sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

春はしだれ梅が咲き乱れ、かつて家康が本陣をおいた龍尾神社や『松ヶ岡』(旧山崎家住宅)

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

3月に入りあっと言う間に春らしい陽気も増え、今日は二十四節気の啓蟄です。この季節ならではの河津桜が今が盛りとばかりに濃いピンクの花を咲かせています。

 

あとはソメイヨシノの儚げな淡い桃色の花びらが舞う姿に、老いつつある自身もかくありたいと願うがかりの時期が近づいています。

 

この時期に見頃を迎えるしだれ梅、掛川で名所として知られる『龍尾神社』の花庭園を訪ねてみました。

 

2023年2月25日現在の『松尾神社』花庭園のしだれ梅のようす

 

 

龍尾神社

 

龍尾神社は厄除け開運に霊験あらたかな掛川市下西郷に鎮座する古社です。

 

掛川城の北東(鬼門)に位置するためその守護神として、山内一豊をはじめとする歴代城主のみならず、掛川藩の民や東海道を往来する旅人の信仰をあつめたことでも有名です。

 

 

場所:静岡県掛川市下西郷84

 

《アクセス》

電車:JR掛川駅より徒歩約30分(掛川城から徒歩約20分)

車:東名掛川ICより10分

駐車場:100台可

休み:年中無休

花庭園:入園料600円 ※2/15開園し最盛期は2月下旬~3月上旬

 

花庭園(しだれ梅)

 

龍尾神社に隣接する花庭園では、約300本の紅・桃・白のしだれ梅が咲き誇り見事です。毎年2月中旬から3月初旬が見頃のようです。しだれ梅の間から掛川城も眺められます。

 

庭園の広さは約7000平方メートル、自然の雑木林に囲まれた小高い山に約500mの遊歩道があり、途中川や池も設けられているので自然をめいっぱい感じることができます。

 

2023年のしだれ梅は、私が出かけた2月25日時点では満開とまではいえないけど、かなりの種類の梅が咲き誇りたくさんの人で賑わっていました。

 

家康が陣を置いたという『龍尾神社』のしだれ梅

 

やわらかな梅の香りに包まれ、結構な坂道を登りながら次から次へと現れる梅の木には桜とは一味ちがった魅力がありますよね。

 

かつて、天王山の戦では徳川家康公が本陣をおいた場所としても知られてる龍尾山だからでしょうか。ごつごつとした自然の石で作られたであろう階段は一度登ってみる価値ありです。スムーズに登らせてくれないところが、絶対にシニアの認知能力を高めてくれそうです。

 

山登りやトレッキングなどで慣れた方は問題なく登れるでしょう。ただ、普段から運動不足のシニアにはなかなかの運動量で、結構息切れもしました。

 

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龍尾神社の創建

 

龍尾神社の創建は詳しくはわかっていないようですが、927年(延長5年)に編纂された延喜式神名帳に記載された”式内社真草神社”ともいわれ、社宝として「真草」と記された社額を所有しているそうです。

 

鎌倉時代に詠まれた和歌 ”みな人も 深き願ひを 掛川の 龍の尾山の 神のみずかき”と龍尾神社神社を詠んだと思われる和歌があるとのことで、当時から知られた存在だったのかもしれません。

 

古くは「龍尾神社牛頭天王」と称し、掛川城が築かれた峰から連なる山脈を、この地を守護する龍になぞらえ、龍頭山、龍胴山、龍尾山と名付け、鬼門にあたる龍の尾の山に鎮座しています。

 

龍尾山は城の攻守の要であり、かの天王山の戦では、徳川家康公が本陣をおいた場所としても知られています。

 

また、1506年(永世2年)当時の遠江国守護職今川義忠の家臣朝比奈泰煕が掛川城の築城の際、城内(龍頭山)に鎮座されていた神社をも、この城内城からみて北東の方角である龍尾山に遷座合祀し、掛川城の鬼門鎮守としました。

 

永禄11年から12年(1568〜1569年)の徳川家康による掛川城攻防戦では龍尾神社の境内が家康の本陣となり戦略上重要視されました。

 

歴代掛川城の城主から崇敬庇護され、特に豊臣時代に城主となった山之内一豊が篤く崇敬し、土佐に移封になった後の寛永年間(1624~1645年)、跡を継いだ山之内忠義が龍尾神社の分霊を勧請し、山之内家の氏神と高知城(高知県高知市)の鬼門鎮守社(掛川神社)とし、「蘇鉄」と「土佐の石」を奉納しています。

 

古くから「龍尾山牛頭天王」と称されていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され『龍尾神社』に改称されたとのこと。なお、現在の御本殿は江戸時代中期の1713年(正徳3年)掛川藩主小笠原長煕により造営されたものです。

 

その他にも境内には、城主太田備中守奉納の石灯籠や、獅子頭、木製瓶子など歴史的にも貴重な品々が伝わっています。

 

御神木であるモミの木は推定樹齢300年、樹高23m、根回り3.8m、1994年(平成6年)に掛川市指定保存樹に指定されています。御祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)、櫛稲田姫尊(くしいなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらみこかみ)。

 

参照元:龍尾神社御由緒より

 

龍尾神社のしだれ梅を楽しみたくて!だとか、掛川茶を味わいに!などで掛川にお越しの際はやはり『掛川城』へも立ち寄ってみたくなりませんか?だって、そこにきれいになった天守閣が見えていますもの。

 

掛川城天守閣復活

 

先日まで修復工事中のため、掛川城の天守閣は囲いで覆われていたのでながめることが出来ませんでしたが、2月28日にはようやく囲いが外され、化粧直し後の外観がながめらるようになりました。パチパチ!

