sannigoのアラ還日記

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月見の名所としても知られる家康にゆかりのある『藤谷山宿蘆寺』

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の徳川家康ゆかりの地は、舘山寺から庄内半島を約2kmほど南下した場所(浜松市中央区庄内町)にある月見の名所としても知られる曹洞宗の名刹『藤谷山宿蘆寺(とうこくざんしゅくろじ)』です。

 

『宿蘆寺』は、室町時代の文正元年(1466年)にこの地にあった佐田城の城主、堀江下野守久実(ひさざね)の開基で、浜松普済寺より命天慶受(めいてんけんじゅ)和尚を迎え開かれたとされています。

 

実際にお参りしてみて感じたのは、かつては38カ寺にものぼる末寺を擁していたお寺の貫禄みたいなものです。江戸時代の1776年(安永5年)に建てられた堂々たる本堂や、趣のある山門、苔むした表参道から強くそれを感じました。

 

この宿蘆寺に残る家康に係わる伝承では、

家康が戦いに負け敵から逃れて浜名湖のほとりまで来るとあたりはすでに真っ暗になっていた。
一安心して眠たくなった家康が辺りを探すと蘆(芦)が茂るばかりで何もない。
すると遠くに森が見え、近づくと『宿蘆寺』があったため、家康は蘆の中の船で家来が止めるのも聞かずに船に乗り込みその中でゆっくりと寝た。
翌朝宿蘆寺の和尚が家康を見つけビックリして食事でもてなした。

とあります。

 

さらに夜更けに目覚めた家康が芦の中から空を見上げると、澄んだ丸い月が輝き、その美しさにしばし見とれたとあり、この辺り一帯の浜名湖は観月の名所となったと言い伝えれられ、現在も舘山寺温泉では月見の会が恒例になっていると聞きます。

 

やはり、遠江の人にとっての家康公はかなり身近な人であり、しかもロマンの人でもあることを数多く残されている伝承から感じます。山門をくぐり表参道を進めると、そこには城郭を思わせる浜松城と同じ野面積みの石垣が残されていたりして、やはり家康の存在を強く感じます。

 

この地にあった佐田城が落城した1522年(大永2年)以降、堀江城主大沢氏の菩提寺として栄えた宿蘆寺。寺内には価値ある古文書や遺品が数多く納められているそうで、境内の西の丘には大沢家の墓所があります。大沢氏歴代の11基の石塔があるので今回こちらもお参りしてきました。

 

実は現在この大沢家の墓所の奥がとんでもなく広い「浜松メモリアルガーデン」という墓所になっているため、駐車場に車を停めるとかなりびっくりしますが、高い丘から浜名湖を見下ろすお墓で眠ることができる遠州人は幸せだろうなとうらやましく思います。

 

月見の名所としても知られる家康にゆかりのある『藤谷山宿蘆寺』

 

 

藤谷山宿蘆寺(とうこくざんしゅくろじ)

 

 

住所:静岡県浜松市中央区庄内町721

 

《アクセス》


電車・バス:[浜松駅]より遠鉄バス[舘山寺温泉・村櫛行き]に約1時間乗車、[協和口]バス停で下車、徒歩約10分
車:東名高速道路[浜松西IC]より約15分、舘山寺温泉より約7分
駐車場:境内と県道脇にあります
御朱印:いただけませんでした

 

宿蘆寺の開創、開基は?


宿蘆寺は室町時代の1466年(文正元年)に浜松の普済寺の命天慶受(めいてんけんじゅ)和尚を迎え開かれました。開基はこの地にあった佐田城の城主堀江下野守久実(ひさざね)とされています。

 

開基の堀江氏の先祖は越前国(福井県)の豪族藤原時国で、時国は越前国堀江庄に住んでいたことから堀江氏を名乗るようになったとか。さらにその4代後の光真が初めて来住し佐田城を構えたとされますが、残念なことに当時の佐田城がどこにあったのかは不明です。

 

『宿蘆寺』の寺号、『藤谷山』山号の由来は?

 

『宿蘆寺』の寺号の由来は、寺の西側には浜名湖があるのですが、昔は深く入り組んで蘆(芦)が多く宿っていたためといいます。

 

『藤谷山(とうこくざん)』の山号の由来は、昔寺の背後の山に藤が多く自生していたため。藤が満開の頃を迎えると浜名湖を行き交う船からも藤が見えたというところからといわれています。

 

かつては38もの末寺を擁していた名刹と聞き、楽しみにお参りしてみて、やはりとても規模が大きく、格式あるお寺さんだったことが想像できました。

 

1863年(明治元年)3月の神仏分離令による政府の神道国教化策によって引き起こされた『仏教排斥』(仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する意)では日本の各地で多くの寺院が破壊され、仏像や経典などが破棄されたと聞きます。

 

この明治の廃仏毀釈は厳しく庄内地方は遠州で最もひどかったとか、舘山寺などをはじめとした各村の30余寺が宿蘆寺などを残し数寺になったそうです。

 

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本堂

 

江戸時代に建てられた『本堂』、『庫裡』と思われる建物現在は坐禅堂?

