sannigoのアラ還日記

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坂上田村麻呂の伝承がいくつか残る遠江、今回は『椎ヶ脇神社』編

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

”電車が鳥居の上を走る!”という驚きの写真が、Xやインスタグラムにアップされているのを見るたび、一度でかけてみたいと感じていた天竜浜名湖線の西鹿島駅の北に鎮座する『椎ヶ脇神社(しいがわきじんじゃ)』先日(4月16日だけど)やっとでかけることができました。

 

境内へ向かう石段を登れば、運が良ければうわさの鳥居の上を電車が通過する風景をこの目に収めることができると思うとワクワクでした。

 

もう一つ興味津々なのがあの「清水寺」を建立した坂上田村麻呂、平安時代の征夷大将軍として蝦夷討伐に功績を残したことは有名ですが、東征の途中あちこちの土地で寺社の縁起などの伝承を残しているらしく、東北はもちろん関東や近江、中国に駿河、そしてここ遠江にも残されています。

 

浜松市内に鎮座する『有玉神社』『白華寺』『高貴神社』などと同様に、こちらの『椎ヶ脇神社』にも蝦夷討伐のための東征途中での坂上田村麻呂にかかわる伝承が残されています。

 

背が高く胸板が厚い坂上田村麻呂は「沙門天の化身」だとか「夷人=蝦夷」、さらに「黒人」説まで、先日のNHKでの放送を見てからというもの、遠江に残る天竜川龍神伝説からの田村語りが止まりません。

 

『椎ヶ脇神社』には、東征の際に立ち寄った遠江の地元の人たちから受けた恩を、蝦夷討伐を果たし帰郷した後に田村麻呂が奉納したという太刀銘金字で「鬼神丸」と記された長さ2尺5寸の太刀が、現在も社宝として残っているとか。

 

これまで何度も国道152号線を走り鹿島橋を渡るとき頭上を見上げ、「この西鹿島側の交差点を西へ向かえば『椎ヶ脇神社』に行ける」と思うのに、なぜか通過してしまいがちでした。

 

ですが、今回はタイミングが合ったようで、やっとこれまで見上げていた岩山のきつい階段を上り、春から夏は桜や青紅葉、秋から冬は紅葉と1年中自然が楽しめる神社にお参りできて幸せでした。

 

ご近所にはおいしそうな香りを漂わせる有名な鰻屋さんもあります。また、近くには『金貸水神社』という少し変わった神社もありますので、一度お参りを兼ねて出かけてみることをおすすめします。

 

坂上田村麻呂の伝承がいくつか残る遠江、今回は『椎ヶ脇神社』編

 

 

椎ヶ脇神社(しいがわきじんじゃ)

 

 

 

場所:浜松市天竜区二俣町鹿島1-14

 

《アクセス》

 

電車・バス:遠鉄電車[西鹿島駅]下車、徒歩約16分

      天浜線[二俣本町駅]下車、徒歩約21分

車:新東名高速道路[浜松浜北IC]より約10分
駐車場:参道の横に参拝者用駐車場があります

御朱印:いただけるようですが、今回はいただけていません

 

椎ヶ脇神社とは?

 

口コミによると、遠江国式内社六二座、旧長上郡四座の内の一つ「猪家神社」の論社に挙げられる由緒ある神社で、坂上田村麻呂にかかわる伝説の他にも、神社の北側にある天竜川の深淵(椎ヶ淵)に、竜宮城があったという伝説も残っているそうです。

 

水運に携わる水夫などから信仰を集めたそうで、これは坂上田村麻呂の天竜川の伝承によるものと考えられます。sannigoのブログをいつも読んでくださる方ならまた?と思われるかもしれませんが(笑)

 

こちら『椎ヶ脇神社』での伝承では、平安時代前期の801年(延暦2年)垣武天皇の命を受け、蝦夷征伐のため征夷大将軍坂上田村麻呂がこの地に下向したとき、対岸へ渡るための筏を地元の人たちが作ってくれたという伝説です。

 

対岸へ渡るためこの地に下向したとき、天竜川が洪水により氾濫。磐田の海と重なり大海のようになったため対岸へ渡ることができませんでした。そこで地元の人たちが筏を作り対岸へ渡したところ大変喜んで、この地の減水を祈り「闇淤加美神」(くらみつはのかみ)を奉斎したのが『椎ヶ脇神社』の始まりとされています。

 

