sannigoのアラ還日記

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出世の街浜松『家康の散歩道』~城内・城下ルート~【浜松城編】

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

家康公ゆかりの地 出世の街浜松『家康の散歩道』~城内・城下ルート~。今回は浜松城です。

 

徳川家康が青壮年期の17年間を過ごした浜松城のようす[写真AC]

 

 

浜松城 アクセスと駐車場 入場料など

 

☑場所 静岡県浜松市中区元城町100-2

 

《アクセス》

 

・遠鉄バス

 バスターミナル(1)乗り場発のすべてのバス

 「市役所前」🚏下車→徒歩約6分

・マイカー

 浜松ICより約30分

 浜松西ICより約30分

 浜松浜北ICより約40分

 

《入場と駐車場》

 

-浜松城公園-

 

入場料:無料 

浜松城公園駐車場

ご利用時間:8:00~21:30

休日:ー

利用料金:入庫から最初の90分まで無料

     90分を超える分については30分ごとに100円加算

     土・日・祝日は上限520円(当日限り)

     

-浜松城-

 

浜松城入場料金:大人(高校生以上)200円(天守門・天守閣共通)※小中学生は無料

開館時間:午前8:30~午後4:30

休館日:12月29日~30日・31日

駐車所:浜松城公園駐車場利用

 

※現在、浜松城天守閣は外装改修工事中です。2022年12月末までの予定で、天守閣まわりに足場が組まれていますので通行の際にはご注意ください。

 

浜松城の歴史

 

今年は、1570年(元亀元年)に徳川家康が引間城(浜松市中区元城町 現在の元城町東照宮とその周辺)を改修し、「浜松城」と名前を改めてから452年になります。

 

織田信長と同盟を結んだ家康は、1868年(永禄11年)、三河(愛知県東部)から遠江(静岡県西部)に勢力を伸ばしました。

 

三河と遠江の2カ国を領地とした家康は、それまでの居城の岡崎城(現在の愛知県岡崎市)を息子の信康に譲り、遠江に本拠地を移すことにしました。

 

家康は、最初、遠江の国府の所在地で政治や商業の中心地であった見付(現在の磐田市見付)に城を築こうとしました。いつの日か武田信玄と戦うことを考えると、背後に天竜川が流れる地形は「背水の陣」になって逃げ場がなくなることや信長の援軍が駆けつけにくいことなどから、浜松に築城することにしたといわれています。

 

家康は、引間城を西に広げ、三方原台地の縁の階段状の地形を利用して浜松城を築きました。西側の一番高い所から東に本丸、二の丸などを配置し、周りに堀や土塁を巡らした東向きの城です。

 

家康は駿府城(現在の静岡市)に移るまでの17年間を浜松城で過ごしました。

 

【石垣】

 

1590年(天正18年)豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴が城主になると、石垣や天守を築きました。

 

石垣は「野面積み」というあまり加工していない自然の石を巧みに積み上げる技法が用いられ、高さが5mを超えるところもありました。石材は、大草山や根本山など浜名湖周辺から佐鳴湖まで船を使って運ばれました。

 

浜松城の石垣は400年以上の時を経て、当時の面影を伝えているのです。

 

【浜松城の石垣 野面(のづら)積み】

 

浜松城の石垣は、家康が豊臣方の大名らに命じていわゆる公儀普請で築いた名古屋城の石垣と同じで、自然石を上下に組み合わせて積み上げる野面積みです。

 

表面にすき間があり、一見崩れやすそうに見えますが、奥が深く内側に小石や砂利を詰めてあるため、水はけもよく堅固です。

 

石垣に使われた石は、浜松市内の大草山、根本山、湖西市地和田産の珪岩で、浜名湖や佐鳴湖など水路を使って運ばれました。江戸時代初期以前まではよくこの方法が用いられ、現存する石垣としては、彦根城、竹田城、そして安土城にも用いられていたといわれています。

 

【天守】

 

今、私たちが見ている天守は、1958年(昭和33年)に建てられたコンクリート製の模擬天守です。3層3階、地下1階の約200平方メートルの広さですが、実際に建てられた天守は270平方メートルほどあったそうです。

 

2014年(平成26年)天竜杉を使って、高さ9.4m、幅11m、奥行き5mの天守門が復元されました。門の上にある櫓には武器や食料を保管し、城を攻めてくる敵を弓矢や鉄砲で迎え撃てるようになっていました。

 

引用元:中日新聞 浜松歴史のとびら99

 

 

【天守台地下にある井戸】

 

