sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

日本初の本格木造天守閣でその美しさから「東海の名城」とうたわれる掛川城

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

ついに、待ち望んだ大河ドラマ『どうする家康』の放送が昨日から始まりました。予想以上に人間らしい、優しく穏やかで夢見る乙女くらい怖がりなプリンスの登場にワクワクが止まりません。

 

”静岡から浜松、そして岡﨑まで”家康公演じる松潤+杉野さん+山田さんが出陣式をリレーするという大人気のイベントには、前夜から最前列に並んだというツワモノまでいらっしゃると報道されていてさぞや寒かったのでは?と驚いています。

 

駿河(静岡県東部)・遠江(静岡県西部)・三河(愛知県西部)を治めていた今川義元が、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られると、これらの地域は徳川氏と武田氏の激しい戦いの場となり、さまざまな城が築かれました。

 

これらのお城は当時の武田氏と家康の激しい攻防を物語り、特に最大の激戦地としてよく名前があがる『高天神城』は難攻不落のお城としてお城マニアの皆さんからも人気があるようです。

関連記事>>

家康と武田が遠江掌握をかけ攻防を繰り広げた『高天神城』とは? - sannigoのアラ還日記

 

この静岡県は、中世から近世の城郭の宝庫としてよく知られ、家康とのつながりの深く身近な存在のお城が多いため、お城目当てで訪ねる人も多いと聞きます。

 

特に今年は大河ドラマで『どうする家康』が放送されていますし、嵐の松潤が「もう嫌じゃー」だとか、「どうしたらえんじゃ」と弱音を連発し、これまでの神のような存在と思われがちだった家康公が頼りない人物のように描かれ、そのヘタレな部分がめっぽう親しみやすく新鮮だと評判です。

 

この大河ドラマ放送を機に戦国時代に興味を持ち、歴史を調べたりお城やゆかりの地を訪ねてみたいと思う方もますます増えるのではないでしょうか?

 

今回は徳川家康にゆかりも深く、山内一豊が天守閣を築いた「東海の名城」で日本100名城に認定された『掛川城』のことを調べていこうと思います。

 

日本初の本格木造天守閣の『掛川城天守閣』

 

 

 

東海の名城『掛川城』

 

日本で初めて「木造」で再建された天守閣で、平成6年に140年ぶりに再建され美しくかっこいい姿を現しました。天守閣からの景色もすばらしく、桜の季節には最高に楽しめる東海の名城です。

 

 

場所:静岡県掛川市掛川1138-24

 

《アクセス》

JR東海掛川駅から徒歩約7分
東名高速道路掛川ICより車で約10分

有料駐車場:大手門駐車場200台
      掛川城公園駐車場50台

 

天守閣・御殿

入場料:大人(高校生以上)410円/小中学生150円
営業:9:00〜17:00 (入場は16:30まで)
休み:年中無休

 

遠江支配の拠点掛川城

 

1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、1568年(永禄11年) 義元の子氏真は甲斐の武田氏に駿河を追われ、掛川城に立てこもりました。翌年、徳川家康は掛川城を攻め、長期にわたる攻防の末和睦により開城させました。開城後は徳川氏重臣石川家成が入城し、武田氏攻攻に対する前線基地となりました。

 

1590年(天正18年)小田原の北条氏を滅ぼし全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ封じました。

 

徳川家康の本領の三河や、長年苦労して広げた駿河・甲斐の旧領地を秀吉配下の大名を配置し、家康と家臣たちには慣れ親しんだ土地を離れて遠い国に”転勤”するよう命じたのです。そこで、掛川城には山内一豊が入り城主として10年間在城しました。

 

働き盛りの一豊は、大規模な城郭修築を行い、掛川城に初めて天守閣をつくり、大手門を建設しています。さらに、城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注ぎました。

 

掛川は、一豊の人生にとって大きな意味をもつ土地であり、高知城は掛川城を模して作られたともいわれています。

 

山内一豊といえば、「司馬遼太郎」(しばりょうたろう)の「功名が辻」の主人公としても知られる戦国武将で、2006年にはNHK大河ドラマにもなりました。

 

千代とその夫一豊を主人公としたドラマで、内助の功の代名詞ともいえる一豊の妻千代と、桶狭間から関ケ原までの戦国時代を駆け抜け、やがて土佐国(現在の高知県)24万石の大名へと大出世を果たした夫一豊。2人の愛と知恵の歴史が描かれ人気でした。

 

ドラマからもわかるように、山内一豊は口数の少ない穏和な性格で、華々しい武勲もそれほど多くなかった戦国武将でしたが、その反面、「織田信長」や「豊臣秀吉」、「徳川家康」という天下人達から厚い信頼を得ていた人物でした。 

 

