こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回の遠江天白神社巡り⑬では天竜区横山町に鎮座する『元宮 天白神社』を参詣させていただきました。
ちょうど春の花が見事に咲き誇る時期だったこともあり、浜松市街からの道中はずっと桃や桜、モクレンなどの花を愛でながらのんびりした雰囲気を楽しむことができました。
今回の『元宮 天白神社』が鎮座する天竜区横山町という街は、天竜川と気田川が合流する傍に位置します。かつては秋葉詣の人々で賑わい、天竜川水運の川湊として木材の商いで繁栄したことで知られています。
さらに横山は秋葉街道と鳳来寺参詣道が重なり塩の道にも通じる場所のため、山岳修験や参拝のために歩く人々だけでなく、生活物資を運ぶ人々の往来で賑わった地域でもあったそうです。また、横山八幡神社・熊野権現社ではかつて正月の祭礼と芸能が伝えられていたと浜松市の広報誌で知りました。
横山に鎮座する『元宮 天白神社』の境内の石碑には、”創家七百五十年記念昭和十六年起工”とありますので、創家である内山氏の750周年を記念して1941年(昭和16年)にこの石碑が造られたようです。(内山氏の創氏は1191年?で今年は834周年ということ?)
石碑に刻まれた文章によると、創建は1292年(正応5年) 横山村へ内山という人が従者何人かを連れてやってきて、ここ横山に住みつき荒地を開拓し農業を営んだそうで、その内山氏が約700年近く前に山の上の高台に祠を建立したのが始まりだそうです。鎌倉時代から室町時代にはさまれる時代の創建ということでしょうか?
その社には、この村の守り神として国生みの神“伊邪那岐、伊邪那美”の二神を迎え、『天白神社』と呼ばれるようになり、内山氏の家が代々天白家と言われるようになっていったとあります。また、現在もこの高台は「テンパク」と呼ばれ、『元宮 天白神社』として住民の皆さまに深く信仰され篤くお祀りされているようです。
御祭神は国生みの神“伊邪那岐、伊邪那美”の二神で、「天白神社御由緒記」によれば、天白神社は天白家(=内山家)の地神とあるとのことですが、地域では共同で祀る氏神と認識していたようですと書かれた記事が( 自然と歴史の中を歩く!:横山・天白神社を訪ねる②―天白神社御由緒記 )にあったのでいろいろ参考にさせていただきました。この場を借りてありがとうございます。
こちらの『元宮 天白神社』のすぐそばには現在も、『天白井戸』という船小屋のような小さな四角いプールのような貯水池があります。ご近所では「天白井戸」と呼び、共同で利用していた水源のようです。
『天白紀行』(山田宗睦著)には”私は天伯神の起源を神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ/三重県松阪市井口中町)の御祭神の天の白羽にもとめ、伊勢神宮のてんはくの歌、諏訪大社の天伯神楽歌の呼応を軸にして、伊勢、三遠、信濃、駿河の天白圏ができた、と考えている”とあり、さらに”起源(始原)の伊勢では麻績氏祖らが分布した天白圏内の各地ではその必要に応じて多様な神格をつけ加え変容した。”とあります。
こちらの天白神社の鎮座地である天竜区横山町も天竜川と気田川の合流する傍に位置すること、また「天白井戸」と呼ばれる貯水池を利用して大事に水を使用していることなどから、やはり治水・農耕のの神格をつけ加えた形で現在も大事にお祀りされているのではないかと勝手に想像しています。
では、天竜区横山町に鎮座する『天白神社』、さらに鎮座地の歴史などについて詳しく調べていきましょう。

天白神社
鎮座地:静岡県浜松市天竜区横山町249
《アクセス》
電車・バス:天竜浜名湖線[天竜二俣駅]から徒歩で約2時間41分、タクシーで18分
車:新東名高速道路[浜松浜北IC]から約25分
駐車場:すぐ近くの宝珠院さんのPに停めさせていただきました
御朱印:不明
御由緒・御祭神


「天白神社御由緒記」によれば、天白神社は創家である内山家の地神とあるそうですが、内山家は村の人々から天白家と呼ばれていたと聞きますし、境内の石碑には”創家である内山氏の750周年を記念して1941年(昭和16年)に造られた”とありますので、やはり普通に氏神様的な認識だったのではないでしょうか?
