こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回は「天白神社」とは少し離れますが、以前3つの『白羽神社』を参拝させていただいた時に興味を持った「織物の歴史」に関連した神社についてです。
遠江での「織物の歴史」を少し勉強したいなと思い続け、先日浜松市中央区豊町(ゆたかちょう)に鎮座する『羽鳥八幡神社』『服織(はたおり)神社』を参拝(2024/03/30)させていただいたのをまとめていきたいと思います。この日は『羽鳥八幡神社』境内の八重桜?が満開で、お花見も楽しませていただき感謝です。
今回はまず全国で最も多いとされる八幡さま『羽鳥八幡神社』を記事にしたいと思います。八幡さまですから、やはり誉田別命、つまり応神天皇をお祀りしています。
『羽鳥八幡神社』は、境内の由緒書きによると、創建不詳の神社で、1990年(平成2年)に再建されたようでまだ新しい社殿が印象的です。江戸時代のものと思われる旧社殿の基礎石と踏み台石が残されているので、もしかしたら創建はそのころかもしれません。
現在日本には神社が8万5千社あり、未登録のものも含めると10万社もあるといわれています。その神社の中でも全国どこでも出会える神社といえば、八幡神社や八幡宮、若宮神社などの八幡信仰に関するもので、現在約44,000社あるといわれています。
大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社とする八幡宮といえば、古代より全国に勧請創建され、主に武家の守護神として、秦氏(はたうじ)が創建し、清和源氏(源頼信以降)は上野國一社八幡宮等の多くの八幡宮を勧請創建したとのこと。( 八幡宮 - Wikipedia )
ここで登場した八幡宮を創建した秦氏とは、「秦」を氏の名とする氏族であり、源氏の祖とされており、源氏の氏神神社でもある八幡宮や稲荷神社を創建し、多くの高度技術を日本へ伝えた一族です。その技術とは農耕・養蚕・機織・銅鉱山・鍛冶等、当時の最先端技術です。( 秦氏 - Wikipedia )
『羽鳥八幡神社』の「羽鳥」はこちらの地名であり、羽鳥⇒服部⇒機織部(はたおりべ)と関連付けられます。機織部とは古代日本において機織りの技能を持つ一族や渡来人から構成された部民のこと、その活動地域のことです。
後に機織部の「ベ」が黙字化し「服部」になったとされ、語源としては羽鳥も同じ意味を持つのですから、「こちらの羽鳥という地名は秦氏との関係があるに決まっているじゃん!」と思ってしまうのは私だけではないでしょう。
姓としての「服部(はっとり)」はもともと漢字表記では「服織部」で、その「織」の字をのちに省略するようになり、「服部」となったとのこと。つまり、羽鳥=機織部=織物を作成する人=古代、中国大陸から朝鮮半島を経由して高度な織物を制作する技術が伝えられた=朝鮮半島から日本に移り住んだ帰化人によって織物技術がもたらされたということです。
こうして織物技術をもたらした多数の帰化人が日本に土着以降、すでに日本に住んでいた日本人と帰化人との婚姻がなされ、日本人と帰化人との子孫が多く誕生したと考えられます。
やがて、古代日本において機織りの技能を持つ一族や渡来人から構成された部民の多くの子孫たちが全国あちこちに広がったと考えれば、遠江の羽鳥というこの地もこうした人々がまとまって住んだ場所ではないかと考えられます。そして何よりも羽鳥付近には中世期に存在したとされる「羽鳥庄」があったと推定されているというじゃないですか?
そして、その時代はいつごろか?と考えることで、神社創建の時期もわかってきそうです。実は、その時代を考えるうえで重要な材料が、『羽鳥八幡神社』の南側にある「一の鳥居」前を東西に走る道路を挟んだ場所に残っています。その名も『蛭子森古墳』です。
『蛭子森古墳』は、浜松市指定遺跡(1962年7月14日指定)で、平野部に築かれた古墳時代後期の横穴式石室(片袖式)の古墳です。浜松市内で知られる約1700基の古墳の内、9割以上は横穴式石室を埋葬施設としており、横穴式石室の内部からは、死者が身につけていた装身具のほか、武器や馬具類、供えられた土器などの副葬品が出土するそうです。
『蛭子森古墳』の出土品は須恵器や土師器のほかに金環や勾玉といった装身具、太刀や鉄鏃といった武器、そして馬具など200点以上。 装身具や太刀は在室、土器類や鉄鏃は主に袖部周辺から出土。
石室以外では前庭部(玄室と外部を結ぶ通路の外側)から馬具の一部と数点の須恵器が出土しているが、これらはもともと石室の中にあったものが持ち出されたものと考えられる。
(浜松情BOOKより)
ちなみに、この『蛭子森古墳』の出土品の中では、鳥をかたどった装飾つまみが付いた須恵器のふたが珍しいそうです。
古墳時代から奈良時代にかけての古墳は、単なる墓所ではなく、弥生時代から続く祭祀の伝統が古墳に取り込まれ、祭祀の場としての機能を持っていたと考えられているようです。古墳時代後半(6世紀半ば)には仏教が伝来していますし。
平安時代以降、神仏習合の現象が起きたことで、古墳と神社、仏教までが複雑に絡み合うようになり、逆に祭祀面では神仏隔離の思想もあったと聞きます。ここから時代が下るにつれ、例えば白山神社のように古墳の上に神社が建てられることが多くなっていったようです。
このように古墳と神社の関連性を総合して考えると、古墳時代後期の横穴式石室の蛭子森古墳の近くに鎮座する『羽鳥八幡神社』の創始は、平安時代以降江戸時代初期ごろだったかもしれないと素人は想像して楽しんでいます。