掛川城には技巧的な虎口(こぐち/城の出入り口)や複雑な城道など、戦国時代ならではの築城技術が見られます。

 

1994年再建された日本初の木造復元天守閣

 

貴族的な外観をもつことから「東海の名城」と謳われた掛川城天守閣は、外観3層、内部4層から成ります。

 

6間×5間(約12m×10m) の天守閣本体は、決して大きいものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり入り口に付櫓(つけやぐら)を設けたりして外観を大きく、複雑に見せています。

 

一階、二階に比べ四階の望楼部が極端に小さいのは、殿舎の上に物見のための望楼を載せた出現期の天守閣のなごりと言えます。

 

白漆喰塗り籠めの真っ白な外容は、京都聚楽亭の建物に、黒塗りの廻縁・高欄は大坂城天守閣にならったと考えられます。

 

1854年(嘉永7年)安政の東海大地震により天守閣など大半が損壊し、再建されることなく明治維新を迎えましたが、掛川市民の熱意と努力で、1994年(平成6年)に140年ぶりに本格的な木造天守が再建され、再び美しい姿を現しました。

 

全国でも希少な現存する城郭御殿

 

掛川城御殿は、儀式、公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という三つの機能を合わせ持った施設です。

 

掛川城御殿は二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国で4カ所しかない貴重な建築物です。

 

書院造りと呼ばれる建築様式で、畳を敷き詰めた多くの部屋が連なり、各部屋は襖で仕切られています。当初は本丸にも御殿が作られましたが、老朽化したり災害にあって、二の丸に移りました。

 

その後、江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建物として、1972年(昭和47年)から1975年(昭和50年)まで保存修理が実施され、1980年(昭和55年)1月26日、国の重要文化財に指定されました。

 

現在行われいる「掛川城天守閣の工事」は2023年2月1日から再開を予定されていましたが、工期延長により3月31日(金)まで休館になったようです。桜が咲く4月頃には、多分美しく修復された掛川城天守を眺められることでしょう。

 

掛川城の見どころは?

 

左が城下に時を知らせるための大太鼓を納めてあった建物『太鼓櫓』、右が『大手門』

 

・太鼓櫓

城下に時を知らせるための大太鼓を納めてあった建物です。当時使われた大太鼓は現在、市の文化財に指定され、掛川城御殿の広間に展示されています。外観のみ見学することができます。

 

・三日月堀

本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8メートルありました。調査では、堀の南側から石垣が見つかり、その下からは柱穴が並んで見つかりました。
内掘にはこの三日月掘の他、十露盤(そろばん)堀・松尾池などがあります。

 

・霧吹井戸の伝説

東海を制す重要な拠点だった掛川城には、さまざまな言い伝えが残っており、霧吹井戸の伝説もそのひとつです。

 

西から徳川家康、東から武田信玄に攻められた駿河の今川氏真は、重臣朝比奈泰朝の掛川城へ逃げ込みます。

この城を落とそうと家康が攻撃を仕掛けた際、井戸から立ちこめた霧が城をすっぽりと覆い隠し、徳川軍は攻撃できなくなったといいます。

以来、掛川城は「雲霧城」とも呼ばれるようになりました。

 

霧吹井戸は、天守台の脇に現存しています。

引用元:掛川城 - 観光サイト

 

・大手門

掛川城大手門は、大きさは約12.7m、奥行約5.4mの二槽式の櫓門で、門の内側には礎石根固め石が展示されています。平成5年の発掘調査で12ヶ所の礎石根固め石が確認され、平成7年に往時の位置から50m北にずらして復元されています。

掛川城の表玄関らしく楼門造りの本格的な櫓門は、木造日本瓦葺き入母屋づくりで、棟上には鯱瓦が飾られた勇壮な建物で、観光の拠点となる市営の掛川大手門駐車場の目の前にあります。

 

・大手門番所

江戸時代後期に建てられたこの番所は、場内に出入りする者を監視する役人の詰め所だったそうです。

この番所は、掛川宿と掛川城とを連絡する唯一の番所で、場内に出入りする者はすべてここで調べられました。

現在の建物は1854年(寛永7年)の大地震で倒壊後、1859年(安政6年)に再現された全国的にも珍しい現存する番所です。市の指定文化財に指定されています。

関連記事>>

家康公ゆかりの地 【出世の街浜松】を訪ねるならなにはともあれ『浜松城』でしょ - sannigoのアラ還日記

 

さらに、掛川城の北側の道を進むと、そこに「竹の丸(江戸時代の問屋)」さんがあり、そこから3分ほどで掛川古城に行くことができます。

土塁の奥には大堀切があり底道も歩けますので、掛川城を訪ねたら、ぜひ掛川古城も一緒に楽しんでいただきたい場所です。

 

