sannigoのアラ還日記

趣味の神社巡りを記録しています。

遠江の天白神社巡り⑲磐田市岩井に鎮座する『鹿島神社』境内社『天白社』

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の謎多き天白信仰を探る神社巡り⑲では、トンボで知られる桶ヶ沼(おけがやぬま)近くの磐田市岩井に鎮座する『鹿島神社』をお参り(2025/4/28)させていただきました。岩井地区の氏神様です。

 

天白神社でもないのになぜ?と思われるでしょう。実はこちらの『鹿島神社』の境内社が天白社だと山田宗睦氏が著した『天白紀行』P207に記されているからです。

 

ただし、事前にネットで調べてみてもすべてが新築されたお社ということくらいしか情報がなかったので、訪ねることに少し躊躇しましたが、こちらの鹿島神社の鎮座地の磐田市岩井は、磐田原台地東縁にある平地性淡水池沼で日本にいるトンボの種類の約⅓が生息が確認されている日本一のトンボの生息地である「桶ヶ沼」の近くだったことがポイントでした。

 

天白信仰の神は治水と農耕の神ですから、もしかしたらこの辺りが沼や池の多い湿地だった可能性もあるのではと思い訪れたのですが、帰宅してから周辺環境を調べたらすごい歴史ある地域で、鎮座地である磐田市岩井では甑塚(こしきづか)古墳が発見されているのです(立ち入りは御遠慮ください)。

 

甑塚古墳は、古墳時代後期にあたる6世紀初め頃に磐田市内で最初に横穴式石室を採用した古墳です。石室内には石棺が置かれ、その内外から多数の土器や金属製品が出土したほか、埴輪も出土したといいます。

 

その埴輪ですが、実は2024年8月に磐田市教委から「盾持ち人埴輪(たてまちびとはにわ)」だと確認されたと発表しているのです。新聞記事によると”畿内ヤマト王権の影響を示す、複数の線で半円を描いた文様があり、この文様の付いた同埴輪の確認は、静岡を含む東海4県で初めてで、担当者は「磐田に当時、ヤマト王権に近い相当な有力者がいた可能性を示す」と話しているそうです。

 

石室内から埴輪が出土したのは全国的にも大変珍しい例とのこと。また、金属製品には金銅装(こんどうそう/銅に金メッキを施したもの)の馬具などがあり、当時の県西部地方で最も有力な首長の墓と考えられているとか。

 

そんな歴史の深い土地に鎮座する『鹿島神社』の創建は、平安時代初期の807年(大同2年)と伝えられています。桓武天皇の勅命により、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に戦勝を祈願して創建したとされています。

 

茶畑の中の小さな丘に鎮座する、まだ新築されたばかりのような『鹿島神社』のこと、鎮座地磐田市岩井のことなどをくわしく調べて、天白社が鎮座している理由などもわかればいいなと思っています。

 

磐田市岩井に鎮座する『鹿島神社』境内社『天白社』

 

 

鹿島神社 

 

 


鎮座地:静岡県磐田市岩井1434-5

《アクセス》

 

電車・バス:JR[磐田駅]から徒歩約24分
      「三ケ野バス停」から徒歩約6分

車:東名高速道路「袋井IC」から「鹿島神社」まで 2.3km

駐車場:なし 鶴ヶ池南駐車場を利用しました。桶ヶ谷沼の🄿も利用できます

御朱印:いただける日があるそうです

 

ご由緒

 

鹿島神社の創建は、平安時代初期の807年(大同2年)と伝えられています。桓武天皇の勅命により、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に戦勝を祈願して創建したとされており、ご祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)です。(ただ、磐田市岩井には2つの『鹿島神社』が鎮座しているため、どちらの神社のご祭神のことを記したのかは不明です)

 

鹿島神社の例祭は、毎年10月15日に行われます。例祭では、神輿渡御や獅子舞、太鼓などの奉納が行われます。近くを流れる川のそばから平成10年ごろこちらに移って来たそうで、境内社の「天白社」は拝殿左側にあります。

 

御祭神

 

武甕槌神(たけみかづちのみこと)、武勇の神様として知られます

(ただ、磐田市岩井には2つの『鹿島神社』が鎮座しているため、どちらの神社のご祭神のことを記したのかは不明です)

