sannigoのアラ還日記

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その名の由来は「ただ勝つのみ」なのかしら?本多忠勝ってどんな武将なの?

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回は「忠義一徹、信念の勇将」といわれ、徳川四天王の一人として誰もが知る『本多忠勝』のお生まれから、お亡くなりになるまでを色々と調べていきたいと思います。

 

徳川家康の天下取りが実を結び、江戸幕府を開きその後幕末維新にいたるまでの250年も続く戦争のない平和な時代の礎が築かれた戦国時代。

 

本多忠勝という武将を知れば知るほど、下剋上の戦国時代に於いてどれほど重要な人物であったかを知ることができました。

 

日本にとって誇らしい平和な時代、その時代の礎を担った徳川家康の家臣忠勝は、1歳で父親を失い母親と厳しい叔父本多忠真のもとで育ちます。父も祖父も家臣の裏切りで失った徳川家康に幼い頃から仕え、生涯家康を裏切ることがありませんでした。

 

そして、何より忠勝は強い!戦での活躍は敵味方を問わずに称賛されるほど、家康よりも6歳も年下(1548年生)なのに、きちんと家康を諌め励ますこともできる。何より機転が利き、情も深く、単に忠実な家臣では収まらないほどの人物だったことがわかります。

 

「蜻蛉切」も「大数珠」も身につけた桑名「吉之丸コミュニティパーク」の本多忠勝像

 

 

 

本多忠勝

 

天下人の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康から無双の勇士と称えられた武将本多忠勝。

 

誰もがご存知でしょうが、徳川四天王の一人として主君家康を支え、生涯で57回にも及ぶ戦闘に参加したにもかかわらず、無敗でただの一度も怪我を負わなかった武将としても知られています。

 

忠勝の常識を越えた強さは、天下取りを目指す家康にとって絶対の切り札であり、家康のそばには常に忠勝の存在がありました。

 

また、槍の名手であり『蜻蛉切(とんぼきり)』を愛刀としていたことで知られており、『蜻蛉切』は天下三名槍の一つに数えられています。

 

この蜻蛉切の特徴は、何と言ってもその長大さで、約4〜5mの槍が主流の時代に、柄を含めると、2丈(約6m)もの長さを誇っていたと伝わります。

 

通称は平八郎、徳川四天王の他にも徳川十六神将、徳川三傑の一人に数えられ、家康の功臣として顕彰されています。

 

上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主、忠勝系本多家宗家初代でもあり、徳川幕府の約260年の天下の基礎を築いた武将です。では、さっそく生い立ちから見ていきましょう。

 

生い立ち

 

1548年(天文17年)、本多忠勝は三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で、松平家の譜代家臣「本多忠高」の長男として生まれます。

 

しかし、父本多忠高は1549年(天文18年)「安城合戦」で戦死、その後は母と叔父「本多忠真(ほんだただざね)」に引き取られ、厳しく育てられます。

 

叔父の本多忠真といえば、家康が大敗を喫した『三方ヶ原の戦い』で、主君家康命を守るため自ら殿(しんがり)を務め、武田軍の猛威を食い止め、徳川本隊の撤退を守りきったと伝わる武将ですので、浜松ではあまりにも有名です。

刀一本で敵中に斬り込んで討ち死にしたといわれ、現在の浜松市中区にある『犀ヶ崖資料館』の敷地内の東に『本多肥後守忠真の戦功の碑』があります。

 

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1560年(永禄3年)、本多忠勝は12歳で「桶狭間の戦い」の前哨戦と言われ、家康が今川義元から命を受けた「大高城兵糧入れ」で初陣を果たします。

 

じつはこの初陣で敵将に討ち取られそうになったところを叔父・本多忠真に救われているのです。そして2年後の1562年(永禄5年)の「鳥屋根攻め」で初の首級を挙げます。

 

ところが、先日放送された大河ドラマ『どうする家康』での、「(家康公を主君と)俺は認めぬ!」などと涙を流しながらナイーブな家康に詰め寄っていく忠勝。なぬ!さすがの忠勝。武将としての成長がとんでもなく早いのじゃ!と納得した次第です。

 

浄土真宗から浄土宗に改宗してまで徳川に付く忠勝

 

1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に討たれると、家康は今川氏に支配されていた本拠地岡崎城を奪い返します。ですが、妻子を今川の駿府に残したまま今川方についていた家康の立場は危うくなります。

 

家臣の勧めもあり、家康は「清州城」で織田信長と会見し、今川を攻めるべく『清洲同盟』を結びました。本多忠勝は家康と共に「上ノ郷城攻め」や「牛久保城攻め」などの三河をめぐる戦に参戦し、戦功を重ねていきます。

