sannigoのアラ還日記

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家康の伝承が残る樹齢1000年を迎える雲立の楠、『浜松八幡宮』に浜松の名前の起源があるの?

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

いよいよGWが近づいてきました。5月5日には『どうする家康』のキャストが登場する「家康公騎馬武者行列」が初開催されるので楽しみで仕方ありません。

 

家康のご長男信康くんところの二俣の皆さんも行列に参加するみたいだし、お宿の予約が盛況で街中盛り上がってるみたいですよ。申込期間は4月21日(金)まで、忘れずに応募しましょ!

 

ということで、今回の徳川家康ゆかりの神社は、浜松市中心地にありながら緑あふれる森に鎮座する『浜松八幡宮』です。

 

家康が三方ヶ原の戦いでの敗走時に、逃げ込み身を隠した『雲立の楠(くもだてのくす)』が今も残る神社で、浜松城の鬼門を護る神社でもあります。

 

また、浜松の名前の起源とされる伝承が残される「ざざんざの松」が植えられています。

 

浜松市中心地にありながら緑あふれる森に鎮座する『浜松八幡宮』の鳥居

 

 

浜松八幡宮

 

境内は広く、緑あふれる森の中に佇む神社です。拝殿の前には家康が逃げ込んだという伝承が残る大きな『雲立の楠』があります。

 

家康公も、浜松城の鬼門に位置しているこちらのお宮を、鬼門鎮護、開運招福、武運長久の神として、度々参拝したと伝わります。

 

 

場所:浜松市中区八幡町2

 

《アクセス》


電車・バス:JR[浜松駅]より徒歩約20分

      JR[浜松駅]下車、遠鉄バス[早出行き]→[八幡駅]下車徒歩3分

             遠鉄電車[八幡駅]下車徒歩約5分

車:東名高速道路[浜松西IC]より15分

  東名高速道路[浜松IC]より14分

駐車場:あります。(約30台)

休業日:年中無休

営業時間:8:30~16:00

御朱印:いただけます。参道の左側に社務所があります。まずは御朱印をお願いして参拝のあと受け取りました。

 

浜松八幡宮の御朱印

 

浜松八幡宮は仁徳天皇の御代(3世紀〜4世紀ごろ)に創建されました。遠淡海(遠江)の鎮静のため、海運の神「玉依比売命(タマヨリビメ)」を許部(ごべ)の里(現在の南区小沢渡町付近/おざわたりちょう)に祀り、平安時代の延喜式(平安時代中期に編算された格式)には許部神社(ごべじんじゃ)と記されています。

 

938年(天慶元年)に現在地へと遷座され、1051年(永承6年)に通称八幡太郎で有名な源義家によって八幡二柱が勧請され、多くの武家庶民の崇敬を集めたそうです。

 

その後、1570年(元亀元年)、徳川家康が29歳のときに居城を岡崎城から浜松城へ移します。浜松城からほど近い『浜松八幡宮』は、武家の守護神、浜松城の鬼門鎮守・鬼門降伏の氏神として、さらに開運招福、武運長久を祈って浜松八幡宮を度々参詣に訪れたと伝わります。

 

現在『雲立の楠』と呼ばれる大きな楠ですが、以前、この楠は『御旗の楠』と呼ばれていたのをご存知でしょうか?平安時代の終わり頃、源義家が詠んだ和歌が由来と伝わっています。

 

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『御旗の楠』

 

平安時代の終わりごろ、通称八幡太郎で有名な源義家が陸奥(東北地方)へ出陣する途中、この八幡宮にこもり武運を祈りました。

 

義家は楠の下に旗を立て、「契りあらば 帰り来るまで 石清水(いわしみず) かけてぞ祝う 浜松の里」の和歌を詠んだそうです。

 

この出来事以来、楠は「御旗の楠」と呼ばれるようになりました。

 

※源義家は、平安時代後期の武将です。源頼義の長男にあたり、八幡太郎の通称で知られています。後に鎌管幕府を開いた源頼朝や、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先にあたります。『前九年の役』に出陣し、その奮戦によって一躍武勇の命を天下に広めます。

 

「御旗の楠」が「雲立の楠」と呼ばれるようになったのは、三方ヶ原の戦いでの出来事に由来します。

 

『雲立の楠』

 

びっくりするほど大きな楠『雲立の楠』

 

1572年(元亀3年)、三方ヶ原にて家康にとって人生最大の負け戦、戦国最強といわれる武田信玄に敗れた『三方ヶ原の戦い』が起きます。

 

命からがら浜松城へ逃げ帰る途中、家康は浜松八幡宮に逃れます。八幡宮の境内にある「雲立楠」の洞穴に身を潜めていたところ、武田勢の捜索を逃れたと伝わります。

 

この時、身を潜めた楠より突然雲が立ち上がり神霊が白馬に跨って浜松城へ飛び立ったのを見て躍進した。という伝説があります。この日からこの楠は「雲立の楠」と呼ばれるようになり、家康も躍進したといわれています。

 

この「雲立の楠」は現在も浜松八幡宮の境内に現存していますので、その樹齢1000年を迎えるびっくりするほど太くて大きな御神木の貫禄をその目でご覧になってみることをおすすめします。

 

根本から2つに別れたかなり大きめの迫力ある御神木で、もちろん家康が隠れたという洞穴も見ることができます。

 

「雲立の楠」の大きさは、根回り15m、枝張り四方25m、樹高15mほどで、幹の下部に大きな空洞がある県指定天然記念物です。なんとなく神の領域らしい空気も感じられるパワースポットです。

 

