こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回の徳川家康ゆかりの城は、堀川城と同様三河の家康が遠江に侵攻してくる徳川に備えて、今川方の豪族たちが築いたお城『刑部城』です。
刑部城には悲しい姫様の悲話も残されているということで、興味津々で調べてみました。が、けっきょく現地にはたどり着けていないため、ネットなどで収集した情報になります。リベンジで出かける時の自身のためにも記しておきます。
刑部城跡
阿王山紫城とも称される『刑部城』は『堀川城』とともに、桶狭間の戦いで今川義元が亡くなったため、今川方の豪族たちが対徳川のために都田川岸に築いたお城です。築城年代などは定かではありませんが、戦国時代今川義元の家臣新田美作入道が居城していました。
刑部城は三方を都田川に囲まれた要害の地に築かれましたが、戦国時代の1568年(永禄11年)12月に近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時らの”井伊三人衆”の案内により侵攻した徳川軍に攻められ落城しました。
場所:静岡県 浜松市 細江町中川
《アクセス》
電車・バス:JR[浜松駅]⑮から遠鉄気賀行きバスで約60分[落合橋]下車、徒歩5分
天竜浜名湖鉄道[気賀駅]から徒歩10分
車:東名高速道路[舘山寺スマートIC]より約10分
駐車場:なし※裏手の金山神社に空き地があり、車を停められないこともないようです。
駿府城を拠点とした今川氏は、一時、戦国の雄として絶大な力を誇っていました。その今川氏の前線基地として、各地の戦線に派兵していたのがこの刑部城だと思われます。
岡崎城主松平広忠の長男として生まれた徳川家康(幼名竹千代)は、今川義元の時代に人質として19歳までの12年間を駿府で過ごしました。臨済宗の住職太原雪斎などから種々の教えを受け、家康の人間形成の上で重要な時期でした。
しかし、1560年(永禄3年)上洛を目指した今川義元が桶狭間で織田信長に討ち取られると、家康は岡崎城に戻り武将として独立し、天下取りに乗り出します。
1568年(永禄11年)家康と信玄が同盟を結び、今川氏が制圧していた遠江への侵攻を図ります。義元亡き後の今川家は義元の子氏真が跡を継ぎます。
氏真は、蹴鞠を好み、和歌を嗜む文化人として知られ、軍事に関する才覚は持ち合わせていないことを知った家康と信玄は、今川領の遠江と駿河を大井川を境に分け合うという密約を結びました。
陣座峠から遠江入りした徳川勢は奥山を経由して井伊氏の井伊谷城を攻略、今川勢を駆逐しながら、引間城(のちの浜松城)を目指しました。刑部城は、その過程で陥落した小城です。
徳川軍は、まず井伊谷城を攻略します。直虎が城主になっていましたが、このときは、井伊家家臣の小野和泉守に井伊領を横領され、城を出ていました。小野道好は敗走した後に、家康の支援を受けた井伊衆に捕らえられ磔にされました。
井伊谷城を奪うと、徳川軍は、今川氏が築いた三方を都田川に囲まれた姫街道の要衝『刑部城』も陥落させました。
『刑部城』が徳川軍に攻撃されたときには、今川方の庵原忠良、 長谷川秀匡らの兵やこの地の内山党がここに城柵を築いて立て籠もり、三河からの侵入者に備えていました。
対する徳川勢は三河野田の菅沼定盈(すがぬま さだみつ)が手勢を率いて攻めかけます。勢いのある菅沼勢の攻撃は熾烈をきわめ、刑部城はあっけなく陥落したといわれています。
現在城の形跡が全く残っていない事からも、家康に完膚なきまでに玉砕されたのかもしれません。室町時代、この地域は今川配下にあり、地侍や住民たちが今川家に忠誠を尽くしていましたから、『堀川城』とともに、家康の生涯においてもかなり残虐な攻撃だったのではないでしょうか?
その後、刑部城には菅沼又左衛門が城主として入城しています。家康は続いて白須賀城、宇津山城も攻略し、遠江侵攻を成功させて引間城を落とし、12月18日浜松城に入りました。
こうして家康は永禄12年にかけてほぼ大井川以西の遠江一円を平定すると、さらに東進政策を進めていくために本拠であった三河岡崎城を離れて1570年(元亀元年)6月に遠江浜松に居城を移したのです。
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その影には、井伊家にも被官していた”井伊三人衆”と呼ばれた武士たちの活躍がありました。
井伊三人衆とは?