城にとって重要なのが、水。浜松市史によると、浜松城には天守台の穴蔵、天守曲輪の理門そば、本丸に各1、二の丸に3、作左曲輪に4、計10本の井戸、清水曲輪にわき水があったといいます。

 

天守台の井戸は、再建の時に残し今の天守閣の地下室にあります。直径は1.3m、深さ1mほどで、底は砂利や砕石を敷き詰めています。もちろん、今は水がありません。戦国時代、城の水利は極秘だったため、浜松城の場合も資料がなく、詳しいことはわかりません。

 

【曲輪】

 

曲輪(くるわ)とは、城やとりでを石や土で囲んだところです。

 

浜松城には、天守曲輪の他、清水・西端城作左の3つの曲輪がありました。作左曲輪の由来は、譜代家臣の本田作左衛門重次が構築したからといわれています。

 

【浜松築城を作った三人、木原大念仏】

 

浜松築城を家康から命じられたのは、倉橋宗三郎(普請奉行)と木原吉次、小川家次(ともに惣奉行)の3人で、このうち吉次が中心で、440石に出世し徳川家の大工頭になっています。

 

吉次ら一族が住んだと伝わる袋井市木原に、建築関係者の信仰を集めていた許禰(こね)神社(木原権現社)があります。

 

1578年(天正6年)8月、高天神城(大東町)から徳川軍の様子を探りにきた武田勝頼の家臣・笹田源吾は、この地で村人達に討ち取られてしまいました。

 

その後。村には疫病が流行り、言語の霊のたたりではないかと言われるようになりました。村人は、笹田源吾の墓を建て、その前で行った供養祭が木原念仏の始まりと伝えられています。

 

木原大念仏は、1981年(昭和56年)に袋井市指定無形民族文化財に指定されました。毎年8月13日・14日の2日間、新盆の家をまわり行われます。

 

-木原大念仏 発祥の地-

 

JR袋井駅から西。磐田からR1を袋井市方向に進むと、磐田バイパスとの分岐点でバイパスと合流せずに県道413号(旧東海道)を進むとおよそ1kmで『木原』交差点に出ます。

この木原交差点を北に入り込むと「夢舞台東海道」という案内標識があり、ここに『木原大念仏発祥の地』と書かれています。

 

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【出世城】

 

-出世城と呼ばれた浜松城-

 

家康が天下統一を果たし、駿府に入城した後、浜松城は主に家康ゆかりの譜代大名が城主となりました。

 

概ね五万石前後で、浜松藩政300年の間に、再任を含め、25代の城主が誕生し、老中に5人、大坂城代2人、京都所司代2人。寺社奉行に4人(兼任含む)が登用され、「はま城は 出世城なり 初松魚(はつがつお)」(松島十湖)の句も残されています。

 

特に有名な城主は、天保の改革で知られる、水野忠邦。唐津藩主時代に昇格のため、願い出て浜松藩主となり、頭角をあらわし、後に老中となったといわれています。

 

先ほど登場した郷土の廃人松島十湖の俳句「はま松は 出世城なり 初松男(はつがつお)」をご存知でしたか?

 

待ちに待った初ガツオの季節がやってくるうれしさと、歴代の浜松城主が活きの良い初ガツオのように出世していった様子を重ね合わせて詠んだ句です。

 

浜松城が「出世城」と呼ばれるようになった1つ目の理由は、徳川家康の出世です。

 

家康は引間城を改修して浜松城を築城した初代城主です。家康は29歳から45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。

 

三河(愛知県東武)と遠江(静岡県西部)の二カ国を治める大名から、駿河(静岡県中部)を得て三カ国、その後、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)を加えて五カ国の大名になりました。

 

浜松在城中はすべてが順調というわけではなく、生涯最大の敗戦といわれる三方ヶ原の合戦も経験しました。駿府城を経て、江戸幕府初代将軍として天下人に出生していきました。

 

二つ目の理由は、江戸時代になってからのことです。浜松城に入った大名の多くが出世したからです。「神君(しんくん・家康公の事)ゆかりの城」浜松城は、幕府の重要な役職を担う大名の登竜門として位置づけられました。

 

江戸時代を通じて、浜松城は、関ヶ原の戦い以前から徳川家の家臣であった譜代大名の苦情になりました。歴代の浜松城の多くは、老中をはじめ、大坂城代、京都所司代、寺社奉行などの要職に就きました。浜松城主になれば幕府で出世する可能性が高くなる「出世城」というわけです。

 

天保の改革を行った水野忠邦は、幕府の要職に就きたいと願い、家来に反対されながらも自ら進んで浜松城主になったといわれています。大坂城代、京都所司代と順調に昇進し、老中首座に上り詰めました。

