sannigoのアラ還日記

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遠江の天白神社巡り⑮は旧遠江国の東側に位置する牧之原市静谷(しずたに)に鎮座する『静谷八幡宮』

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の遠江の天白神社巡り⑮では、旧遠江国の東側に位置する静岡県牧之原市北部の「静谷(しずたに)」に鎮座する『静谷八幡宮』境内社「天白社」?を参詣(2024/11/29)させていただきました。

 

『静谷八幡宮』は三栗町内会の氏神様ということで、山の中で静かに氏子の皆さまを見守って佇んでいるような印象を受けました。

 

鎮座地である牧之原市静谷という場所は勝間田川と三栗川の合流地付近の地域で、多くは森林で東名高速道路が走り牧之原SAもあり、茶畑として活用している傾斜地が多い地域のようです。町内には県道235号線(菊川榛原線)が走り、高速道路沿いに『牧ノ原神社』や熊野神社も鎮座しています。『静谷八幡宮』も東名高速道路をくぐった先に鎮座しています。

 

『静谷八幡宮』の境内社に『天白社』があると知ったのは、山田宗睦著の『天白紀行』209ページに㉜の天白社として記載されていたからです。ただ、今回参詣させていただいたタイミングでは静谷八幡宮の境内に境内社的な祠やお社は見当たらなかったですし、高床式のようなコンクリート造りの本殿などから推察するに「遷宮」や「移設」「再建」などをきっかけに合祀されたのだろうと思っています。

 

興味深いのは鎮座地の「静谷」という場所が、国の重要無形民俗文化財「蛭ケ谷の田遊び」が伝統行事として続いている「蛭ケ谷」の地がほど近いということです。「蛭ケ谷の田遊び」とは、鎌倉時代より続けられている楽器の伴奏がなく台詞と舞だけで厳かに行われるという特徴的な地元の伝統行事で今も頑なに守られていると聞きます。

 

牧之原市について興味深いことが他にもあります。牧之原市を流れる「萩間川」をはさんで女神山(めかみやま/別名帝釈山)・男神山(おかみやま/別名天神山)と呼ばれる石灰岩で出来た山があり、それぞれ神社があることです。そして、山の頂上には「大蛇の穴」があったと伝わり、メスの大蛇、オスの大蛇が住む伝説が残されています。

 

2つの山は男女を表現した信仰の対象としてみられ、特に女神山山頂の『女神社』子授けやさまざまな祈願には豆腐を半丁奉納するとよいとされ、子宝を授かったら今度は底なしの袋を奉納して安産祈願するという珍しい祈願方法にはますます興味津々です。

 

ちなみに、こちらの女神山・男神山の石灰岩は1600年も前にこの地で作られたもの、つまり5世紀くらいのこの辺りは熱帯の海でサンゴ礁が見られる海だったということです。

 

今も続く歴史的な伝統行事「蛭ケ谷の田遊び」、さらに大蛇が住んでいたという伝説が残る男女を表現した信仰の対象の女神山・男神山が存在する牧之原市とはいったいどれほど深い歴史を持った土地なのかと驚愕しています。

 

これまでの牧之原市の印象はというと、 「ウォーターボーイズ」や「亡国のイージス」のロケ地、またワイロ政治で知られる相良藩の藩主を務めた田沼意次のこと、かつて私も海水浴したことあるなくらいでした。ところが、『静谷八幡宮』の鎮座地として改めて牧之原市を調べてみると、鎌倉時代いやいや古墳時代まで遡るほどの深い歴史を持つ土地柄であることを知ることができました。

 

ということで、、さっそく『静谷八幡宮』について、また鎮座地牧之原市について深堀りしていきたいと思います。

 

牧之原市静谷に鎮座する『静谷八幡宮』

 

 

静谷(しずたに)八幡宮

 

 

鎮座地:静岡県牧之原市静谷998

 

《アクセス》

 

電車・バス:しずてつジャストライン[静波三丁目]バス停から徒歩約44分
車:東名高速道路[相良牧之原IC]から約22分、[吉田IC]から約24分
駐車場:境内が広く児童公園のようになっていたので停めさせていただきました
御朱印:不明

 

御祭神


誉田別尊(ほむたわけのみこと)


仲哀9年(200年)、第14代仲哀天皇と神功皇后の御子として生まれた応神天皇(200〜310年)のこと。その腕の肉が弓具の鞆(とも/ほむた)のように盛り上がっていたので、古事記では品陀和氣命(ほむだわけのみこと)、別名は大鞆和気命(おおともわけのみこと)と称される。

 

天御中主命(あめのみなかぬし)


『古事記』の神々のなかで最初に出現した神。 別天神 (ことあまつかみ)のことである。 高御産巣日神 (たかみむすびのかみ)、神産巣日神 (かみむすびのかみ)とともに造化の三神ともいわれ、天の中心にあって天空を主宰している神の意。

 

素盞嗚命(すさのおのみこと)