井伊三人衆と呼ばれた近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時は、家康から本領安堵と加増の誓書を与えられ、いち早く今川氏を離れ家康につき、案内役になるなど徳川軍の手助けをしたといわれています。
刑部城は、1513年(永正10年)今川氏のライバル斯波氏の家臣だった当時の井伊家の当主、直平が籠城した三岳城を今川氏が攻め落としたときの足掛かりに使用されました。
また、1572年(元亀3年)武田信玄が三方原の戦いで家康に勝利したあと、この刑部城にしばらく滞在したともいわれています。異説ではこちらの1km程度東方の刑部砦周辺に本陣を置いたとされます。
現在の『刑部城跡』のようす
気賀方面から姫街道(県道261号線)を南へ下り、都田川を渡ったすぐ左の小山に『刑部城跡』はあります。交差点の信号機近くに案内板があります。
『刑部城跡』には、土塁や堀切などの遺構が残っており、二の曲輪には『金山神社』が建立されています。が、城跡は県道261号線(姫街道)によって分断されています。当時の姫街道の位置は現在とは異なりこの刑部城の東側を通って落合川の渡へ通じていたようです。
城跡南東側の金山神社入口前に空き地があり、神社右手に堀切のようなものも見えるそうです。道路北側に位置する本郭は現在うっそうとした深い竹藪となっているため、侵入は不可能かもしれません。以前は当時の犬走りや井戸が残っていたことは看板で知ることができます。
斜面に残されていたという井戸跡はあるのかどうか!?無理してでも荒れ放題の竹藪に侵入するなら、それなりの洋服・靴・虫除けスプレーなどが必要かも?
現在城跡の東は水田が広がっていますが、元々は浜名湖の入江や都田川の湿原で、昭和中期までは水田に入ると腰まで沈む程の場所だったそうで、当時は畳の材料の「イグサ」が盛んに栽培されていたといいます。
悲話「金襴の池」
刑部城跡の西側道路沿い、薪囲いの前に家康との戦での逸話『金襴(きんらん)の池』の案内板があり、この『金山神社』に残るひとつの悲話を伝えています。
案内板には以下のように書かれています。
昔、この辺りには美しい金襴の蛇が住む大きな池がありました。
今から400年余の昔、この近くに刑部城という小城があり、城主が数十の城兵を擁して守っていました。
その頃、浜松城に移って来た徳川家康は、その勢力を伸ばそうと戦いを繰り広げ、ついに家康の配下が多くの兵を率いてこの城に攻め込んできました。その勢いはものすごく、ひとたまりもなく敗れてしまいました。
その時、刑部城主には一人の美しい姫がおりましたが、姫は敵兵にかかって恥をさらすのを嫌いこの池に入って金襴の蛇に姿をかえ、池に住んでいるというお話です。
また、この池には1つ目小僧がいて時々日向ぼっこをしに姿を表わしたとか。これが世に言う河童だったのでしょうか?あるいは姫の家来が姿を変え、姫に仕えていたのでしょうか。
しかし、今はこの金襴の池も埋め立てられ現在は残っていません。
※金襴=錦のきれいに金糸で模様を織りだしたもの。
城が落ちたとき、城主の美しい姫が敵にかかって恥をさらすことを厭い、城のそばの池に身を沈め金襴の蛇に姿を変えたというものですが、このような話は当時の城の数ほど,いえ、それ以上に存在していたのかも知れません。
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最後に
今回は刑部城跡についていろいろ調べてみたのですが、現地へはけっきょくたどりつけず、悲しい「金襴の池」の看板のみ見つけることができました。
最近一生懸命に見ている歴史番組や本で、『遠江侵攻』の際に攻めたお城といえば、井伊谷城、掛川城、そして刑部城、堀江城などがよく話題にのぼります。
ただ、家康の猛攻が記録に残る『堀川城跡』はいろいろ資料もあり、『堀川城跡・古戦場』の石碑と小さな首塚、多くの村人が処刑された『獄門畷』なども残っているし、お城の本にも登場しますが、『刑部城』のことはなかなかネットで調べても出てこないし、家にある本には登場しません。
ですから、どうにか集まった少ない情報を元に現地にもでかけたのに、金山神社にもたどり着けなくて情けない感じです。それでも刑部城の事をもっと知りたいので、そのうち天気の良い日にリベンジに出かける予定です。
刑部城に残された悲話「金襴の池」、残念ながら、その池は埋め立てられ今はないようで、城址もきれいには保存されていないようです。
戦国時代というとどうしても活躍した武将や、城主にまで上り詰めたような殿様が脚光を浴びます。ただ、影でこうした不幸な女性たちが多くいた事を知るためにも、このような悲しい話も伝えられていくといいですね。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。