sannigoのアラ還日記

趣味の神社巡りを記録しています。

遠江の天白神社巡り⑫、水窪町地頭方に鎮座する『天白神社』

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

人口は約80万人で全国第16位なのに、面積では1,558平方キロメートルで全国第2位ということで、とにかく広さが自慢の浜松市。

 

その浜松市の最北端にあるのが水窪町で、遠州と信州の県境をかけて毎年10月に兵越峠で行われる「峠の国盗り綱引き合戦」は有名です。

 

今回はその最北端に位置する水窪町を訪ね、遠江の天白神社巡り⑫として、水窪町地頭方に鎮座する『天白神社』を参詣(2025年3月14日)させていただきました。車で出かけたので片道約2時間かかり、浜松市がいかに南北に長いのかを実感しました。

 

浜松市が静岡県最大の政令指定都市とはいえ中心部から水窪まで電車で行こうとすると、三遠南信を南北に縦貫し、愛知県東三河地方と静岡県浜松市天竜区北西部、長野県中南信地方の都市や農山村を結んでいるJR飯田線を利用することになります。

 

つまり、電車で水窪に向うには、浜松駅から豊橋駅を経由して水窪駅に行くことになり、約3時間もかかるということです。友人の車で移動できることに感謝しないといけません。いつもありがとう!

 

今回車でのR152から水窪までの道中はほぼ快適に進めましたが、目的地は飯田線[水窪駅]を通過し、山での運転が素人の友人では他の車とすれ違うことは不可能と思われる細い山道(アスファルト)のヘアピンカーブを3回ほどクリアすると右上方に鳥居が見える場所だったのです。細い山道を進めたのはたったの数分のはずですが、かなりスリルがありました(笑)

 

まず『正八幡神社』が現れるのでこちらを参詣し、後に少し登った先の『天白神社』をゆっくりとお参りさせていただきました。どちらの神社もきれいに整備され歩きやすく、地元の皆さんの愛を感じました。

 

天白信仰は本州のほぼ東半分にみられる民間信仰で、その分布は長野県・静岡県を中心として広がっているとこれまで書いてきました。まさにそのど真ん中に位置する水窪での天白信仰の歴史を少しでもお伝えできたらいいなと思います。

 

水窪町地頭方に鎮座する『天白神社』

 

 

天白神社

 

 

鎮座地:浜松市天竜区水窪町地頭方1058

 

《アクセス》

 

電車・バス:飯田線[水窪駅]から徒歩約25分
車:東名高速道路[三方原スマートIC]からR152で約1時間50分
  新東名高速道路[浜松浜北IC]からR152で約1時間11分
駐車場:神社の手前のカーブにあるスペースに停めさせていただきました
御朱印:不明

 

御由緒・御祭神

 

巨木の森の中に鎮座していますが、お参りしやすく整備されています

 

御神木かと思える巨木、拝殿

 

境内に案内板もないですし、ネット上にもこちらの『天白神社』の創建などの情報は得られませんでした。御祭神も不明ではありますが、天白神は海や川を鎮めるといわれており、河川のある地域には天白という地名が多く天白社も鎮座しているケースが多いと感じます。

 

ただ、同じこんもりとした山の中、すぐ近くに『正八幡神社』(浜松市天竜区水窪町地頭方1055)が鎮座しています。こちらの情報は得られたのでご覧ください。

 

正八幡神社(浜松市天竜区水窪町地頭方1055)

 

正八幡神社の鳥居と社殿


御祭神  : 誉田別命
御由緒:創立年月日などの詳細は不明なのですが、「片桐主水外向島産土神」という最古の書物には”慶長6年辛丑年、伊那備前守より国印6石4斗を賜るとある”とのことですので、1601年(慶長6年)にはこの地に鎮座していた推察されます。

 

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鎮座地「水窪」の歴史

 

ウイキペディアによると、天白信仰の対象や内容が星神・水神・安産祈願など多岐にわたり研究・解釈が行われたが、1980年ごろから伊勢土着の麻積氏の祖神天白羽神(あめのしらはのかみ/長白羽神の別名)に起源を求める説が紹介されることが多くなったといいます。

 

1971年に「大天白神」に各地の天白社の分布をまとめた今井野菊氏は、天白信仰は水稲農耕以前、縄文時代まで遡るとしています。そして、ここ水窪町の歴史も縄文時代までさかのぼり、町内にある縄文時代の遺跡からは土器や石器が出土し当時の暮らしへの妄想が膨らみます。