日本神話の代表的神格で出雲神話の祖神とされる。『古事記』では須佐之男命とも記され イザナギ・イザナミの子であり、 天照大神の弟とされる。だが、大和朝廷の政治的統一の過程での結合とみられる。

 

蛭子命(ひるこのみこと)


「えびす神」で釣り人風の姿をしており、漁業・漁民の守り神として信仰される。魚市場などでの商いを通じて、商売繁盛、富貴福徳のご利益のある神となり、祀る神社は全国に約3.500社を数える。『古事記』『日本書紀』の国生みの段に登場する この神は、イザナギ・イザナミの神が日本国土を創世する際に生まれたのですが、体がやわらかくふにゃふにゃで、3歳になっても歩けなかったことから、葦の舟で海に流しまった。

 

他2柱

 

他2社を祀っているとのことで、そのうち一つが『天白社』と考えています。

 

創建・御由緒

 

ネット上では、創建年代や御由緒についての詳細な情報は得られませんでした。

 

ご利益

 

三栗町内会の氏神様で、家内安全、無病息災、五穀豊穣といわれています。

 

鳥居

 

『八幡宮』の扁額がかかる鳥居

 

手水舎

 

手水舎には2つの手水鉢が並んでいます

 

手水舎には2つの手水鉢が並んでいるので、再建されたときに以前使われていた手水鉢もここに据えることにしたのではないでしょうか?

 

狛犬

 

阿吽の狛犬

 

左側の狛犬は足元に小さな狛犬がいる「子取り狛犬」で子孫繁栄を表しており、右側の狛犬は玉を足で押さえている「玉取り狛犬」で家運隆盛を表しているそうです。

 

右側の狛犬が口を開いている「阿形(あがた)」、左側は口を閉じている「吽形(うんがた)」で、拝殿に向って構えています。これが対になって「阿吽の狛犬」となります。この「阿吽」とは、もともとインドのサンスクリット語の最初の音「あ」と、最期の音「うん」を表し、宇宙の最初と最後を表しているといわれています。

 

拝殿

拝殿はまだ新しい感じのコンクリート造り

 

社殿は石垣のように石が積まれた高い場所に、さらに高床式のような造りになっており、コンクリート造りです。

 

少し色褪せてはいますが高欄(鉄製の手すり)は朱色をしています。浜松市中央区西塚町に鎮座する『西塚神社』や、同じく中央区助信町鎮座の『冨士神社』に似た感じでしょか?

 

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本殿

 

本殿

 

境内

 

境内の石碑

 

境内は広く「明治100年記念」と刻まれた石碑がある

 

境内は広く木々がうっそうと茂り、鳥居をくぐった参道脇には大きな桜の木が目立ちます。左側にはこれまた大きな楠もあります。

 

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鎮座地牧之原市って?

 

旧遠江国の東側に位置し、現在は静岡県中部地方に属しています。駿河湾の海岸線から、日本一の大きな茶園が広がる牧之原台地までを含んでいます。牧之原市の市名の由来はこの南北40kmに及ぶ牧之原台地となっています。

 

この牧之原というのは国の公営牧場である官牧があったことに由来していると聞きますが、主な住宅街は海岸沿いにあり、牧之原台地の人口は、市内の総人口の1割程度とのこと。 

 

人々の住まいが多くある住宅街がある海岸は主に東側に広がり、南海トラフ巨大地震が発生した際には、最大11mの津波が到達するというなんとも恐ろしい災害が予想されているといいます。私の居住地である浜松市も市の想定での津波の高さは最大14.9mですから、どっちもどっちですが・・・。

参照元:牧之原市 - Wikipedia

 

牧之原には官牧(国の公営牧場)があった?

 

今からおよそ1300年前の661年(天智7年)、近江の国に初めて公営の牧場が作られ馬の放牧が行われたそうです。その後675年(文武4年)に諸国に牧を置くことが定められ、遠江にも官牧がおかれました。

大宝律令が完成してこの官牧は『白羽牧』と呼ばれ、飼育された馬のうち良曲馬は朝廷に貢納されました。792年(延暦11年)になると奈良朝の終篤、国の軍事体制の崩壊によって官馬の需要は急速に減少し、律令の税制が崩れたために、私的に開墾された田畑が増えてきました。

この頃から、白羽の官牧は縮小され、変わって地元住民の手によって 私牧が営まれるようになりました。この牧は次第に西へと広がって、小笠山周辺に「笠原牧」を形成し、また一方には台地周辺の浸食谷の川岸段丘を追って相良から湯日へ、湯日からさらに質呂(しとろ)へと北に広がりました。この北に広がった私牧は台地に沿って 北上したので、いつしかこの大地が牧之原と呼ばれるようになったといいます。

( お茶街道:地名のお話 )

 

相良藩主に封じられた田沼意次

 

江戸時代の1758年(宝暦8年)に相良藩主に封ぜられた田沼意次は翌年所領の村々に「品々申渡書付」を発給して、新藩主としての政策方針を打ち出したそうです。

 

