sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

東向きの拝殿に鳥居の『六所神社』、鳥居や拝殿の瓦には「朝日宮」の文字が!!

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の古の神社は浜松医科大学病院東に位置する『六所神社』です。三方原台地の東麓に鎮座し社殿は東を向いており、江戸時代は六所明神と称していたとのことでかなりの歴史の深さを感じる神社です。

 

鳥居の扁額は『朝日宮』、鬼瓦には『朝』の文字が刻まれている

 

創建年代は不明ですが、1610年には現在の場所にあったと思われ、鎮座する場所はかつて朝日山と呼ばれ、今も鳥居や拝殿の瓦に「朝日宮(ぐう)」の文字が残り、「延喜式神明帳」(平安時代中期の927年(延長5年)成立の法制書)にある「朝日波多加(はたか)神社」と比定される根拠になっており、浜松市浜名区内野の『内野神明宮』と共に有力な候補地です。

 

地元では、新聞記事により「秋分の日」には東向きに立つ鳥居の真ん中を太陽が昇ってくることで知られるようになり、再び脚光を浴びているようです。また、六所神社の境内には『津島神社』が鎮座しています。

 

この『六所神社』の鎮座地浜松市中央区半田町とは、小和田哲男編著の『静岡県謎解き散歩(P60)』によると、

四世紀末から五世紀初頭にかけては古代国家の極盛期であって、特に朝鮮半島からの渡来が活発化してきたのもこの時期であった。遠江国麁玉郡には覇多郡と呼ばれる郷があり、現在の浜松市の半田や内野と推定されている。この地に早くから秦氏が入国したと思われる。
(中略)
五世紀初頭に渡来したと推定される秦氏の遠江入国は、畿内とその周辺に次いで極めて早い時期と考えられる。また、のちの「延喜式」には、遠江や三河は「調として絹を輸す」とある。養蚕絹織の技術に長じた秦氏が入国したという一つの証であるといえよう。(猿田喜久也)

とありますし、鳥居や社殿は明治になって建立されたとのことですが、六所神社の西側に広がる半田山の台地一帯、そのほとんどが6世紀後葉から7世紀前半に築造された横穴式石室を主体部とする小円墳という『半田山古墳群』が広がっています。

 

このように秦氏であるかどうかは別としても、6世紀後葉から7世紀前半にこの辺りにはすでに渡来人が生活していたということになるのでは?

 

15世紀も前から人々が暮らしを営んでいた場所に鎮座する『六所神社』には、どんな服装をした、どんな職業の方がお詣りしていたのでしょうか?想像してしまいます。

 

この頃は古墳時代の終り頃と考えると、絹をとるために蚕(カイコ)を育てる養蚕が日本に伝わったのは弥生時代だと言われていますから、やはり、カイコを育てる養蚕業の方でしょうか?

 

伊場遺跡からは古代の人々の生活に欠かせない糸づくりに使った弥生時代の紡錘車(ぼうすいしゃ)が出土しています。古代の人々は植物の繊維から糸を紡ぎ、布を織り、衣服を縫っていたと考えられていて、その工程で使ったのが紡錘車みたいです。となると、植物から作った衣装を身にまとってお詣りしていたのでしょうか?

 

もしくは遠江の馬込川(現在の天竜川)の氾濫を基とする「有玉伝説」が残る坂上田村麻呂は、延暦10年1月18日(791年2月25日)に兵士の動員について具体化すると、百済王俊哲と共に東海道諸国へと派遣され、兵士の簡閲を兼ねて戒具の検査を実施、征討軍の兵力は10万人ほどであった(ウイキペディア)とのことと何か関係があるのでしょうか?

 

ただ、遠州織物は江戸時代中期からだそうですし、ネットや我が家の本棚だけが頼りの素人では、このくらいまでの想像が精一杯です。皆さんはどんな想像をされますでしょうか?

