sannigoのアラ還日記

趣味の神社巡りを記録しています。

遠江の天白神社巡り⑭は、浜松市中央区西塚(にしづか)町に鎮座する『西塚神社』

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の遠江の天白神社巡り⑭は、浜松市中央区西塚(にしづか)町に鎮座する『西塚神社』を参詣(2024年11月17日)させていただいた記事になります。

 

浜松市中央区神立(こうだち)町と同区西塚町の境付近に鎮座する『西塚神社』には、天白社が合祀されているとのことですが、確固たる情報は得られませんでした。

 

はじめて『西塚神社』を見たときは、本殿・拝殿ともにコンクリート造り、モダンだけどしっかりと神明造というのが少し不思議な感じがしました。

 

ただ、『西塚神社』が鎮座する西塚町という地名は「塚の西」からの「堤の西」、さらに御陵、墳墓に通じ、「蒲の郷」由緒の地名であることが『浜松風土記』からわかります。

 

鎮座地の西塚町とは

宮竹の酉で神立(こうだち)の北。田畑渺々(びょうびょう/果てしなく広いさま)として、詩情をそそるような土地である。
「塚」は「堤」に通するが御陵(ごりょう/天皇・皇后・皇太后・太皇太后の墓)、墳墓(ふんぼ)にも通じ、ここの地名は「蒲の郷」由緒の遺蹟に起因しているとされる。古墳時代から奈良平安朝へかけての濱松の文化は、先ず蒲24郷にかなり長期間にわたつてもたらされ、それが戦国英雄割拠時代から、封建制の確立した徳川時代初期に及んで、天龍川だった馬込川を越えて濱松に移った。
濱松地方の最古の社、千餘年も前に蒲神明が壯麗に鎮座された、歴然たる事実によって見ても、蒲の文化か濱松よりも先きに、根を張つたことは爭えない、西塚は大正14年蒲地區全部と浜松市に合併した。

( https://www.tcp-ip.or.jp/~ask/history/history14/fudoki/index5.html#nishiduka )

 

さらに、古墳時代から奈良平安時代の浜松の文化が、西塚町を含む「蒲の郷」からもたらされていたとは、かなり深い歴史を持った土地柄だということが想像できます。ちなみに奈良時代の遠江国の人口は約8万人と推定されています。

 

浜松市中央区の東南部から東北部にかけての地域は、平安時代に「蒲御厨(かばのみくりや)」として伊勢神宮に寄進された地域であり、『西塚神社』は西塚町と神立町の境に鎮座しています。西塚町はこの「蒲御厨」の西端に現存している町なのです。

 

隣接する神立町といえば「ごしんさま」と呼ばれ親しまれている『蒲神明宮(かばしんめいぐう)』があります。『蒲神明宮』の創建は、確かではないものの今から約1200年も前の806年(大同元年)に「伊勢の大神宮から諸神を勧請したことに始まる」と伝えられています。

 

また、鎌倉幕府初代征夷大将軍である源頼朝の異母弟(六男)であり、源平の戦いで活躍した源義経の兄でもある源範頼が「蒲御厨」で生まれ育ったことから「蒲冠者」や「蒲殿」と呼ばれたことは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をご覧になられていた方ならよくご存じでしょう。

 

さらに、西塚町の『天地山長久寺』の境内には”いぼ神様”として有名な「宇津木大明神」が祀られています。いぼとりを祈願する際には、いぼ神様に年令とイボのできている場所を伝えるそうで、願いがかなったお礼には籾殻(もみがら)を奉納する変わった方法も有名です。

 

さて、今回の創建も天白社の合祀も詳細不明の『西塚神社』ですが、いつごろ、どんな感じで天白信仰が生きていたのか気になります。では、さっそく鎮座地の歴史などを調べていきたいと思います。

 

浜松市中央区西塚(にしづか)町に鎮座する『西塚神社』

 

 

西塚神社

 

 

鎮座地:浜松市中央区西塚町307-7 

 

《アクセス》

 

電車・バス:遠鉄電車[助信駅]から徒歩約24分
車:東名高速道路[浜松IC]より約15分
駐車場:隣の屋台置き場前に停めさせていただきました
御朱印:不明

 

御由緒

 

コンクリート造りのモダンな拝殿と本殿

 

創建などについて情報を得られませんでしたが、「西塚神社」が鎮座する西塚町は古墳時代から奈良平安時代の浜松の文化がこの辺りの「蒲の郷」からもたらされていたことから、歴史の深い土地に鎮座する神社であることは確かです。

 

御祭神

 

手水鉢と石碑

 

倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)

伊佐波登美命(イザワトミノミコト)

建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)

玉柱屋比女命(タマハシラヤヒメノミコト)

伊雑皇太神宮(イザワコウダイジングウ)

 

関連記事≫

www.sannigo.work

 

鳥居

 

「西塚神社」の神明鳥居

 

神名鳥居には大正7年建立と刻まれています


鎮座地である浜松市西塚町とは?

