sannigoのアラ還日記

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四ツ池公園南側の住宅地に鎮座する『奥の院八大龍王 秋葉神社』勝手に考察!

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

だいぶ遅れていると感じていた今年の紅葉。それでもそろそろいかが?と、紅葉を楽しみに四ツ池公園へ出かけた「勤労感謝の日」、なんとも神秘的な神社に出会ってしまったのでした。

 

偶然見つけてしまったのは、公園南側の住宅地にひっそりと鎮座する『奥の院八大龍王 秋葉神社』です。ウォーキングコースの一部だったこともあるこの地域、なぜ今まで気づかなかったのか?住宅地ゆえ足早に通り過ぎていたせいなのか?

 

全国各地で『新嘗祭』が行われるこの日に出会ったことには、何か理由があるのでは?と八大龍王様に感謝しつつ、いつものように日頃の感謝と世界平和をお願いし、隣の『秋葉神社』では火事が起きませんように!とかなり乾燥するこの季節ならではの現実的なお願い事もしてしまいました。

 

やはり、帰宅してからもずっと気になって仕方がない八大龍王様、ちょこっと調べてみました。

 

『八大龍王』は、5年ほど前くらいから少しずつ耳や目にする機会が増えてきた、雨乞いや海難などの水に関する8柱の龍神の総称で、全国各地に祭られているそうで、日本では祈雨・止雨の神ともされ、最近の動画では「九字切り」が人気だとか。

 

説明板にあるように『奥の院八大竜王』は、1870年(明治34年)10月に神社の敷地および参道の土地所有者の献納により、この四ツ池公園近くの住宅地に祀られています。

 

実は明治期に発せられた『神仏分離令』により、八大龍王のお寺はなくなっていったようです。というのも、八大龍王は仏法の神様だから、もし神道の神様として祀られていたらなくなっていなかったかも⁉です。

 

それでも、現在は宮崎県西臼杵郡高千穂町に鎮座する”八大龍王水神は生卵と酒が好きだからと神棚にお酒と卵専用のクリアケースが置かれている”『八大龍王水神社』や、熊本県菊池市に鎮座する”金運アップのご利益”で知られる『神龍八大龍王神社』などが有名です。変わったところで「お参りするといいことあるよ。怖くないよ 神主」との看板が評判の山梨県甲州市大和町に鎮座する『八大龍王神社』なども健在です。

 

『奥の院八大龍王』が鎮座する「四ツ池公園」付近はそもそも、天竜川が運んだ砂や礫などが厚く積もってできた段丘であろうと思いますし、長い歴史の中で天竜川が激しくぶつかりあい段丘が削り取られた谷もあります。

 

それなのに、三方原台地に降った雨が大地の下にある粘土層に沿ってしみ出してきてある意味水に恵まれているとも言えますが、逆に谷の部分では大水が出ることもあったでしょう。

 

さらに、『奥の院八大龍王 秋葉神社』鎮座地のお隣、浜松市幸2丁目の『四ツ池古墳群』では、古墳時代の須恵器・土師器・灰釉陶器・山茶椀・刀子・大刀・鉄鏃・耳環が遺構として残されていたそうです。

 

想像ですが、古墳時代から人が住んでいたと思われるこの地で、きっと何度も水害を受けたのではないでしょうか?

 

水に恵まれた土地だけども、水で苦しむことも多かったであろう当時の農耕民が、龍神の中でも最強といわれる八大竜王を祀り、現代を生きる人々が今も祈り続けていることになんかすごく感動します。

 

この辺りの住所の幸町という町名は、昭和15年「幸多かれ」「幸の多い町でありますように」の願いを込めて当時の区長さんや組長さんがつけたそうです。本当に未来永劫この地が幸せであることを祈ります。

 

『奥の院八大龍王 秋葉神社』の鳥居

 

 

奥の院八大龍王 秋葉神社

 

 

鎮座地:浜松市中央区幸3丁目11

 

《アクセス》


電車・バス:遠鉄[曳馬駅]から徒歩約20分
      遠鉄[上島駅]から徒歩約26分

車:東名高速道路[三方原スマートIC]より約10分
駐車場:ありません。無料の四ツ池公園駐車場を利用しました
    四ツ池公園駐車場から谷口の坂経由で徒歩約17分

御朱印:不明


奥の院八大龍王 秋葉神社とは?