 

東向きの拝殿に鳥居の『六所神社』

 

 

半田町・六所神社

 

 


鎮座地:静岡県浜松市中央区半田町3391-1

 

《アクセス》

 

電車・バス:遠鉄電車[積志駅]から徒歩約23分

車:東名高速道路[三方原スマートIC]から約7分
  東名高速道路[浜松西IC]から約10分、浜松ICから約13分

駐車場:※神社前の道路に路駐しました

御朱印:不明。いただけていません。

 

「村社 六所神社」と刻まれた石塔と、鳥居

 

御祭神 

 

表筒男尊(ウワツツオノミコト)
中筒男尊(ナカツツオノミコト)
底筒男尊(ソコツツノオノミコト)
表津少童尊(ウワツワダツミノミコト)
中津少童尊(ナカツワダツミノミコト)
底津少童尊(ソコツワダツミノミコト)
伊弉諾尊(イザナギノミコト)
伊弉冉尊(イザナミノミコト)
天照皇大神(アマテラススメオオカミ)
月夜見尊(ツキヨミノミコト)
素盞嗚尊(スサノオノミコト)
蛭子尊(ヒルコノミコト)

 

御由緒

 

冒頭で記したように『延喜式神明帳』にある「朝日波多加神社(遠江国長上郡鎮座)」に比定される式内社(小社)の論社です。社格は村社。江戸時代は『六所明神』と称していたといいます。

 

創建年代不詳。安土桃山時代の1587年(天正15年)12月に再建の記録が残り、1879年(明治12年)8月に村社に列せられとのこと。鳥居や社殿は明治になって建立されたようです。

 

関連記事≫

www.sannigo.work

 

例大祭

 

2024年10月5、6日、半田町の六所神社で営まれる秋祭りでは、約40年間使用し老朽化が進んでいた旧屋台から、ブレーキの種類を増やすなど安全性を高めた祭り屋台を新調したそうです。新しい祭り屋台を約200人の子どもたちも引いて練り歩き、少し気温が高めの秋を楽しんだそうです。(新聞記事より)

 

御神徳


交通安全・商売繁盛・事業成功・家内安全

 

境内社


稲荷神社・八雲神社

 

「秋分の日」の日の出

 

2021年秋分の日の9月22日の早朝、浜松市東区半田町の『六所神社』には鳥居の真ん中を朝日が昇っていく光景を見るため、50人ほどの住民が集まったと新聞記事で知りました。

 

新聞記事によると、『六所神社』が「朝日宮(ぐう)」や「朝日波多加(はたか)神社」と呼ばれている理由を調べていた半田町にお住いの郷土史家の方が2018年の春分、秋分の日に、東向きに立つ鳥居の真ん中を太陽が昇ってくることに気付いて、自治会に回覧板で呼びかけたそうです。

 

鳥居は向きや角度を計算して作られたとみられ、日の出直後には、光の筋が本殿まで差し込むといいます。天候に恵まれれば、秋分の日から数日間は、鳥居の真ん中を昇る朝日や、陽光が差す本殿を拝めることができそう、とのこと(中日新聞・2021/9/24)

 

春分・秋分の日と聞くと、あのピラミッドの最上部のククルカン神殿の話を思い出します。春分と秋分の夕暮れにピラミッドの北側階段側面にジグサグの影が差し、階段下部のククルカン頭部像とつながって大蛇の姿をした神が天から降りてきたように見えるという話です。

 

また、ギザの大スフィンクスも春分の日だけ、その背後から太陽が昇るように作られているそうで、あんなに大きな彫像を太陽の動きに合わせて設置することができた古代、よっぽど優れた天文学が発達していたのでしょう。

 

関連記事≫

www.sannigo.work

 

お詣りしていきましょう

 

境内に上がる車で上がれるような坂もありましたが、かなり急なため今回は神社前の少し広い道路に路駐させていただいてお詣りしました。ちょっと段差が短く登りにくい感じの古の階段を登っていきます。

 

参道・鳥居

 

古感たっぷりの階段と、「朝日宮」の扁額が掲げられた鳥居

 

手水鉢と鎮魂碑・平和観音

 

『手水鉢』と、戦没記念碑・慰霊碑・忠魂碑・平和観音

 

狛犬

 

少し目が怖い『狛犬』

 

神様を守護する役目の『狛犬』、こちらでは『社殿』を出て、階段脇で少しでも早い時点で神様を危険から守ろうとしています。

 

さらにいにしえ感のある階段を登ると、新しい木の香りがする拝殿があります。拝殿前の数段の階段の一部はいにしえ石が使われていました。

 

拝殿

 

拝殿はまだ新しい感じです

 

拝殿の前で2例2拍手1礼でお詣りしました

 

しっかりと日頃の感謝を伝え、今日も世界平和を祈りました。本殿は奥にありますがお詣りはできませんでした。

 

本殿

 

脇から見た、奥側に鎮座する『本殿』

 

飾り瓦は蓮でしょうか?