 

だから縄文時代からこの地に天白信仰があったのでは?ということではなく、歴史が古く文化や信仰が広まりやすい土地柄であることがうかがえます。

 

ということならば、「水窪」の歴史を俄か者なりに調べる必要があると感じいろいろ探ってみました。すると水窪という土地のいたるところに深い歴史の足跡が残り、東海道の宿場町だった現在の浜松市街地とはかなりちがうぞという印象を持ちました。

 

青崩峠

 

例えば、長野県と静岡県の境になる「青崩峠」は、信州街道(秋葉街道)上にある標高1082mの峠で、信州からは火伏の神として信仰を集めた「秋葉神社」へ参拝するための信仰の道、遠州からは遠州の海産物が山国である信州へもたらされた「塩の道」としても重要な役割を担ったといいます。また戦国時代には、武田信玄軍が遠江に侵攻し徳川家康と戦った際に通った「戦いの道」とも伝えられています。ちなみに青崩峠の名前の由来は、一帯が中央構造線沿いの破砕帯でもろくなっていて青色の岩盤が崩れているからだそうです。

 

大河ドラマ「おんな城主直虎」でのロケ地として知られる山城「高根城」は、15世紀初頭に水窪一帯を支配していた奥山氏が築いたとされ、こちらも歴史の舞台となった場所です。現在では、山城としては全国的にも珍しく、大手門や井楼櫓などが復元されていることで知られます。

 

高根城跡(たかねじょうあと/市指定史跡)


天竜区水窪町地頭方に残る遠江最北端の山城である。この地を拠点としたの豪族奥山金吾正定則が、南北朝時代に後醍醐天良の孫尹良(ゆきよし)親王を守るために築いたとされる。

戦国時代、今川・徳川・武田の勢力争いの狭間で内部分裂を起こすが、1572年(元亀3年)の武田信玄の遠江侵攻時には、武田方の城として青崩峠越えの警備を任された。

現在、城門・井楼櫓・礎石建物・木柵などが復元されている。中世の山城としては、全国で初めて全面発掘に基づき再現された。

 

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これまで記してきた遠江の天白神社巡りでは、天白信仰における天白神は海や川を鎮める神と実感することができました。こちらの『天白神社』も水窪川の脇の山地に鎮座しており、治水や農耕のために苦労した土地であることが伺えます。

 

そこで鎮座地の水窪町地頭方の「向市場(むかいちば)遺跡」と「上村(うえむら)遺跡」のことが気になってきました。

 

向市場遺跡(市指定史跡)

 

浜松市天竜区水窪町地頭方の「向市場遺跡」は、水窪川の河岸段丘上において、縄文時代後期から弥生時代前期にかけて営まれた集落遺跡である。

縄文時代後期から晩期にかけての出土遺物には、石器と土器がある。土器の中には、東海地方の特徴を持つものに加え、関東地方や関西地方の特徴を持つものもみられる。また、弥生時代前期の出土遺物には遠賀川式土器の壺や甕がみられる。向市場遺跡は、交通等の要所に営まれた集落であったと考えられる。

 

上村(うえむら)遺跡

 

同じく浜松市天竜区水窪町地頭方の「上村遺跡」は、海抜約400mの段丘上に所在する縄文時代後期を中心とする時期の集落遺跡。

上村遺跡の出土品は縄文時代後期のものが大半を占めており、このほか、山茶碗と呼ばれる鎌倉時代を中心とした時期の陶器が出土している。

上村遺跡とその周辺は日当たりがよい南向きの土地であり、居住に適した地域であったと考えられる。

 

水窪町地頭方の歴史遺産

 

こちらの『天白神社』の鎮座地である天竜区水窪町地頭方には、上記の他にも多くの歴史遺産が残されています。

 

「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」という形のお墓(個人)は、五輪塔に比べると角張った複雑な形をしていて、四方に飾りの着いた階段状の笠、頂上には細長い柱のような飾りが乗っているそうです。

 

「善住寺」には  絹本著色寿老人花鳥図(狩野常信筆)、「八剣池神社」には文明三年極月の銘がある鰐口(わにぐち/仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種)があり、「向市場自治会」 には六十六部供養塔及び教傳様神号石 が残っているとのことです。