 

冒頭浜松地方の最古の社として登場した『蒲神明宮(かばしんめいぐう)』の創建は、806年(大同元年)に「伊勢の大神宮から諸神を勧請したことに始まる」と伝えられています。

 

由緒によると、藤原鎌足十代の孫で、蒲氏の祖となった藤原越後守静並(えちごのかみしずなみ)公が、伊勢神宮の御神託によってこの地を開拓、その土地を「蒲御厨」として寄進して伊勢神宮の分霊を勧請して創建されたのが『蒲神明宮』です。

 

創建以来、二十年毎の式年遷宮を続けているのも、伊勢神宮に倣ってということのようです。靜並公の子孫が蒲氏を名乗り、御厨の惣検校(監督官)としてこの地を支配、『蒲神明宮』の神官として代々続いたといいます。

 

関連記事≫

www.sannigo.work

 

伊勢神宮による御神託とは?

 

藤原越後守静並公が「伊勢神宮」(当時は公家以外は参拝できなかった)を参拝した際に、社内から出てきた小蛇が狩衣(かりぎぬ/平安時代以降の公家の普段着)の袖を越えて再び社内へ戻っていくというハプニングが起きたそうです。

 

静並公が狩衣の袖を見ると「蒲開発本願主」と文字が薄っすらと表れていたといいます。靜並公は蒲の地が遠江国にあることを知り、蒲の地の水路などを整備し田畑を開拓すると多くの人々が集まってきて住むようになり、いくつかの村ができていったといいます。

 

その広大な開拓地を伊勢神宮に寄進して御厨(古代・中世、皇室や伊勢神宮・賀茂神社などへ神饌の料を献納するために設けられた所領)としました。ちなみに、周りを住宅地に囲まれた『蒲神明宮』の東側の森を「袖紫ヶ森(そでしがもり)」と呼ぶようです。近所の店名にも使われている「袖紫ヶ森」は、伊勢神宮の社内で静並の袖に現れていた文字が紫色だったからと伝わります。

 

源範頼

 

「蒲御厨」で生まれ育ったことから蒲冠者や蒲殿と呼ばれた源範頼は、後に藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗るようになります。

 

範頼の父は源義朝、母は池田宿の遊女と伝わります。平安当時の天竜川は現在の位置よりも東側を流れていたため、現在熊野の長藤が見られる池田宿辺りは天竜川の西側に位置していたため、蒲御厨とは地続きになっていたようです。

 

当時の池田宿は、天竜川西岸に設けられた東海道の宿場で、京都と東国を結ぶ交通の要衝でもあったため、範頼の母は遊女といっても実際には池田宿の有力者の娘で、父の義朝が池田宿との関係をよくするため政略的に婚姻したのでは?という説もあるようです。

 

その後の源範頼は蒲氏の保護のもと、「御厨内」の飯田(現在の中央区飯田町)の別邸で育ちます。当時の蒲氏の当主清倫(きよのり)の娘との間に「藤姫」という名の娘が生まれます。蒲氏はこの「藤姫」によって継がれ、その後も代を重ねます。

 

範頼は一般的に『源平合戦』と呼ばれる「治承・寿永の乱」では、頼朝の代官として大軍を率いて平氏討伐に赴き、義経とともにこれらを討ち滅ぼす大活躍をするのですが、最期はいらぬ一言「後にはそれがしが控えておりまする」と述べたことがきっかけで、頼朝に謀反の疑いを掛けられ伊豆国に流され、1193年(建久4年)に頼朝によって誅殺されたといわれています。

 

ところが、範頼の最期には異説があり、伊豆国では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説、武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがありますので、私も遠州人、そちらを信じて静かに生涯を終えたと信じましょう。

参照元:源範頼 - Wikipedia

 

関連記事≫

www.sannigo.work

 

最後に考察

 

『天白紀行』山田宗睦著には、「東三河の天白信仰がさらに東の遠江の天白につながっていくのである。いまのところ遠江には47ほどの天白社があり、これは東三河よりずっと多い」と書かれています。さらに巻末に追補された「東三河の天白一覧表」を見ると、所在地が29社中15社が田原町(現在は田原市)と豊橋市なのです。

 

伊勢から田原町・豊橋市は船で行き来できます。というか陸伝いでの田原から伊勢神宮までの移動は歩くと約11時間、フェリーなら約2時間20分です。往古船の往来ができたとしたら、物資は船で運ぶでしょうから、湊から流通物資が移動するように信仰も移動していったのではないかと考えます。ならば、ここでの天白神は「海や川を鎮める神」として信仰されたかも?

 

今回の天白社を合祀する『西塚神社』の鎮座地である西塚地域は、平安時代に「蒲御厨」として伊勢神宮に寄進された地域なのですから、やはり伊勢の方から船で東三河へ、さらに遠江へ、また反対の流れでも物資や人々とともに信仰も移動したのかもと考えられます。

 

それに『天白紀行』の裏表紙に「天白信仰は伊勢-諏訪二社を両限として、伊勢、尾張、三河、信濃、遠江と濃密に分布する天白圏ができ、さらにその東の外延(駿河、甲斐、武蔵など)にまで流布して、亜天白帯ができたとみている。」と書かれているのですから、だいぶ内容が一致してきたぞと喜んでいます。

 

さらにもう一つ、古墳時代からの「蒲の郷」を藤原越後守静並(えちごのかみしずなみ)公が、伊勢神宮の御神託によって苦労してこの地を開拓したのですから、治水・農耕の神という線も『天白紀行』がいうところの治水・農耕の神であることに間違いないのでは?と思っているところです。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。