掛川古城

 

知る人ぞ知る場所で、三代将軍徳川家光の霊廟で小さいながらも権現造となっています。戦国時代には掛川古城の本曲輪があったところです。

 

場所:静岡県掛川市掛川1104

 

《アクセス》

JR東海道掛川駅から徒歩で約15分
東名掛川ICより約8分
駐車場:あり(10台)
    掛川古城の南側の細い道路の先に無料駐車場があります。
    駐車場への道は細く上り坂ですので注意しましょう。

 

掛川城より東に500mほどの子角山(ねずみやま/別名天王山)にあった掛川古城は、掛川城の前身になります。

 

戦国時代の文明年間(1469年から1486年)頃、駿河の守護大名今川氏が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕に築かせたといわれています。朝比奈氏は泰凞・泰能・泰朝と3代つづき、朝比奈泰能の代に掛川城を築きそちらに移ったとされます。

 

遠江における今川氏の勢力拡大に伴い、掛川古場城では手狭となり、16世紀初頭に現在の地に掛川城が築かれました。そして、1568年(永禄11年)徳川家康が、今川氏真のこもる掛川城を攻めた際には本陣として使用されたという説があります。

 

天王山龍華院・大猷院殿霊廟(掛川古城)

 

江戸時代に入り、1656年(明暦2年)に、当時の掛川城主だった北条氏重が、嫡子がなかったこともありお家存続を計って、掛川古城本丸跡に3代将軍・徳川家光の位牌を祀る「天王山龍華院・大猷院殿霊廟(てんのうざんりゅうげいんだいゆういんでんれいびょう)」を建立しています。1954年(昭和29年)1月30日、春日厨子を含め静岡県指定有形文化財に指定されています。

 

現在も城址には天王山龍華院があり、ここが本丸跡で龍華院大猷院霊屋の東に土塁が残り、その先の二の丸との間に大堀切があります。

 

狭い道を登った先の本丸跡には龍華院駐車場(無料)があります。駐車場西側から掛川城天守がきれいに見え、家康が掛川城を攻めたとき本陣にしたと言われるように、攻めるには絶好の場所だと感じます。

 

 丘の上の掛川第一小学校が居館部分で、北の高所の龍華院や公園がある部分が城址だったそうで、紅葉の時期には楽しみな公園です。

 

「西郷局」生誕470年を記念した『御休息処石碑』

 

徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母、三代将軍家光公の祖母にあたる「西郷局(お愛の方)」(1552~1589年)の『生誕470年』を記念し、生まれた日とされる昨年の桃の節句の3日、故郷の掛川市の第一小学校北の龍華院境内(掛川古城跡)に石碑が建立されたそうです。

 

御霊廟の西側にあるこの石碑は、眼前には孫の家光公、その先に夫・家康公を祀る久能山東照宮、さらに向こうには日光東照宮を静かに見守っています。

 

三河西郷氏の一族である「西郷局」の生誕地は、天王山龍華院よりも北に位置する神西郷地区だそうです。が、石碑の設置場所は、孫で三代将軍家光を祀る龍華院大猷院霊屋(たいゆういんおたまや)(県有形文化財)のすぐ西隣です。

 

こちらの石碑は米穀店経営石野さん夫妻の私財で建てたもので、「祖母が孫を見る温かい思いは今も昔も同じ」と西郷局の「御休息処」と位置づけ建立されたとか。

 

「西郷局」は、徳川家康に見初められ、徳川秀忠と松平忠吉の生母となるお方で、美人で性格も良かったため、家康公だけでなく家臣や侍女たちからも愛されていたといわれています。

 

1983年放送の大河ドラマ『徳川家康』では竹下景子さんが演じ、2023年放送の大河ドラマ『どうする家康』では静岡県出身の広瀬アリスさんが演じるそうで、静岡県民の私は楽しみで仕方ありません。

 

二代将軍秀忠の生母「西郷局(お愛の方)」

 

西郷局の通称はお愛の方。徳川家康の側室であり、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉の生母として知られています。院号は宝台院。

 

1578年(天正6年)3月、浜松城の徳川家康公から、その美貌、聡明さで気に入られ側室となりました。

 

家康公に仕えて1年後の天正7年(1579年)4月、秀忠を生み、翌年には忠吉を生みました。家康公が浜松城から駿府城に移って間もなく、天正17年(1589年)5月38年という短い生涯の幕を閉じます。

 

死因は、一説では徳川家康の正室であった築山殿(瀬名姫)の侍女による毒殺又は暗殺とも伝わりますが、定かではありません。

 

築山殿(瀬名姫)自身は、天正7年(1579年)に、織田信長から謀反の疑いをかけられ苦渋の決断をせざるを得なかった家康の命で、家康の家臣に斬られ既に亡くなっていますから、何とも言えません。

