sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

日本初の本格木造天守閣でその美しさから「東海の名城」とうたわれる掛川城

🕖2023/01/09    🔄2024/06/27

<PRを含みます>こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

ついに、待ち望んだ大河ドラマ『どうする家康』の放送が昨日から始まりました。予想以上に人間らしい、優しく穏やかで夢見る乙女くらい怖がりなプリンスの登場にワクワクが止まりません。

 

”静岡から浜松、そして岡﨑まで”家康公演じる松潤+杉野さん+山田さんが出陣式をリレーするという大人気のイベントには、前夜から最前列に並んだというツワモノまでいらっしゃると報道されていてさぞや寒かったのでは?と驚いています。

 

駿河(静岡県東部)・遠江(静岡県西部)・三河(愛知県西部)を治めていた今川義元が、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られると、これらの地域は徳川氏と武田氏の激しい戦いの場となり、さまざまな城が築かれました。

 

これらのお城は当時の武田氏と家康の激しい攻防を物語り、特に最大の激戦地としてよく名前があがる『高天神城』は難攻不落のお城としてお城マニアの皆さんからも人気があるようです。

 

この静岡県は、中世から近世の城郭の宝庫としてよく知られ、家康とのつながりの深く身近な存在のお城が多いため、お城目当てで訪ねる人も多いと聞きます。

 

特に今年は大河ドラマで『どうする家康』が放送されていますし、嵐の松潤が「もう嫌じゃー」だとか、「どうしたらえんじゃ」と弱音を連発し、これまでの神のような存在と思われがちだった家康公が頼りない人物のように描かれ、そのヘタレな部分がめっぽう親しみやすく新鮮だと評判です。

 

この大河ドラマ放送を機に戦国時代に興味を持ち、歴史を調べたりお城やゆかりの地を訪ねてみたいと思う方もますます増えるのではないでしょうか?

 

今回は徳川家康にゆかりも深く、山内一豊が天守閣を築いた「東海の名城」で日本100名城に認定された『掛川城』のことを調べていこうと思います。

 

日本初の本格木造天守閣の『掛川城天守閣』

 

 

東海の名城『掛川城』

 

日本で初めて「木造」で再建された天守閣で、平成6年に140年ぶりに再建され美しくかっこいい姿を現しました。天守閣からの景色もすばらしく、桜の季節には最高に楽しめる東海の名城です。

 

 

場所:静岡県掛川市掛川1138-24

 

《アクセス》

電車・バス:JR[掛川駅]から徒歩約7分
東名高速道路[掛川IC]より車で約10分

有料駐車場:大手門駐車場200台
      掛川城公園駐車場50台

 

天守閣・御殿

入場料:大人(高校生以上)410円/小中学生150円
営業:9:00〜17:00 (入場は16:30まで)
休み:年中無休

御城印:いただけます(御殿入口で選べます)

 

いくつかの種類から選んだ『掛川城』の御城印

 

遠江支配の拠点掛川城

 

1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、1568年(永禄11年) 義元の子氏真は甲斐の武田氏に駿河を追われ、掛川城に立てこもりました。翌年、徳川家康は掛川城を攻め、長期にわたる攻防の末和睦により開城させました。開城後は徳川氏重臣石川家成(数正の叔父)が入城し、武田氏攻攻に対する前線基地となりました。

 

1590年(天正18年)小田原の北条氏を滅ぼし全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ封じました。

 

徳川家康の本領の三河や、長年苦労して広げた駿河・甲斐の旧領地を秀吉配下の大名を配置し、家康と家臣たちには慣れ親しんだ土地を離れて遠い国に”転勤”するよう命じたのです。そこで、掛川城には山内一豊が入り城主として10年間在城しました。

 

働き盛りの一豊は、大規模な城郭修築を行い、掛川城に初めて天守閣をつくり、大手門を建設しています。さらに、城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注ぎました。

 

掛川は、一豊の人生にとって大きな意味をもつ土地であり、高知城は掛川城を模して作られたともいわれています。

 

山内一豊といえば、「司馬遼太郎」(しばりょうたろう)の「功名が辻」の主人公としても知られる戦国武将で、2006年にはNHK大河ドラマにもなりました。

 

千代とその夫一豊を主人公としたドラマで、内助の功の代名詞ともいえる一豊の妻千代と、桶狭間から関ケ原までの戦国時代を駆け抜け、やがて土佐国(現在の高知県)24万石の大名へと大出世を果たした夫一豊。2人の愛と知恵の歴史が描かれ人気でした。

