sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

家康が箱根や新居の関所とともに、東海道の三大関所の一つとして設けたと伝わる『気賀関所』

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

あったかーい!寒い冬もずっと習慣にしている”起床後すぐの全窓開け”ですが、今朝はまったく寒くな~い!暖かい風が体にまとわりつく感じ。1年ぶりで懐かしい春のぬくもりを感じています。

 

浜松市民が、現在「姫街道」と呼び「いつも混んでるな」なんて愚痴っている街道は、正式名称「本坂通」で、かつては東海道の脇道として多くの大名や姫様が通った街道で、江戸時代末期頃から「姫街道」とよばれるようになったそうです。

 

現在も姫街道を車で走ると、元追分から西に向かう道中、道路の南端には大事に守ってきたであろう立派な「松並木」が当時を忍ばせてくれます。

 

1707年(宝永4年)の大地震の際に津波で新居宿が被害を受けたことで、それまで東海道を往来していた大名行列を始め多くの人が「姫街道」を利用するようになったといいます。

 

奥浜名湖の湖畔に位置し、関所があったことでも知られる気賀。気賀関所は東海道三大関所の一つとして重要な役割を担っていました。

 

当時気賀関所周辺には、大名や姫様が宿泊する本陣もあり、気賀宿は大変賑わったそうです。現在の気賀関所は平成2年に江戸時代の文書を参考に”ふるさと創生事業”で再建されました。

 

浜松が舞台となった大河ドラマ『おんな城主直虎』放送時には、地元では”直虎ブーム”が巻き起き、ドラマ館もあったため気賀はかなり混雑していました。ですが、先日訪ねたときは、こちらの案内書でかわいい着物姿に変身した2人の女の子のファミリーだけでした。

 

今回は、徳川家康が箱根や新居の関所とともに、東海道の三大関所の一つとして設けたと伝わる『気賀関所』を詳しく解説していきます。のんびりと散策するのにぴったりな気賀のまちを一度訪ねてみては?

 

徳川家の家紋「三つ葉葵」が映える『気賀関所』の冠木門(かぶきもん)

 

 

気賀関所

 

気賀関所は関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、箱根や新居の関所とともに東海道の三大関所の一つとして、江戸を守るため1601年(慶長6年)5月10日、気賀宿の入口に設けられたと伝わります。

 

 

場所:浜松市北区細江町気賀4577

 

《アクセス》


電車・バス:天竜浜名湖鉄道気賀駅より徒歩3分

車:東名高速道路浜松西IC・三ヶ日ICより約15分
  新東名高速道路浜松いなさICより約20分

駐車場:あり ※気賀関所西側の『田園空間博物館』の駐車場をご利用下さい。 

入所料:大人150円、小人無料 ※入口の冠木門右側が案内所です。

休所日:年中無休

 

宿場に通じる本坂道(現在の姫街道)は古くから多くの旅人が行き来し、気賀関所はこの東海道の新居関所の裏番所として本坂道の往来を監視するため、つまりは「入鉄砲に出女」の監視が主な目的で、江戸への鉄砲の持ち込みと、人質として江戸に住まわされていた大名の妻子らが自分の国へ逃げ帰ることを厳しく取り締まるため設けられました。

 

気賀関所は今は【姫街道】と呼ばれている東海道の脇街道の【本坂通】にありました。

 

【本坂通】は見付(現在の磐田市見付)から東海道と分かれ、市野(現在の浜松市東区市野)に入り、気賀から浜名湖の北を通り、本坂峠(現在の北区三ヶ日町)を越えて御油(現在の愛知県豊川市)で、東海道と合流する約60kmの街道です。

 

気賀の領主であった旗本 近藤氏が、およそ250年間(元和年間から明治2年まで)12代にわたり気賀関所の関守(せきもり)を務めました。

 

現在の施設は、江戸時代に関所があった”気賀四つ角付近”から1kmほど西に、1990年(平成2年)に”ふるさと創生”事業で再建されました。

 

当時の資料をもとに江戸時代の建物を忠実に復元し、観光施設として親しまれ、江戸に入る鉄砲と、江戸から逃げる女性を取り締まっていた様子などを解説しています。

 

また、関所《本番所》の一部分が民家の屋根として、気賀四ッ角(R362沿い)近くの民家に残されています。さらに、関所を守るための要害堀跡が住宅地の中に残っています。

 

冠木門(かぶきもん)、本番所

 

古めかしくて時代をかんじさせる気賀関所の説明板

 

本番所では3名の役人の人形が座っています

 

では、さっそく三つ葉葵の御紋の提灯がお迎えしてくれる【冠木門】をくぐって気賀関所を見学していきましょう。

 