その第一には、桑を植えて養蚕をするようにと奨励していたようです。第二はハゼ・カセ・小ハゼなどの栽培をすすめ蠟油の採取をすすめ、第三に毒荏木 (ドクエノキ/油桐)を栽培し庶民が使用する油を充足させるようにと命じたそうです。

 

幕末から明治の初めの「川崎港」


「広報まきのはら」第2回によると「幕末から明治時代の初めにかけて、静波地域の勝間田川河口に整備された川崎港は、東京や横浜、四日市、桑名 などへ米や茶などの物資を輸送する海運業が大変盛んで、商港として大変にぎわいました。しかし、明治22年に東京ー京都間で東海道線が開通したことによって、沿線の町村が貨物輸送を鉄道にゆだねるようになり、海運業は急速に衰退していきました。」とのこと。

 

蛭ヶ谷(ひるがや)の田遊び

 

静岡県牧之原市蛭ヶ谷1 『蛭児神社(ひるこじんじゃ)』
一般公開:有
駐車場:無
開催日    毎年2月第2土曜日 18:00~

 

今年2025年も2月8日(土)18時から行われた『蛭ヶ谷の田遊び』は、鎌倉時代より口承されてきた五穀豊穣と子孫繁栄を願う伝統民俗芸能です。儀式的な次第と稲作の様子を模擬的に演じる次第からなる東海地方の田遊びの構成がよく伝えているといわれています。

楽器の伴奏がなく青年男子十数人が、掛け声や唱え、所作のみで厳かに行われることやお餅が使用されることなどが特徴的で、2012年には国の重要無形民俗文化財に指定されています。

 

夕方から夜更けにかけての約5時間の長丁場で行われる『蛭ヶ谷の田遊び』には、計17の多彩な演目があり、太刀や木刀を振って祭りの場を清める前半の演目と、稲作の様子を再現する後半の演目に大きく分けられるといいます。

 

まず氏子の若者達が、木を積み重ねたかがり火の前で、「四方切り(しほうぎり)」と総称される神々を招き、場を清める儀式的な演目が行われたのち、稲作作業の一連の様子を模した「里打ち」「田打ち」「稲刈り」などの16演目が演じられ、その年の豊作と子孫繁栄を祈願します。

 

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最後に

 

旧遠江国の東側に位置する静岡県牧之原市の北部の「静谷」は、現在は静岡県の中部地域に存在する地名です。駿河と遠江という区分ならきっと遠江に入るはずです。

 

そこに鎮座する『静谷八幡宮』を参詣させていたいたのは、愛読書である『天白紀行』に境内社「天白社」との記録があったからですが、広い境内を隅から隅まで回ったつもりですが、境内社は見つけられませんでした。

 

ただ、社殿がコンクリート造りということ、東名高速道路の真下辺りに鎮座していることから、「遷宮」「移設」「再建」などを視野に入れ、もしかしたら合祀されているかも?いやいや合祀されているにちがいない!ということで、天白神社巡り⑮とさせていただきました。

 

『静谷八幡宮』の御祭神は誉田別尊、天御中主命、素盞嗚命、蛭子命、他2柱とのことです。合祀されているであろう「天白社」の御祭神は不明です。

 

天白信仰は、本州のほぼ東半分にみられる信仰形態で、その分布は長野県(旧信濃国)、静岡県(旧三河、遠江、駿河)を中心とし、三重県の南勢・志摩地方を南限、岩手県を北限として広がっています。

 

遠江での天白神は「治水・農耕の神」となっている場合が多く、御祭神は瀬織津姫であったり、猿田彦命であったり、宇加之御魂神、倉稲魂神、天白羽大神あったり、太田命であったりと謎が多い神様です。

 

縄文時代から伝わる信仰として「アラハバキ信仰」が挙げられることが多いと感じるのですが、一説では縄文時代の信仰が「ミシャグチ(石神)信仰」や「天白信仰」に関連した遺跡として残っているという意見もあると聞きます。

 

実際に天白社、天白神社を参詣していると、かなりの確率で境内社として「ミシャグチ社」(表記に関してはいろいろ)もお祀りされています。確かに「古事記・日本書紀」などの神話には登場しませんが、多分長い間に吸収合併されたり、上書き・コピーされているのだと思います。

 

日本人=縄文人=渡来人という歴史を現在の移民(クルド人)=日本人=中華系を通用させるには、やはり過去と同じくらいのすごく長い時間が必要な気がします。

 

最近はSNSやyoutubeなどで知ることができる現在の日本の状況は、かなり心臓に悪いものがあります。あと〇日で地震?だとか、太陽フレアがどうした?とか、移民にオーバーツーリズムに尖閣諸島問題、中国になってしまうなどなど。

 

逆にあと〇日しかないのなら、残りの寿命も短いシニアだからこそ思い切りやってしまえ!と神社巡りをしているのですが、これってつじつまの合っている話ではないですよね(笑)悩ましいアラカン世代の日本人です。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。