 

ドラマからもわかるように、山内一豊は口数の少ない穏和な性格で、華々しい武勲もそれほど多くなかった戦国武将でしたが、その反面、「織田信長」や「豊臣秀吉」、「徳川家康」という天下人達から厚い信頼を得ていた人物でした。 

 

掛川城には技巧的な虎口(こぐち/城の出入り口)や複雑な城道など、戦国時代ならではの築城技術が見られます。

 

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1994年再建された日本初の木造復元天守閣

 

青空に映える1994年に再建された掛川城『天守閣』

 

掛川城の天守閣といえば、将棋の藤井聡太八冠が2024年3月8日に訪れ、最上階から町並みを眺めたということで話題になっていました。実はこの日は掛川城二の丸茶室で「王将戦」が行われる予定だったとか。お出かけになられたファンの方もいらっしゃるのでは?

 

現在行われいる「掛川城天守閣の工事」は2023年2月1日から再開を予定されていましたが、工期延長により3月31日(金)まで休館になったようです。桜が咲く4月頃には、多分美しく修復された掛川城天守閣を眺められることでしょう。

 

待ちに待った修復工事も令和5年3月で工事完了になったとのことです。すでに囲いはすっかり取り外されております。

 

また、白い漆喰壁と黒い廻縁・高欄が生み出す美しい景観が楽しめるようです。特に、漆喰壁の修復には「土佐漆喰」を使っているため、今後6ヶ月程度のみ薄黄土色の天守閣を望むことができるので、貴重な機会を逃さず薄黄土色の天守閣を楽しみましょう。

 

貴族的な外観をもつことから「東海の名城」と謳われた掛川城天守閣は、外観3層、内部4層から成ります。

 

6間×5間(約12m×10m) の天守閣本体は、決して大きいものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり入り口に付櫓(つけやぐら)を設けたりして外観を大きく、複雑に見せています。

 

一階、二階に比べ4階の望楼部(ぼうろうぶ)が極端に小さいのは、殿舎の上に物見のための望楼を載せた出現期の天守閣のなごりといえます。

 

白漆喰塗り籠めの真っ白な外容は、京都聚楽亭の建物に、黒塗りの廻縁・高欄は大坂城天守閣にならったと考えられます。

(パンフレットより)

 

1854年(嘉永7年)安政の東海大地震により天守閣など大半が損壊し、再建されることなく明治維新を迎えましたが、掛川市民の熱意と努力で、1994年(平成6年)に140年ぶりに本格的な木造天守が再建され、再び美しい姿を現しました。

 

太鼓櫓

 

『太鼓櫓』[写真AC]と、御殿の広間にてんじされている『大太鼓』

 

城下に時を知らせるための大太鼓を納めてあった建物ですが、外観のみ見学できます。この太鼓櫓で当時使われた『大太鼓』が現在、市の文化財に指定され、掛川城『御殿』の広間に展示されているので外観のみ見学できてよかったです。

※太鼓は鳴らさないように!というご注意が真ん中に貼られていました(笑)

 

掛川城の見どころは?

 

※追記(2024/06/27)

2023年に修理を終えた掛川城天守閣を2024年6月に訪ねましたので、真っ白な漆喰の壁の天守閣を含め改めて見どころを美しい景観と共に解説していきます。

 

では、車を市営の『掛川大手門駐車場』に駐車して『大手門』から『天守閣』を目指して歩いていきましょう。なんと、大手門は『掛川大手門駐車場』の目の前にあります。

 

大手門

 

掛川城『大手門』と大手門の『案内板』

 

掛川城大手門は、大きさは約12.7m、奥行約5.4mの二槽式の櫓門です。掛川城の表玄関らしく楼門造りの本格的な櫓門は、木造日本瓦葺き入母屋づくりで、棟上には鯱瓦が飾られた勇壮な建物です。

 

大手門の『礎石根固め石』と、その案内板

 

門の内側には礎石根固め石が展示されています。『礎石根固め石』の案内板にもあるように、二層式の櫓門(楼門)、大きくて重量のある門のため、傾いたりしないように基礎行工事に工夫が凝らされていたそうです。

 

1993年(平成5年)の発掘調査で発見された門の基礎部分「基礎根固め石」12個の内の一つが展示されているようです。直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4~5段積み重ね、その上に門柱の礎石が置かれていました。

 

この根固め石は新しく作られた道路に現地保存できないため、そのままの状態で取り上げたそうです。平成7年に往時の位置から50m北にずらして復元されています。

 

大手門番所

 

