こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
平安以前から伊勢神宮の御厨として発達した浜松市の都田(みやこだ)は、浜松中心部から車で約40分、都田川沿いには田園、北側にはミカン畑が広がる自然豊かな地域です。
そんな都田に鎮座する『須倍神社』は、「蒲神明」(浜松市大蒲町)、「鎌田神明」(磐田市鎌田)とともに、遠江三神明の一社に数えられており、創建は887年と古く、伊勢神宮の御厨である都田に神宮を勧請したものと伝わる歴史の重みを感じる神社です。御厨とは、地域の特産品を納める代わりに税を免除される神社の直轄地、あるいは荘園ということのようです
伊勢神宮同様に須倍神社も当初は内宮と外宮に別れていたそうですが、別々の場所に鎮座していた内宮と外宮の両社が現在地に移ったとのこと。神明づくりの社殿は神々しく、珍しいことに拝殿には内宮と外宮の賽銭箱が2つ並んでいます。
天照大御神はじめ多くの神々、日本武尊、神武天皇、菅原道真公、鹿島・香取・熱田神宮同神など70柱以上を数えるの神々をお祀りするという驚きの神社であり、由緒正しい神明宮です。
拝殿前の広場には奉納芝居を上納する舞台もあり、昔はここで歌舞伎や村芝居が行われ、近隣以外からも多くの人たちが観劇に集まったそうです。今回はそんな都田の歴史ある『須倍神社』について、いろいろ深堀りしてみたいと思います。
須倍神社
鎮座地:静岡県浜松市浜名区都田町6284
《アクセス》
電車・バス:天竜浜名湖線[常葉大学前駅]より徒歩約10分、
天竜浜名湖線[都田駅]から約15分
浜松駅より遠鉄バスで[都田行き]約60分乗車[都田西]バス停下車徒歩約5分
車:東名高速道路[浜松西IC]より約15分
新東名高速道路[浜松いなさIC]より約20分
駐車場:あります
御朱印:いただけます
須倍神社とは?
須倍神社は延喜式内社で引佐郡六座の一つで、社伝によると、人皇58代光孝天皇の仁和3年(887年)の建宮と伝えられる都田最大の神社です。
鎮座地である都田町は伊勢の神宮の御厨として発達した土地であり、祭神は神宮を勧請したものと思われます。
もと内宮は上社として上都田須部の上の山(現在地の2kmほど北東)に鎮座し、外宮は下社として下都田中津(都田川の少し下流)に鎮座していたのですが、延喜2年(902年)上社下社の両社を現在地に遷し、神明宮或いは須倍神社と称すようになったといいます。
『須倍神社』に内宮と外宮があるのは、神宮を勧請したからでしょうか?これも都田が伊勢神宮の御厨として発達した土地だからということが重要なのだと思います。私はまだ伊勢神宮以外で内宮と外宮がある神社に出会っていませんが、きっとどこかにもあるのでしょう。
1601年(慶長6年)には、徳川家康が伊奈忠次(徳川家康に仕え、家康の国づくりを支えた代官頭の一人)に社領として、内宮に四石、外宮に三石を黒印を以て寄進されたのを1648年(慶安元年10月24日)徳川家光が朱印に改め寄進されました。
現在の『本殿』は1950年(昭和25年)に改築されたもので、神明造銅葺です。1998年(平成10年)に改修されたそうです。
御祭神
天照大御神はじめ多くの神々、日本武尊、神武天皇、菅原道真公、鹿島・香取・熱田神宮同神など70柱以上を数えるの神々をお祀りする別名を寄宮とも称される霊験あらたかな神社です。
ですから、御祈願はこちらの須倍神社一つお参りすることで事足りるとされています。御利益を求めて東奔西走しなくても、70柱以上の神々が願い事を聞き入れてくださるというありがたい神社というわけです。
【内宮本殿】
主祭神
天照皇大神(アマテラスオオミカミ)
相殿神
・天手力男命(アメノタヂカラオノカミ/天岩戸伝承で、天岩戸の中に閉じこもったアマテラスを外の世界に引きずり出した神)
・拷幡千々比売命(タクハタチヂヒメノミコト/とても美しい織物の女神とされ、『古事記』には、タカミムスビ神の娘で、アマテラス大神の長男アメノオシホミミ命と結婚し、天孫降臨神話の主役ニニギ尊を産んだ神)
【外宮本殿】
主祭神
豊受姫大神(トヨウケノオオカミ/伊弉諾尊の孫、和久産巣日神(わくむすびのかみ)の子。五穀をつかさどる女神で、伊勢神宮の外宮に祭らる)
相殿神
・皇孫邇邇藝命(ニニギノミコト/天照大神の子である天忍穂耳尊と高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫命の子(つまり天照大神の孫)・神武天皇の曾祖父)
・天児屋根命(アメノコヤネノミコト/天岩戸伝承で、フトダマと共に占いを行い、岩戸の前で祝詞を奏上した神。 そのため祝詞、言霊の神と評される一方、中臣連の祖とされ、中臣鎌足を代表とする藤原家に氏神として崇敬された)
