sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

湖西の『本興寺』は文化財の宝庫、家康最初の側室”西郡局”のお墓もあります

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

湖西市にある文晁寺(ぶんちょうじ)とも呼ばれる『本興寺(ほんこうじ)』はとにかく広くて静かできれい。山門までの参道はまっすぐと伸び、参道脇に植えられたツツジ、公園の桜などのシーズンは、お花見のために訪れる人々も多く賑わいが増えると聞きます。

 

私がこちらを訪れた4月中旬は、まぶしいほどの新緑が陽の光に映えてキラキラしていました。ツツジも暖かすぎる春にGWを待てずに満開でしたし、青もみじには心癒やされまくりでした。今ならくちなしの花が香っているかも!?

 

さらに、文化財の宝庫というだけあって、国の重要文化財の本堂をはじめ、惣門、客殿、大書院、さらに大小の堂宇が木立の中に佇み、たくさんの国・県・市指定の重要な文化財を見ることができました。

 

『本興寺』も、もちろん家康公ゆかりのお寺で、1572年(元亀3年)徳川家康から御朱印地を受け、10万石の格式で遇され、葵の紋を使うことも許されていたようです。

 

特に、歴史の勉強中の私には吉田城から移築されたという『惣門』と『奥書院』が興味深かったです。スッキリとしたイメージで江戸初期の書院造らしい奥書院は、『遠州流庭園』から外観を見ることができ、お庭とのマッチングも素晴らしいと感じました。

 

また、『奥書院』の建物内へは庭園の外廊下から移動できて、展示されている歴史的資料を見ることができるのでおすすめ。

 

ではさっそく、惣門をくぐり、新緑の香りを楽しみながら参道をすすめ奥書院へと。さらに、北原白秋の碑をながめながら、趣たっぷりの本堂へとゆっくり歩いてお参りさせていただきましょう。あとは、遠州流庭園、奥書院が眺められる大書院へ。

 

拝観料を払ってでも見たかった谷文晁(たにぶんちょう)による「紙本水墨四季山水障壁画」(静岡県指定有形文化財)をのんびり眺めたあとは、庭園と右奥の奥書院を眺めながら殿様気分を味わってみては?

 

国の重要文化財の『本興寺』の本堂

 

 

本興寺(ほんこうじ/文晁寺)

 

常雲山本興寺はもと真言宗の寺院で、今からおよそ630年前、1383年(永徳3年)に開山日乗上人(にちじょうしょうにん)により法華宗(ほっけしゅう)に改宗したといわれています。

 

戦国時代には今川氏や徳川氏から寺領を安堵され、1552年(天文21年)9世日礼(にちれい)の代に本堂が再建されました。

 

歴史的に貴重な建築は、国の重要文化財に指定されており、その他にも多くの文化財を所蔵し、現在は法華宗陣門流の本山(総本山本成寺末)となっています。

 

なんと!1572年(元亀3年)徳川家康から御朱印地を受け、10万石の格式で遇され、徳川将軍家の三つ葉葵の使用が許されていました。

 

また、こちらの境内墓地には西郡御前(にしのこおりごぜん)のお墓があります。西郡局は徳川家康の最初の側室で、督姫(播州姫路城主池田輝政正室)の生母になります。

 

西郡局は本興寺の第十世である日梅の姉にあたるそうですから、まさに「家康公ゆかりのお寺」と言えそうです。

 

寺域は2万6千坪に及ぶ広さで三方を山に囲まれ、春には境内の数百本の桜が鮮やかに咲き乱れ、桜のあとのミヤマツツジも見事で、お花見に訪れる人が多くにぎわうと聞きます。

 

梅雨のシーズンなら新緑、特に雨粒が光る青もみじは美しく、ジメッとした暑さに負けないパワーと安らぎをもらえそうです。秋はもちろんモミジ、少しずつ色づく美しい風景には胸踊ります。

 

 

場所:静岡県湖西市鷲津384

 

《アクセス》


電車・バス:JR鷲津駅から徒歩約13分
      JR浜松駅から遠鉄バス[鷲津市役所行き]乗車[本興寺]バス停で下車、徒歩約1分

車:東名高速道路[三ヶ日IC]から25分
  新居関所から約8分
駐車場:あります(無料で広い)
営業時間:9:00~16:00
遠州流庭園:拝観料は大人300円、小人150円(税込)
御朱印:いただけます※遠州流庭園受付(大書院)でいただきました。

 

この階段を登るといよいよ本堂!という瞬間、右は御朱印です。

 

山門(惣門)

 

三河国吉田城から移築された山門(惣門)と、常霊山と書かれた扁額

 

もとは三河国吉田城の城門であったものを、1674年(延宝2年)16世良穏の代に三河吉田藩主久世重之の寄進により、吉田城より移築したもので高麗門(こうらいもん)といわれる形式の門です。

