sannigoのアラ還日記

趣味の神社巡りを記録しています。

遠江の天白神社巡り⑯袋井市浅羽に鎮座する『天白神社』と⑰袋井市浅名の『天伯神社』

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の遠江の天白神社巡り⑯⑰では、「東海道五十三次のど真ん中」の袋井市に鎮座する⑯『天白(てんぱく)神社』と⑰『天伯神社』の2社を参詣(2025/3/9)させていただきました。こちらの2社の距離は歩いて15分、車で3分と非常に近くご近所さんといっても良さそうな感じです。

 

2社ともかつては南を太平洋に面した町「磐田郡浅羽町」が住所でしたが、袋井市と合併したため現在の住所は袋井市となっています。両社とも御祭神は日本神話で創造神である天之御中主命です。

 

静岡県南西部の袋井市の南部を占める「浅羽」とは、中世の浅羽庄の地で、江戸時代には「浅羽一万石」といわれる遠江中部の穀倉地帯と言われ、現在の温室メロンにトマト、中国野菜などの栽培へとつながっています。秋には風に揺れるコスモス畑が人気です。

 

縄文時代前期には「縄文海進(縄文早期の終わりから前期の初めにかけての気候の温暖化により海水面が上昇した現象)」の影響を受け袋井市内の1/4程度が海面下にあったと考えられています。

 

縄文時代中期後半以降、気候が寒冷化し海岸線が徐々に後退し始め、それに伴って海が取り残されたところは干潟や湖となっていきました。長い間その影響により、低地を蛇行して流れる太田川・原野谷川は海岸線に延びる砂堤にはばまれ遠州灘に直接注ぐことができなかったと考えられています。

 

そして、室町時代後期に起きた「南海トラフ地震」と推定される明応東海地震により、福田(ふくで)付近が地盤沈下してようやく川の流れが海につながります。

 

江戸時代後期まで規模を狭めながらも潟湖(ラグーン)が残り、そこへ原野谷川・三沢川・西大谷川などの中小河川が注ぎ込んでおり、浅羽を流れる原野谷川・太田川が海岸の低地に入ると流れが大きく蛇行し、何度も洪水が起きる池や沼が広がる湿地帯だったそうです。

 

山田宗睦著の『天白紀行』205ページに以下のように書かれています。

天竜川東岸(氾濫原)には、河口から25キロほど上流の豊岡村(現磐田市)辺から惣兵衛上新田、同下新田、豊田町(現磐田市)の寺谷新田、豊田町の七蔵新田、源平新田、仁兵衛新田などが南北につらなり、河口の竜洋町(現磐田市)から東へ、海岸沿いに、福田(ふくで)町(現磐田市)の清庵新田、塩新田がある。豊岡村を頂点とし天竜川氾濫原は末広がりに、太田川西岸の福田町、東岸の浅羽町(現袋井市)まで広がっている。このタテ長の三角形の中に、太田川の西に4つ(前記)、東に4つ(後記)の天白社が存在する。新田の造成と併行して、ここでも、天白はどうやら治水農耕の神である。それがいまでも農民にうけつがれて、りっぱに祭られているのである。

 

まさに今回参詣させていただいた⑯『天白(てんぱく)神社』と⑰『天伯神社』が『天白紀行』に山田氏が書いた”天竜川氾濫原の東岸の浅羽町”の2社にあたります。ということで、今回の⑯⑰の神社の天白神は「治水農耕の神」で間違いないことが実際にこの地を訪ねて納得できました。

 

まずは畑の真ん中にこんもりとした鎮守の森に囲まれたお社が印象的な浅羽の『天白神社』から深掘りしていきましょう。

 

⑰袋井市浅名の『天伯神社』[グーグルストリートビュー]

 

 

⑯天白神社(てんぱくじんじゃ)

 

 

鎮座地:静岡県袋井市浅羽1008

 

《アクセス》


電車・バス:JR[袋井駅]より徒歩約50分
      JR[袋井駅]→バス約8分→[芝]バス停下車徒歩約6分
車:東名高速道路[磐田IC]より車で約17分
東名高速道路[袋井IC]より車で約14分
駐車場:ありません 今回は『袋井市郷土資料館』の方に許可をいただき『浅羽記念公園』の駐車場に停めさせていただきました。ありがとうございました。
御朱印:不明

 

『天白神社』の創建などについての詳細情報は得られませんでしたが、穀倉地帯の田畑が広がる土地の端に位置し、こんもりとした森の中で大切に守られている神社だと感じました。森の中はとても静かで鳥の声だけが聞こえます。