羽鳥八幡神社
鎮座地:浜松市中央区豊町2174
《アクセス》
電車・バス:遠鉄電車[浜北駅]から徒歩約30分、
遠鉄バス[笠井上町バス停]から徒歩約4分
車:東名高速道路[浜松IC]から約10分
駐車場:豊町羽鳥公会堂に停めさせていただきました
御朱印:不明
由緒
創建年代不詳。江戸時代、3代将軍徳川家光公の寛永元年(1624)年より14代家茂公に至るまで240余年の間、禄高米五石の朱印を受け奉祀された。特に8代将軍吉宗公の祈願成就につき享保4(1793)年9月自ら社殿を修復され、その棟札と御朱印の写しは現存している。


羽鳥八幡神社
鎮座地 浜松市豊町羽鳥二一七四番地
祭神 誉田別命(応神天皇)
例大祭 八月十四日 十五日
例中祭 四季折折
境内地 九七二平方米
参道 一七一平方米
木造平屋
屋根 本殿 拝殿 瓦葺
幣殿 銅板葺
本殿 一六・二〇平方米
幣殿・神饌所 一七・四四平方米
拝殿 三二・四〇平方米
回廊 一七・〇〇平方米
計 八三・〇四平方米。
付帯設置 神社社標 灯籠 鳥居 駒犬由緒
創立は不詳である
当社は江戸時代にて三代将軍家光公の寛永元年(一六二四)一月二十四日から十四代家茂公に至るまで二百四十年余の間禄高米五石一斗の御朱印を戴いて奉祀せられる。特に八代将軍吉宗公に祈願成就につき享保四年(一七一九)正月及び寛政五年(一七九三)九月自ら修復せられ、その棟札と御朱印の写を望存している
当時の社は木造杉板葺で本殿と雨除で五三拝であった。以後本殿と拝殿合せて木造瓦葺九.五坪に造改築せられている 当社は幾多歴史的変遷を経自然に耐えて〇に老朽化が目立ち〇〇として再建機運が生まれ氏子崇敬者の議を経て造営に向って一致協力して平成元年(一九八九)十月一日着工し平成二年(一九九〇)七月三十一日神社付帯の社標、灯篭、鳥居、狛犬を奉納して、平成二年(一九九〇)八月十四日竣工奉〇祭を執行する
八幡神社を守護神として祭り敬い恵〇感謝して・・・
当社は霊験あらたかにして農耕、学芸、家内和敬、交通安全祈願の神様である。
(境内由緒書きより)
※石碑に刻まれた文字のため、読めなかったところもあります。すいません。
御祭神
誉田別命(ほんだわけのみこと/応神天皇)
かつては戦の神として武運長久を祈り、源家を始め、様々な武将たちが困難な時代に心のよりどころとしてお祀りされてきました。 現在も、地域の方や崇敬者の方達から守り神としてそして、安産や厄除け開運のご利益があるとされ親しまれ大切にお祀りされ続けています。
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さっそくお参りしていきましょう
駐車場がなかったので、豊町羽鳥公会堂に車を停めさせていただいて、『一の鳥居』から右側に運送会社、左側に公民館の敷地がある間のまっすぐな参道を進めます。