 

次に訪れた家康の苦難は、三代危機の一つに数えられる『三河一向一揆』です。『三河一向一揆』とは、1563年(永禄6年)から1564年(永禄7年)の半年間、西三河全土を巻き込んだ浄土真宗本願寺の信徒が起こした組織的な抵抗です。

 

きっかけは松平氏の家臣が、本證寺の「守護使不入権(幕府が定めた荘園や領地は、犯罪者追跡や徴税のためでも守護や役人の立ち入りを禁止できる権利)」を侵したという説と、松平氏の家臣が上宮寺付近に砦を造り兵糧とする穀物を奪ったことに端を発したという説があります。

 

この三河一向一揆では、松平家の家臣21人も、家康に反旗を翻し岡崎城に迫ったといいます。本多忠勝の親族である本多家も一向宗(浄土真宗)だったこともあり、親族の大半が一気側についたそうです。

 

ところが、本多忠勝は浄土真宗から浄土宗に改宗してまで松平家に付き活躍し、家康から「その勇ましさはずば抜けている」と評価されたとのこと。

 

今川家からの独立を果たした徳川家康は三河国を統一し、1566年(永禄9年)には、徳川家の軍事態勢を再編、「三備の軍制」として「家康旗本衆」、「東三河衆」、「西三川衆」の3つの家臣団を分け、本多忠勝は19歳の若さで、徳川家康直属の親衛隊である『家康旗本衆』に選ばれ、中央で54騎を統率する武将になりました。

 

姉川の戦いでの活躍を信長に褒められる

 

1570年(元亀元年)、『姉川の戦い』で織田・徳川連合軍は、浅井長政(あざいながまさ)、朝倉義景(あさくらよしかげ)の連合軍と対決します。

 

織田・徳川連合軍の軍勢が、浅井・朝倉連合軍を上回っていましたが、織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍の戦術に翻弄され、本陣付近まで侵攻を許してしまいます。

 

織田・徳川連合軍は撤退寸前の絶望的な状況でしたが、そこで本多忠勝が登場。本多忠勝は突破口を開くため、単騎で朝倉軍の正面から突入します。

 

これを見た徳川軍が本多忠勝を討たせてはならないと奮起、徳川四天王のひとり榊原康政らが側面から突撃を行い、朝倉軍の陣形を崩すことに成功。こうして浅井・朝倉連合軍は崩壊し、織田・徳川連合軍が逆転勝利を果たしたのです。

 

この戦で大変な貢献をした本多忠勝を織田信長も「花も実もある武将だ」として、後に褒めています。

 

本多忠勝の名を轟かせた『一言坂の戦い』

 

『一言坂の戦い』とは、1572年(元亀3年)信長包囲網に応える形の武田信玄の西上作戦の過程で行われた戦いで、遠江国二俣城をめぐり武田信玄と徳川家康の間で行われた戦い『二俣城の戦い』、あるいはそれを含めた『三方ヶ原の戦い』の前哨戦で徳川軍の撤退戦のことです。

 

徳川家康が岡崎城から出て、浜松に入城したのは1570年(元亀元年)。家康が、古代から遠江の政治の中心で、しかも、築城にすでに着手していた見付(現在の磐田市見付)ではなく、浜松に築城した背景に武田の脅威があったといわれます。

 

1572年(元亀3年)10月に武田信玄は、信長包囲網に応える形で西上作戦を発動します。武田信玄は軍を3つに分け、山県昌景率いる5,000の兵を三河国へ、秋山虎繁(信友)率いる伊那衆を美濃へと先行させます。

 

そして10月10日には、自ら率いる本隊3万(北条氏政からの援軍も含む)を信濃国の青崩峠から徳川氏領の遠江へと侵攻させたといいます。

 

信玄率いる本隊の侵攻が始まると、北遠江の国人だった天野景貫は即座に信玄に寝返り、居城・犬居城を明け渡して侵攻の先導役を務めました。

 

犬居城で信玄は馬場信春に5,000の兵を預けて西の只来城に向かわせ、そのまま南進して要所・二俣城へ向かいます。

 

一方、山県昌景隊は、すでに降伏していた奥三河の山家三方衆(戦国時代15世紀から16世紀にかけて、奥三河で力を持っていた3氏族、田峯(だみね)の菅沼氏、作手の奥平氏、長篠の菅沼氏を称して「山家三方衆」といった)を加えて、遠江へ転進し信玄本隊との合流を図っています。

 