 

ご祭神    

 

天之御中主命(アメノミナカヌシ)

『古事記』では冒頭の天地開闢の時に最初に現れた神として記されていますが、『古事記・日本書紀』共に記述の少なさが知られています。日本神話における創造神で、神話時代の系譜の中で最初に現れる神です。神名は天の真中を領する神を意味しているそうです。

 

天之御中主神といえば、哲学的な神道思想ではかなり重要な地位を与えられることが多くファンが多い神様と認識しています。中世の伊勢神道では豊受大神を天之御中主神と同一視し、これを始源神と位置づけていますし、江戸時代の平田篤胤の復古神道では天之御中主神は最高位の究極神とされているとのこと。(  天之御中主神 - Wikipedia )

 

つづいて浅名の『天伯神社』についての詳細になります。住宅街の中に鎮座する感じで駐車場はありません。

 

鎮守の森

 

車窓からの『天白神社』のこんもりとした鎮守の森

 

鳥居

 

『天白神社』の鳥居

 

拝殿

 

拝殿

 

御神木

 

注連縄が張られた「御神木」

 

⑰天伯神社 

 

『天伯神社』拝殿と本殿



ストリートビューによる境内、手水鉢

 

鎮座地:静岡県袋井市浅名613

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR[袋井駅]から徒歩約1時間
      JR[袋井駅]→バス約10分→[大庭]バス停下車徒歩約3分
車:東名高速道路[磐田IC]より車で約20分
  東名高速道路[袋井IC]より車で約16分  
駐車場:ありません 今回は『袋井市郷土資料館』の方に許可をいただき『浅羽記念公園』の駐車場に停めさせていただきました。ありがとうございました。
御朱印:不明

 

こちらの『天伯神社』に関しても創建などの詳細情報は得られませんでしたが、住宅街の中でとても大事にされている感じの神社です。人々の営みで活気のある街中で、ここだけが神域で別ものという感じがしました。

 

鎮座地が幹線道路沿いということで、鳥居を含めた境内全体の写真が撮れなかったので、グーグルストリートビューの写真をお借りしています。

 

御祭神

 

天之御中主命(上記の天白神社の御祭神も同じですので、そちらをご覧ください)

 

『天白神』に伝存する大峰山富士山御山渡り(祝詞)

 

富士信仰の広がりとして、現在の浅羽町浅名(現袋井市)の『天白神』に伝存する大峰山富士山御山渡り(祝詞) では、後半部が「富士浅間御山渡り」つまり富士浅間の「祝詞」なのだそうです。

 

大峰山と同じように神仏名を読み上げる形で始まり、各地の浅間大菩薩(神社)を連ねたあとで、村山口の山内に祀られる神仏を掲げ、一嶽から入嶽までの八葉の嶽の本地仏を述べるというもの。

旧山名郡松下※に伝わるオノット(御祝詞)は、大峰ゴリ(垢離)に用いられるもので、ここでは夏の暑い時期に無病息災を願って海で垢離を掻いて神々に祈願がなされる。〔『浅羽町史』民俗編、天保8年(1837)3月吉日〕

 

※旧山名郡松下とは旧袋井市以前の郡で、「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点では幕府領の中の旗本領の支配下にあった郡のようです。

 

富士浅間の「祝詞」となると、こちらの天白神社の信仰は伊勢→東三河→遠江→諏訪という流れにプラスして、山田宗睦氏が「16 富士のすそ野」で書いているように二つ考えられて

”一つは諏訪からくだってきた。二つに富士川をさかのぼってきた。”

の、どちらかのルートでたどりついた富士。そして富士からの物流や人流によって『天白神社』が鎮座する浅羽に根付いたものでしょうか?