 

『奥の院八大龍王 秋葉神社』の鳥居

 

秋葉神社のお社と、奥の院八大龍王の石碑

 

1870年(明治34年)10月よりこの地に八大龍王を祀る『奥之院 八大龍王』と、大山住(おおやまずみ)の命を祀る『秋葉神社』が鎮座する町民に愛される氏神様です。

 

神域はコンパクトですが、町民氏子の皆様が八大龍王様の石碑が傾いたからと、近隣にお住いの皆様への配慮を十分にされた整備をしてくださり、2002年(平成14年)に完成したという工事内容まで説明板に書いてくれているとても親切な人々に愛されている神様なんだなと感じます。

 

境内の説明板

 

奥の院八大竜王

奥の院八大竜王は、1870年(明治34年)10月に神社の敷地および参道の土地所有者の献納によりまつられている。水の神八大竜王は水速姫(みずはやひめ)の命(みこと)ともいわれ、かんばつや豪雨による水害から町を守り、山の神大山住(おおやまずみ)の命(みこと)は山林の育成を助け、山火事・疫病の災害から町を守っている。毎年10月15日を祭典日として、町民には不可欠の氏神様である。

(説明板より)

 

奥の院整備事業の完成について

奥の院整備事業の完成について

古来、町民氏子の信仰を集めて来た奥の院も八大龍王様の石碑の傾きを契機に境内全体を見直し、信厚き氏子総代の手によって、以下の記す事業が施行された。

一、参拝に不便であった狭い参道を、約2倍に拡幅
二、鳥居の腐食進行に伴う撤去、新築作業
三、隣地への落葉迷惑と境内の露出根の除去、境内高低差
の解消(土四トン車三杯、砂利四トンを投入整備)
四、秋葉神社の社の東向き、社の低さを解消する為八大様と同向き、又立拝でも神様が上に鎮座されるように基礎を高く新製した
五、八大龍王様も全体レイアウトの中で位置を変更、傾きも基礎から新造することで解消、遷座が行われた

以上の事業は氏子総代の一年間に及ぶ労力奉仕によって完成を見た。又、掲示板は野寄総代の設計製作に因った。
  平成14年3月吉日

(境内説明板より)

 

八大龍王様って?

 

八大龍王堂・龍泉寺[写真ACより]

 

『八大龍王様』とは「法華経」に登場し、仏法を守護する「天龍八部衆」に所属する龍族を代表する8柱の龍王のことです。水を司る神として雲雨を支配する力をもち、止雨や雨乞い、水難除けなどの御利益で全国の山・谷などで祭られています。

 

「天竜八部衆」とは、お釈迦様が霊鷲山(りょうじゅせん/インドのビハール州のほぼ中央に位置する山)で法華経を説かれる時にも、その場におられる王です。

 

元々はお釈迦様が悟りを開くときに守護した蛇神で、中国で龍信仰と習合して日本に伝わり、水神として雨乞いや海上交通安全などのために海・川・湖沼等の水辺によく建立されるようになりました。

 

つまり、日本では古来より各地で龍神を信仰しており、仏教が日本に入る前から様々な地域で龍の信仰がみられます。海外からやってきた八大龍王はそれらの信仰と習合したり、雨や水、災害など様々な出来事とも関連され信仰されてきたということみたいです。

 

中国や日本を経て現在形になった「龍」ですが、古代インドでは「ナーガ」という半身半蛇の形だったと聞きます。

 

そもそも「龍神」は想像上の動物で、蛇に似た胴体を持ち、頭には角があり四肢に爪を持つといわれ、西欧ではドラゴンなどと呼ばれます。また「八大龍王」は地上空中に住むといいます。

 

諸説ありますが、1400年程前に仏教と共に法華経が日本に伝来して以来、奈良、平安時代と信仰されてきたのではないでしょうか?