二俣城は、徳川氏の本城・浜松城だけでなく、その支城・掛川城、高天神城にも繋がる要所で、徳川氏にとって遠江支配の要だったのですが、徳川氏は三河国への対処などもあって、防衛には8,000人余しか動員できず、さらに織田氏からの援軍も望めない状況でした。

 

それでも天竜川を渡らせたくない家康は、本多忠勝・内藤信成を偵察に先行させ、自身も3,000の軍勢を率いて出陣し、天竜川を渡りました。

 

徳川家康は大久保忠世、内藤信成、本多忠勝ら3,000の兵を率いて見付(現在の磐田市)に陣したのです。もちろん決戦のための全力出撃ではありません。名だたる武田軍団を一度見ておきたかったのかもしれません。当然襲われればすぐに引き上げるつもりだったようです。

 

見付に陣を張ったのも束の間、家康は、斥候(せっこう/敵情、地形その他の諸種の状況を偵察・捜索するため、部隊から派遣する小兵力の人員)に出ていた内藤信成の一隊が木原畷で武田軍の捕捉攻撃を受けて避退中であるとの連絡を受けました。

 

しかも追撃する武田軍の先鋒は、あの馬場信房(ばばのぶはる/武田四天王の一人)勢でした。武田軍の動きは素早く、はやくも三箇野台を抜いて見付宿に突入してきてしまいました。

 

慌てた家康は「見付の宿に火を放ち、路を塞ぐのじゃ」と、武田軍の対応の素早さと機動力の凄まじさに驚く家康でした。

 

ほうほうの体で見付を引き上げた家康は、この一言坂で兵をまとめて一息ついたのです。が、それも束の間、火の海となった見付宿を迂回した武田軍に追いつかれました。

 

このとき、「殿軍(でんぐん/退却する大部隊の最後尾で、敵襲に備える部隊)、承り候っ」と、愛刀『蜻蛉切(とんぼきり)』の槍を振り回し、圧倒的な戦力を誇る武田軍に対し、獅子奮迅の活躍をしたのが当時25歳の本多平八郎忠勝でした。

 

おかげで家康は一言坂(現在の磐田市)を逃げ下り、危機を脱することができました。これが『一言坂の戦い』と呼ばれるものといわれています。

 

本多平八郎忠勝の必死の防戦により、徳川軍は味方を一騎も欠けることなく脱出に成功し、自らも生還を果たしました。敵である武田軍に「家康に過ぎたるものが二つあり、唐(から)の頭に本多平八」と言わしめました。

 

本多平八郎の活躍によって退却した家康は、すでに陽が落ち闇夜になったことで「石動(ゆるぎ)」という湿地帯を利用して陣を張り、追撃の武田軍を迎え撃つことにしたそうです。

 

この時の伝承が『提灯野(ちょうちんの)』として今も伝わり、現在も石碑と説明板が残されています。

 

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提灯野

 

腰までもぐるような石動(ゆるぎ)に布橋をかけて、松林の木々には提灯を灯し、兵らはこれでもかとときの声を張り上げ、大軍が陣するように見せかけ武田軍を誘き寄せたのです。

 

武田軍が攻め込んだ徳川が待ち伏せていた陣は、腰まで浸かるほどの沼地ですから、馬は転び、兵は足を取られてもがくうちに徳川勢の反撃によって多くが討たれました。

 

家康は武田軍の攻撃が沼地によって頓挫した隙に素早く撤収を命じ、一目散に浜松城へ駆け戻ったと伝わります。

 

木原、三箇野、見付、一言坂と武田軍の追撃を何とかかわした家康ですが、この後はしばらく浜松城に籠り、『三方原の合戦』に至るまでは城から出なかったともいいます。

 

一言坂の戦いの翌朝、本多平八郎の活躍を聞いた武田信玄は、「小身の家康殿には過ぎたるものよの」と云ったといいます。これを聞いた信玄の近習小松右近が、「家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八」と落書して坂に立てたと伝えられています。

 

参照元:一言坂の戦い - Wikipedia

 

織田信長の突然の死『伊賀越え』で退却を提案

 

1582年(天正10年)6月、徳川家康は「安土城」へ招待された帰りに立ち寄った堺で、織田信長が「明智光秀」の謀反により討たれたことを知ります。

 

明智光秀は、同盟を組んでいる徳川家康も討とうと、三河までの街道を張っていました。このとき、徳川家康は多くの兵を連れておらず絶体絶命の窮地に立たされ、京都に帰って信長のあとを追おうと取り乱します。

 