 

美しい白っぽい壁と、ちょっとブルーっぽい屋根のコントラストはあちこちで見るお城とはちょっと違う感じです。なんとなく遠江の海を感じさせる気がします。

 

この白っぽい壁ですが、「土佐漆喰」が使われているそうで、白くなるまで半年ほど、珍しい薄黄土色の状態が続くとか。夕日を浴びる掛川城が薄い黄金色に輝くのも今のうちです。

 

「土佐漆喰」とは、江戸時代に土佐(現在の高知県)で発祥し、発酵させた藁と消石灰を混ぜ、水練りするそうです。糊を含んでいないため雨に強く、厚塗りしてもひび割れしない特性があるといいます。

 

薄黄土色は藁の色素で、紫外線で分解される一方、雨で浸透した水分が乾く際に石灰の成分が浮き出て白くなっていくそうです。

 

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せっかく龍尾神社まで来たら、ぜひ立ち寄って欲しいのが『掛川城』。そして、掛川城ともかなり近い場所にある『松ケ岡』(旧山崎家住宅)もです。

 

『松ヶ岡』(旧山崎家住宅)

 

明治天皇の行在所となった歴史的価値のある建物が残る松ヶ岡(旧山崎家住宅)[写真AC]

 

掛川城の近くには『松ヶ岡』(旧山崎家住宅)があります。山崎家は、江戸時代後期に掛川藩の御用商人として名を馳せ、家業は油問屋を営んでいました。

 

屋敷と周囲に多くの松が植えられ、遠くから望むとまるで岡のように見えることから「松ヶ岡」と呼ばれていました。『松ヶ岡』の由来となった赤松は今も歴史の息吹を伝えています。

 

場所:静岡県掛川市南西郷838

 

《アクセス》

電車:JR・天竜浜名湖鉄道[掛川駅]北口から徒歩約15分

車:東名掛川ICより10分

駐車場:あり(15台)

営業時間:10:00~15:00

営業日:毎月第4土曜日のみ一般公開

見学:無料

 

『松ヶ岡』(旧山崎家住宅)は掛川市指定文化財に指定されており、主屋や長屋門や江戸時代の屋根替えが良好な形で保存されています。さらに、明治時代以降に増築された奥座敷棟も近代和風建築の格式高い空間を保持しているということで、最近訪れる方が増えているそうです。

 

山崎家は江戸時代には掛川藩の藩校にも携わり、本来は武士のみであった教育を広く商人などにも伝え、その学校は「教養館」と呼ばれていました。「生涯教育」などを日本で初めて掲げる、掛川の教育の息吹は「松ヶ岡」にありました。

 

油問屋を営んでいた山崎家は、幕末に各藩の負債の整理に携わり、県下屈指の富豪となりました。それだけでなく、その財力を私利私欲のためでなく、地域の発展に投資するなど、近代化のために尽力した人たちの歴史がこの「松ヶ岡」には残されています。

 

1600坪を超える広大な敷地の中に配置された8つの建築物と庭園。素晴らしい庭園が臨める表座敷は、1878年(明治11年)明治天皇の行在所(あんざいしょ/宿泊どころ)となるほど、歴史的価値のある建物です。

 

その他にも銀行を作れるほどの財産を収納した「金庫室」、米や味噌などの商材を収納した商人屋敷の蔵が何棟もある裏庭など、見ごたえのある屋敷が「松ヶ岡」です。

 

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松ヶ岡 長屋門と「行在所」の石碑

 

松ヶ岡は、十王区にある江戸時代末期に建てられた掛川藩の御用商人山崎家の住宅で、厳選された建築材料と丁寧な加工が施されています。庭園には池(堀)や多くの灯籠、沓脱の鞍馬石のほかに、「松ヶ岡」の名の由来となった赤松が残っています。

 

また、長屋門の右には「明治天皇掛川行在所」という石碑が残っており、1878年(明治11年)明治天皇の北陸東海御巡幸時に行在所(宿泊所)として提供された事を伝えています。

 

このように松ヶ岡は江戸末期の豪商の屋敷構をほぼ原型のまま残しており、明治天皇
行在所という歴史上の出来事のあった場でもあることから、大きな建築史的な意義を持っている建物といえます。

 

松ヶ岡に住んでいた人びと

 

松ヶ岡に住んでいた人びとの活躍も多方面に及んだそうです。

 