右側を見ると、ちょんまげ頭の番頭(ばんがしら)の人形が3体ほど座っています。通所の旅人や荷物を調べた【本番所(中の間)】です。番頭2名、平番4〜5名の役人が交代で取り調べに当たっていました。

 

この【本番所】は全国で最も古い関所の建物として1960年(昭和35年)まで、ほぼ完全な形で残っていました。その後ほとんどが解体され、一部が民家の屋根として、気賀四ッ角(R362沿い)近くの民家に残されています。

 

幕府は江戸へ武器が多量に持ち込まれることを恐れ、参勤交代の大名の鉄砲携帯に数的な制限を加え、入鉄砲の関所通過を厳しく調べていました。

 

女改め(おんなあらため)

 

改め女(大抵は関所の役人の妻)が女性をきびしく取り調べているようす

 

女改めは、手形の発行者や押してある印鑑、年齢や姿かたちなどを入念に調べ、もし違っていれば記載間違いなどとして、通過を許可しませんでした。

 

改め女(大抵は関所の役人の妻)が居て、女性や子供の取り調べを行っていました。女手形の内容(年齢や姿かたちなど)と一致していないと入念に改めたといわれます。

 

向番所(むかいばんしょ)

 

足軽や門番の休憩所となっていた向番所

 

左が牢屋、右が江戸時代農民や町人の重罪人を護送した竹製の唐丸籠

 

本番所の向かいにあるのが【向番所】。足軽や門番の休憩所となっていました。【向番所】の内部には、関所に置かれることが珍しい【牢屋】がありました。

 

江戸時代に農民や町人の重罪人を護送した竹製の唐丸籠(とうまるかご)なども展示されています。これが、現在のパトカーなのか!運ぶ人も大変じゃ!と感じます。

 

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遠見番所

 

遠くを見張るための遠見番所

 

向かい番所の奥に2階の【遠見番所】があります。遠くを見張るための遠見番所。当時は上階に釣り鐘が掛けてあり、下の部屋には大砲が備えられ、浜名湖を往来する船を見張っていたそうです。

 

実際に登ってみたのですが、現在は周りに高層の住宅が増えたためか見通しが良いとは決していえない感じでした。

 

気賀関所資料館 姫様館

 

気賀関所資料館 【姫様館】では、気賀関所の貴重な資料や品物を見ることが出来ます。関所手形や家康公の花押が入った書類を見ることもできるので、家康ファンにとってうれしいことではないでしょうか。

 

江戸時代に使われた駕籠(かご)は絢爛かつ重そうで、当時この駕籠を担いでいた人たちはどんだけマッチョだったのだろうと想像してしまいました。

 

関所手形

 

【関所手形】は女手形・鉄砲手形・往来手形などがあり、旅の目的、日時、行き先などが書かれていたそうです。現在のパスポートみたいなものでしょうか?

 

気賀関所でいただいたパンフレットによると、気賀には象が通過したり、八代将軍吉宗の生母【浄円院】が通行したり、ベトナムの大象が宿泊したりと、百姓たちがびっくりするような出来事も多く起きているらしいです。

 

浄円院さまのおな~り

 

八代将軍吉宗の生母【浄円院】の一万人を超える行列の通行は、大掛かりで、気賀の関所、宿場始まって以来のものだったといいます。

 

1718年(享保3年)4月15日紀州を発って、4月23日気賀に到着。江戸よりお迎えの方々が、老中や道中奉行の御触書(おふれがき)を持ってこられ、嵩山村(すせむら/愛知県鉢八名郡にかつてあった村で現在の豊橋市の一部)から袋井(現在の袋井市)までの6宿が、人馬並びに助郷(宿ごとに補助する村)を総動員して、袋井まで継立てた(宿駅で人馬を替えて、貸客を送り継ぐこと/宿継ぎ)そうです。

 

また、幕末には天璋院篤姫が通ったという記録もあるそうです。

 

最高級の食事

 

浄円院が宿泊されたときに、付き添いの役人が食べたといわれている夕食は二の膳まである白米で尾頭付きの魚まで。一般庶民は、白米を食べることや、夕食で二の膳まで食べることはなかった時代に当時としては最高級の食事を召し上がったとか。

 

江戸時代に大名などが使った道具や着物はもちろん、この最高級の食事を再現したものも気賀関所内の『気賀関所資料館 姫様館』に展示されています。が、我々の現在の食事を思えば、それほど贅沢とも感じません。

 

当時の一般庶民の食事がどのくらい簡素だったかを思うと・・・。現在、腹囲100cm近い体を維持している自身の食事を反省すべきだなと、一瞬だけ思いました。

 

天皇の象が通行、気賀へ泊まった?