 

ご利益


五穀豊穣、無病息災、厄除け、開運招福などです。

 

たたきごぼう

 

「たたきごぼう」は、岩井地区の氏神である鹿島神社の祭礼の供物の一つだそうです。数人が並んで茹でたごぼうをまな板に載せ、すりこ木で一斉にたたきほぐす姿が毎年TVで放映され、広く知られるようになったそうです。

 

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お参りしていきましょう

 

鶴ヶ池南駐車場(磐田市岩井1346-2 付近)から約7分のんびり歩くと小高い丘の上に『鹿島神社』が鎮座しています。鶴ヶ池は源頼朝が兄である朝長の供養のために黄金の札をつけた鶴を放った池と伝わる池で、晴れていたらもっとすてきな風景が撮れたはずですが。

 

鶴ヶ池の風景(曇っていて残念)

 

階段と鳥居

 

階段を上ると鳥居が見えます

 

境内・手水鉢

 

㊧広い境内 ㊨手水舎

 

広い境内で小高い丘の上のため茶畑の風景がすばらしい!境内はつつじで囲まれていてGW前の時期なら満開のつつじが楽しめます。桜の時期なら桜の花も楽しめるそうです。

 

拝殿・扁額

 

㊧拝殿 ㊨扁額

 

摂社・境内社

 

摂社・境内社9社、右から3番目『天白社』

 

摂社・境内社9社は『鹿島神社』拝殿の左奥にあり。4社+5社と前後2つに分かれています。天白社は㊨の右から2番目のお社です。

 

天白社

 

『鹿島神社』の境内社「天白社」

 

『鹿島神社』の境内社『天白社』の創建やご祭神などのついての情報は得られませんでしたが、こちらの「天白社」から一番近い天白社は、袋井市木原に鎮座する『許禰神社』(木原権現社)の境内社「天白神社」(約2.1km/徒歩28分)になると思われます。

 

やはり、この辺りは南北に広がる磐田原台地の東部の崖付近で低地ですから、かなりの湿地帯であっただろうと考えられます。やはりこちらの天白も「治水、農耕の神」として崇められていたのではないかと想像できます。

 

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磐田郡から小笠郡にかけての『天白』

 

『天白紀行』には”遠江の磐田郡から小笠郡にかけては、いまでも天白がよく保存されている地域である。”と書かれています。

 

実際に天白神社を巡ってみて、遠江に関しては現在の掛川市、菊川市、袋井市、磐田市に多く鎮座しているなと感じます。つまり『天白紀行』の著者である山田氏のおっしゃる通りで、この地区には「よく保存されている」のです。

 

逆にこの文章から、実は保存されていない地区も多くあることを想像させ、開発が著しいスピードで達成された市街地に関しては、明治時代末期におこなわれた神社合祀(神社の合併政策)の影響で「天白」が姿を隠しているのだろうと感じました。

 

ちなみに、出版当時の「磐田郡」とは、竜洋町、豊田町、福田(ふくで)町、豊岡村、浅羽町、佐久間町、龍山村、水窪町で構成されていました。2005年(平成17年)には、竜洋町、豊田町、福田町、豊岡村は磐田市と合併、浅羽町は袋井市と合併し、少し遅れて佐久間町、龍山村、水窪町が浜松市い編入し磐田郡は消滅しています。

 

同じく出版当時の「小笠郡」は、現在の掛川市、菊川市の全域、御前崎市の大部分(白羽・御前崎・港を除く)、袋井市の一部(岡崎・山崎)、周智郡森町の一部(嵯塚)でした。小笠郡もまた2005年(平成17年)4月に消滅しています。

 

鎮座地磐田市とは?

 

黒曜石の石器や貝塚が発掘されており、石器時代、縄文時代より人々が生活していたと考えられており、銚子塚古墳附小銚子塚古墳、御厨古墳群など古墳が多く存在しています。それらの規模から、当時から現在の磐田市がこの地方の中心地であったことが示されています。

 

参照元:磐田市 - Wikipedia

 

磐田市岩井はどんな地区?