しかし、そのような徳川家康を本多忠勝は諫め、体制を立て直すために帰国を進言しました。徳川家康は、その進言を聞いてもなお落ち着かない状態でしたが、本多忠勝は主人を励まし続け、「服部半蔵」(はっとりはんぞう)の助けを借り、主従わずか30人程度で決死の「伊賀越え」を実行したのです。

 

この時、帰路の途中に木津川で船に乗った際、渡し終わった船の船底を槍の石突で突き破り、追手が使用するのを防いだと伝わります。

 

徳川家康一行は、伊賀(現在の三重県西部)を経由して鈴鹿の山々を越え無事伊勢までたどり着き、そこから船で三河に渡ったとされています。

 

秀吉を感服させた『小牧・長久手の戦い』

 

織田信長の死後、徳川家康は織田信長の息子である「織田信雄」(おだのぶかつ)に味方し、「豊臣秀吉」と対立。1584年(天正12年)に「小牧・長久手の戦い」で衝突します。

 

はじめ、本多忠勝は徳川家康の留守を預かっていましたが、8万ともいわれる大軍を前に徳川軍が苦戦していることを知ると、応援に駆け付けます。

 

同じく留守を預かっていた家臣達は引き止めましたが、本多忠勝はこの警告を無視し、わずか500騎を引き連れ決死の覚悟で蜻蛉切の槍を抱え、秀吉軍を攻撃した忠勝ですが、やはり500の兵ではとても勝ち目はありません。

 

「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)には、本多忠勝は大軍を前に立ちはだかると、単騎で乗り入れ、馬の口を川ですすいで見せたという逸話が残っているそうです。

 

圧倒的な兵力差がある大軍に対して、怯まずに追撃を阻止しようとする本多忠勝の姿に、豊臣秀吉は豪胆さと忠義を感じ、攻撃をしてはいけないと自軍に命令を下しました。

 

「わざと少ない兵でわが大軍に勇を示すは、わが軍を少しでも食い止め家康軍を遠ざけるためであろう。徳川にかわってわが家臣にしたいものだ」といい、なんとしても自分の主君を勝たせたい忠勝の心意気に感服し、「天下無双の東の大将」と称賛したといいます。

 

上総国大多喜10万石を与えられる

 

そうして、1586年(天正14年)、本多忠勝は主君・徳川家康と共に豊臣秀吉の配下に入り、従五位下中務大輔に叙位・任官しました。その後、豊臣秀吉が天下統一を図ると、徳川家康は豊臣秀吉に三河国から関東への国替えを命じられます。

 

その際、関東に移封された徳川家康によって、本多忠勝は上総国大多喜(現在の千葉県夷隅[いすみ]地方)に10万石の領地を与えられ、「大多喜城」を本拠地としました。

 

佐藤忠信の兜を拝領

 

1590年(天正18年)豊臣秀吉は小田原攻めで北条を滅ぼした後、宇都宮へと陣を進めたとき、下総にいた本多忠勝を呼び出し、熊野において得た佐藤忠信の兜を忠勝に与えると言います。

 

佐藤忠信といえば義経四天王で知られる源平合戦で活躍した一人であり、武士であれば誰も憧れぬ者はいないだろうという人物です。その佐藤忠信の兜を忠勝にくださるというのですから、秀吉としては陪臣に過ぎない忠勝にこのようなすごい兜をあげるんだから、それはそれは喜ぶだろうと思っていたはずです。

 

この時秀吉は「この兜を着用できる者はそなたしかおらぬ。ところで、秀吉の恩と家康の恩とどちらがそなたにとって重いか」と問うたそうです。

 

忠勝は涙ながらに「秀吉様のご恩は海よりも深いものです。しかし家康殿は譜代の主君ですから比べようもありません」と答え、とりあえずはこの佐藤忠信の兜を拝領します。

 

秀吉は家康に対するゆるぎな忠誠心にただただ感服するのみだったと伝わります。が、忠勝には代々伝わってる鹿角の兜があるのですから、譲られた兜を被る事はなく、忠勝の死後も嫡男ではなく次男に残したといいます。

 

関ケ原の戦い

 

1600年(慶長5年)9月15日、徳川軍(東軍)と石田軍(西軍)が関ヶ原にて激突した戦いのことで、天下分け目の戦いといわれます。

 

豊臣秀吉の死から2年後、53歳になった本多忠勝は、「関ヶ原の戦い」で東軍の最高司令官である「軍監」を務めます。

 

午後東軍勝利に傾いた最中、西軍島津義弘は討ち死に覚悟の戦法で敵中突破。東軍諸将は慌てて混乱しますが、作戦指揮を担当していた忠勝は動ずることなく井伊直政らと愛馬三国黒に乗って追撃しました。