 

鎌倉時代には源実朝が『金槐和歌集」で、「時より過ぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめたまへ」と詠んでいることが知られています。少なくとも『八大龍王』は鎌倉時代以前から日本で信仰されていたのではないかと思われます。

 

『八大龍王』の変わった御利益には、「勝負に勝つこと」「勝負ごとなどの流れをつかむこと」「夢や志を強い意志で達成すること」などもあるとのことで興味深いですが、明治期に発せられた『神仏分離令』の影響により八大龍王という名前の神社は減ってしまったそうです。それなのに今でも深い信仰の対象になっているのがうれしく感じます。

 

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【八大龍王】


・難陀(なんだ)龍王

・跋難陀(ばつなんだ)龍王

・娑羯羅(しゃがら)龍王

・和修吉(わしゅきち)龍王

・徳叉迦(とくしゃか)龍王

・阿那娑達多(あなばだった)龍王

・摩那斯(まなし)龍王

・優鉢羅(うはつら)龍王

 

では、八大龍王様を1柱ごとにじっくりと見てきたいと思います。

 

〇日本で有名な「娑羯羅(しゃがら)龍王」

 

八大龍王の中で日本で有名な神様といえば、「娑羯羅(しゃがら)龍王」です。

 

「娑羯羅龍王」はサガラという大海の娑伽羅龍宮城に住んでいる海の神様で、着甲姿で頭上に龍をのせ、剣を持っている姿が特徴です。また、後出の難陀龍王と跋難陀龍王の兄弟と戦い、退けるなど強大な力を持つとされます。

 

沙羯羅龍王にも、恵みの雨を降らせて人々を飢餓から救ったエピソードが残されています。また沙羯羅龍王の娘は、当時の仏教としては異例の「年若い女性にも関わらずお釈迦様の説法を聞いて即座に成仏した」という逸話でも有名です。

 

「娑羯羅龍王」娘が何人かいらっしゃって、これまたよく知られる娘さんを紹介しておきましょう。

 

・密教の守護神「善女龍王」(清瀧権現)

娑羯羅龍王の三女で神泉苑、金剛峯寺などで鎮守社に祀られており、醍醐寺に鎮守として祀られる「清瀧権現」と同一視されています。同じ沙掲羅龍王の第三王女とされる方位神「歳徳神」とも関係が深く、神泉苑では善女龍王社のすぐそばの恵方社に歳徳神が祀られています。

 

「蘇民将来伝説」では牛頭天王が竜宮まで赴き、娑竭羅龍王の娘「婆梨妻女」を娶る話となっていますが、中世以降は牛頭天王とスサノオと陰陽道の方位神が習合・同一視され、結果的に牛頭天王の后「婆梨妻女」=歳徳神=櫛稲田姫とみなされる事もあったようです。

 

824年(天長元年)、時の帝、淳和天皇は長引く干ばつに対して興福寺(西寺とも)の守敏と東寺の空海に対して祈雨の修法を命じた。守敏が7日間にわたって修法を行うも効果少なく、次に空海が当時大内裏に南接していた神泉苑にて修法を行うが1滴の降雨もない。調べると空海の名声を妬む守敏により国中の龍神が瓶に閉じ込められていた。しかしただ1体、善女龍王だけは守敏の手から逃れていたので天竺の無熱池(むねっち)から呼び寄せて国中に大雨を降らせたという。 この時空海の前に現れた善女龍王は「高野大師行状図画」に九尺(270cm)の大蛇の頭の上に乗る八寸(24cm)の小さな金色蛇として描かれている。

( 善女竜王 - Wikipedia )

 

・頗梨采女・婆梨妻女(はりさいじょ)は、牛頭天王の妃

先日お参りした、浜松市中央区に鎮座する『鷺之宮八坂神社』の御祭神、現在はスサノオノミコト、アメノオシホミミノミコトですが、明治維新以前は「鷺宮牛頭天王社」と称していたとの記事を書いたとき、「蘇民将来伝説」に登場する牛頭天王の妃とはどなただろう?と想像していました。

 

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なんと、何かのお導きでもあったかのように、ふとした散歩で八大龍王様と出会い、八大龍王様を調べると、求めていた答えが簡単に出現したのです。

 

伝承で牛頭天王の后とされる神は、八大龍王の中の1柱である『娑伽羅龍王』の娘「頗梨采女」であり、また「頗梨采女」は八王子神(八将神)の母であるともされていたのです。

 

「頗梨采女」(波利采女、波利賽女とも表記)の名前は梵語のハリ(水晶の意)に由来する説があるそうです。

 