一の鳥居


手水舎


狛犬


台座だけはかつてからあったものでしょうか?ちょっと質感が違っていました。こちらの阿吽の狛犬の口は鮮やかな朱で彩られています。朱に塗るのは魔よけの意味があると聞きます。
このように派手な巻き毛や口の中が朱で塗られているような特徴の狛犬は、「岡崎型」という大正時代以降に愛知県岡崎市の石工によってつくられたものがあるようで、全国にも多く置かれているそうです。
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拝殿


本殿


実はこの『羽鳥八幡神社』の鎮座地である豊町には『服織神社』(浜松市中央区豊町2501)が、こちらから650m、歩いて約9分、車で2分の距離で真南にあたる場所に鎮座しています。
服織神社(はたおりじんじゃ)
『服織神社』と書いて「はたおりじんじゃ」と読むこちらの神社は、奈良時代の708年に出雲国から神様を勧請して造られたと伝わり、平安時代の延喜式神名帳に所載の旧式内社の古社です。
ご祭神は織物をつかさどる神様の天穂日命と、機織りの機械の神様である建御名方命。神社名から、さらに織物をつかさどる神様と機織りの機械の神様をお祀りしていることなどから、『羽鳥八幡神社』の鎮座地である豊町が古来機織りが盛んだったのでは?と想像できます。
『羽鳥八幡神社』の南側にある「一の鳥居」前を東西に走る道路を挟んだ場所に残って『蛭子森古墳』についてくわしく見ていきましょう。
蛭子森古墳
住所:浜松市中央区豊町2184-1
駐車場はありません。