 

2つの『鹿島神社』

 

静岡県の西部、天竜川の左岸(東側)に位置します。市域の中央部は磐田原台地が南北に広がり、台地を中央を分断するように南北に今之浦川が流れており、台地の東西は崖になっているため、西隣の浜松市・東隣の袋井市に隣接する区域は低地になっています。

 

この岩井という地区では、古墳時代後期にあたる6世紀初め頃に磐田市内で最初に横穴式石室を採用した古墳『甑塚古墳』が発見されています。この『甑塚古墳』すぐ近くにも、表題と同じ名前の『鹿取神社』が鎮座しています。

 

鹿取神社

 

㊧鹿取神社の境内 ㊨鳥居

 

㊧拝殿 ㊨本殿

 

同じ岩井地区に2つの『鹿取神社』が鎮座しているのですが、こちらも創建やご祭神についての詳細は不明です。そして、こちらの『鹿取神社』のすぐ近くで『甑塚(こしきづか)古墳』が発見されているのです。

 

甑塚(こしきづか)古墳

 

位置的には表題の『鹿島神社』から南西へ約2km(徒歩で約30分)、R1[岩井IC]から南へ600m(徒歩で約7分)ほどの位置になるようですが、グーグルマップにも記載がないのは整理作業中で立ち入りができないからだと思っていましたが、調べていてわかりました。甑塚古墳がある場所とその周囲は民有地のため、見学はご遠慮くださいとのことでした。

 

6世紀初頭(約1500年前)に、桶ヶ谷沼の南にある小高い山頂にも数基の古墳が作られました。このうちの一基である4号墳が「甑塚古墳」です。

 

この甑塚古墳は遠江で最も早く畿内型の「横穴式石室」を取り入れた古墳で、墳丘径が約27mの円墳で、石室は全長9m・玄室長さ6m・幅3mほどの片袖式。石室規模は、静岡県内では最大規模らしいです。

 

玄室の中央に板石を組み合わせた箱式石棺が置かれ、金銅製の馬具・鏡・挂甲・鉄鏃・直刀・須恵器・土師器など多数の高貴な副葬品が出土していることから、遠江地域の大首長に連なる者と考えられる「いわたの王(きみ)」の墓と考えられているとのことで、中には遠江最後の首長墓だと考えられていると書かれた記事もありました。

 

6世紀初頭(約1500年前/古墳時代後期)に築造された甑塚古墳ですが、6世紀といえば古墳の構造や規模に大きな変化が現れた時期で、これまでのように権威を示すための大型の前方後円墳の築造は終わり急速に小型になった時期です。

 

埋葬施設もそれまでの木棺直葬や粘土槨に替わって、横穴式石室が一般に用いられるようになり、須恵器などの容器類を多量に副葬するという風習が日本に広がっていった時期になるようです。

 

この横穴式石室は、墓室の横に入り縁があり外からの出入りが可能で、次々と遺体を埋葬することができ、須恵器などの埋葬が盛んにおこなわれるようになったとのことで、死に対する考え方も大きく変わり、葬送儀礼の転換を伴う大きな変革があった時期に築造されたという甑塚古墳、これからの調査の結果が気になります。

 

また、こちらの古墳からは、鈴のある馬飾り・ハート形馬飾りや剣菱形杏葉とF字形鏡板付轡(くつわ)が埋葬されていたことから、5世紀にはすでに馬に乗っていたことがわかります。

 

「盾持ち人埴輪(たてもちびとはにわ)」

 

磐田埋蔵文化財センターに展示されている別の埴輪

 

実は昨年8月にこちらの『甑塚古墳』から出土していた埴輪(はにわ)が、「盾持ち人埴輪(たてもちびとはにわ)」だと確認したというニュースが静岡県内を走りました。

 

「盾持ち人埴輪」には、畿内ヤマト王権の影響を示す、複数の線で半円を描いた文様があり、この文様の付いた埴輪の確認が静岡を含む東海4県で初めてだったということで、担当者は「磐田に当時、ヤマト王権に近い相当な有力者がいた可能性を示す」と話したとされます。

 

2024年8月の静岡新聞の記事に「盾持ち人埴輪」のことが載っていたので、ここで紹介しておきたいと思います。

 