場内に出入りする者を監視する役人の詰め所『大手門番所』

 

江戸時代後期に建てられたこの『大手門番所』は、場内に出入りする者を監視する役人の詰め所だったそうです。この番所は、掛川宿と掛川城とを連絡する唯一の番所で、場内に出入りする者はすべてここで調べられました。

 

現在の建物は1854年(寛永7年)の大地震で倒壊後、1859年(安政6年)に再現された全国的にも珍しい現存する番所で、市の指定文化財に指定されています。

 

ここで、朱色の鳥居が見えてきました。『三光神社』もお参りしましょう。

 

三光稲荷

 

山内一豊が勧請したという『三光稲荷』

 

案内板によれば、山内一豊公が文禄年間に掛川城主として、大手郭と大手厩の鎮守として伏見稲荷を勧請されたとのことです。

 

三光稲荷御由来

三光稲荷は、名馬の誉れの出世で有名な山内一豊公が掛川城主として文禄年間に城と城下町の大改築を行われたが、丁度この時期に豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わった御縁で大手郭と大手厩の鎮守として伏見稲荷を勧請されました。

三光稲荷の由来は南北朝(吉野朝)時代の はじめの延元元年、後醍醐天皇が京都の花園院から吉野へ御幸をされる十二月二一日の深夜暗闇から難渋され途中伏見 にさしかかり稲荷大社の御前で、

ぬばたまのくらき闇路に迷うなり

われにかさなんみつのともし火(三の光)

と、御製を詠まれ、道中の安全と神助を祈願すると不思議に明るい一群の雲が現れ御幸の道を照らして無事に大和へ導か れたという故事があり伏見大社の本殿の脇には御製の碑が、吉野山金峯山には 「導稲荷」があり東京新宿三光町の花園神社(三光稲荷)は吉野より勧請されたといわれこうした御利益から大手厩の構内にお祀りされました。

(案内板より)

 

逆川の岸はユリがたくさん咲いていて香りも抜群です

 

川岸にはたくさんのユリが植えられ花はもちろん香りまでが楽しめる『逆川』を、涼みながら(汗を拭きながら)進み天守閣を目指していきます。

1644年(正保元年)徳川幕府に提出したという『正保絵図』

 

大きな『正保絵図』を見てから、階段をえっさほいさと登っていきます。大したことなさそうな階段ですが、正直息が切れます。もちろん、天守や本丸を囲んでいる内堀には『松尾池跡』『十路盤(そろばん)堀』に『三日月堀』もあります。

 

天守への階段と、(わかりづらいですが)丸みを帯びた『三日月堀』

 

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三日月堀

 

上から見る『三日月堀』

 

本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8メートルあり、調査では、堀の南側から石垣が見つかり、その下からは柱穴が並んで見つかりました。

内掘にはこの三日月掘の他、十露盤(そろばん)堀・松尾池などがあります。

 

ここから右へ行くと『二の丸茶室』、ここから見える天守閣はまだ遠い!

 

霧吹井戸の伝説

 

徳川家康が掛川城に逃げ込んだ今川氏真を攻めようとした時に井戸から立ちこめる霧で、徳川軍が攻撃できなくなったという伝説が残る『霧吹井戸』は、天守台の脇に現存しています。

 

伝説に残る『霧吹井戸』

 

東海を制す重要な拠点だった掛川城には、さまざまな言い伝えが残っており、霧吹井戸の伝説もそのひとつです。この伝説以降、掛川城は「雲霧城」とも呼ばれるようになったといいます。

 

西から徳川家康、東から武田信玄に攻められた駿河の今川氏真は、重臣朝比奈泰朝の掛川城へ逃げ込みます。この城を落とそうと1568年(永禄11年)から1569年(12年)家康が攻撃を仕掛けた際、井戸から立ちこめた霧が城をすっぽりと覆い隠し、徳川軍は攻撃できなくなったといい、家康軍の攻撃から城を守ったいう伝説があります。

 

天守閣

 

『天守閣』から見える『掛川古城』辺りの風景

 

大好きなNHKBSで放送されている『英雄たちの選択』や、NHK総合の『歴史探偵』などの番組でよく見る、天守台の張り出した部分に設けられた石を落としたり、槍を突き出したりして、石垣を登ってくる敵を攻撃する『石落とし』や、城郭内の建物や塀に穴が開いていて、内側から鉄砲や弓矢で攻撃する『狭間』も見られます。

 