 

この時に愛馬三国黒は銃撃され、忠勝は不覚にも落馬します。が、忠勝はひるむことなく家臣の梶金平の馬に乗り換えなおも追撃し、当日は400の小勢ながら90もの首級を挙げたと伝わります。

 

次男忠朝(ただとも)も曲がった刀が鞘に収まらないほどの活躍で初陣を飾り、本多父子の活躍は目ざましかったそうです。

 

伊勢国桑名(三重県桑名市)10万国に移封される

 

関ケ原の戦いの功績によって、翌年1601年(慶長6年)には、上総国大多喜城から伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)10万石に移封されます。

 

このとき、徳川家康は本多忠勝の旧領である大多喜も同時に与えようとしていましたが、本多忠勝はこれを辞退しました。そのため、大多喜5万石は本多忠勝の次男、「本多忠朝」(ほんだただとも)に与えられることとなりました。

 

本多忠勝は桑名に入封すると、藩政を確立するために、揖斐川(いびがわ)沿いに「桑名城」の築城を始めます。

 

桑名城には、4重6階17mの天守と51基の櫓(やぐら)、46基の多聞(たもん:石垣の上に築かれた長屋造りの建物で兵器庫と防壁をかねる)が建ち並び、船着き場も作られました。

 

あまりに築城工事が大掛かりだったために、徳川四天王のひとりである「井伊直政」(いいなおまさ)が家臣を動員して工事を支援したという逸話があります。また、築城と同時に城下町と東海道宿場の整備を行ない、本多忠勝は桑名の発展を支えた「桑名藩創設の名君」と呼ばれるようになりました。

 

本多忠勝の最期

 

本多忠勝は、江戸幕府が発足されると次第に病気がちになり、1604年(慶長9年)に眼病にかかります。

 

この頃、本多忠勝は共に戦場をかけてきた名槍「蜻蛉切」(とんぼきり)の2丈余(約6m)あった柄を、3尺(約90.9cm)切りつめさせました。長い柄を振り回して、いくつもの戦場で武功を挙げてきた本多忠勝でしたが、寄る年波には勝てず、「得物は自分の身の丈に合った物が1番良い」としています。

 

その後、1609年(慶長14年)、本多家の家督を息子の本多忠政に譲ったのち隠居。翌1610年(慶長15年)、本多忠勝は63歳で死去しました。西岸院殿長誉良信大居士と号し、桑名浄土寺に葬られています。

 

本多忠勝は、生涯で57回もの戦に赴きましたが、戦闘中にかすり傷ひとつ負わなかったといわれています。死の直前に1度だけ怪我をしたとされていますが、その怪我は戦闘での負傷ではなく、所持品に小刀で名前を彫刻していたときに指を切ったというものでした。

 

このとき、これまで傷ひとつ負わなかった本多忠勝が、死期を悟ったと言われています。

 

『惣まくり』

 

また、生涯を辻て家康を守り続けた忠勝は、臨終に際して子孫や家臣にその心構えを伝えています。そして、今も遺訓として「岡崎藩訓『惣まくり』(岡崎市美術博物館に収蔵)」に残されています。

 

『侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という』という言葉を忠勝は残しているんです。他にも『 惣まくり 』には以下のようにたくさんの遺訓が残されています。

 

飲酒は早世の地形

珍膳美味は貧の土台

華麗は借金の板敷

我儘は友を隔る障子

人情は家を治る壁

堪忍は身を修る畳

法度は身を囲む屋根

簡易は君に事る材木

苦労は永華之石居也

堪忍の袋を常に首にかけ破れたらぬへ

 

など、酒を飲むな!粗食が金持ちへの道、おしゃれし過ぎるな、だとか、苦労は買ってでもしろ、堪忍袋を首にかけておけ。我慢しきれずに堪忍袋が破れたらまた縫えばいいんだよ。みたいな人生訓です。

 

この『惣まくり』には現在を生きる人々にも十分通用するであろう進言が多く、なんか主君である家康公以上に健康オタクでもあり、人生の何たるかを何もかもわかっている人というイメージを持たざるを得ません。

 

本多忠勝は城主として入封した場所への築城や城下町の建設はもちろんですが、領民の暮らしを良くするために商いを盛んにし、市場も奨励しています。そして、現在もなお繁栄が続いている町作りをしていることから、その人柄は家康以上かもしれないという気がしてきました。

 

 

現在本多忠勝の像が立っている場所は?