古代、椎ヶ脇神社は天竜川の水利を守り船の安全を保ち、堤防の破損を免れ流域の大氏神として水害多き村々に御分霊を祀ってきた徳川幕府から1602年(慶長7年)伊奈備前守より 神田朱印高20石を寄進されました。

 

また、1591年(天正19年)浜松城主堀尾六左右衛門に命じて再建させた本殿は総ケヤキ造り、桁行き1.8m、長さ3.96m、梁間2.5m、棟高5.4m、軒高2.89mです。

 

神社は、明治5年12月10日 郷社に列せられ、明治40年3月15日 神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)を供進される神社として指定されました。

 

また、こちらの『田村将軍碑』と称する石塔2基は、室町時代に建立されたと言い伝えられているとのこと。

 

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御祭神

 

・闇淤加美神(くらおかみのかみ)

谷の急流を表す龍の化身、龍は荒れ狂う、流れの激しい川の象徴

・豊玉姫命(とよたまひめ)

 

闇淤加美神とは?

 

『古事記』によると、伊邪那岐命(いざなぎ)が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を斬り殺した際に斬った御刀の柄に溜まった血が、指の間から漏れ出て生まれたのが、「闇淤加美神(くらおかみのかみ)」と椎ヶ脇神社の御祭神である「闇御津羽神(くらみつはのかみ)」です。

『日本書紀』では、軻遇突智命(カグツチ)を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が「高龗神(たかおかみのかみ)」であるとしています。
 
神名の「闇」(くら)は暗い谷間を、「淤加美」(おかみ)は「靇」とも書く「龍」の古語で、「御津羽」(みつは)は「水早」で水の出始めを表し、合わせて「谷川の龍神」を意味します。( 淤迦美神 – 國學院大學 古典文化学事業 )
 

豊玉姫命とは?

 

海神・大綿津見神(おおわたつみのかみ)の娘。天孫・邇々芸命(ににぎのみこと)が大山津見神の娘木花佐久夜毘売との間にもうけた火遠理命(=山幸彦)と結婚し、鵜草葺不合命(うがやふきあえず)を生みます。( トヨタマヒメ (とよたまひめ)とは【ピクシブ百科事典】 )

 

先日記事にした浜名区於呂3526の『於呂神社』、こちらの御祭神天津日高日子穂穂手見命(あまつひほほでみおみこと)と結婚したのが、こちらの御祭神豊玉姫命ということですね。何かしらの関係があるのでしょうか?気になります。


坂上田村麻呂の伝承とは?

 

平安時代前期の801年(延暦2年)垣武天皇の命を受け、蝦夷征伐のため征夷大将軍坂上田村麻呂がこの地に下向してきました。

しかし、天竜川が洪水により氾濫し、 大海のようになり対岸に渡ることができませんでした。

そこで地元の者達は、いかだを作り、 田村麻呂を対岸へ渡したところ、大変喜び、この地の減水を祈り、闇御津羽神(くらみつはのかみ)を奉斎したのが『椎ヶ脇神社』の始まりだそうです。

坂上田村麻呂は帰郷後、同社へ「鬼神丸」と名付けた刀を奉納しました。

また伝承によれば、椎ヶ脇神社の呼称は『往古緒家神社』とも呼んでいたそうで、この神社の北側には、天竜川の深淵があり、その断崖絶壁の上に大木の椎の木がありこのことから「椎ヶ淵」と称し、この淵に臨んだ神社ということから『椎ヶ脇神社』と転称したともいわれています。

 

また、岩水寺に残る『天竜川龍神伝説』は、だいたい下記のような内容で、こちらの『椎が脇神社』は、田村麻呂と玉袖と名乗る美しい姫(実は30mもある大蛇)との間に生まれた一子俊光将軍が、母の玉袖を祀ったものという伝説も残されています。

 

『天竜川龍神伝説』を簡単にしてみました。

 

坂上田村麻呂が勅命により蝦夷征伐に向う途中岩水寺のすぐ東側、岩田(磐田)の海、袖ヶ浦と呼ばれる地域(岩田の海とは現在の天竜川のことで、天竜区二俣町鹿島)、が荒れ狂い困っているとその海から、玉袖と名乗る美しい姫(実は30mもある大蛇)が現れ、2人は結ばれ一子赤蛇丸(後の俊光将軍)が生まれます。

 

「生まれるまでは産屋を覗くな」と言われていたのに田村麻呂が覗いてしまうとそこでは30mもある大蛇が赤子をなめているというどこかで聞いたことがあるような、ないようなお話から、「この子はあなたの子、立派な武将に育ててください」と美しい姫玉袖は2つの宝珠を坂上田村麻呂将軍に渡して岩水寺の赤池へ消えて行きました。