 

1729年(享保14年)清国の商人が八代将軍吉宗に献上したベトナムの大象が京都に着いて、時の天皇、中御門(なかみかど)天皇と法皇がご覧になったそうです。【この大象が京都から江戸へと下る途中気賀へ泊まった】とか。

 

遠州生まれですが、聞いたことがなかったのでびっくりです。こちらの気賀関所資料館 姫様館に、地元の子供たちが描いたという絵も展示されているので、当時のようすをイメージしやすいです。

 

気賀の沿道の百姓たちは仕事をやめて、この見たこともないほど大きな象を驚異の目で見たことでしょう。また、姫街道は本坂峠、稲佐峠といった坂道が続き、あまりの急な坂道なので、象が悲鳴をあげたといわれる「象鳴き坂」ともいわれたようです。

 

『気賀関所 旬菜市』

 

ゆっくりと『気賀関所』を見学し、最後に町木戸門を出ると、右側には『気賀関所 旬菜市』があります。とれたての野菜や果物を格安で販売していました。

 

ちょうど普通の”みかん”の最盛期が過ぎ、スーパーでは”ネーブル”や”ポンカン”が棚に並ぶ時期でしたが、こちらで普通の”みかん”を格安で販売していましたので、大喜びで購入しておいしくいただきました。”さといも”と”にんじん”も購入でき、夜はお鍋であったまったのでした。

 

気賀の犬くぐり

 

気賀の犬くぐり[ウイキペディア]

 

「入鉄砲に出女」を厳しく取り締まった関所は、近所の住民でも通行手形が必要なため、地域住民の利便を図るため、関所の裏通りにくぐり戸を設け、「むしろ」一枚を垂らし、「人は通れないが犬なら良い」とし、住民は「むしろ」の下を四つん這いになってくぐっていたそうです。「気賀の犬くぐり」として知られています。

 

地元の女性の里帰りなどの際には庄屋の手形で通行できたそうで、関所の外の田畑へ行くには手形の代わりに「作場札」という札を庄屋から借りて通行できるようにするなどの便宜ははかられていたようです。

 

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気賀は要害の町

 

気賀は東海道の脇街道(本坂通)通称「姫街道」沿いに位置し、奥浜名湖の湖畔にあることから湖北地区の公益の中心でした。

 

気賀は町の北側に標高100m以上に山地・丘陵地があり、東は井伊谷川・都田に挟まれた要害の町になっており、気賀関所の保が指紋から宿場の南に沿って要害堀が掘られ、容易に抜け出すことができないようになっていました。

 

江戸時代の都田川には橋が架かっていませんでしたので、街道を往来する人々は渡し船で通行していたといいます。

 

町並みは東西600mほどにわたり、町の西側の入口には木戸があり、枡形で石垣が作られていました。町の西の外れは「棒鼻」と呼ばれていたそうです。

 

\井伊直政の甲冑好きにはこちら/

 

気賀宿

 

気賀宿は17世紀始めに江戸幕府が気賀に設置した本坂通(姫街道)の宿場です。町の東側に気賀関所がある要害の町として知られ、地頭の気賀近藤氏が関所を管理しました。

 

1587年(天正15年/直虎没5年前)、街道の宿と定められ、町屋も整備されました。山手に土塁、南は堀川、東は薩垣、西に石垣と矢来(木を荒く組んだ囲い)で木戸を造り、その中に80軒の町屋が並び、本陣(旧NTT跡/中村本陣)と、問屋場と、旅籠8軒の小さな宿でした。

 

気賀のお祭り

 

《姫様道中》


毎年3月、姫街道を通過されたであろう豪華絢爛な道中行列が再現されます。※以前は毎年4月の第1土曜・第2日曜の2日間開催されていましたが、令和2年より3月の最終土曜に開催されています。

 

その昔、大名行列・八代将軍吉宗の生母浄円院や篤姫様も通ったといわれる『姫街道』の故事にちなんで、豪華絢爛なお姫様の道中行列を再現した伝統行事です。

 

1952年(昭和27年)4月4日に第1回の『姫様道中』が開催され、現在は毎年3月の最終土曜に開催されている豪華絢爛な時代絵巻で、毎年落とすれる多くの観光客や地元の皆さんを魅了してやみません。

 

《細江祇園まつり》


毎年7月、細江神社で『祇園まつり』が開催されます。気賀商店街が歩行者天国になり、夜店も並び、出引き屋台の引き回しやパレード、ミニSLなどのイベントが行われます。

※2022年、2021年、2020年は新型コロナウイルス感染防止のため中止となっています。

 

細江神社

 

場所:細江町気賀996

 