 

現在の『本堂』は1776年(安永5年)に完成したもので、13代大新和尚の発願により信者さんの浄財・労力奉仕によって完成したそうで歴史と風格を感じます。時の城主大沢氏は、民衆の宗教的団結を恐れてでしょうか、これを反対したといいます。

 

『庫裡』は1703年(宝永元年)に建てられたものとのこと、ただ、こちらでいただいたパンフレットには庫裡の記述はなく、『坐禅堂』の記述があるのでこちらのことかな?と思っています。

 

『坐禅堂』の正面には『文殊菩薩』、上段には『千体観音』が安置されています。千体観音は元禄元年に大新和尚が世の平安と本堂建立の成就をこめて一体一体彫ったものだそうです。

 

境内

 

背の高い樹木が茂っている境内

 

 

本堂の左側にはバナナ?芭蕉?どちらかわからないですけど、境内には他にも樹高の高い木が茂っていたり、とにかく広く自然味あふれる場所で心が落ち着きます。

 

山門

東皐心越禅師の書による扁額が掲げられた『山門』

 

山門に掲げられている藤谷山と書かれた『扁額』は、徳川光圀(水戸黄門)の師、東皐心越(とうこうしんえつ)禅師の書により宿蘆寺に贈られたものです。

 

というのも、宿蘆寺13代大新和尚は水戸公菩提寺の東皐心禅師と親交があり、野中氏が平松村に居住していたこともあり、ここ宿蘆寺で築山殿の法要をいとなんだと伝えられています。

 

『おんな城主直虎』に登場した龍潭寺の山門、実は宿蘆寺の山門だった


また、大河ドラマ『おんな城主直虎』の中で何度も登場した直虎が出家した『龍潭寺(りょうたんじ)』、TV画面に映った龍潭寺の山門ですが、スタジオセット以外のロケで登場した山門は、実はこちら宿蘆寺の山門だったと気づいていらっしゃいますか?

 

山門を階段の上から撮影したシーンや下から撮影したシーンなど様々です。ちょうどBS松竹東急ch(260)で2024年10/31から毎週木曜夜6時15分から再放送されているので確認してみたいと思っています。

 

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野中氏って?

 

大河ドラマ『どうする家康』の放送内容では、家康の正室築山殿の死と、長男信康の自殺についてはこれまで伝わってきたものとは違っていましたが、これまでの伝聞では家康は信長の命により岡崎城の信康に自殺を命じ、堀江城、二俣城と居所を移した信康はわずか21歳でその若き命を自らの手で終わらせます。

 

家康は信康を助けるために築山殿を岡崎城から浜松城に呼び寄せ、その途上で野中重政に首を落とさせます。

 

というのも、信長の娘で信康の正室である篤姫の書状から、信康と築山殿が信長と家康の敵である武田勝頼に通じ謀反を図ったことを知り信康自殺を命じた信長。

 

この信長の命に対し、家康は築山殿を亡き者にすれば信康に対する疑念も晴れ、信康の身の上に及ばないであろうと考えたから。

 

築山殿を亡き者にした野中氏の子孫は、後年築山殿の死霊のたたりを恐れ水戸公につかえていた子孫野中友重は何度も供養をしたといわれています。その野中氏がここ宿蘆寺で、水戸公菩提寺の東皐心禅師と親交があった宿蘆寺13代大新和尚が築山殿の法要をいとなんだからということで、山門の扁額の書を贈られたということのようです。

 

さっそく、お参りしていきましょう

 

では、県道脇の駐車場に車を停めて、高木が茂る風情のある石段の参道を進め『山門』をくぐってお参りしていきましょう。

 

参道

 

高木に囲まれた石段の『参道』

 

参道脇の祠?

 

参道の脇に小さな祠

もしかしたら、どなたかのブログに書かれていた明治の廃仏毀釈で海中、山中に破棄された仏像などを安置して供養しているのかな?と思いました。

 

山門

 

下から見た『山門』、石段を上がった上から見た『山門』

 

なるほど、こちらが大河ドラマ『おんな城主直虎』の一場面が撮影された山門なんですね。やはり趣があります。

 

石垣

 

城郭を思わせる浜松城と同じ野面積みの『石垣』

 

石段の参道を上がっていくと、そこには城跡を思わせる高さのある石垣が見えてきます。浜松城にも家康が築城した当時の野面積みの石垣が一部残っていますが、こちらの石垣もそっくりです。

 

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鐘楼

 

歴史を感じる『鐘楼』

 

こちらでは年末の除夜の鐘は突かれているのでしょうか?最近は騒音とか騒がれ除夜の鐘を廃止したお寺さんもあると聞きます。身体に染み付いている毎年恒例の何かしらが、時代の流れでプッツリと終わってしまうのは悲しいですね。

 

本堂でお参りしてから、再び苔むした石段の参道を下って、大沢家墓所をお参りしていきましょう。

 

大沢家墓所

 

大沢家墓碑 

 

大沢家墓碑

 