元宮 天白神社御由緒記
元宮 天白神社御由緒記虔ンテ本社ノ御由緒ヲ案スルニ往古畏クモ人皇第五十六代清和天皇ノ御末裔刑部亟正五位平賀義光ノ第四子盛義ノ末ニ竹田義治ナル者アリ伏見天皇ノ御宇時ハ正應五年野ニ下リ氏ヲ内山名ヲ貢藤原義治ト稱シ當時ノ横手村即チ此ノ地ニ来リ住ミ一々荒蕪ヲ拓キ殖民ノ事ニ從フ之ヲ是吾力家ノ始祖トナス義治一祠ヲ建立シ
伊弉諾伊弉冊ニ尊ノ神霊ヲ迎へ天白神社ト稱へ土地守護ノ神トシテ齋キ奉ル本社ノ祭紀爰ニ肇マル斯クテ邑内ハ日ニ榮エ月ニ繁ク氏神トシテ擧村一攸報實ノ誠ニ捧ケタリ顧ヘハ古往今来實ニ七百五十有餘年ノ久シキ神霊ノ護ル所吾カ家ハ連綿トシテ今ニ統ヲ傳へ邑ハ年所ヲ累ネテ里人齊シク樂土ヲ謳ヒ悠久今ニ迨フ其ノ由ツテ来ル所既ニ斯ノ如シ然ルニ輓近時ニ誤ヲ傳フル者アリ曰ハク社ハ天白家ノ地神ナリト之蓋シ世人吾カ家ヲ呼ンテ柴切天白ト稱ヘタルニ因ルモノナルヘシト難モ斯クテハ神威ヲ冒瀆スルノ罪甚タ淺カラサルヲ之惶ル今ヤ祠宇ハ風雨ヲ経テ漸ク荒涼尊厳ヲ傷ケンコトヲ恐レ乃チ改メ築キ併セテ舊記ニ遵ヒ御由緒ヲ明ニシ以テ積年恩頼ニ報ヒ奉ランコトヲ期スト爾云
創家七百五十年記念昭和十六年方ニ大東亜戦争開始十二月吉辰起工
天白家 當主 内山辰三建之
支流禰宜家ノ系圖ニヨリ作ル
(境内の石碑より)(自然と歴史の中を歩く!:横山・天白神社を訪ねる②―天白神社御由緒記 さんよりお借りしました)
創建は約700年近く前ということらしく、鎌倉時代から室町時代にはさまれる時代である「南北朝時代」以前の創建ということが考えられます。


天白神社の鎮座地は、車で152号線を走っていると一段高いところの『宝珠院』が目印になります。ちょうど参詣させていただいた時期が桜の季節だったこともあり見事にピンク色に輝いていたので、すぐに見つかりました。
地元の人たちは、『宝珠院』と『元宮 天白神社』が鎮座する一段高い高台を「テンパク」と呼んでいるそうです。
社殿へと登る歴史を感じる石段脇には、立派な「元宮 天白神社御由緒記」が刻まれた石碑があります。(こちらの『宝珠院』こそが、後に登場する”横山八幡神社・熊野権現社でかつて正月の祭礼と芸能”と深い関連があります。)
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御祭神


御祭神は国生みの神“伊邪那岐、伊邪那美”の二神です。
伊邪那岐(いざなぎのみこと)
日本神話に登場する男神。『古事記』では伊邪那岐神、伊邪那岐命、『日本書紀』では、伊弉諾神と表記される。イザナミ(伊邪那美、伊弉冉、伊耶那美、伊弉弥)の夫。
アマテラスやスサノオ、ツクヨミ等多くの神の父神であり、神武天皇の7代前の先祖とされている。
伊邪那美(いざなみのみこと)
天地開闢において神世七代の最後にイザナギとともに生まれた。イザナギとは夫婦となり、オノゴロ島におりたち、国産み・神産みにおいてイザナギとの間に日本国土を形づくる多数の子をもうける。その中には淡路島・隠岐島からはじめやがて日本列島を生み、更に山・海など森羅万象の神々を生んだ。
イザナギとイザナミは日本で最初に夫婦になった二神です。国生みの神であり、アマテラスやスサノオ、ツキヨミ等多くの神を産んだ夫婦神を祀る神社ですから、やはり御利益は縁結びや恋愛成就となるのでしょうか?