蛭子森古墳は平野部に築かれた内部に横穴式石室(片袖式)が構築された古墳です。築造年代は6世紀後半(古墳時代後期)で、石室の形態から、天竜川平野左岸との関係が深い豪族の墓と推定されます。
浜松市指定史跡(1962年7月14日指定)で、1959年(昭和34年)土取り作業中に石室の奥壁が発見されました。
浜松市内で知られる約1700基の古墳の内、9割以上は横穴式石室が構築された埋葬施設とされており、横穴式石室は小型の古墳に用いられることが多いそうです。
一般的に横穴式石室の内部からは、死者が身につけていた装身具のほか、武器や馬具類、供えられた土器などの副葬品が出土するとのこと。
こちらの蛭子森古墳では、須恵器や土師器のほかに金環や勾玉といった装身具、太刀や鉄鏃といった武器、そして馬具など200点以上が出土し、水鳥の装飾が付く須恵器の壷は珍しく、全国的に注目されています。装身具や太刀は在室、土器類や鉄鏃は主に袖部周辺から出土したとのこと。
出土した遺物の多くは7世紀前半に作られたと考えられますが、蛭子森古墳が築造された年代は、石室の形状や作り方から6世紀後葉と推定され、出土した遺物は後から葬られた人のために副葬されたものと考えられています。
蛭子森古墳
蛭子森古墳は、内部に横穴式石室が構築された直径24m、高さ現3.2mの円墳です。天竜川平野の中央部に立地する数少ない古墳で、1959年に土取作業中に発見され、1962年に発掘調査が実施されました。
横穴式石室は片袖式で、全長が10.6m、棺を納めた玄室が5.2mの大きさです。副葬品には大刀や鉄鏃(てつぞく)などの武器類、轡(くつわ)などの馬具類、勾玉(まがたま)や金環などの装身具、 須恵器(すえき)や土師器(はじき)などの土器類があります。水鳥の装飾が付く須恵器の壷は珍しく、全国的に注目されています。築造年代は6世紀後半で、石室の形態から、天竜川平野左岸との関係が深い豪族の墓と推定されます。
昭和37年7月14日 指定
浜松市教育委員会
(古墳内説明書きより)
築かれた当時の円墳の高さ4.5mほどあったそうですが、現在北東側が半分以上削られ、高さも3.2mくらいとなっています。
石室の全長は10.6m、玄室の長さ5.2m・最大幅1.6m、羨道の長さ5.4m・最大幅1.0m。玄室から入り口を見て、右側に袖部がある片袖型の横穴式石室。築造年代は6世紀後半、石室の形から、葬られた人は天竜川平野左岸と強い関係を持っていた豪族(有力者)と推定されます。
羨門石の辺りには円礫が詰められており、人が入れないように封鎖されていた。奥壁には鏡石が用いられておらず、2石を横位に置いたものであり、発見時、この上にさらに1枚の石が乗っていた。玄室の床一面には円礫が敷き詰められていたが、奥壁に接した部分には板石片が多く確認された。さらに西側の壁の奥には厚さ5cmの板石が立てられ、東側に向かって51cm突出しており、板石片とともに石棺をなしていた可能性が高い。
石棺をもつ石室は、天竜川以東には見られるものの、以西ではこの蛭子森古墳に限られる。
参照元:蛭子森古墳 | 浜松情報BOOK
興味深いことに、静岡県静岡市葵区の羽鳥久住谷川の近くに、こちらと同じ神社名の『羽鳥八幡神社』が鎮座しています。何かしら関係があるのかしら?と思い、ちょっとだけ調べてみました。機会があったら参拝させていただきたい神社になりました。
『羽鳥八幡神社』(静岡)
鎮座地:静岡市葵区羽鳥本町26-1
1626年(寛延3年5月)創立された神社で、明治8年2月村社に列格し、旧除地高三石六斗を有したとされます。社地は有名な藁科川の小島「木枯森」と呼ばれ、全山は県名勝指定地となっているようです。 また別名を「木枯神社」というとのこと、きっとこちらで毎年行われる「神輿渡し」からこう呼ばれているのでしょう。
境内には天明7年3月伊勢人本居宣長撰文の碑が境内に現存しているそうです。『駿河國新風土記』によると、こちらの神社のことを「牧谷村の氏神なり周囲百間ばかりの岩山にして古木繁茂し山上に祠あり」と記しているとのこと。
ご祭神は浜松市の『羽鳥八幡神社』と同じ譽田別命ですから、やはり何かしらの関連があるのでは?と勘ぐってしまいます。やはり毎年行われる『神輿渡し』の内容が気になります。
神輿渡し
静岡市のこちらの『羽鳥八幡神社』では毎年、成人男子によって “ 神輿渡し ” が行われるそうです。地域の男子約20人が神輿を担ぎ、町内を練り歩いた後、藁科川の中州にある『木枯森(こがらしのもり) 』を目指すといいます。
かつて『木枯森』に置かれていたというご神体である鎌倉時代作の「阿弥陀如来像」ですが、藁科川の増水時には参拝できなくなるということで、羽鳥八幡神社に移すことになったとのことで、ご神体である「阿弥陀如来像」を年に1度『木枯森』に戻す「本家帰り(里帰り)」 を行うことが習わしとなったそうです。