《アクセス》

バス・電車:JR浜松駅から気賀行きバスで約60分、国民宿舎入口で下車で徒歩2分

      天竜浜名湖鉄道気賀駅から北へ300m

車:東名高速道路浜松西IC・三ヶ日ICより約15分
  新東名医高速道路浜松いなさICより約20分

駐車場:あり※境内横の側道から入れます

 

気賀駅の北300mに鎮座する神社で、浜名湖の北西岸に近く、井伊谷川と都田川の合流する河口近くにあります。

 

創祀は不明のようですが古くは牛頭天王社を呼ばれ、今も地元の人びとに「気賀のお天王さま」と呼ばれ親しまれている古社で、地震の厄除けの神様としても知られています。

 

その由緒は古くは淡水だった浜名湖が海とつながり汽水湖となった『明応の大地震』に関係します。

 

現在の新居町に浜名湖入口の守護神として厚く信仰されていた『角避比古(つのさくひこ)神社』がありました。

 

しかし、1498年の明応地震で流され、御神体は村櫛を経て「伊目の十三本松」に漂着。その後再び地震が起き、御仮宮も流されてしまいましたが、再び軌跡が起き御神体が「気賀の赤池」に流れ着いたのです。

 

里に人々に尊まれ御仮宮でお守りされていた御神体は、翌1510年に漂着した場所から、西北に300mほどの場所に新しく建てられた社殿に移されました。こちらに気賀の総氏神様として祀られたのが「細江神社」の始まりです。

 

気賀といえば昭和20年代まで、特産として多くの農家で栽培されていたのが『琉球藺草』。細江神社の境内にあるのが『藺草神社(いぐさじんじゃ)』です。

 

藺草神社(いぐさじんじゃ)

 

江戸時代の大地震の際、気賀の領主であった近藤用髄が民を助けた名君ぶりを讃えた神社です。近藤氏は井伊家にも被官し、家康の遠江侵攻を助けた”井伊3人衆”のひとりです。

 

細江神社の境内にあるのが『藺草神社』。敷地には畳藺草の実物が栽培されています。

 

1707年(宝永4年)の宝永地震で、押し寄せた津波によって気賀も大きな被害を受けました。高潮のため稲は全滅。海水に浸かった気賀は、作物が採れなくなってしましまいました。

 

困り果てた領民が領主に訴え出たのですが、領主気賀近藤家の6代近藤用髄もその対策に頭を悩ませたました。

 

たまたま、大阪で豊後国(ぶんごのくに/現在の北部を除いた大分県)の領主松平市政に出会い、塩に強い沖縄の藺草の話を聞き、それを取り寄せ領内に植えさせることにしました。

 

その後、琉球藺草の生育もよく、冬にはそれを畳表に織り生活が安定し浜名湖一帯が栄えることになったそうです。そのことに感謝し、この「藺草神社」が作られたといいます。

 

気賀の名物

 

気賀の名物といえば《みそまん》や《うなぎ》などでしょう。気賀には、みそまんを売っているお店が3店舗もあり、一度食べたら忘れられない味で人気の和菓子です。

 

こしあんを黒蜜入りの皮で包んだおまんじゅうで奥浜名の名物です。皆さんが思っている「みそまん」とはひと味もふた味もちがうのです。一度食べてみて!

 

参照元:気賀関所 - Wikipedia

 

最後に

 

気賀関所は明治2年に廃止されるまで、江戸時代を通して姫街道を往来する旅人に目を光らせていたのです。

 

まさに戦のない江戸時代、およそ260年続く平和な時代は、こういった人びとの往来の自由がない時代だったからこそ続いたのかもしれません。

 

現在世界で起きている紛争のほとんどは、エネルギーの奪い合いから起きているとおっしゃる方が、できるだけ自給自足で暮らせるようにと、車を天ぷら油で走らせ、肥料を使わない農法で野菜を育て、井戸から水を汲んで(モーターで)食事は家の外で、料理はかまどと、薪ストーブで暮らしている番組を見ました。

 

やはり、自由で楽な暮らしを続けていると、あまり良い未来は望めないのかも!?なんて思ったのでした。

 

平和の時代の礎を築いた家康が、岡崎から浜松に入った29歳から、駿府に移った45歳までの17年間を過ごした浜松。家康公ももちろん残虐なこともされています。

 

今回ご紹介した気賀関所の近くには『堀川城跡』や『獄門畷』などが残され、家康に立ち向かった人びとの戦いや歴史が刻まれています。

 

私にとってよく見知った浜松ではありますが、家康公ゆかりの地や史跡を訪ね当時の歴史を知り、現代を考えるのは本当に面白いものです。

 

最近は朝から晩まで史跡や名所を調べ、週末の天気の良い日に出かけるのが楽しみになっています。お金があまりかからないところも魅力の一つです(笑)

 

最後までお読みいただきありがとうございました。では、またです。