sannigoのアラ還日記

趣味の神社巡りを記録しています。

旧浅羽町(現袋井市)の歴史を求めて『浅羽荘司館跡』『駿遠線芝駅跡』

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回は袋井市浅羽と浅名に鎮座する『天白神社』の周辺の歴史を知るために訪れた
『浅羽荘司館跡』と『駿遠線芝駅跡』をご紹介したいと思います。

 

『浅羽荘司館跡』と『駿遠線芝駅跡』は、ほぼほぼ同じ場所と言ってもよいほど近いので、どちらも一気に訪ねることができます。

 

『浅羽荘司館跡』は、この付近一帯を鎌倉時代から室町時代に亘り支配した豪族、浅羽氏の館跡になります。

 

平安時代後期から鎌倉時代にかけて、堀のある約50m四方の居館が成立。鎌倉時代後期、周囲に土塁を巡らせた東西約100m・南北約130mの規模の居館へ拡張されたそうですが、現在は館跡らしいものは全く残されていないので「浅羽荘司之館跡」と刻まれた石碑と説明板から妄想するしかありません。

 

旧浅羽町(現袋井市浅羽)という土地は潟湖(ラグーン)というイメージが非常に強く、摂関家領として12世紀代に成立した「浅羽荘」も、潟湖を取り囲む範囲に広がっていたと考えられ、土塁で囲われていたようです。

 

「浅羽庄」の管理をしていた浅羽庄司宗信という人物は、なんとあの『吾妻鑑』に登場しているというからびっくりです。宗信以後の浅羽氏は帰農の道をたどり、村人の尊崇を得て「庄屋」をつとめるなどしたと伝わります。

 

一方『駿遠線芝駅跡』は、時代がぐっと下がり、明治から昭和にかけて静岡県の袋井市から御前崎市、牧之原市を通り藤枝市まで走っていた日本一の長さを誇る「軽便鉄道駿遠線」の芝駅跡になります。

 

「軽便鉄道駿遠線」は地域の人たちの重要な交通手段として親しまれていましたが、1970年には自動車の普及がめざましく残念ながら約60年の歴史に幕を下ろしました。

 

『浅羽荘司館跡』

 

 

浅羽荘司館跡・駿遠線芝駅跡

 

2つの天白神社と『浅羽荘司館跡』『駿遠線芝駅跡』

 

住所:静岡県袋井市浅羽字柴

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR[袋井駅]からバスで8分[芝バス停]下車、徒歩約3分
車:東名高速道路[袋井IC]から約15分
駐車場:ありません。浅羽記念公園駐車場(袋井市浅名1022/31台可)に停めさせていただいて、P⇒(徒歩約10分)『馬伏塚城跡』⇒(徒歩約14分)『浅羽莊司館跡』まで歩きました。途中馬伏塚城の堀切なども見れるのでおすすめです。

 

浅羽荘司の館跡の詳細

 

浅羽荘司の館跡

 

浅羽荘司の館跡
この付近一帯は鎌倉時代から宝町時代に亘り浅羽の荘を支配した豪族浅羽氏の館跡で東西100米、南北一三〇米の広大な地域と推定され、この柴遺跡の残存は全国的にも極めて稀である館跡を知るための貴重な資料であるが新県道の工事により当時の土塁が失われたことに学界からも惜しまれている。
昭和五十九年三月 日
浅羽町教育委員会
浅羽町文化財研究会

(説明板より)

 

浅羽荘司之館跡

 

この付近一帯を鎌倉時代から室町時代に亘り支配した豪族、浅羽氏の館跡になります。当時の館は、東西100m 南北130mの広さがあり、土塁で囲われていたようです。その土塁が現在も浅羽氏の子孫と伝わる浅羽家には残っているそうですが、見ることはできません。

 

江戸期、この付近一帯は浅羽一万石の米蔵と呼ばれた豊かな穀倉地帯だったことが、田植えの時期にこの辺りを歩いてみると豊かに水をたたえた田んぼの多いことから想像できます。

 

江戸末期の33カ村の村高は13600余石との記録があるとか。その基盤を拓いたのがこちらの館の主である浅羽氏なんですが、浅羽氏に関する詳細な歴史は不明な点が多いといいます。関東からの移住説もあるようですがはっきりしません。なのにこの浅羽氏、なんとあの『吾妻鑑』によって歴史にその名を残しているというのです。