蓼科川の中州にある小高い森が『木枯森』ですから、羽鳥八幡神社を出発したお神輿は川沿いに森を目指し、蓼科川の流れにも負けず渡り切り、森の下流側の階段を上って神殿(木枯八幡神社)に到着。しめやかに神事が行われ1年ぶりの「本家帰り」が無事行われた後、神輿は帰路につきます。
また、この木枯森には大蛇の伝説も残されています。大蛇をモチーフにした伝説は各地に多く残されています。もちろん浜松の岩水寺・有玉神社・白華寺・椎ヶ脇神社に残されている坂上田村麻呂将軍の「赤蛇伝説」も遠州ではよく知られています。
『木枯森』には大蛇の伝説
神である大蛇との間に子供を生んだ娘に父親が怒り、その子どもを川に流してしまいました。娘は子どもを追いかけましたが、この辺りで別れ別れになってしまい嘆き悲しんだ娘が子に焦がれた場所として「木枯森(こがらしのもり)」と呼ばれるようになったとさ。
最後に、鎮座地の「羽鳥」付近には中世期に存在したとされる「羽鳥庄」があったと推定されていると聞きました。中世とは古代と近世の間にあたり、日本では鎌倉幕府の成立から江戸時代の始まりまでを指し、12世紀の末から16世紀終わりまでですよね。
羽鳥庄
旧羽鳥村は、現在の豊町・豊西町・恒武町(つねたけちょう)・常光町(じようこうちょう)で、恒武村の北、豊田川流域に位置します。当時は豊田郡に属し、堤防に沿い細長かったそうで、中世には一帯に羽鳥庄が成立していたとあります。
そして、羽鳥村という地名は、ここ浜松市旧長上郡・豊田郡地区羽鳥村をはじめ、
静岡市旧安倍郡地区羽鳥村、神奈川県藤沢市羽鳥村、千葉県佐倉市羽鳥村、福島県岩瀬郡天栄村羽鳥村、茨城県真壁郡真壁町羽鳥村、茨城県東茨城郡美野里町羽鳥村と7つもあることがわかりました。なんとなくですが秦氏に関係している気がしますが、詳しくは次回調べたたいと思っています。
参照元:コトバンク [ 辞書・百科事典・各種データベースを一度に検索 ]
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最後に
愛読書の『天白紀行』山田宗睦著では、天白の起源を伊勢神宮の神麻続機殿神社の祭神「天ノ白羽神」に求めるとされています。
遠江の天白神社巡りをさせていただいていますが、何しろ神社毎のご祭神がバラバラなのが気になっています。そこで、「天ノ白羽神」=「長白羽神」ならば、機織、紡績に強い神徳のある神とされます。
こうなると、遠江での「織物の歴史」を知りたい!となるわけでして、今回は浜松市中央区豊町に鎮座する『羽鳥八幡神社』『服織神社』を参拝させていただき、まず八幡さまである『羽鳥八幡神社』を記事にしました。
境内の由緒書きによると、創建不詳の神社で、1990年(平成2年)に再建されたようです。江戸時代のものと思われる旧社殿の基礎石と踏み台石が残されているので、もしかしたら創建はそのころ?
秦氏とは、源氏の氏神神社でもある八幡宮や稲荷神社を創建し、多くの高度技術を日本へ伝えた一族で、その技術の中に養蚕があります。『羽鳥八幡神社』の「羽鳥」はこちらの地名であり、羽鳥⇒服部⇒機織部と関連付けられます。後に機織部の「ベ」が黙字化し「服部」になったとされ、語源としては羽鳥も同じ意味を持つとのこと、ここからも秦氏との関連を強く感じます。
古代、中国大陸から朝鮮半島を経由して日本に移り住んだ帰化人によって織物技術がもたらされたということです。つまり移り住んだ土地の一つが遠江の羽鳥(現在の浜松市中央区豊町周辺)だったのでしょう。
こうして織物技術をもたらした多数の帰化人が日本に土着以降、すでに日本に住んでいた日本人と帰化人との婚姻がなされ、日本人と帰化人との子孫が多く誕生したと考えられます。この子孫たちが全国あちこちに広がったと考えれば、遠江の羽鳥というこの地もこうした人々がまとまって住んだ場所ではないかと考えられます。
何よりも羽鳥付近には中世期に存在したとされる「羽鳥庄」があったと推定されていますし、調べたら羽鳥村というのは全国に7カ所もあったことがわかりました。その時代はいつごろか?その時が神社創始の時期にならないでしょうか?
①羽鳥庄、②古墳時代後期の横穴式石室の『蛭子森古墳』、③境内に残された江戸時代のものと思われる旧社殿の基礎石と踏み台石、④平安時代以降、神仏習合の現象が起きたことで、古墳と神社、仏教までが複雑に絡み合うようになり、逆に祭祀面では神仏隔離の思想もあったと聞きます。ここから時代が下るにつれ、例えば白山神社のように古墳の上に神社が建てられることが多くなっていった。
①~④のように古墳と神社の関連性や土地の歴史などを総合して考えると、『羽鳥八幡神社』の創始は、平安時代以降江戸時代初期ごろだったかもしれないのでは?
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。