天守閣の中、傾斜角度がきつい階段を落っこちないように上がっていきます。4階の望楼部まで上がると、「掛川古城の場所に建つ『龍華院大猷院霊屋(りゅうげいんたいゆういんおたまや)』の屋根が少し見えますよ」と、ボランティアガイドさんが教えてくれました。

 

続いて、全国でも珍しい現存する『掛川御殿』を見ていきます。

 

全国でも希少な現存する『城郭御殿』

 

『御殿』と、玄関屋根の起(むく)り破風(はふ)と蕪懸魚(かぶらげぎょ)

 

掛川城御殿は、儀式、公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という三つの機能を合わせ持った施設です。

 

掛川城御殿は二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国で4カ所しかない貴重な建築物です。

 

書院造りと呼ばれる建築様式で、畳を敷き詰めた多くの部屋が連なり、各部屋は襖で仕切られています。当初は本丸にも御殿が作られましたが、老朽化したり災害にあって、二の丸に移りました。

 

その後、江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建物として、1972年(昭和47年)から1975年(昭和50年)まで保存修理が実施され、1980年(昭和55年)1月26日、国の重要文化財に指定されました。

 

玄関屋根の起(むく)り破風(はふ)と蕪懸魚(かぶらげぎょ)

 

軒の三角形の部分が「破風」、この破風板が上の方に凸に反ったものを「起り破風」というそうです。また、棟木の端を隠す飾りが懸魚(げぎょ/破風板)に吊り下げる装飾板のこと)で、掛川城御殿のものは「蕪懸魚」と呼ばれるそうです。

 

長囲炉裏の馬の天井

 

長囲炉裏の間の天井

 

長囲炉裏の間の天井にあるのは、太田家正紋の桔梗紋と替紋の鏑矢紋だそうです。

 

竹で作った照明?

 

御殿の中でもこの空間は、特に神秘的で素敵で印象的!!

 

御殿の中を見学していて、とにかく広い!ここなら正座で何人くらいの人が入れるんだろうと、そのスケールに驚きました。御殿の中でもこの照明が暗い空間は、特に神秘的で素敵でした。

 

なんと、見学を終えて出たところで、この竹を細工した照明?灯篭?とにかく、たくさん販売していたのでほしくなっちゃいました。いやいや!貧乏な私は作ろう!

 

参照元:掛川城 - 観光サイト

 

天守閣から眺めた『掛川古城』ですが、掛川城の北側の道を進むと、そこに「竹の丸(江戸時代の問屋)」さんがあり、そこから3分ほどで行くことができます。

 

土塁の奥には大堀切があり底道も歩けますので、掛川城を訪ねたら、ぜひ掛川古城も一緒に楽しんでいただきたい場所です。

 

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最後に

 

徳川家康ゆかりの地である静岡には、歴代城主が要職に就くことから「出世城」と呼ばれている『浜松城』を始めとして、全国的にも珍しい女性城主が誕生した城跡や、富士山を一望できる城跡など、たくさんのお城があります。

 

中でも今回調べてきた『掛川城』は、戦国時代東海道の東西交通の要衝として重要な戦略拠点だった掛川にあるお城のため、今川、徳川、武田など多くの武将がこの地を巡って争いを繰り広げました。

 

室町時代には駿河の守護大名今川氏が遠江を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが始まりで、桶狭間の戦い以降力を失った今川氏。武田信玄に追われて掛川城に逃げ込んだ氏真を家康が攻めて、半年に渡る激しい攻防戦の末家康が掛川城を手に入れます。

 

ところが、1590年に事実上の天下統一を果たした豊臣秀吉の命で掛川城には内助の功で有名な山内一豊が入城します。一豊は戦乱で傷んだ掛川城の改築や、城下町の整備を行います。

 

そして、江戸時代になると今度は徳川の譜代大名たちが城主を引き継ぎ、最終的には太田氏(太田道灌の子孫)の居城となり、明治維新まで続きますが、1854年の嘉永の大地震によって天守が崩壊、その後はしばらく再建が行われなかったお城です。

 

現在の「東海の名城」とうたわれる掛川城は、平成6年に140年ぶりに日本で初めて「木造」で再建された天守閣で、美しくかっこいいお城です。

 

掛川生まれの私ですが、ここまでのような歴史を知って「掛川城」を訪れたことがなく、桜じゃ!酒だ!的な観光でした。今度は歴史を知った上でゆっくりと時間をかけて訪れたいと思っていました。

※追記 2024年になってようやく出かけることができました。今回は修理が終わって真っ白の漆喰の壁も眺められて幸せでした。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。