 

坂上田村麻呂と息子の俊光将軍が再び勅命でこの地に来ると、また海が荒れていました。困った俊光将軍が宝珠を投げ込むと、水が干上がったといいます。

 

その時、俊光将軍の母である玉袖は岩水寺の赤池に隠れ、そこから奥の洞穴(鍾乳洞)に入り、その後鹿島の椎ケ渕へ入ったのです。

 

このような伝説から、ここ『椎ケ脇神社』は俊光将軍が母である美しい姫玉袖(実は30mもある大蛇)を祀ったものであるとされる説もあります。さらに、この坂上田村麻呂と玉袖の間に生まれた俊光将軍を祀る『俊光将軍社』が、『有玉神社』内に鎮座しています。

 

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お参りしていきましょう

 

参道前の背の高い杉の木と、椎が脇神社由来の案内板

 

参道脇の駐車場に車を停めさせていただいて、お参りしていきましょう。

 

椎ヶ脇神社由来

 椎ヶ脇神社は、桓武天皇の延暦二十年(八〇一)征夷大将軍坂上田村麻呂(七五八~八一一)が陸奥地方の蝦夷反賊の征伐のため下向の折、天竜川が洪水氾濫し、磐田の海と重なって大海となった。東岸(野部・広瀬)に渡ることも出来ず困っていた。その時、土人(鹿島に住んでいた昔の人)が筏を作り将軍を渡したところ、大変喜ばれこの地に減水を祈り「闇淤加美神」を祀り給わった。これが現在の椎 ヶ脇神社祭神である。

 尚、伝承によれば、椎ヶ脇神社の呼称は、往古猪家神社とも呼んでいた。この神社の北側には、天竜 川の深淵があり、その断崖絶壁の上に大木の椎ノ木があり、これから椎ヶ淵と称し淵に臨んだ神社から 椎ヶ脇神社と転称したとも言われる。

 古来、椎ヶ脇神社は天竜川の水利を守り船の安全を保ち、堤防の破損を免れ流域の大氏神として水害多き村々に御分霊を祀ってきた徳川幕府から慶長七年(一六〇二)伊奈備前守より、神田朱印高二十石を寄進された。

 又、天正十九年(一五九一)浜松城主堀尾六左衛門光景が、宮奉行中村宗助と代官池田忠左右衛門に命じて再建させた本殿は、総ケヤキ造り、桁行一・八米、長さ三・九六米、梁間二・五米、棟高五・四米、軒高二・七九米である。

 神社は、明治五年十二月十日郷社に列せられ、明治四十年三月十五日神饌幣帛料を供進される神社として指定された。

 祭神

闇淤加美神(くらおかみのかみ)

豊玉姫命(とよたまひめのみこと)

 合祀祭神

神明神社 天照皇大神 豊受大神

白山神社 菊理姫神(きりひめのかみ)

水神神社 彌都波能賣神(みづはのめのかみ)

利仁将軍

権現

田村神社

神社

平成二十年建立

(境内案内板より)

 

掲示板に大久保彦左衛門の「詫状文」という殿第一の家臣だからこそのエピソードが掲示されていたので、こちらに載せておきます。

 

大久保彦左衛門の『詫状文』

(西鹿島)

 徳川家康と武田信玄が、北遠の地ではげしい攻防戦を展開していた天正年間のことで ある。

 家康の一の家来、大久保彦左衛門も主君に従ってこの戦いに参陣していたが、徳川に とって形勢は大変に不利であ った。

 そこで彦左衛門は、天竜川の断崖に建つ霊験あらたかな椎ヶ脇神社に詣で、勝利祈願の祈とうを申し出た。すると神官は、心よくそれをひきうけて社殿にこもり、椎ヶ脇大明神に徳川勝利の祈りをささげた。にもかかわらず、この戦いは大敗したので、彦左衛門は大いに憤慨して

「椎ヶ脇神社の神官は、あてにもならぬやつじゃ。役にもたたぬ男じゃ」

と言って、大変に神威を傷つけてしまった。

 主君家康の身を案じている彦左衛門のもとに、その時、 朗報が入ってきた。

「殿さまは天竜川を筏で越されて、無事浜松の城へもどら れました」

 彦左衛門は大変に喜んで、「ああ、神官の祈願のおかげであった。椎ヶ脇大明神の霊験のたまものであった。そうか。殿はご無事でかられたか」とうれし涙をはらはら流したという。 

 その後、天正八年に、大久保彦左衛門は、椎ヶ脇神社の 神官にあて、『詫状文』を書き、 社殿造営の資金をも献じたという。

この『詫状文』は、今も残されているという。

 (『ふるさとものがたり天竜』より)

 

大久保彦左衛門って?