 

「出世城」浜松城を築城した家康の遺訓として伝わる次の言葉は、コロナ禍を過ごす私たちに貴重な示唆を与えてくれます。

 

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。

 

堪忍は無事長久(ぶじちょうく)の基、怒りは敵と思え。勝つことばかり知りて、負くことを知らざれば害その身にいたる。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。

引用元:浜松歴史のとびら121

 

三方ヶ原の戦い 総崩れ家康軍 城の門開ける策

 

三方ヶ原の戦いは、元亀3年(1573年)1月25日の出来事といわれています。詳細は分からないことが多いものの伝承の一つをご紹介します。

 

甲斐(今の山梨県)の武田信玄軍は遠江(今の静岡県西部)に攻めてきました。

 

信玄軍は一言坂(磐田市)、二俣城(浜松市天竜区)の戦いで勝利すると、浜松城(浜松市中区)の近くを通り過ぎ、三方原(浜松市北区)へ軍を進めました。

 

多勢に無勢で勝ち目もなく、城に立てこもるよに進言した家来に、浜松城の城主・徳川家康は、「武将として、自分の領地を通るものを、黙って見逃しては一生後悔する」と声をあらげ、信玄軍を追いかけ、戦いを挑みました。

 

浜松の地では珍しく雪が降る中、戦いが始まりました。家康軍が三方原台地に着くと、信玄軍が戦う準備を整えて待ち構えていました。家康軍は、またたく間に総崩れになりました。

 

家康は「もはやこれまで」と敵陣に切り込もうとすると、家来が駆け寄り、「大将が死に急いではいけませぬ。城に戻り、ぜひとも再起を!」と叫びながら、家康の乗っている馬をたたきました。

 

家康は命からがら城に逃げ帰ると、家来は急いで、門を閉じ、まもりを固めようとしました。そんな家来を目にした家康は、「門は開けておけ!戻ってくる家来が必ずいる。攻めてくる敵も、門が開いていれば何か策があるにちがいないと思うはず」と声を掛けました。

 

家来は、城門を開け放つとあちこちにかがり火をたき、大太鼓を鳴らし続けました。すると、どうしたことでしょう。浜松城にせまった信玄軍は、不審に思い、引き返していきました。

 

この時、大太鼓を打ち鳴らしたのは徳川四天王の酒井忠次といわれています。「酒井の太鼓」と呼ばれる太鼓は、明治時代になると磐田市にある見付小学校(旧見付学校)に寄贈されました。太鼓は5階の楼上に据えられ、1922年(大正11年)まで毎日時を伝えるため、打ち鳴らされました。太鼓は今も旧見付学校に展示されています。

引用元:浜松 歴史のとびら

 

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鎧掛松

 

☑場所 浜松市中区

浜松城公園の南、市役所の西側に、鎧掛松(浜松市中区元城町)があります。

 

説明板には「徳川家康が三方ヶ原の戦いから城に帰り、大きな松の木陰で休んだとされ、そのときに鎧を脱いでその松に掛けたとの伝承が残ることから、鎧掛松と呼ばれています。


「この松は1981年(昭和56年)に元城町の人々の手により植樹された三代目であり、初代は浜松城内の堀のそばにあったとされます」と書かれています。

 

三方ヶ原の戦いは、真冬の雪が降る中で戦われたといわれています。

 

武田信玄に大敗し家康は何とか戦場を抜け出しました。逃げ帰る途中でも、家康の身代わりに何人もの家臣が討ち死にしました。家康は命からがら駆け戻ったのです。

 

心身ともに疲れ果てた家康は、やっとの思いで城門をくぐることができました、鎧を松に掛け、真冬にもかかわらず全身から吹き出す汗をぬぐいながら一息ついたのでしょうか?

 

◯城の近くに残された地名

 

城の近くには。負け戦で戻った家康にまつわる地名がいくつも残っています。

 

・馬冷(うまひやし)

 

鎧掛松から100mほど西に、松城緑地(まちじょうりょくち)という小さな公園(浜松市中区松城町)があります。この公園には以前「馬冷(うまひやし)」と書かれた標識が立っていました。

 

江戸時代の地図を見ると、この辺りに二つの池があったことがわかります。

 

武将を乗せ、戦場を駆け抜けてきた馬の疲労も大変なものです。家康は愛馬をいたわるために、清水の流れを止めて造った池で「馬の体を冷やしてやれ」と家臣に命じたと伝えられています。

 

こうしてできた「馬冷」の地名は、今でも松城町の字として残っています。

 