タブノキ


『元宮 天白神社』の石段脇では、見上げてもその果てが見えないような背の高い「タブノキ」が大きな存在感を醸し出しています。注連縄が張られ大切にされている様子から御神木と思われます。むき出しになっていた御神木の根を踏んでしまったのでバチが当たりそうで少し心配です。
最初からかなり参考にさせていただいている「自然と歴史の中を歩く!」さんの記事によると、地元の人たちからは「天白神社のタマノキ」と呼ばれ親しまれているそうです。
「タマノキ」は正式名を「タブノキ」といい、クスノキ科の常緑樹です。「タマノキ」とうのは地方名だそうで、佐久間にも『峯のタマノキ』が存在しており、浜松市の指定天然記念物に指定されています。
また名前の由来については諸説あるようですが、神事との関連が深いことから霊・魂(たま)が宿るタマノキがいつしかタブノキになったとされたとか(こちらの地方名の逆説?)、火を伏せる木として信仰された歴史もあるとか、まあいろいろです。
「テンパク」と地元の方が呼ぶ高少し高い高台には『天白井戸』と呼ばれる共同で利用していた水源があります。
天白井戸


天白神社のすぐ近くにある船小屋のような建物の中には、四角いプールのような貯水池があります。ご近所では「天白井戸」と呼び、共同で利用していた水源のようです。
浜松市の情報での「天白井戸」は、貯水池は3つに仕切られ、水源に近い奥では食べ物を洗い、次が食器の洗い上げ、一番下手は土のついた野菜を洗ったり、洗濯したりするのに使っていたのだそうです。
また、「天白井戸」の名前の由来は「すぐそこに天白神社があったから」とのことですから、天白神社が先に存在していたからこその「天白井戸」だったことが窺えます。
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鎮座地横山について
浜松市天竜区横山町はかつて天竜川の川湊として繁栄した。川を下る船頭や筏師、木材の買い付けに訪れる材木商、そして遠州と信州を往来する商人たちで街は賑わった。柿板(こけらいた)の加工・販売によって財を築き、天竜の材木王と謳われた青山家の邸宅にも昔日の繁茂が偲ばれる。
天竜川だけではない。天竜・二俣から水窪を経て信州へいたる秋葉街道(信州往還)と、三河の鳳来寺と遠州の秋葉神社とを結ぶ秋葉街道(鳳来寺道)が横山で交わる。鳳来寺道といえば熊から石打の尾根を越えて龍山の西川へ下る往還がよく知られているが、石打の尾根から横山へ下る脇往還もまた「秋葉街道」の一つである。そうした賑わいと豊かさのなかで、横山八幡神社・熊野権現社には正月の祭礼と芸能が伝えられてきた。江戸時代後期に内山真龍が著した『遠江国風土記伝』によれば、神事は正月元日から10日まで、あるいは2日から15日まで及んだとも記録されている。
しかし、1874年(明治7年)にその祭礼は忽然と廃絶してしまった。祭礼の芸能に使用されたと考えられる11枚の面とわずかな祭具だけを残して。
(遠江・山と里の民俗第022号「まぼろしの祝祭-天竜・横山の神遊び-静岡文化芸術大学教授 二本松康宏)
上記の引用文からもわかるように、『元宮 天白神社』が鎮座する横山という街は天竜川の川湊として材木の街として栄えていたようで、中でも「天竜の材木王」と呼ばれた青山家が気になります。
「天竜の材木王」青山家
以前の中日新聞に、『青山家「邸宅」修復終え保存へ』という見出しの記事がありました。
青山家は江戸時代後期、現在の天竜区龍山町出身の青山善右衛門が、幕府直轄地の山林で林業を始めたことがルーツ。家屋の屋根に使う柿(こけら)板の製造を始めた善右衛門は、大型船を共同購入して江戸に運ぶなど、天竜川流域の木材流通システムを構築して「材木王」と呼ばれた。1844年(天保15年)の江戸城本丸焼失以降、城の再建のための木材調達も複数回担った。現存する木造二階建ての母屋は十部屋あり、延べ約310平方メートル。1900年(明治33年)ごろに建てられたとみられる。
青山家「邸宅」修復終え保存へ 天竜「材木王」ルーツ:中日新聞しずおかWeb
「材木王」と呼ばれた『青山家』のルーツは天竜区龍山町出身の青山善右衛門で、屋根に使う杮板の製造をこの地で始め、さらに共同購入した大型船で江戸まで運び、天竜川流域の木材流通システムを構築した方のようです。その方が残した木造二階建ての母屋は1900年ごろに建てられたとして、築約125年の風格漂う古民家を保存するという記事です。
この『青山家』の邸宅である古民家を、天竜区の竜川地区出身のとある運輸会社の会長さんが、所有されている方の意向を受けて「伝統ある家の歴史や家屋に使われている材料などを後世に残したい」と購入されたそうです。
山あいの7600平方メートル(2300坪)の敷地には、明治時代に「あばれ天竜」の異名で住民を苦しめていた天竜川流域を植林と治水事業、さらには運輸や製材、製鋸等の治山関連事業を興し、全国各地で実地指導も行った実業家の金原明善が何度も宿泊したという「蔵」も残っているそうです。
さらに引用文から、この横山町には「まぼろしの祝祭」とも呼ぶべき「横山八幡神社・熊野権現社の正月の祭礼と芸能」が、明治7年まで伝えられていたことがわかります。しかも祭礼に使われた11枚の「面」と祭具を残して忽然と消えたとなると、かなり興味を惹かれます。なので調べてみました。