また、家康がこの楠の洞穴に隠れた時、馬のしっぽが外から少し見えていたそうです。気づいた村人が駆け寄り、「御殿様、大変です。馬のしっぽが見えています」と隠してくれました。家康は、命の恩人の村人に「白尾」の姓を授けたという言い伝えも残っています。

 

合戦の後、家康は『浜松八幡宮』を徳川家の代々の祈願書と定め、旗、弓、神馬を奉納し、家康が駿府(現在の静岡市)に移ってからも、名代に参拝させたといわれています。

 

参照元:中日新聞「浜松歴史のとびら」〈128〉


「浜松」という地名は、もともとは濱津に由来し、中世には濱松と呼ばれるようになったというものや、家康が浜松城に入城する際に「引間城」から「浜松城」に改めた時から呼ばれるようになったとか、まあいろいろあるわけです。

 

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そこで、今回ご紹介している『浜松八幡宮』に植えられている「颯々の松」が「浜松」という地名の由来だ!というお話はいかがでしょう。

 

颯々の松(ざざんざのまつ)

 

「浜松名称起源颯々の松」と刻まれた石碑と共に松が植えられています

 

浜松八幡宮の鳥居をくぐったすぐの所に、「浜松名称起源颯々の松」と刻まれた石碑と共に松が植えられています。

 

「浜松」の名前の起源は、938年(天慶元年)の『八幡宮』の遷座に由来するという伝承があります。

 

現在の地に移る前の『八幡宮』の基になる神社は、古くから今の浜松市南区小沢渡町の辺りで、海の神様を祭っていました。

 

ある日のこと、神様のご意思によって白いキツネがおきなの姿になって現れました。おきなは、松を携えながら神様の先導を務めます。

 

現れたおきなが、今の『浜松八幡宮』の地に導き、この地は良い所と松を植え、神様は遷座したと伝えられているのです。

 

植えられた松の木は浜から持ってきたからと「浜の松」と名付けられました。この「浜の松」が転じて、いつしか八幡宮のある辺りの里を「浜松」と呼ぶようになったといわれているそうなんです。

 

また、1432年(永享4年)室町幕府六大将軍足利義教が富士山を見ようと下向した途中、浜松で休まれた時のこと。

 

松の下でうたげを開いていると、風が吹き、松の枝葉が揺れ、何かしら音がしました。将軍は風に吹かれた松の音を「浜松の音はざざんざ」と謡い、「浜の松」を「颯々の松」と呼ぶようになったそうです。

 

他にも「颯々の松」には、室町時代後期の画家狩野元信にまつわる話も残されています。

 

画家の狩野元信は、有名なざざんざの松を描こうと浜松宿に宿を取りました。初日、ざざんざの松の枝ぶりに感心し、念入りに下書きを描いて宿に戻りました。

 

一息ついた後、描いた絵を見直すと不思議な感じがしました。「あれほど気を配って描いたのに、どうにもしっくりこない。この絵は、私が見たざざんざの松ではない」。

 

翌朝、松のもとに出かけると、下絵とは全く違う枝ぶりの松が立っていました。元信は前の日以上に注意深く松を見つめ、書き直しました。

 

ところが、さらに翌朝続きを描こうとすると、やはり、松の枝ぶりは自分の絵とまるで違っています。こうしたことが何日か続きました。

 

「ざざんざの松の魅力を私の力で描くのは無理だ。お姫様が華やかな着物を替えるように枝ぶりが日々変わり、新しい魅力が生まれる。」元信はそうつぶやくと、描くのを諦めたとのこと。

 

このように多くの話が残る「ざんざざの松」は、1945年(昭和20年)の空襲で焼けてしまうなど代替わりを何度か繰り返し、現在八幡宮の境内に植えられている松は、5代目の松だそうです。

 

参照元:中日新聞 遠州歴史のとびら〈168〉

 

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浜松歴史のとびら

 

最後に

 

若き徳川家康と、戦後最強の武将武田信玄との戦い『三方ヶ原の戦い』には、本当にいくつもの伝承が残されています。

 

代表的なものでは、現在も地名として残る「銭取」や「小豆餅」。さらに今回登場した「雲立の楠」、犀ヶ崖古戦場の伝承から残る地名「布引」など、浜松市博物館が冊子にまとめてくれた地元伝承だけでも138話あるのです。

 

家康から贈られたと伝わる名字の人も多く暮らしている浜松、たとえば「一瀬」さんは敵情視察中の家康が、武田軍に見つかって逃げる家康の行く手を阻む「天竜川」、ところが家康を背負って一つの瀬を渡ってくれた農民のおかげで助かた家康。一つの瀬を渡らせてくれたことに感謝して「一瀬(いっせ)」という名字をあたえています。

 

これだけの伝承が残っている理由の一つは家康が親しみやすく、頼りになる武将だったからではないのかしら?と思っています。現在資料として残る家臣の書いた日記では、家康が40歳を迎える頃まで「家康が・・・」とか「家康は・・・」と呼び捨てで書いていたと聞きます。

 

まさに現在放送中の『どうする家康』で描かれている徳川家康そのもの、つまりは何ごとも「どうしたええんじゃ」と悩み、家臣に相談して、答えを出す。そんな頼りないけど信頼できるヤツだったと思うのです。

 

400年以上も前ではあるけれど、そんな若き家康がこの『浜松八幡宮』に武運を掛けて何度も祈願のため訪れたと思うと、樹齢1000年の楠だってかわいく感じてしまいます。

 

結婚式をこちらの『浜松八幡宮』で挙げるご夫婦も多いそうで、私が参拝にでかけた日もすてきな和装のご夫婦が鳥居をくぐり記念撮影をされていました。きっと素敵な未来が待っていることでしょう。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。