牛頭天王は祇園精舎の守護神ともされる仏教由来の神で、日本では行疫神(疫病を流行らせる神)として恐れられるとともに神道の素戔嗚尊と習合し、明治期の神仏分離令まで祇園社(八坂神社)の祭神として祀られ、厚い信仰を受けた神です。

 

頗梨采女はその牛頭天王の后ということですから、素戔嗚尊の后である奇稲田姫とも同一視されたとのことで、もとは、祇園社の本殿西御座に頗梨采女は祀られていたのですが、明治以後の八坂神社では、奇稲田姫として東御座に祀られているそうです。

 

・豊玉姫

豊玉姫とは日本の神話に登場する姫で、竜宮城の乙姫さまのモデルになった人物です。絶世の美人で、周囲の目を惹きつけるような美しい肌の持ち主でした。

 

夫は火折尊(ほおりのみこと/天孫瓊瓊杵尊(邇邇芸命)の子)、つまりは山幸彦の妃です。竜宮城伝説では浦島太郎は亀を助けて竜宮城に行きます。この城の名前が娑羯羅(しゃがら)竜宮城というのを御存じでしょうか?

 

豊玉姫は海神(わたつみ)の娘で、竜宮に住むとされています。きっと娑羯羅龍王の娘でしょう。

 

出産のシーンで露呈した豊玉姫真の姿は八尋の大和邇(やひろのおおわに)、つまりワニであり全長約14.4m(一説ではサメ)、説話にはよくある異類婚姻譚(いるいこんいんたん)の典型で違った種類の存在と人間とが結婚したのです。

 

また豊玉姫は、神武天皇(初代天皇)の父鸕鶿草葺不合尊 (うがやふきあえずのみこと/地神五代の5代目、日向三代の3代目)の母であり(父方の祖母)、神武天皇の母の玉依姫の姉にあたる(母方の伯母)として知られます。

 

〇難陀龍王(なんだりゅうおう)

 

難陀龍王は、「歓喜」の意味を持ち、最も優れた龍王と称される神様で、千手観音の眷属である二十八部衆の一尊であり、密教の雨乞いの儀式にて祈りが捧げられる神様です。

 

お釈迦様の産湯に立ち会ったのが八大龍王だと聞いたことがありますでしょうか?八大龍王は仏教の祖「釈尊(お釈迦様)」と特に縁の深い神様で、お釈迦様が4月8日無憂樹(むゆうじゅ/仏教三大聖樹)の下で摩耶夫人の右の脇からお生まれになったとき、八大龍王尊の中でも代表的な難陀龍王、跋難陀龍王兄弟が、温かいお湯と冷たい水を口から注いで釈迦の身を清めたことで知られています。

 

ちなみに、難陀龍王と跋難陀龍王の兄弟は共に行動する事が多かったそうで、お釈迦様の説法の時は常に姿を現し守護し、お釈迦様の入滅後も仏法を守り続けています。

 

灌仏会(花まつり)は、お釈迦様がお生まれになった時に9柱の龍王が天から降りてきて祝福のために甘茶の水を注いだという経典に由来します。

 

灌仏会(花まつり)

 

釈迦三大法要の一つ、お釈迦さまのお生まれになった4月8日に、その誕生を祝う行事が花まつりです。

 

花々に彩られた花御堂の中にいらっしゃる「天上天下唯我独尊」と言葉を発したときのお釈迦様の像(誕生仏)に甘茶をかけてお祝いします。 

 

これはお釈迦さまが誕生した際に9匹の竜が天から清浄の水を注ぎ、それが地上に舞い降りた時、花びらとなって降り注いだとの由来から釈迦誕生会を花供(花まつり)というそうです。その後も、お釈迦様が創られた「仏教」を守護する守り本尊は八大龍王尊でした。

 

〇跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)


難陀龍王の弟で兄弟は仲が良く、共に当時のインドにあったマガダ国を守ったり、お釈迦様の誕生の際に甘露を降らせて祝福したりした逸話が残されています。

 

〇九頭竜神社に祀られているのが和修吉(わしゅきち)龍王


耳にすることの多い「九頭龍」はその名前の通り、9つの頭を持つ龍王で龍神の中で最も神格が高く「諸龍の王」とされています。九頭龍大神の名称で寺社仏閣で祀られている事も多く、有名な寺社仏閣では、長野の「戸隠神社」や、箱根の「九頭龍神社」などがあります。