『宿蘆大澤家墓所』説明板

 

浜松市史跡指定されています。大沢家当主とその嫡子に係る11基の石塔があります。最後の藩主基寿(大政奉還の際に徳川慶喜の使者として参内し、その表を奏した)の墓は神道に改宗したため建立されてないとのことです。

 

『宿蘆寺』開基の堀江氏が衰退した後、寛永年間大沢基宿の代に高徳寺殿の火葬を宿蘆寺で行い大沢氏の菩提寺となりました。基宿は、寛永17年(1640)に死去し、領地内の宿蘆寺に葬られました。その後も大沢家代々の墓塔が同寺に建立され、現在みられる墓所が形成されたとのこと。

 

高禄旗本の墓所にふさわしい風格と江戸時代の墓域を伝えている点が学術的に評価されているそうです。

 

現在、墓所には大沢家の石塔が11基確認できます。
最初に築かれた基宿(高徳寺殿)の墓塔は、花座や花頭窓を供えたやや特殊な五輪塔(ごりんとう)です。その後3代(基重~基恒)の墓塔には、相輪(石塔最上部)に反花や請花などの装飾をもつ宝篋印塔(ほうきょういんとう)が築かれています。これら江戸前期の4基の石塔は、地上からの高さが3.5mを超える大変立派なものです。

さらに、基隆(風月院殿)以降の墓塔は、一般的な五輪塔が用いられています。大沢家墓所に用いられた石塔は、すべて典型的な江戸式に属します。高家大沢家と江戸との関係の深さを物語るといえるでしょう。

引用元:https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/documents/804/1008info29.pdf

 

大沢氏とは?

 

大沢氏は藤原北家(右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ)持明院流の一族と伝わる遠江国堀江の豪族で今川氏を経て徳川氏に仕え、江戸時代には現在の庄内地区を治めた旗本(将軍直属の家臣)で、江戸幕府の高家(こうけ)という要職をつとめた格が高い家柄で3500石を領した名家でした。

 

ちなみに「高家」とは主に朝廷関係の儀礼をつかさどる役職のことで、朝廷からの使いを江戸で接待したり、京都への使者をつとめたりしました。そもそも高家の役職は、1603年(慶長8年)に徳川家康が将軍職を拝任する際、大沢基宿が儀礼をつかさどったことに始まったそうですから、高家の起源ともいえるわけです。

 

大沢宗家は基隆の代の宝永2年(1705年)に1000石の加増を受けて都合3550石を領し、以降明治維新までこの石高だったそうです。

 

1868年(明治元年)には当時の当主大沢基寿は、新設された堀江藩(庄内地区)の藩主を務め1869年(明治2年)6月には華族にも列し、1871年(明治4年)7月の廃藩置県まで藩知事を務めます。

 

ところが、廃藩置県時の調査で浜名湖を開墾地と偽った石高偽装が発覚します。大沢家は「浜名湖からは魚が取れる」と弁明したものの、認められず、基寿は士族降格・従四位下の位階褫奪のうえ1年の禁錮刑に処せられ、主だった家臣3人も1年半の禁固刑に処させられました。

 

最終的には元高家は男爵対象外となったため大沢家は士族のままとなったのです。この事件を『万石事件』と呼び、現在も遠州では語り継がれています。

 

参照元:宿蘆寺でいただいたパンフレット 

大沢氏 - Wikipedia

 

最後に

 

今回は家康公が負け戦で逃げ込んだ『宿蘆寺』の蘆の中の船に乗り込みその中で朝までゆっくりと眠りこけたところ、翌朝宿蘆寺の和尚が家康を見つけビックリして食事でもてなしたという伝承が残る『藤谷山宿蘆寺』をお参りしました。

 

実はここ数年、秋のお彼岸にはこちらの宿蘆寺の現住職の読経で同居人のお母さまの供養をしていただいています。毎回お話してくださるありがたい話も非常に心に響くもので、家康の伝承でも登場することもあり、いつかはお参りしたいと思っていました。

 

背の高い木が茂る広い境内で、江戸時代に完成した本堂のカッコよさは何とも言い難い厳粛さを感じさせてくれ、戦国の世を想像しながら現在の世を憂いてみたり・・・。

 

また、大河ドラマ『おんな城主直虎』では、龍潭寺に山門の場面をこちらの『宿蘆寺』の山門で撮影したという裏話もあり、実際に苔むした石段の参道を歩けば、何となく直虎が生きていた時代にタイムスリップしたような気分でした。

 

舘山寺といえば、パルパル。そして大沢氏です。現在は遊園地パルパルの場所にあった堀江城は、江戸時代には堀江陣屋と称された高家旗本大沢家の陣屋となった場所です。

 

今川家に属し堀江城を守っていた大沢氏は、家康の遠州進攻にあって降参、旧領を安堵されてから、代々家康のために働いていたのです。それも幕府の高家として幕末まで徳川に尽くしていた存在なのです。

 

そんな大沢氏の歴代のお墓をお参りできたことで、またひとつ徳川家康という存在を深堀りできた気がしています。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。