 

◯吉之丸コミュニティパーク

 

場所:桑名市吉之丸7番地
桑名市の三の丸城跡に造られた『吉野丸コミュニティパーク』の入口に本多忠勝の銅像が建てられています。

【本多平八郎忠勝像】
忠勝の戦場スタイルだった大きな数珠を身につけ、傍らにはひときわ目を引く蜻蛉切が立てられ、槍の穂先には梵語らしき文字まで見えるそうです。

 

◯大多喜城

 

場所:千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481

【行徳橋東側の本多忠勝像】
こちらの像は立ち上がり采配を振るっています。

 

◯岡崎公園

 

岡崎公園の鹿角兜と甲冑で身を固め、名槍蜻蛉切を携えている『本多平八郎忠勝公像』

 

場所:愛知県岡崎市康生町561-1

【本多平八郎忠勝公像】
こちらの像は鹿角兜と甲冑で身を固め、名槍蜻蛉切を携えています。

 

◯名鉄東岡崎駅前

 

名鉄東岡崎駅前の『本多忠勝の石像』

 

場所:愛知県岡崎市唐沢町1丁目

【本多忠勝の石像】

東岡崎駅から徒歩で約2分ほどのところに『徳川家康騎馬武者像』があり、そこからまた約5分ほど歩くと「桜城橋(さくらのしろはし)があり、ここを渡ると徳川四天王たちの像があり、もちろん『本多忠勝』の石像もこちらにあるそうです。こちらの石像は『蜻蛉切』を手にした騎馬武者姿です。

 

像の他には?

 

◯立坂神社に「紙本淡彩 本多忠勝像」

 

場所:三重県桑名市新矢田2丁目24番地

【紙本淡彩 本多忠勝像(しほんたんさい ほんだただかつぞう)】
本多忠勝(1548-1610)の出陣姿を描いたもので、作者は不詳。

 

◯本多忠勝誕生地に「本多平八郎忠勝誕生地」標柱

 

場所:岡崎市西蔵前町字峠

天文17(1548)年本多忠勝はこの地に生まれ、徳川家康に従い、諸戦に巧を立てました。慶長6(1601)年桑名城主となり同15(1610)年63歳で没し、桑名の浄土寺に葬られました。

忠勝は徳川四天王の一人とされ、50数度の戦いで一度も負傷したことがなかったと伝えられています。またこの地は火打山といわれ、英雄を偲ぶにふさわしいところです。標柱記は子孫の本多忠敬氏筆で「本多平八郎忠勝誕生地」とあります。

 

参照元:https://www.touken-world.jp/tips/38339/

 

本多忠勝に関わる人々

 

◯お久の方

 

お久の方は本多忠勝の正室で、阿知和右衛門玄銕(げんてつ)の娘です。1569年(永禄12年)徳川家康の媒酌によって本多忠勝と婚姻します。

 

忠政、忠朝、次女(奥平家昌正室)、三女(本多信之正室)をもうけます。賢夫人としてその愛と勇気は近世の女性史を彩っている女性です。1613年(慶長18年)9月、大多喜城にて逝去されました。

 

◯小松姫

 

小松姫は本多忠勝の長女で、幼名を稲姫、または於小亥(おねい)と称し、1590年(天正18年)沼田城主真田信之(幸村の兄)に嫁いでいることで知られます。

 

女性ながら武道に優れ、真田昌幸、幸村親子への気遣いがエピソードに残され、賢夫人として評判が高いお方です。

 

夫の信之は1622年(元和8年)松代藩主10万石の領主となりますが、小松姫はこれに先立ち1620年(元和6年)2月に逝去されています。

 

◯熊姫

 

1577年(天正5年)徳川家康の長男信康と織田信長の娘徳姫との間に次女として生まれます。1590年(天正18年)本多忠勝の長男忠政に嫁ぎ大多喜城へ入ります。

 

本多政朝、忠刻の生母となり、1601年(慶長6年)忠政とともに桑名、姫路に移り、1626年(寛永3年)に姫路城内にて逝去されました。

 

◯千姫

 

千姫といえば、徳川2代将軍秀忠の長女として生まれ、たったの7歳で豊臣秀頼に嫁ぎ、1615年(元和元年)大坂夏の陣で夫の秀頼と姑淀殿の自害により豊臣家は滅亡すると、翌年1616年(元和2年)、本多忠勝の孫・忠刻に嫁ぎ桑名に入城します。

 

その後、父忠政が姫路城15万石とされると夫忠刻とともに姫路城西の丸に入ります。
1626年(寛永3年)夫忠刻の逝去によって江戸に帰り、1666年(寛永6年)70歳の波乱の人生に幕をおろします。