他にも興味深い「霜月祭り」など

 

昨年の11月に水窪各地区の神社にて霜月祭りが行われたというニュースが新聞紙上にありました。

 

三遠南信地域には遠山霜月神楽や花祭りなどの「湯立て神楽」が国の無形文化財に指定されており、水窪でもそれらと同様に湯を神に献じる霜月祭りが行われているとのこと熱い湯を振りかけられて身を清めるという珍しい祭りで、神前で舞が奉納され新しい年の五穀豊穣と無病息災を願ったという記事でした。

 

『天白紀行』の中には、” 長野県飯田市の静岡・愛知県境に近い山間部一帯を、古くは遠山郷と称していた。 その遠山郷の各集落で、霜月(旧暦十一月、現在は十二月)に昼夜を徹して行われてきたのが、この霜月祭りである。”とあり、さらに、注目すべきことが書かれています。

 

”そして遠山の霜月祭りには「天伯の湯」の場面がある。このとき、大天伯(ヒーノー様)と小天伯(ミーノー様)が登場すると、氏子がいっせいに、

大天伯の湯殿に渡るヤンヤハーハ
小天伯の湯殿に渡るヤンヤハーハ

と唱和する。むろん面をつけて出るのだが、この祭りでは天伯が群れを成して登場する。富士天伯、朝日天伯、平松天伯、てろう天伯、宮天伯。それはあたかも、あの伊勢神宮の天白神楽がこの世に現れたかのようである。”

 

さらに

”おそらく、今の日本列島で、天白がただ1ヶ所、年に一度いきいきとよみがえるのはこの遠山の霜月祭りだけなのである。

遠山では、大小天伯がもっとも格が高く、自由に空を駆け、次の宮天伯は宮「宮」(神社)の森に住み、建物、幡(はた)その他の祭具を守っている。そしてこれらの天伯は、みな三遠地方から、(21世紀の今でも未通の青崩峠を超えるのは無理だから)別所街道などを経て、天竜川支流の遠山川沿いに入ってきたのである。

静岡県の霜月神楽(湯立神楽)としては、静岡市の清沢神楽、佐久間町の花祭り、御殿場市沼田の湯立神楽などがあります。

新野、遠山の祭りにみられるように、天白は年に一度訪れくるマレビト(稀人)神、マロウド(客人)神だった。それが山の懐のひろい南信、北三河、北遠江に残り、いまはわずかに土着しているのである。”(『天白紀行』山田宗睦著 人間★社)

 

なるほど、天伯は三遠地方から峠を越えて、天竜川支流の遠山川沿いに遠山へ客人神として入っていった。そして、天白神は年に一度客人神として南信、北三河、北遠江に残り土着していったということでしょうか?

 

他にも気になる資料を見つけてしまったのです。それは「三遠信のおける死霊祭儀」静岡県浜松市天竜区水窪における霜月祭と念仏踊りの比較研究 井上隆弘 というもの。

ちょっと長くなったのでこのくらいで終わりにしたいと思います。

 

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最後に

 

山の中の民家のような場所の祠

 

水窪町地頭方に鎮座する『天白神社』を参詣させていただいて、まず最初に個人的に不思議と感じたことは、すぐ近くに2つの神社が鎮座していることです。

 

また、すぐ近くの個人のお宅の敷地であろう場所にも小さな祠があったことにも驚きました。地の神様かな?とも思いましたが、祠が立派過ぎのような気もします。

 

ただ現在も昔と変わらず、神道が目に見える形で大事にされている様子に市街地との違いを感じました。あまり開発の手が入っていないおかげなのでしょうか?もしかしたら信仰の強さだったりするのでしょうか?

 

市街地が開発されて人が住みやすい分土着の神様たちにとっては、あちこち遷座させられたり、合祀されたりと迷惑な話なんだなと改めて感じるとともに、現在も「天白神社」をお祀りしてくださる場所があり、お社を守ってくださる人々がいらっしゃることで「日本」が守られていることを普通のことと思ってはいけないなと感じます。

 

これからはお散歩中に出会う身近な神社さんにも、もっとご挨拶させていただきたいなと思いますし、鎮座地に住まいの方や氏子さん、守って下さっている皆さまには感謝の気持ちと敬意を持ってお参りさせていただこうと思いました。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。