横山八幡神社・熊野権現社ではかつて正月の祭礼と芸能
浜松市天竜区横山町に鎮座する『横山八幡神社・熊野権現社』の祭礼とは、田遊び系の神事芸能のことのようです。
遠江は芸能の宝庫といわれ「古面」も数多く残されており、2月のお祭り「田遊び」が今も行われる『息神社』には獅子頭と仮面、三ヶ日の宇志八幡宮には父慰・鬼面、大福寺旧蔵の父慰面などは貴重な古面のようです。また、面を使った祭礼は、北区引佐町の「川名ひよんどり」や、愛知県奥三河の「花祭(はなまつり)」など三遠南信地域に多く残っています。
横山の神遊び(田遊び)の廃絶は、やはり1868年(明治元年)に政府が発した「神仏分離令」がきっかけで起きた「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動が起因しているらしいです。
1874年(明治7年)には横山八幡神社・熊野神社に祀られていた仏像が社殿から撤去されることになり、正月の神遊び(田遊び)もこの時に廃絶したといいます。
ところが、令和5年に内山真龍資料館に寄託されていた11枚の面と祭具を静岡文化芸術大学で展示・公開するタイミングですばらしいことが起きたようです。
横山町の宝珠院の観音堂に祀られる「十一面観世音菩薩像」が、かつての横山八幡宮の御本尊(本地仏)だったことが判明したというのです。1880年(明治13年)に記録された『宝珠院明細帳』には、明治7年の神仏分離に際して、熊野権現社の本尊である十一面観世音菩薩像を宝珠院に移し、境内に仮堂を建てて奉納したと記録されていたとか。
つまり、当時の村人たちが当時の日本人らしくしなやかに「廃仏」に抵抗していたのです。表向きは廃仏に従いながら、「古来当村氏神の本地仏」を密かに匿ったというわけです。
現在も続く神遊び(田遊び)の名残り
現在毎年1月5日に宝珠院の観音堂で法要が営まれており、おそらく本来の初観音の1月18日、納め観音の12月18日でもない1月5日に営まれていることから、熊野権現社で行われていた祝祭日に法要を営んでいるのであろうとのこと。
さらに、横山に鎮座する「八幡神社」では、かつての横山八幡宮・熊野神社の名残りである「湯立て神事」が、現在も1月7日に行われているであろうとのことです。
参照元:https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/documents/151158/22minzoku_24174_marked.pdf
浜松地域遺産(無形民俗文化財)にも選ばれている『横山八幡神社の祭典』では、現在も五穀豊穣と無病息災を祈る神事として神輿の渡御が行われ、屋台の引き回しなども行われているようです。
神輿渡御の起源は1680年(元禄以前)といわれ、天狗に扮した男が先導して、横山町の八幡神社、朝日連、井組連、三華連を歩くそうです。やはり、しなやかな日本人の心を今も受け継ぐ浜松市天竜区横山町の人々ですから、すでに町を出ている多くの皆さんもこのお祭には帰ってきて参加されるのではないでしょうか?
ただ、現在の「湯立て神事」に関しての情報は得られませんでした。神輿の渡御と同じように引き続き行われていると信じたいと思います。
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最後に
今回の『元宮 天白神社』が鎮座する天竜区横山町という街は、天竜川と気田川が合流する傍に位置し、かつては秋葉詣の人々で賑わい、天竜川水運の川湊として木材の商いで繁栄したとわかりました。さらに「天白井戸」を利用してつい最近まで水をすごく大切にしていた様子などもうかがえ、やはりここでの天白神は治水の神といえそうです。
ところが、横山は秋葉街道と鳳来寺参詣道が重なり塩の道にも通じる場所のため、山岳修験や参拝のために歩く人々だけでなく、生活物資を運ぶ人々の往来で賑わった地域でもあったと聞くと、農耕はどうだったの?と疑問が残りますし、養蚕や織物関連の天白羽神との距離もかなりあるように感じます。
ただ、遠江の中でも中山間地域には歴史的、文化的な価値が高い無形民俗文化財が多く残されていますし、「おくない」「ひよんどり」「田楽」など芸能の宝庫ともいわれます。芸能に使われた「古面」も数多く残されています。
今回の天白神社の鎮座地にも明治7年まで続いた神遊び(田遊び)が伝わり、11枚の面と祭具が残されているのですから、もしかしたら千年以上の歴史があるのかもしれません。知らんけど・・・。
天白信仰の歴史もやはり明治の世までに消えたり、何かしらの神様に覆いかぶされたりしたのでしょうか?伊勢、もしくは諏訪を出発した天白信仰の大元は疫病や呪物との関係もありそうな気がしてきました。
さて、次回はどちらに鎮座する「天白神社」を記事にできるでしょうか。ここまでけっこうな数の「天白神社」や「天白社」を参詣させていただいているのですが、素人には考察が難しくてなかなか記事にしてアップできない状況に陥っています。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。