・下垂町(しもだれまち)

 

市役所の東側に、尾張帳があります。この町は大正時代の終わりごろまで「下垂町(しもだれまち)」といわれていました。

 

戦いに敗れた家康が城に戻る際、今の尾張町の辺りを通ったそうです。家康の兜の緒が解けかけて、垂れていました。

 

気づいた家来が「御殿様、兜の緒が垂れております」と声を掛けましたが、家康は直すこともなく、城に戻りました。

 

そんな出来事から、この辺りを「下垂町」と名付けました。由来のある町名ですが、下垂という言葉があまり良くないのではという声が聞かれるようになり、尾張町にしたといわれています。

引用元:浜松歴史のとびら106

 

唯一浜松生まれの将軍徳川秀忠

 

中区常盤町にある2代将軍徳川秀忠公誕生の井戸

 

中区利町(とぎまち)のある五社神社は秀忠の産土神(うぶすながみ)です

 

-法度整備 幕府の基礎固め-

 

江戸幕府二代将軍徳川秀忠(1579年~1632年)は、歴代の将軍の中で唯一浜松で生まれました。幼名は長丸で、元服の時、豊臣秀吉から一字もらって秀忠と名乗りました。

 

秀忠が生まれた場所は、早馬(浜松市中区早馬町)と浜松城内(中区元城町)の二つの説があります。

 

早馬説は「徳川秀忠公誕生の井戸」(中区常盤町)の説明板で紹介されています。西郷局(さいごうのつぼね)が秀忠を産んだ時、産湯にこの辺りにあった井戸水が使われたという伝承をもとに作ったそうです。実際の井戸はこの場所より西に約50mのところで、家康の在城時に下屋敷があったそうです。

 

城内説の根拠は「浜松御在城記」に「天正七年四月七日秀忠様の御童名長丸様、今の御城内にて御誕生」と書かれていることです。江戸時代のいくつかの浜松城絵図にも本丸と二の丸の間に「御誕生場」が記されています。

 

2011年(平成23年)の発掘調査で御誕生場と伝わる場所に井戸が確認されました。内部から秀忠が生まれた十世紀後半を中心とした時期の陶磁器が出土しています。

 

今、中区利町(とぎまち)のある五社神社は秀忠の産土神(うぶすながみ)です。

 

秀忠が生まれた時、五社神社は浜松城内にありました。大坂の陣の時、秀忠は将軍として江戸に住んでいましたが、戦勝祈願と成就の報告に二度参拝した記録が残っています。

 

秀忠は家康の三男です。長男の信康は、秀忠が生まれた数カ月後に織田信長に疑いを持たれて自害しました。次男の秀康は豊臣秀吉の養子になりました。

 

秀忠が5歳になった正月、浜松城で父家康と並んで家臣の祝いのあいさつを受けました。この頃から後継者として扱われていたようです。

 

秀忠の人柄がうかがえる逸話があります。子どもの頃、書物を呼んでいると、突然暴れ牛が部屋に飛び込んできました。

 

家臣は大慌てで牛を追い出そうとしますが、秀忠は気にせず学び続けました。騒ぎが収まると「父上に見つかるとうるさいので部屋を片付けておけ」とか真意声をかけ、何事もなかったかのように立ち去ったそうです。

 

将軍になった秀忠は、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)や武家諸法度などの整備・定着を図り、江戸幕府の基礎を固めました。

 

大御所として将軍秀忠を見守った家康は、守成の時代の主君としてふさわしいと頼もしく思いました。

 

死期を悟った家康が「わしの命もわずかしか持たない。この後、天下はどうなると思うか」と問うと、秀忠は「乱れます」と答えました。「それさえわかっていれば問題なし」と家康は安心しました。

引用元:浜松歴史のとびら

 

まとめ

 

今回は、出世の街浜松『家康の散歩道』~城内・城下ルート~【浜松城編】ということで、浜松城に関する情報をまとめています。

 

ほとんどが中日新聞に現在も掲載中の『浜松 歴史のとびら』からの引用になります。自身でルートを回ってみた結果、どんな資料よりもこの新聞に掲載された記事がわかりやすく、これ以上の内容は書けない!ということで申し訳ありませんがこのような形になりました。

 

浜松城は、熊本城や犬山城ほどの城としての魅力はないかもしれません。ただ、戦の世を終わらせ天下を統一、江戸幕府を開いてからの200年以上の平和な時代の礎を築いた徳川家康の築いた城と思って見ると、また違った魅力あふれる城とかんじるのではないでしょうか?

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。