 

いやいや、伊勢の方から舟運によって届いた信仰かもしれません。検証のためまずは袋井市の歴史から見ていきましょう。

 

袋井市の歴史

 

袋井市の歴史に関しては、下記の「袋井市の歴史 通史編」がわかりやすかったので、参考にさせていただきます。

【個別解説】袋井市の歴史 通史編/袋井市

 

「浅羽氏」が12世紀代に登場

 

平安時代には各地に荘園ができ、この辺りにも「浅羽庄」という荘園が成立していたといいます。というのも、鎌倉時代に、浅羽庄司宗信という、浅羽庄の管理をしていたらしい人物が(『吾妻鏡』治承4年〈1180〉10月21日条)登場しているのです。内容は以下のようなものです。

 

日本各地で繰り広げられた「源平合戦」。再決起を果たした源頼朝が、1180年(治承4年10月)に平家軍を敗北させた『富士川の戦い』は、平氏が水鳥の羽音で逃げ出したというエピソードで有名です。その頼朝が義経追討のため、また武家政権による支配への布石を打つため駿河と遠江に守護を置きました。

 

守護に補任され遠江にやってきたのは安田義定でした。義定は橋本(現湖西市新居町)に砦を構えるため、遠江国内で人夫の動員を命じたそうですが、浅羽庄司宗信と浅羽三郎は「得体の知れぬ者の命に従うことはない」と義定による動員に従わないだけではなく、守護の義定の眼の前を騎乗のまま通り過ぎたそうです。

 

そこで、怒った義定は鎌倉の頼朝に浅羽庄司宗信と浅羽三郎の行動を伝え「処罰してください」と訴えたそうです。(『吾妻鏡』治承5年〈1181〉3月13日条)。結果、浅羽三郎は処罰されましたが、宗信は謝罪したため所領(浅羽荘)は取り上げられます。

 

「浅羽庄」の内、わずかな土地「柴村」と田所職(田所の職務およびその職務に対する報酬として与えられる収益権、または土地(給田・給名))だけは返してもらったようです。(『吾妻鏡』治承5年〈1181〉4月30日条)

 

後の浅羽氏は帰農の道をたどり、村人の尊崇を得て「庄屋」をつとめるなどしたと伝わります。ちなみに、没収された「浅羽庄」は、守護の安田義定に給与されていたとか。

 

そんな守護の安田義定の最後は、源頼朝の命で和田義盛が刑を執行し抹殺されてしまったそうで、理由は朝廷から遠江守に任じられるなど、頼朝の統制から外れた動きをしていたからとのこと。実際に裏切ったのかどうかは不明ですが・・・。

 

浅羽氏のお墓が袋井市にはない?

 

実は浅羽氏の墳墓的なものは遠江の浅羽には見当たらないとのことです。『吾妻鏡』に登場する遠州の豪族、横地氏、勝間田氏などは、それぞれ本領地の横村(現菊川市)・勝間田村(現牧之原市)に墳墓が残っているのにです。

 

特に何ということもないことかもしれませんが、浅羽氏は一時所領の地として遠江に住んでいただけで、後に武州(埼玉県の古い呼び名)に帰ったためでは?といわれているようです。つまり浅羽氏はもともと武州のお方ということです。

 

実は現在は宅地化が進み大部分が破壊されてその姿を見ることはできませんが、この浅羽氏の館跡と伝わる場所が袋井市浅羽字芝にあり、こちらが浅羽低地の微高地(河川が運んだ土砂の堆積した自然堤防上、標高約4m)に築かれた、浅羽荘の荘園領主の居館「伝浅羽氏館跡」だとされています。

 

実際にこちらを訪ねてみましたが、館跡・土塁らしきものも全くないので「浅羽荘司之館跡」と刻まれた石碑と説明板から、「ここに東西100m 南北130mの広さがある館があって、土塁で囲われていたのだな」と想像をたくましくする他ありません。

 

伝浅羽氏館跡の記事はこちら≫

www.sannigo.work

 

浅羽荘は水上交通の要衝

 

摂関家領として12世紀代に成立した「浅羽荘」は、潟湖(ラグーン)を取り囲む範囲に広がり、のちに遠州唯一と言われた「横須賀湊」を前提とする水上交通の要衝であったと考えられ、この時に浅羽低地を東西に横断する中畦堤(なかうねづつみ)が設けられているそうです。

 

16世紀中頃から今川氏の新田開発が始まる

 

16世紀中頃からこの湿地帯への新田開発が、戦国大名の今川氏によって始められたといいます。というのも、1561年(永禄4年)の今川氏真の書状に「遠州所々新田の事」として8ヶ所の新田開発を行った地名が列記されているとのこと。ちなみに1560年には今川義元は桶狭間で落命しています。

 

この時に低地に広がる大規模な池の悪水を吐かせるための排水路を掘り、運河として川船の往来を可能にし、舟入や新在家の設置、中畦堤の補修、原野谷川に沿った堤防、「古堤」の造成という基盤整備などの造成を行ったとされ、これらの造成が遠江における最古級の「新田開発」の事例だとは初めて知りました。