 

『吾妻鑑』といえば、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」や「どうする家康」にも登場した鎌倉時代に成立した日本の歴史書です。ちなみに鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの幕府の事績を編年体で記したものになります。

 

では、さっそく浅羽庄の管理をしていた浅羽庄司宗信という人物がどのようなエピソードで『吾妻鑑』に登場するのかみていきましょう。

 

日本各地で繰り広げられた「源平合戦」。再決起を果たした源頼朝が、1180年(治承4年10月)に平家軍を敗北させた『富士川の戦い』は、平氏が水鳥の羽音で逃げ出したというエピソードで有名です。その頼朝が義経追討のため、また武家政権による支配への布石を打つため駿河と遠江に守護を置きました。

 

守護に補任され遠江にやってきたのは安田義定でした。義定は橋本(現湖西市新居町)に砦を構えるため、遠江国内で人夫の動員を命じたそうですが、浅羽庄司宗信と浅羽三郎は「得体の知れぬ者の命に従うことはない」と義定による動員に従わないだけではなく、守護の義定の眼の前を騎乗のまま通り過ぎたそうです。

 

そこで、怒った義定は鎌倉の頼朝に浅羽庄司宗信と浅羽三郎の行動を伝え「処罰してください」と訴えたそうです。(『吾妻鏡』治承5年〈1181〉3月13日条)。結果、浅羽三郎は処罰されましたが、宗信は謝罪したため所領(浅羽荘)は取り上げられます。

 

「浅羽庄」の内、わずかな土地「柴村」と田所職(田所の職務およびその職務に対する報酬として与えられる収益権、または土地(給田・給名))だけは返してもらったようです。(『吾妻鏡』治承5年〈1181〉4月30日条)

 

その後の浅羽氏は帰農の道をたどり、村人の尊崇を得て「庄屋」をつとめるなどしたと伝わります。ちなみに、没収された「浅羽庄」は、守護の安田義定に給与されていたとか。

 

守護の安田義定の最後は、源頼朝の命で和田義盛が刑を執行し抹殺されてしまったそうで、理由は朝廷から遠江守に任じられるなど、頼朝の統制から外れた動きをしていたからとのこと。実際に裏切ったのかどうかは不明ですが・・・。

参照元:袋井市の鎌倉時代/袋井市

 

『浅羽荘』は水上交通の要衝

 

田植え時期のこの辺りは水浸し

 

浅羽・横須賀の海岸低地には、約6000年前に起こった縄文海進のなごりの「潟湖(せきこ/ラグーン)」が低地の奥深くまで入り込み、そこへ原野谷川、三沢川、西大谷川などの中小河川が注ぎ込んでいました。当時現在の袋井市内の1/4程度が海面下にあったと考えられています。

 

高低差のない海岸低地を流れる原野谷川は大きく蛇行し、その流域では洪水被害がたびたび発生していたといいます。

 

摂関家領として12世紀代に成立した「浅羽荘」は、潟湖を取り囲む範囲に広がり、のちに遠州唯一と言われた「横須賀湊」を前提とする水上交通の要衝であったと考えられています。また、この時に浅羽低地を東西に横断する中畦堤(なかうねづつみ)が設けられたようです。

 

この湿地帯の本格的な開発は、戦国大名の今川氏によって16世紀中頃から手を付け始められます。具体的には、旧原野谷川流路の左岸に残る「古堤」はこのときの治水に関して築造されたと推定されており、現在も富里地区で1.3km程が残っています。

 

12世紀に設けられたと思われる浅羽低地を東西に走る中畦堤 (なかうねづつみ)もこの頃補修され、湿地の悪水を吐かせるための排水路も掘られ運河として川船の往来を盛んにしたとのこと。

 

参照:袋井市「馬伏塚城」見学案内パンフレット、太田川・原野谷川の合流と治水 - 袋井市歴史文化館

軽便芝駅跡

 

軽便芝駅跡

 

住所:静岡県袋井市浅羽1638-9

 

《アクセス》

 