 

和修吉龍王も他の龍神様と同様に須弥山(しゅみせん)に住み、魔の物を食べ須弥山を守っているそうです。和修吉龍王(九頭龍王)は、土地の守護、歯痛止め、治水、祈雨止雨、縁結び、開運、金運のご利益で知られています。

 

〇徳叉迦龍王の娘は「七面天女(吉祥天女)」

 

徳叉迦龍王は、多舌、視毒という意味を持つ龍神です。その意味の通り徳叉迦龍王は、凝視した相手を絶命させる力があると言われています。

 

徳叉迦龍王の娘「七面天女(吉祥天女)」とは、八大龍王の1柱である「徳叉迦龍王」と「鬼子母神」の間に生まれた娘で福徳の女神です。あの有名な四天王の武神毘沙門天の妃でもあり、家族そろって神様として信仰されています。また、七面天女は、日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神と伝承が残っています。

 

〇阿那婆達多龍王は菩薩の化身?


「妙法蓮華経文句」に記されている、とても徳の高い龍王です。仏法を運び伝える者を護り、仏法が全世界に広がることを助ける修道者の守り神でもありました。

 

阿那婆達多(あなばだった)龍王は、ヒラヤマの北辺にあるという伝説の池・阿耨達池(あのくだっち)にある五柱堂に住んでいることから阿耨達(あのくだく)龍王と呼ばれるそうです。

 

阿耨達池は一辺が350kmにも及ぶ巨大な四角形の池で、池を満たす水はたいへん功徳のある水で、岸辺は金・銀などの四宝よりなっていたそうです。阿那婆達多龍王は、この池から四方に大河を生み、大陸を潤しているといわれています。また阿那婆達多(あなばだった)龍王は、菩薩の化身としても崇拝されてていたとのことです。

 

〇摩那斯(まなし)龍王は滋賀県竜王町で多く祀られている


須弥山でも、特に帝釈天が住んでいた喜見城の守護をされていた龍王で、降雨をつかさどる龍王です。諸神と阿修羅が帝釈天のお城に攻め入り、海水を攪乱したとき、身踊らせて海水を押し戻し喜見城を守ったといいます。

 

日本では滋賀県の竜王町で祀られていることが多い龍王で、聖徳太子が26歳の時(600年)に自ら観音像を彫り創建したと伝わる雲冠寺跡がある鏡山、その山頂には雨の神・水の神ともいわれる八大竜王の一つ、摩耶斯竜神が「龍王宮」として祀られています。

 

地域の人々からは田畑に潤いをもたらす雨の神として崇敬されており、今でも雨乞いの行事が行われるとのことです。

 

〇優鉢羅龍王(うはつらりゅうおう)別名は青蓮華龍王(しょうれんげりゅうおう)

 

その名の通り「青蓮華」という意味を持ち、青い蓮華が咲く美しい池に棲むとされる八大龍王の1神です。

 

仏教において青蓮華は「美しい眼」に例えられ、仏教世界のすべての土地神は、優鉢羅竜王の監視のもとで雨を降らせるといわれています。

 

岡山の龍泉寺には「龍王池伝説」が残されています。

平安時代に転記された鬼城縁起によれば・・・
吉備津彦命の軍奉行であった楽々森舎人(ささもりとねり)は、超能力を持っており、芦守山の山頂の岩をうがって、水を湧き出させ、地域の人々をうるおしました。湧き出た水は、山の中腹の池となりました。

その後、優鉢羅龍王(うはつらりゅうおう)が芦守山に飛来し、地域の人々を護ったので、いつしか芦守山を龍王山、池は龍王池と呼ぶようになりました。
楽々森舎人は足守の豪族で桃太郎伝説の猿のモデルと言われています。

(龍泉寺パンフレットより)

 

参照元:https://chigasaki-machiren.org/nango/nango-manabi-p13/

 

八大竜王 - Wikipedia  善女竜王 - Wikipedia

 

続いて鎮座地について見てみましょう。まずは、『奥の院八大龍王』のお社、元々は四ツ池公園内に鎮座していたかも?という「四ツ池公園」の歴史からはじめましょう。

 

