sannigoのアラ還日記

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今も三方ヶ原合戦を伝える、戦没者を葬った「精鎮塚」が 残されている『三寶山本乗寺』

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回の徳川家康ゆかりの寺は、三方ヶ原合戦の戦没者の墓が残されている『三寶山本乗寺』です。

 

境内には「精鎮塚」と記された1573年(元亀3年)に行なわれた『三方ヶ原の合戦』の戦没者を葬った墓が残されており、合戦後に当時の有力者により建立されたと伝わります。

 

『三寶山本乗寺』のきれいな本堂

 

 

『三寶山本乗寺』

 

日蓮宗(総本山・身延山久遠寺)1895年(明治28年)泰妙上人開山。

 

三方ヶ原の合戦の戦死者を葬った「精鎮塚」は、元は徳川の本陣の場所と伝えられる「権七」(信号機あり)近くの畑の中にあったといいますが、現在は三方原の一番古い寺である『三寶山本乗寺』の境内に移されています。

 

 

場所:浜松市北区三方原町637

 

《アクセス》

電車・バス:浜松駅よりバス[奥山行き⑮番線]→35分→[三方原]下車徒歩2分  

三方原神社から徒歩で約3分

車:東名高速道路[浜松西IC]から15分

駐車場:あり

 

三方原地区は明治より入殖が進み、地域の安全と繁栄を願い三方原発展の祖・大久保牧太氏、横山義珍氏などの有志と遠州の偉人金原明善※の尽力によって、浜松橋羽・妙恩寺塔中本乗坊を移したことから、本乗寺となったそうです。

 

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遠州の偉人金原明善は、百里園や三方原用水等の三方原発展のためにも尽力され、本乗寺にもたびたび参詣に訪れたといいます。

 

境内には「精鎮塚」と記された1573年1月25日(元亀3年12月22日)に行なわれた『三方ヶ原の合戦』の戦没者の墓が残されています。合戦後に当時の有力者により建立されたと伝わります。

 

合戦後に当時の有力者により建立されたと伝わる『精鎮塚』

 

『精鎮塚』の案内板

 

三方原は、家康公の伝承も多く残っており、家康公最大の敗戦ともいわれ『三方ヶ原の合戦』を人生の教訓とした家康公ゆかりの地です。現在『三方原古戦場碑』は三方原墓園の駐車場端にありますが、戦いが行なわれた場所が特定されていない不思議な合戦でもあります。

 

徳川・武田両軍が布陣した場所は、高柳光寿氏の①祝田坂(ほうださか)説、②鈴木千代松氏の②大谷説、陸軍参謀本部編③小豆餅説の3つがありますが、いずれの場所にも、当時の跡は残っていません。

 

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『三方ヶ原の合戦』は珍しく雪が降った12月22日の夕刻に始まり、2時間弱という短い時間で決着がつき、多数の死者・犠牲者を出した徳川軍は命からがら浜松城に逃げ帰ります。

 

②大谷説によるところの徳川の本陣の場所と伝えられる姫街道「権七」交差点(信号機あり)近く(権七商店の西北200mほどのところ)の畑の中にあった「精鎮塚」を、三方原の一番古い寺である『三寶山本乗寺』の境内に供養のため大正の中頃移設したといいます。本乗寺四代目住職の青島淳雄師がここに移したと伝えられています。

 

青島氏の祖先にあたる長谷川紀伊守正長と、その弟の藤九郎英一が『三方ヶ原の戦い』で戦死しているのが後にわかったそうで、このことからこの「精鎮碑」が三方ヶ原の戦いと関係があるのではないかと推測されるようになったのです。

 

『本乗寺』では現在も、お盆と、戦があった月の12月25日にはそばをお供えする「そば供養」が行なわれています。今も檀信徒・地域住民により供養され、歴史家・歴史愛好家が多く訪れ手を合わせているといいます。

 

また、1922年(大正11年)浜松城内に祀られていた東照宮(元城神社)を迎え村の神社とした家康・秀忠・家光が合祀されている『三方原神社』は、ここから歩いて約3分です。ぜひ!ちょっとだけ足を伸ばして『三方原神社』にも参詣することをおすすめします。

 

※金原明善:1832年7月4日(天保3年6月7日)~1923年(大正12年)1月14日
天竜川流域の堤防事業、治山治水、製材、運送、金融等、遠州(浜松・磐田など)の発展に尽力しました。また出獄者の保護、社会復帰のための学習、道徳教育の更生保護事業を推進し、今日の保護司制度の先駆けとなった人です。
墓所は浜松市東区天龍川町日蓮宗妙恩寺です。

※三方ヶ原合戦:1573年1月25日(元亀3年12月22日)に行なわれました。遠江国敷知郡三方ヶ原(現在の浜松市北区三方ヶ原町付近)で起きた若き徳川家康と戦国最強といわれる武将武田信玄との間で行なわれた戦いです。

 

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最後に

 

浜松市三方原は、マツコの番組で紹介された『じゃがいも』も有名ですが、さすがに『三方ヶ原の戦い』という家康公人生最大の負け戦といわれる戦が行なわれた場所でもあるため、徳川家康の伝承もたくさん残っています。

 

周囲諸国の名家、強大な戦国大名などに囲まれ、戦に次ぐ戦を戦い抜き戦乱の世を生き延び天下人となった徳川家康。

 

若き時代の大きな敗戦『三方ヶ原の合戦』では、戦国時代最強武将といわれる武田信玄から色々なことを学び、のちの人生の教訓としたことで”天下取り”ができたとおっしゃる方もいます。

 

『三方ヶ原の合戦』の戦没者の精鎮塚が残る『三寶山本乗寺』には現在も多くの歴史家や歴史愛好家が手を合わせています。さらに、地元の小学生や幼稚園児もこの本乗寺を訪れ、三方原の歴史を勉強するそうです。

 

もちろん小学校の校歌の歌詞にも「三方ヶ原の戦い」があったり、運動会では武田軍と徳川軍に分かれて城取り合戦もおこなわれていると聞きます。

 

決して古き良き時代とはいえませんが、歴史的な大きな出来事が起きた場所に住むことで、戦(いくさ)の悪いことばかりではなく良いところも学べて人生の勉強になりそうですよね。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。