浅羽莊司館跡とほぼほぼ同じ場所なので、上記と同じアクセスでOKです。

 

軽便芝駅跡の詳細

 

明治から昭和にかけて静岡県の袋井市から御前崎市、牧之原市を通り藤枝市まで走っていた日本一の長さを誇る「軽便鉄道駿遠線」は地域の人たちの重要な交通手段として親しまれていましたが、1970年には自動車の普及がめざましく残念ながら約60年の歴史に幕を下ろしました。

 

袋井から藤枝まで総延長は64.6km。主に通勤通学のために利用していたお客さんが多かったようでいつも満員だったと聞きます。ちなみに利用したことのある祖母が生前「人が多くて振り落とされされそうだった」と言っていました。海水浴のシーズンだったのかもしれません。相良・静波といった海岸線を走るため海水浴客で賑わうシーズンには臨時列車まで出るほどの込み具合だったようです。

 

中でも今回訪ねた「芝駅跡」は、旧浅羽町(現袋井市浅羽)の街なかにあった駅で当時は随分と賑わっていたそうです。昭和38年度の乗客数は14万人と旧浅羽町にある駅の中でも乗降客が一番多かったという記録が残っているそうです。

 

現在、この場所には「芝駅」と書かれた標識が残っており、現在こちらの道路は整備された遊歩道になっているため歩きやすいですし、『袋井遊友ウォーキングマップ』NO12「旧軽便鉄道探訪コース」 https://www.city.fukuroi.shizuoka.jp/material/files/group/87/No_12_naka.pdf

なら、袋井駅から清水邱庭園(掛川市西大渕)までの約13kmをのんびり歩くのもおすすめです。ダウンロードや印刷もできるので今度利用してみたいと思います。

 

浅羽記念公園の「軽便鉄道」のレプリカ


駐車させていただいた『浅羽記念公園』には、「浅名駅」という表示とともにかつて静岡県内を走っていた「軽便鉄道」のレプリカが展示されています。

 

最後に

 

今回、天白神社(袋井市浅羽)、天伯神社(袋井市浅名)が鎮座する旧浅羽町(現袋井市)の歴史を求めて『浅羽荘司館跡』『駿遠線芝駅跡』を訪ねてみました。

 

『浅羽荘司館跡』は、この付近一帯を鎌倉時代から室町時代に亘り支配した豪族、浅羽氏の館跡で、摂関家領として12世紀代に成立した「浅羽荘」は、潟湖を取り囲む範囲に東西100m 南北130mの広さがあり、土塁で囲われていたとのこと。

 

さらに、後に遠州唯一と言われた「横須賀湊」を前提とする水上交通の要衝であったと考えられ、この時に浅羽低地を東西に横断する中畦堤(なかうねづつみ)が設けられたということでした。

 

まさに、『天白紀行』に山田氏が書いた”天竜川氾濫原の東岸の浅羽町”の2社にあたります。この地の天白神は「治水農耕の神」で間違いないことが実際に『浅羽荘司館跡』や『馬伏塚城跡』を訪ねて納得できました。

 

そして、もう一つ「静岡県のなかでも熊野系の寺社が集中しているのが袋井市域である」というクチコミを 熊野神社 - 袋井市/静岡県 | Omairi(おまいり) で発見しました。その方がおっしゃるには「市域を太田川、原野谷川の両河川が蛇行して流れ、しかも合流せず、河口は現在と違って直接遠州灘へはつながらず、横須賀との境、0メートル地帯に溜まって潟湖(ラグーン)を形成し、これを利用した船運の要衝として重要視されたからで、遠江国衙や伊勢、熊野山頂へ税物が運ばれる海の幹線道路であったからだ。」

 

なるほど!袋井の浅羽という土地もラグーンを利用した船運の要衝として、伊勢や熊野山頂へ運ばれる幹線道路だとしたら、『天白紀行』の著者である山田氏が云う「天白は伊勢神宮の神麻続機殿神社の祭神、天ノ白羽神が始元」から、この始元である神が船に乗って直接伊勢から遠江に流布した可能性もあるのでは?と思ったのでした。とはいえ、素人の戯言なのでお許しください。次回は旧浅羽町の2社の天白神社の記事になる予定です。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。