 

亡骸は駿府(現在の静岡市)の竜泉寺(後の宝台院)に葬られ、西郷局の来世を祈ったと言われています。というのも、西郷局は強度の近視であったようで、特に盲目の女性に恩情をかけ、衣服飲食を恵んでいたといわれ多くの方から慕われていたからです。

 

江戸幕府が開かれ、子の秀忠が将軍となって世を治めるようになると、西郷局の家系である西郷氏は優遇されます。しかし、秀忠が長命でなかったことから長く続きませんでした。

関連記事>>

家康の側室 阿茶局 が預けられ、家康もたびたび訪れた浜松の『鈴木家』って? - sannigoのアラ還日記

 

\三方ヶ原の戦いが大河に登場する前に読んでおこう/

新説 家康と三方原合戦: 生涯唯一の大敗を読み解く (NHK出版新書 688)

 

三河西郷氏

 

三河西郷氏は、現在の豊橋市西郷校区あたりに本拠を置いていたそうです。西郷局の粗祖父西郷正勝のころには、三河国内で今川義元の傘下として命脈を保っている程度にしか過ぎませんでした。

 

西郷局の母は、今川氏の命によるものでしょうか、遠江国の住人・戸塚忠春に嫁しています。ここで生まれたであろう西郷局も成長し最初の夫に嫁したのですが、残念ながら先立たれて寡婦となってしまいます。

 

そこで、同じように正室に先立たれた従兄・西郷義勝の継室に望まれ、義勝との間に1男1女をもうけています。※一説には義勝が最初の夫であるともいわれています。

 

元亀2年(1571年)、武田氏家臣の秋山虎繁の南進を阻むための竹広合戦で、夫の義勝が命を落とします。またしても未亡人となってしまった西郷局、産んだ男子は幼過ぎて家督が継げません。

 

やがて、叔父の西郷清員の養女として徳川家康の側室に望まれ、秀忠、忠吉を産んだのです。天正17年(1589年)に38歳で死去し、死後の寛永5年(1628年)になって、当時の将軍家光から正一位が贈られています。

 

秀忠が将軍であった時代には、秀忠の異父兄に当たる西郷義勝との間に生まれた男子は徳川頼宣付けになるなど、西郷一族は優遇されていました。が、秀忠が家康ほど長命でなかったため、その栄華は極めて短かったとされます。

 

叔父・清員の家系が、安房国東条藩の大名に取り立てられたのが最高で、以降徳川綱吉の頃になると勘気を被って大名の座から転落、5,000石の旗本となっています。徳川家宣の頃に5,000石を復権し1万石に回復しますが、その5,000石も簡単に失てしまいすぐに元の5,000石に戻ったといわれています。

 

参照元:西郷局 - Wikipedia

 

\大河ドラマをもっと楽しみたいなら読んどく?/

NHK大河ドラマ歴史ハンドブック どうする家康: 徳川家康と家臣団たちの時代 (NHKシリーズ)

 

最後に

 

徳川家康ゆかりの地である静岡には、歴代城主が要職に就くことから「出世城」と呼ばれている『浜松城』を始めとして、全国的にも珍しい女性城主が誕生した城跡や、富士山を一望できる城跡など、たくさんのお城があります。

 

中でも今回調べてきた『掛川城』は、戦国時代東海道の東西交通の要衝として重要な戦略拠点だった掛川にあるお城のため、今川、徳川、武田など多くの武将がこの地を巡って争いを繰り広げました。

 

室町時代には駿河の守護大名今川氏が遠江を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが始まりで、桶狭間の戦い以降力を失った今川氏。武田信玄に追われて掛川城に逃げ込んだ氏真を家康が攻めて、半年に渡る激しい攻防戦の末家康が掛川城を手に入れます。

 

ところが、1590年に事実上の天下統一を果たした豊臣秀吉の命で掛川城には内助の功で有名な山内一豊が入城します。一豊は戦乱で傷んだ掛川城の改築や、城下町の整備を行います。

 

そして、江戸時代になると今度は徳川の譜代大名たちが城主を引き継ぎ、最終的には太田氏(太田道灌の子孫)の居城となり、明治維新まで続きますが、1854年の嘉永の大地震によって天守が崩壊、その後はしばらく再建が行われなかったお城です。

 

現在の「東海の名城」とうたわれる掛川城は、平成6年に140年ぶりに日本で初めて「木造」で再建された天守閣で、美しくかっこいいお城です。

 

掛川生まれの私ですが、ここまでのような歴史を知って「掛川城」を訪れたことがなく、桜じゃ!酒だ!的な観光でした。今度は歴史を知った上でゆっくりと時間をかけて訪れたいと思っています。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。