 

本多氏16代・城主ゆかりの地

 

◯上総大多喜(千葉県大多喜町)

 

初代 本多忠勝 10万石
  1590年(天正18年)~1601年(慶長6年)11年間
2代 忠朝 5万石
  1601年(慶長6年)~1615年(元和元年)14年間
3代 政朝 5万石
  1615年(元和元年)~1617年(元和3年)2年間

 

◯伊勢桑名(三重県桑名市)

 

初代 忠勝・2代 忠政 10万石
  1601年(慶長6年)~1617年(元和3年)16年間

 

◯播磨姫路(兵庫県姫路市)

 

2代 忠政・3代 政朝・6代 忠国 15万石
  1617年(元和3年)~1638年(寛永15年)21年間
  1682年(天和2年)~1704年(宝永元年)22年間

 

◯大和郡山(奈良県大和郡郡山市)

 

4代 政勝・5代 政長 15万石
  1639年(寛永16年)~1679年(延宝7年)40年間

 

◯陸奥福島(福島県福島市)

 

6代 忠国 15万石 
  1679年(延宝7年)~1682年(天和2年)3年間

 

◯越後村上(新潟県村上市)

 

7代 忠孝・8代 忠良 15万石・5万石
  1704年(宝永元年)~1710年(宝永7年)6年間

 

◯三河刈谷(愛知県刈谷市)

 

8代 忠良 5万石
  1710年(宝永7年)~1712年(正徳2年)2年間

 

◯下総古河(茨城県古河市)

 

8代 忠良・9代 忠敞(ただひさ)5万石
  1712年(正徳2年)~1759年(宝暦9年)47年間

 

◯石見浜田(島根県浜田市)

 

9代 忠敞・10代 忠盈(ただみつ)・11代 忠粛(ただとし)5万石
  1759年(宝暦9年)~1769年(明和6年)10年間

 

◯三河岡崎(愛知県岡崎市)

 

11代 忠粛・12代忠典(ただつね)・13代忠顕(ただあき)
・14代 忠考(ただなか)・15代 忠民(ただもと)・16代 忠直 5万石
  1769年(明和6年)~1871年(明治4年)102年間

 

◯播磨山崎(兵庫県宍粟市/しそうし)

 

本多忠勝の後裔(こうえい/子孫。末流。後胤(こういん)。)
初代忠英より8代 1万石
  1679年(延宝7年)~1871年(明治4年)192年間

 

蜻蛉切

 

 

徳川四天王の一人として主君家康を支え、生涯で57回にも及ぶ戦闘に参加したにもかかわらず、無敗でただの一度も怪我を負わなかった武将としても知られている本多平八郎忠勝。

 

また、槍の名手であり『蜻蛉切(とんぼきり)』を愛刀としていたことで知られ、『蜻蛉切』は天下三名槍の一つに数えられています。

 

この『蜻蛉切』とは、室町時代に作られたとされる槍のことで、静岡県の県指定文化財に指定されており、現在は個人収蔵で三島市の佐野美術館に収蔵されています。

 

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『蜻蛉切』の名の由来

 

『蜻蛉切』は三河文珠派の刀工・藤原正真の作です。『蜻蛉切』の名の由来は、戦場で槍を立てていたところに飛んできた蜻蛉(とんぼ)が当たって二つに切れたことに由来するといわれています。ただ、その名の由来や、柄の長さにいくつかの説があります。

 

槍の刃には文字と剣の形が彫られています。これは不動明王を意味する梵字と、その不動明王が手にする三鈷柄剣(さんこづかけん)。不動明王は揺るぎない心のあり方を表しています。

 

この三鈷柄剣を彫ったということは、これを持つ本多忠勝が、家康のためにはすべてを掛けて戦う、自分の命の限り戦う、家康に逆らう者を許さない、というものすごい働きをこの槍1本でする覚悟が表されているのではないでしょうか?