永禄3年(1560年)、徳川氏の家臣・大久保忠員の八男として三河国上和田(愛知県岡崎市上和田町)にて誕生。母は、側室・小坂氏。幼名は平助。忠世、忠佐、忠長は異母兄。

三河国の戦国大名・徳川家康に仕え、天正4年(1576年)、兄・忠世と共に遠江侵攻に参加。犬居城での合戦が初陣という。( 大久保忠教 - Wikipedia )

『どうする家康』では小手伸也さんが演じた二俣城主大久保忠世、彦左衛門は忠世の弟で、名は忠教。彦左衛門は通称、徳川家康に仕えて戦功をたて、幕府の重臣として秀忠・家光を助けました。また反骨と奇行で知られ講談では「天下の御意見番」として親しまれ、たびたび映画やドラマにもなりました。

初陣は春野町での『犬居の戦い』 『三河物語』の作者としても有名です。

 

参道は清潔感があふれています。鳥居が見えてきました。

 

参道と鳥居

 

清潔な『参道』と、『鳥居』

 

神門

 

どうやら猿が出没するようです。『神門』をくぐっていきましょう。

 

猿に注意です。『神門』

 

左右は自然がいっぱいで「青紅葉」が清々しさを感じさせてくれます。石段を少し上がると『拝殿』が見えてきました。

 

遠くに『拝殿』が見えてきました。青空に青紅葉が映えます

 

手水舎で手と口を清めてから拝殿でお参りしましょう。

 

手水舎と拝殿

 

『手水舎』と『拝殿』

 

狛犬

 

拝殿前には『狛犬』が守っています

 

狛犬(こまいぬ)とは、獅子に似た日本の獣で、想像上の生物とされます。像として神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれる事が多いようです。( 狛犬 - Wikipedia )

 

拝殿

 

『拝殿』と『金貸水神』の貸付約定書

 

こちらには「心願成就」と書かれた『金貸水神』の貸付約定が置かれていました。「お金を借りて病全快 鹿島を見守る水神様」がキャッチフレーズの変わった『金貸水神社』は椎ヶ脇神社の末社。本殿から約300mの川岸の崖の上にあります。

 

金貸水神社』の記事はこちらから≫

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本殿

 

様子が詳しくはわからない『本殿』と『拝殿』

 

本殿は1591年(天正19年)浜松城主堀尾六左衛門光景が、宮奉行中村宗助と代官池田忠左右衛門に命じて再建させました。案内板にあった通り、『本殿』は総ケヤキ造り、桁行1.8m、長さ3.96m、梁間2.5m、棟高5.4m、軒高2.79mだそうです。

 

建部新八郎慕徳碑及び石灯籠

 

建部新八郎慕徳碑及び石灯籠

 

明治時代に天竜市二俣町鹿島にあった小学校「二俣学校鹿島分校」の校長に18歳で就任したという教育者建部新八郎の顕彰碑。

 

椎ヶ脇神社の宝篋印塔

 

椎ヶ脇神社の宝篋印塔

 

征夷大将軍 坂上田村麻呂が東征の折、この地に残る伝説に由来する「田村将軍碑」と称する石塔2基が室町時代に建立されたと言い伝えられる。(椎ヶ脇神社氏子総代会の説明板より)

 

合祀・田村神社

 

『田村神社』の社

 

最後に鹿島橋側の鳥居からの赤電の鉄橋

 

今回私は駐車場側から『椎が脇神社』をお参りしたため、あのあこがれの「電車が鳥居の上を走る」という夢の場面に出会っていませんでした。忘れていたわけではないので、さっそく急な階段を登っていきましょう。

 

鹿島橋側の『椎ヶ脇神社』、急な階段を登っていきます

 

『鳥居』まで登ってこれました。鳥居の下に遠鉄の鉄橋が見えた!

 

鳥居まで登ってこれました。鳥居の下に遠鉄電車、通称赤電の鉄橋が鳥居の下に見えませんか?さすがに電車が走るところは撮り損じました。

 

これは花桃でしょうか?天竜川もきれいに見えます。

 

参道脇にはきれいな花桃が咲いていました。桜の木も多く、春のお花見シーズンにはたくさんの人でにぎわいそうです。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。