しました。
まとめ
今回は、家康とゆかりのあるというか、家康公が名付けの親とも言える袋井三山の一つ「可睡斎」を訪ねてみました。
「可睡斎」の由来となる、”家康公が居眠りする和尚を叱ることなくにっこり微笑んで「和尚、我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。我その親密の情を喜ぶ。和尚眠る可し 眠る可し(ねむるべし)」と申された。”というできごとは、家康公の好感度アップ間違い無しの出来事ですよね。
きっと「和尚よ、今でもわしはそなたにとっては可愛い子供なのじゃろう。その情が伝わるからわしは嬉しいのじゃ。家臣のことなど気にするでない。安心してゆっくり眠るがいいさ。眠るべし、眠るべし。」といった感じで、家康公は言ったのではないでしょうか?
心あたたまるエピソードを知り、いつか行きたいと思っていた「可睡斎」ですが、ちょうど、「いきなり寒気がやってきたー」と寒さに震えた12月15日、訪ねてびっくりしたのは「これって紅葉の盛りですよね。今が一番キレイなんですよね」ってこと。
さすが暖かい静岡県です。紅葉のピークが、なぜか忙しく感じる「師走」、しかも中旬になってから(笑)
最高のシチュエーションの中で、家康公ゆかりの「可睡斎」を訪ねて、その壮大な自然の美しさや、建物が多いこと、さらに、おみくじが楽しい工夫でいっぱいなことに感激しました。
ですが、自然災害が増えているこの温暖化の影響で、可睡斎は何度も台風の被害にあっています。しかも、崖がくずれたままという(工事中でした)状態です。復旧工事のためのクラウドファンディング募集中ということで、5,000円から参加できるようです。
正月を無事越せたら、強欲な私もクラファンについて考えてみたいと思っています。拝観料を払ってしっかりと中も見たいですし、特に大東司、あの立派な烏蒭沙摩明王の像を拝んでみたいのです。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。