 

槍の身長きに、柄ふとく、二丈計なるに、青貝をすつたり、蜻蛉の飛来て、忽ちに触れて切れたれば、かくぞ名付しなる。

 

—藩翰譜 第一巻
忠勝は槍術に秀で、一度槍を振れば、乱舞する蜻蛉を切り落とす、との定評があったので、所持する槍を「蜻蛉切り」と名付けられた。藤原正真の作で、身長一尺四寸五分、幅一寸二分、重ね三分半、柄は黒漆で長さ一丈三寸であった。

 

—本多平八郎忠勝傳 P.9
一、蜻蛉剪槍は長一尺四寸二分、笹身三角、参州田原ノ住人藤原正眞作也、銘ニハ藤原正眞ト有之、穂一ハイニ樋アリ、倶利伽羅剣イ龍、上下ニ梵字五ツ彫物アリ、鞘は身形ノ黒塗也、柄はシホゼノ打柄長サ一丈三尺、白銀具眞鍮色繪菊桐ノ紋アリ。

 

—岡崎市史 第貳巻 P.329
黒糸威胴丸具足(鹿角の兜)と共に本多家に伝わったが、第二次世界大戦時に同家を離れ、その後、沼津市の実業家・収集家の矢部利雄(1905-1996)が入手した。愛知県岡崎市の岡崎城内「三河武士のやかた家康館」にレプリカが展示されている。三島市の佐野美術館に寄託され、2015年1月から11年ぶりに展示された。

 

刀身


笹穂の槍身で、穂(刃長)は1尺4寸(43.7センチメートル)、茎は1尺8寸(55.6センチメートル)、最大幅3.7センチメートル、厚み1センチメートル、重さは498グラム、樋(刃中央の溝)に梵字と三鈷剣が彫られている。

 

外装


柄の長さは、戦国時代の通常の槍では標準的な2丈余(6メートル)であったが[2]、忠勝の晩年には体力の衰えから、3尺余り(約90cm)ほど柄を短く詰められた。青貝螺鈿細工が施された柄であったと伝わるが、現存していない。

 

同名の槍


なお、江戸時代の記録では、本多家にもう一つ蜻蛉切と呼ばれる槍があり、形は直穂で違うが、同じ模様が彫られ、作者も同じだったという。穂(刃長)1尺4寸(42.4センチメートル)、茎1尺8寸(54センチメートル)、幅3.6センチメートル、厚み1センチメートル。こちらの消息は全く不明である。

引用元:蜻蛉切 - Wikipedia

 

岡崎城にある『三河武士のやかた家康館』では、この『蜻蛉切』のレプリカを見ることができます。が、現在はNHK大河ドラマ『どうする家康』の放送に伴い、家康館全体が「どうする家康 岡崎大河ドラマ館」として2023年1月21日〜2024年1月8日までの約1年間開館されるとのことです。

 

また、本多忠勝の肖像画としてしばしば登場する「紙本淡彩 本多忠勝像」、見る機会が多いので、あの”えげつない鹿角の兜”など印象深いですよね。

 

こちらの「どうする家康 岡崎大河ドラマ館」で本多忠勝所用の『黒糸威胴丸具足〈鹿角脇立兜・小具足付〉』として展示されていますので、あの”えげつない鹿角の兜”も見ることができます。



まとめ

 

今回は徳川四天王の一人として、さらに現在放送中の『どうする家康』では、山田裕貴さんが演じていることで知られる本多忠勝について、出生から最期までを調べてみました。

 

居住地浜松にとっても家康公を「忠義一徹」で守ってくれた武将ですし、おとなりの磐田での『一言坂の戦い』でも、蜻蛉切を振り回して最強の武田軍に対し殿(しんがり)を務め、家まで康公を浜松城へ無事帰らせてくれた武将です。

 

しかも戦に強いだけでなく、熱心に人を励ましたりと情にも厚く、もちろん「関ヶ原の戦い」で東軍の最高司令官である「軍監」を務めるほどですから、戦をよく知り機転を利かせ敵を欺くことも簡単にやってのける、いわば戦国時代の申し子なのに、全ては家臣として殿のためというところが痺れます。

 

1590年(天正18年)上総国夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に安房国里見氏に対する備えとして家臣団中第2位の10万国を与えられれば、忠勝は里見氏に備えて城を整え、城下町の整備、六斎市の開市を企て領民のために一生懸命に働きます。

 

さらに伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移ればすぐに城郭を修築し、慶長の町割りを断行、東海道宿場の整備を行い、桑名藩創設の名君と仰がれます。

 

もし家康に仕えていなかったとして、どんな武将に仕えたとしても、自身が上に立つことを望まない名将になっていたのはまちがいないし、生まれが違っていたら天下を取っていたかもしれません。

 

徳川家が15代まで続いたんだから、本多家はどのくらい続いたのかな?と思っていましたら、しっかりと16代まで続いていた事にも感動しました。

 

酒井忠次がもし、現在のこの世に生きているなら、ぜひ「総理大臣」や「大統領」になって、現在のコロナウイルスや異常気象、地震や戦闘など危機的状況の世界を救って欲しいものです。

 

最期までお読みいただきありがとうございます。では、またです。