 

このときの治水に関して築造されたと推定される「古堤」が、今も旧原野谷川流路の左岸に現在も富里地区に1.3kmkm程が残っているそうです。

 

この頃に、12世紀代の浅羽氏が設けた浅羽低地を東西に横断する「中畦堤」も、治水に関して補修され、湿地の悪水を吐かせるための排水路も掘られ運河として川船の往来を盛んにしたとのことです。

 

「海道一の弓取り(国持大名)」と称された今川義元はもちろん尊敬に値する立派な武将だったと思います。ただ嫡男である今川氏真は、私の中では「ダメ武将」というイメージが強かったのですが、「どうする家康」で晩年の活躍ぶりや当時の苦悩を知り、かなり素敵な人だと思っていたところ、遠江での最古級の新田開発にもしかしたら関わっていたとは、「さすが」と驚くばかりです。

 

『馬伏塚(まむしづか)城』

 

さらに同じく旧浅羽町(現浅羽町浅名)に築かれた遠江小笠原氏ゆかりの平山城『馬伏塚(まむしづか)城』(袋井市浅名1156)も、江戸時代中期の絵図では城の周囲は深田と記され、戦国時代には沼地が広がり、天然の要害地に築かれた城といえます。

 

城の端の曲輪は堀との高差があまりなく水堀に面していた船着場と考えられており水上交通の要衝であったともいえそうです。田植えのシーズン真っ只中に⑯『天白神社』と⑰『天伯神社』の参拝のために訪ねたこの地は、穀倉地帯だけあって田んぼに水を引いている状態ではほとんど沼地という感じでした。

 

最後に考察

 

川は遮断性が高く国や県、市などの境の川を「境川」と呼んでいたところが多かったといいます。ちなみに静岡県は遠江、駿河、伊豆の3つの国で成り立っていましたが、その境はすべて「境川」と呼ばれていたそうです。

 

文化の境、方言の境、周波数の境、道祖神の分布の境は富士川、そして言葉のアクセントの境はどこだと思いますか?今回登場した掛川市と袋井市の間を流れる「原野谷川」だそうです。恐るべし原野谷川。

 

冒頭で山田宗睦著の『天白紀行』を引用して、この地での天白神はまさに「治水・農耕」の神だと書きました。

 

中盤では浅名の⑰『天伯神社』『天白神』に伝存する大峰山富士山御山渡り(祝詞) での富士浅間の「祝詞」から、こちらの天白神社の信仰は伊勢→東三河→遠江→諏訪という流れにプラスして富士からの物流や人流によって浅羽に天白信仰が根付いたのでしょうか?と疑問を持ちました。

 

いろいろと調べる中で、「静岡県のなかでも熊野系の寺社が集中しているのが袋井市域である」というクチコミを発見しました。

 

先回の『浅羽荘司館跡』の記事の最後の文章と同じ内容になってしまいますが、その方がおっしゃるには、河口は現在と違って直接遠州灘へはつながらず、横須賀との境、0メートル地帯に溜まって潟湖(ラグーン)を形成し、これを利用した船運の要衝として重要視されたからで、遠江国衙や伊勢、熊野山頂へ税物が運ばれる海の幹線道路であったからとのこと。

 

そこで、実際に袋井の『浅羽氏館跡』や『駿遠線芝駅跡』、さらに『馬伏塚城』を訪ね、浅羽という土地が湿地帯だったことを利用した船運の要衝で、伊勢や熊野山頂へ運ばれる幹線道路だとしたら、『天白紀行』の著者である山田氏が云う「天白は伊勢神宮の神麻続機殿神社の祭神、天ノ白羽神が始元」から、この始元である神が船に乗って直接伊勢から遠江に流布した可能性もあるのでは?と思っているのです。

 

先回の記事にも書きましたように、私の住まいが浜松であることから天白信仰に興味を持ち、手に取った『天白紀行』という本の内容通り+グーグルマップ情報に助けられ、遠江限定の『天白神社』を参拝させていただいて、勝手に考察しています。

 

そんな素人の戯言に付き合っていただいて、さらに正確な情報をくださり、しかもパンフレット、資料を用意していただき、車も停めさせていただいた『袋井市郷土資料館』+『近藤記念館』の皆さまに深く感謝いたします。ありがとうございました。歴史をよりわかりやすくする多数の細かな「ジオラマ」が手作りだと聞いて驚きましたし、「すごい」と思いすごく尊敬しました。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。