・天太玉主命(アメノフトダマノミコト/岩戸隠れの際、思兼神が考えた天照大神を岩戸から出すための策で良いかどうかを占うため、天児屋命とともに太占(ふとまに)を行った)
【外宮】
都田村内合祀69社を合祀
【境内社】
本殿左横に境内社が鎮座しています。
正面向って右側が『秋葉神社』御祭神は火之迦具土神。
左側が『津島神社』・『姥神社』です。御祭神は建速須佐之男命・石凝姥命。姥神社の御祭神の石凝姥命は学問の神としても祀られています。
・秋葉神社:火之迦具土神(ヒノカグツチ/イザナミとイザナギが神生みで生んだ火の神。 その火が原因で、イザナミは亡くなってしまう)
・津島神社・姥神社:建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと/ 地上を高天原の管理から開放しようと行動する神)・石凝姥命(いしこりどめのみこと/ 鏡作部の祖神。 天糠戸神(あまのぬかどのかみ)の子。 天の岩屋戸に隠れた天照大神を導き出すため天の香久山の金で祭祀用の鏡を作った)
祭典
秋の例大祭では、周辺9地区(川山・新木・横尾・吉影・谷上・一色・中津・中野・須部)より山車が引きまわされます。
また、祈年祭・新嘗祭でも当番区や氏子から選ばれた子供たちが祭典に参加し、献撤饌(けんてっせん/お供え物を御神前にお供え、また御神前からお供え物を下げること)の奉仕や、浦安の舞(剣の舞・鈴の舞)の奉納をおこなうそうです。
お参りしていきましょう
第一鳥居
国道362号線を北に入ると正面に石造りの大きな『第一鳥居』が見えてきます。神明式鳥居で伊勢神宮の鳥居と同様に下側の横棒が飛び出していません。一礼して第一鳥居をくぐります。
由緒
人皇五十八代光孝天皇の御宇仁和三年(八八七)の建宮
延期二年(九0二)上都田内宮 (須部上の山)下都田外宮(中津潜龍橋たもと付近)を合わせて延喜式内須倍神社と社号を定め現在の神明風呂に遷座した。鎮座地都田は伊勢神宮の御厨で須信神社は引佐郡六座の一つに挙げられている。
慶長六年 德川家康は伊奈備前守忠次に社領として黒印を以て寄進され慶安三年 徳川家光が 深印に改め寄進されている
明治六年 郷社に列格
村内六十九社を外宮に合祀する
例祭日 十月十七日
(鳥居横石碑より)
自然豊かな参道をセミの声を聴きながらちょっとだけ進めると、すぐに『第二鳥居』です。一礼して第二鳥居をくぐります。
第二鳥居
階段の上に神明造りの本殿が見えてきました。この階段下の左の広い場所に『舞台』があったのですが、写真を撮っていませんでした。ごめんなさい_(._.)_
須倍神社
鎮座地 浜松市都田町神明風呂 六二八四
御祭神 内宮天照皇大神 外七十五柱
外宮豊受姫大神
例祭日 十月十七日
由来
延喜式内社で引佐郡六座の一つ。 光孝天皇の御代、仁和三年(八八 七)の建宮と伝えられる。鎮座地、都田は伊勢神宮の御厨(みくりや)として発達した土地なので、御祭神は伊勢神宮を勧請奉斎したものである。内宮は上社と言って上都田須部の上ノ山に鎮座し、外宮を下社と称し下都田中津に鎮座していたが、創建十五年後の延喜二年(九〇二)上、下両社を現在地に移し、神明宮あるいは須倍神社と称する。
(境内案内板より)
階段下の右側に手水舎があります。ここで口と手を清めてからお参りしましょう。
手水舎
石碑
日清戦争に都田から従軍した17名を記した石碑「征清戦徒紀念碑」で、明治33年に建立されたそうです。
『拝殿』でお参りしてから、左奥に進むと境内社のお宮が鎮座しています。
境内社
青空と神明造の本殿の眺めを堪能してから帰路につきました。きっと明日も良い日になるでしょう!
参照元:「浜松の史跡 続編」 須倍神社 - Wikipedia 「須倍神社」 - 絶景かなドットコム(遠州東海)
最後に
今回は都田の『須倍神社』をお参りしてきました。歴史ある神社で創建は887年と伝わり、祀られている神様も天照大御神はじめ多くの神々、日本武尊、神武天皇、菅原道真公、鹿島・香取・熱田神宮同神など70柱以上を数えるの神々と豪華絢爛です。
こちらにお参りすれば、なんと70柱以上の神様に一斉にお願い事ができるというすばらしい神社です。
現在行われている戦争が終わり世界が平和になり、新たな戦争が始まることなく、できれば地震の被害を少なくしていただき、台風などの温暖化の影響も少なくしていただきたい。農業や漁業なども天災の被害に遭わないように!つらつらとお願いしてしまいたいところでしたが、遠慮して「世界平和」と「地震ふが起きませんように」とかなり絞りこんでみました。
ちなみに、都田在住の「須部さん」という名字の方は、この須倍神社を守ることを生業にしていた家の名残だそうです。ただし、「部」と「倍」の違いがあるのはあえて文字を変えているそうで、歴史と名字の関係って面白いですね。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。