磐田市教委は8月30日、市東部の「甑塚(こしきづか)古墳」から出土していた埴輪(はにわ)が、「盾(たて)持ち人(びと)埴輪(はにわ)」だと確認したと発表した。畿内ヤマト王権の影響を示す、複数の線で半円を描いた文様があり、この文様の付いた同埴輪の確認は、静岡を含む東海4県で初めて。担当者は「磐田に当時、ヤマト王権に近い相当な有力者がいた可能性を示す」と話す。
同市教委によると、盾持ち人埴輪は、被葬者を守る魔よけとして古墳の入り口や周りに置かれた。福島から鹿児島まで全国約120の古墳で見つかり、県内では伊豆の国市で出土。これらの多くには、ノコギリの歯のようなギザギザの文様が多くみられるという。
今回の埴輪は盾の表面に、3本の線で描かれた半円の文様があり、ヤマト王権のあった奈良県など近畿地方で見つかる埴輪の文様と似る。文様の付け方をじかに学ぶため、王権と密に交流したとみられるという。
甑塚古墳は古墳時代後期(6世紀初めごろ)の、首長を葬った直径26メートルの円墳。米を蒸す道具・甑を伏せたような形をしていることにちなむ。この埴輪は1959年の発掘調査で出土。有力者を葬った石室内で、盾(縦63センチ、横41センチ)に覆いかぶさるように人形の胴(縦82センチ、横30センチ)が乗った状態で見つかっていた。割れていたため、長い間、別々の埴輪と考えられていた。
 約3千点の出土品整理を2019年度から進める中、接合部が一致するなど二つで一体との可能性が浮上。昨年度、専門業者の手を借りて復元し一体だったことを確認した。(勝間田秀樹)

(静岡新聞)

 

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最後に

 

今回の『天白神社巡り』⑲では、トンボで知られる桶ヶ沼(おけがやぬま)近くの磐田市岩井地区の氏神様『鹿島神社』をお参り(2025/4/28)させていただきました。

 

もちろん、こちらの神社の境内社に『天白社』が鎮座していると愛読書の『天白紀行』山田宗睦著に記載があったからですが、やはりご祭神や創建時期についてなどの情報を得られませんでした。

 

『天白紀行』には”遠江の磐田郡から小笠郡にかけては、いまでも天白がよく保存されている地域である。”と書かれています。ということは、遠江の磐田郡から小笠郡にかけては「天白」が多く信仰されていたともとれます。

 

この辺りは、遠州灘に注ぐ天竜川・太田川・今之浦川などの影響で湿地帯であった地域、磐田原台地の崖付近のため湿地だったり、小笠山は地形が複雑で幾筋もの尾根や谷が入り組んでいるため湿地帯が多かったりします。「治水、農耕の神」である「天白」に崇敬が集まるのは当然の事ではないでしょうか?

 

さらに、こちらの『鹿取神社』の創建は、平安時代初期の807年(大同2年)と伝えられ、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に戦勝を祈願して創建という由緒正しき古社であることを思えば、明治時代末期の「神社合祀(神社の合併政策)」の影響で「天白」がその姿を大きい傘の下に隠しているのだろうと感じました。

 

しかも、すぐ近くの『甑塚古墳』は古墳時代後期(6世紀初めごろ)の、ヤマト王権に近い相当な有力者を葬った直径26メートルの円墳。米を蒸す道具・甑を伏せたような形をしていることにちなんで名づけられたとのこと。こちらも歴史が深い!

 

さらに、奈良県平群町にも甑塚古墳があるらしく、聖徳太子にまつわる古墳や、古い寺社が残っているとのこと。こちらの甑塚古墳の地名は「平群町越木塚」で漢字こそ違いますが、同じ「こしきづか」ということからも、かなり古い時代から人の営みがあった場所であることがわかります。また近くには、延喜式式明帳に記載された由緒正しき「石床(いわゆか)神社」が鎮座しており、元々巨石を祭神としていたとのことですから「磐座信仰」と思われます。

 

これは古い!ヤマト王権って!聖徳太子って!ということで、石器時代、縄文時代より人々が生活していたと考えられている磐田市岩井に鎮座する『鹿島神社』の境内社「天白社」の諸々を想像してみて楽しかったです。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。