たとえば、8代目山崎千三郎は郷土の発展のため「掛川銀行」の設立や大井川疎水計画、東海道鉄道の誘致などの多くの私財を投じ、インフラを整備しました。初代掛川町長にも就任し、掛川市の基礎を作り上げた人物といえます。

 

また、千三郎の甥・覚次郎は東京帝国大学教授として「金融論」「貨幣論」の先駆的な研究をしました。銀行や貨幣の役割や金融の理論を紹介し、日本の金融論の基礎を築いた研究者となりました。また、皇室において国際金融問題を論じたり、日銀の政策に関わったりするなど、多くの人びとに影響を与えました。

 

千三郎は地方で、その社会経済の近代化に貢献し、覚次郎は中央の学界で日本における「金融論、貨幣論の先駆者」の道を歩みました。松ヶ岡はこれら二人の人物を輩出した家として、後世の人々から顧みられる価値を持つ文化財であるといえます。

 

掛川銀行とは?

 

1872年(明治5年)に国立銀行条例が施行され、1879年(明治12年)まで全国に153もの国立銀行が設立されました。

 

県下でも、浜松や静岡などに国立銀行が設立されています。掛川でも官金を取り扱う必要があったことや地域産業を振興するため、銀行が必要とされていましたが、設立の申請に遅れたため、国立銀行の設立に間に合いませんでした。

 

そこで、山崎千三郎をはじめとする資産家が私財を投じて、明治13年8月に銀行を設立し、千三郎自らが初代頭取となりました。

 

掛川銀行は明治初期の私立銀行のなかでも屈指の規模を誇り、資本金は30万円に上りました。これは建寧にできた国立銀行の資本金(静岡三十五銀行は7万円、浜松二十八銀行は12万円)をはるかにしのぐもので、全国有数の大銀行でした。

 

掛川銀行は、地域産業からの資金需要に応じ、掛川茶を世界に広めるため外国為替などの取引を行い、掛川を中心とした地域産業の振興と近代化に大きな役割を果たしました。私財を投じて、銀行を作った山崎千三郎の地域産業への並々ならぬ熱意が伝わります。

 

このように江戸時代末期から明治への変換期、掛川にあった大富豪のお屋敷を覗いてみることができるチャンスが、月に一度だけでもあるのですから「喜んで」出かけてみましょう。

 

参照元:松ヶ岡(旧山﨑家住宅)公式WEB┃掛川市指定文化財

 

「徳川家康と掛川城のかかわり」で紹介していました

 

2月25日に掛川市生涯学習センターで行われた「徳川家康と掛川城のかかわり」に参加した際、現掛川市長の久保田氏が『松ヶ岡』のことを紹介してくれました。

 

正確な内容ではありませんが(メモしてなくてすまん)、以下のようなことをおっしゃていました。

 

掛川は元より教育を高めることに興味を持っている人びとが多いところ。十王区にある山崎家は平成24年12月、所有者が松ヶ岡を処分すると意思を表わしたところ、地元の十王の市民から「あそこは保存する意味がある」や「取り壊しちゃいかん」などと取り壊しを惜しむ声があがり、掛川市が購入することになった場所です。現在修復工事中で離れや二階屋のみ毎月第4土曜の10:00〜15:00まで一般公開しているのでぜひ立ち寄って下さい。

 

なるほど!市民が取り壊しに反対するほど歴史上大切な場所ならば、ぜひ立ち寄りたいと思った時は、すでに16:30までの講演会が始まっていたのです。

 

ですから、山崎毛に立ち寄ることもなく(泣)その日は帰宅したわけですが、こんどの3月の第4土曜は26日。出かけられたらいいなと思っています。

 

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最後に

 

2月末に掛川城の近くの『龍尾神社』の花庭園で『しだれ梅』を楽しんだのですが、どうも庭園を登る階段が険しく、ゴロゴロした石で上りにくく、小高い山になっていたため「これってもしかして何かのお城や砦のあとじゃない?」なんて歴史好きらしい感想を持ってしまいました。

 

調べたらやはり、かつて家康が本陣をおいたことも判明し、より一層『龍尾神社』に親しみが湧いているところです。

 

もちろん『しだれ梅』のやさしい香りに包まれ、少し控えめな美しさも味わいつつ、これでやっと寒い冬も終わっていくんだなと感慨深く時間を過ごせたことも幸せな時間でした。

 

参加した「徳川家康と掛川城のかかわり」の講演会で、掛川市長が紹介してくれた掛川城近くの『松ヶ岡』(旧山崎家住宅)も一度訪ねてみたいと計画中です。

 

今回掛川市生涯学習センターに今回初めて出かけたわけですが、そこで紹介されていた『松ヶ岡』(旧山崎家住宅)を調べることで、日本で初めて「生涯教育」などを掲げる掛川の教育の息吹は『松ヶ岡』にあったのだと改めて知ることができてよかったです。

 

初代掛川町長もこの山崎さんのお宅から出ているんですものね。考えてみたら、掛川市生まれなのに知らなかったという事自体が、かなり恐ろしいことかも!?

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。