 

『六所神社』の社殿の右側から少し坂を登ったところに『津島神社』が鎮座しています。

 

津島神社

 

少し坂を上がったところに『津島神社』

 

『津島神社』のお社の中

 

当社由来~津島様と、夏の「拝み」と本祭り~

明治22(1889)年、半田町川原地区で悪疫(腸チフス?)が流行し、死者が出た。戦々恐々とするも手立てなく、禊の上は神助に頼るほかなしと評議一決、前年9月1日に名古屋方面が開通した東海道本線で現愛知県津島市にある悪疫消除で名高い津島神社へ代表らが参拝し、御祭神建速須佐之男命の御神霊を持ち帰り、ここに祀ったのが始まりである。

当社には「拝み」という神事がある。毎年7月の第四土曜日に、川原地区の年番宅に同地区の住民が集まり行われる疫病封じである。開催日は、高温多湿で疫病の流行り易い夏を選んでいるのが第一の理由であろうが、同日に行われる尾張津島天王祭に倣っているとも考えられる。

古老曰く、前日又は当日の日中に、米津の浜(浜松の海岸にある砂浜)に赴き海に体を沈めて禊をし、浜砂を持ち帰った。帰り道、お供えにとスイカを買って帰ったこともあり、神事のためとは言え、夏の小旅行という心持ちで楽しみでもあった。年番の家では、床の間に次の十七柱と建速須佐之男命の神号(神々の名前)の書かれた掛け軸二幅を掛け、御神酒、塩、米、燭台と、持ち帰った浜砂を供える。その神号とは即ち、

掛軸の一 ②高皇産霊神 ⑤豊受大神
     ①天之御中主大神 ⑥天照皇大神
     ③神皇産霊神 ⑥六所大神 
掛軸の二 津島神社 建速須佐之男命

地区の住民は、いつもの様に日の暮れるまで農作業などした後・・・・一同集まり、十七柱を拝し神迎えすると、疫病退散を願って「南無津島牛頭天王と百度、唱えては礼拝するのである。年が明けて4月第一土曜には、当地にて「本祭り」と称して神主様により神事を行い、餅投げなどを行っている。

なおこの牛頭天王とは、神仏習合の時代には須佐之男命や薬師如来が姿を変えたものとされていたが(本地垂迹説)、明治に入り神仏分離令により、愛知の津島神杜では牛頭天王ではなく須佐之男命が御祭神となった、ここ半田では、ちょうどこの過渡期に祀られ始めたためか、古き様式の名残あるまま、今日まで続いてきたようである。また浜砂を持ち帰り、供える風習は、出雲大杜の摂社であり須佐之男命を紀る素鷲社に稲佐の浜砂を置くことを想起させる。

世界的な流行を見せる新型コロナウイルス感染症拡大の第五波が終息したとみえる今日、先の古老の手により社を修繕し、改めて悪疫退散、世の安寧を願い、ここに記すものである。
令和3年11月30日 大安吉日

(津島神社案内板より)

 

関連記事≫

www.sannigo.work

 

最後に

 

今回お詣りした三方原台地東麓に鎮座する『六所神社』、もし「延喜式神明帳」にある「朝日波多加(はたか)神社」だとしたら、その歴史は約千年以上ということになります。

 

古代については絶賛学習中の高卒なため、あまりはっきりしたことは言えませんが、今も鳥居や拝殿の瓦に「朝日宮」や「朝」の文字が刻まれているということから、聖徳太子は「日出ずる国」を思い出します。

 

さらに、秋分に日に東向きに立つ鳥居の真ん中を太陽が昇ってくることなどからは、本来の大地に恵みをもたらす自然神である太陽神、農耕を始めてからの五穀豊穣をもたらす太陽神、国という形になってきてからの天皇家の祖神アマテラスなどが思い浮かぶのですが、うまくまとめることができません。

 

歴史の素人の私は素人なりに、神社や仏閣、城跡などを訪ねて、その場の雰囲気や空気感を楽しみながら、ああでもない、こうでもないと勝手に想像するのが今の楽しみであることに間違いはないですし、やっと見つけた小さな幸せでもあるので今後も続けていきたいなと思っています。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。