四ツ池公園の歴史など

 

四ツ池公園の紅葉、山茶花も咲いています

 

住所:浜松市中央区上島6-19-1

アクセス:遠鉄電車[上島駅]より徒歩約10分

駐車場:無料駐車場があります。大型10台・普通200台・身障者3台(浜松球場と共有)

 

昭和16年、市民の勤労奉仕により、陸上競技場・野球場のある公園として開設されました。その後、昭和54年に浜松球場、昭和55年に陸上競技場の改修を行い、現在の公園の姿になりました。

 

公園の西側には江戸末期に農業用のため池として使われていた4つの池があり、曳馬野の面影を残した緑豊かな森の中で散策等ができる場所となっています。災害時には避難場所となり、広域避難地に指定されています。

 

ただし、もともと池が4つあったわけではなく、幕末の浜松藩の財政が苦しい時代に家臣岡村義理が和地村、島之郷の原野を開拓するための水資源が必要で、谷間などをせき止めして池をつくったのが始まりとされていることを浜松市のHPで知りました。

 

皆さんの地域にも山々の谷間に小さな池などのせき止めがある場合は、そのような理由も考えられます。何はともあれ憩いのスポットで休日には人気のエリアです。

 

四ツ池公園のある幸町3丁目は四ツ池古墳群上に位置しています。


四ツ池古墳群とは?

 

所在地:浜松市中区幸二丁目
時期:古墳時代後期~飛鳥時代

 

四ツ池古墳群を含む三方原台地の東は古墳の密集地として知られます。古墳時代後期から飛鳥時代にかけて、大小合わせて千基を超える古墳が築かれたそうです。

 

多くは横穴式石室とよばれる埋葬施設を持ち、有力な農民とその家族が葬られていました。小規模な古墳は密集して築かれ、「群集墳」と呼ばれる古墳群を形成しています。

 

四ツ池古墳群もそのひとつで、2007年(平成19年)実施の発掘調査で三基分の埋蔵施設が確認されました。豪華な副葬品の一部があり、中でも市内最大級の勾玉やガラス玉などがまとまって出土し注目されたといいます。横穴式土壙と呼ばれる石材を用いない特殊な構造はこの地方独特の施設だそうです。

 

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最後に考察

 

『奥の院八大龍王 秋葉神社』の石碑

 

新嘗祭が全国で行われる「勤労感謝の日」の散歩中に出会ってしまった『奥の院八大龍王 秋葉神社』。あまりにも神秘的で興味をそそられたため、ここまで立地などについていろいろ調べてきました。

 

いつも神社巡りしているだけの私ですが、今回初めて考察なるものをしてみようと思います。間違いばかりだとは思いますが、高卒アラカンのたわ言とお許しください。

 

浜松といえば「暴れ天竜」で知られる天竜川、奈良時代と西暦1000年以前の平安時代は麁玉川とか広瀬川と言われ、今の馬込川の近くを天竜川本流や支流の一部が流れていたようです。

 

そのような歴史から四ツ池公園辺りも天竜川が運んだ砂や礫などが厚く積もってできた段丘で、現在の四ツ池公園内の野球場付近は昭和40年代までは一面水田が広がっていたとのこと。それは三方原台地に降った雨が大地の下にある粘土層に沿ってしみ出してきて水に恵まれていたから。

 

ところが、段丘がみられない急斜面が広がる聾学校西からの四ツ池の谷や、上島駅から四ツ池公園までの谷などは天竜川が激しくぶつかり段丘を削り取ってしまったと考えられ、大地からの水が流れてくるため幕末から明治にかけて灌漑用の池を作って水田の用水として使っていたそうです。

 

その灌漑用の池の一つが現在の四ツ池公園の四つの池です。つまりは、この辺りの人々が雨乞いや雨止め、海難などの水に関する最強の神様を祀って、その被害をなんとか減らしたいと考えての創建だったのではないかなと考えています。

 

現在はちょっとコンパクトな神域となっていますが、かつては四ツ池公園内に鎮座していたかもしれないし、もっと広い境内だったかもしれません。それでも地元の皆さんの信仰で今も引き続き祀られていることに感動です。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。