 

改築される前は、上端が薄く下端が厚い板を段状に葺いた段葺き技法の特徴を備えた風格のある門でしたが、移築時に杮葺き(こけらぶき)に改修されました。その後、1725年(享保10年)に現在のような本瓦葺に改修されました。なお、創建時の段葺き屋根の特徴は現在も瓦葺きの下に保存されています。

 湖西市指定有形文化財 昭和59年11月30日指定

 

参道

 

広くて気持ち良い参道と、案内板

 

浜名湖辺から正面の本堂に向かう全長300mに及ぶ参道には、山門に続き四坊の塔頭寺院(たっちゅうじいん/東光院・光明院・玉葉院・長勝院)が両側に配され(江戸末期には八坊)、本堂手前右側に方丈(ほうじょう)があります。

 

1817年(文化14年)29世日壇の代に山門から本堂にかけて石垣普請が行われ1838年(天保9年)31世日融の代に再整備されました。

 

平成の大修理事業の一環として、平成28年に幅員6m、全長140mにわたり完全舗装整備を行ったそうで、なるほど広くて長い、そして美しい参道です。

 

奥書院

 

庭園から少し見えた奥書院

 

もとは三河国吉田城にあった建物で、1674年(延宝2年)16世日穏の代、山門(惣門)とともに本興寺に寄進されたものです。

 

構造は、木造平屋建てで、桁行8間・梁間5間の寄棟(よせむね)造りの茅葺き、桟瓦(さんがわら)葺きの縁側をつけた住宅風書院建築です。創業当初からのものではありません。が、使用されている材料や技法は江戸時代初期の建物様式を遺す建物です。

 

平成24年度から25年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました。

 静岡県指定有形文化財 昭和60年3月19日指定

 

大書院

 

大書院は29世日壇の代の1827年(文政10年)、上段、下段の間取りを持つ公式対面の場所として建立されました。

 

完成の記念として上段の間には、壁面7面、襖4本の両面の計15面に、谷文晁(たにぶんちょう)によって「紙本水墨四季山水障壁画」(静岡県指定有形文化財)が描かれ、このことから本興寺は「文晁寺」とも言われています。

 

文晁は江戸時代後期の画家で、四条派、土佐派、洋風画からも影響を受け、さまざまな様式の作品を残しています。また、田原の渡辺崋山ら門人たちとの人脈の広さは、当時の絵師の中でも際立っていたそうです。

 

そして、下段の間には岸良(かんりょう)の「双竜双珠(そうりゅうぞうじゅ)の図」や杉戸絵が描かれています。

 

緑いっぱいの公園もあります。ちょうどこの頃はツツジの最盛期でした。

 

大書院と参道をはさんで緑いっぱいの公園が広がっています。子どもさんが遊ぶにのにぴったりな公園で、この日も3歳くらいの子が走り回っていました。

 

この公園に何本もの桜の大木があったので、桜のシーズンはさぞやきれいなんでしょう。きっと、ここでお花見されるご近所の方もいらっしゃるのでは?

 

北原白秋の歌碑

 

北原白秋が昭和7年に鷲津に滞在した時に詠んだ歌碑

 

昭和7年に鷲津の観潮楼に滞在したときに、閑静な本興寺の佇まいに心惹かれ、数多くの歌を残しています。

「水の音 ただひとつにぞ きこえける そのほかはなにも 申すことなし」

という作品もそのときのもので、歌碑は本堂の前に建立されています。

 

本堂

 

国指定文化財の茅葺きの本堂と、案内板

 

そっとのぞいた本堂の中のようすと、りっぱな燈籠

 

建物は桁行5間・梁間5間の茅葺きで、大仏様・禅宗様の二様式と、伝統儀式である和様(わよう)を巧みに取り入れ、三様式を折衷した室町時代の特徴をよく遺しています。
 

本尊に本仏釈迦年尼世尊(ほんぶつしゃかむにぜそん)及び、十界勧請の諸尊を祀っています。

 国指定文化財 昭和25年8月29日指定

 

鐘楼

 

美しい鐘楼と、屋根のアップ

 

1674年(延宝2年)17世日観の代、上総国讃岐藩主松平山城守重治(かずさのくにさぬきはんしゅ まつだいらやましろのかみすげはる)夫人の発願により建立されました。入母屋造りの袴腰付き鐘楼で、組物など細部の意匠に技巧的な特徴が見られます。

 

1822年(文政5年)29世日壇の代に再建、1915年(大正4年)38世日受(にちじゅ)の代に修復されました。

 

1942年(昭和17年)、太平洋戦争に伴い梵鐘は供出されましたが、1959年(昭和34年)43世日猷(にちゆう)の代に口径2尺7寸の大梵鐘が再鋳され、落慶法要(らっけいほうよう)が営まれました。

 

客殿

 

1773年(安永2年)に再建された客殿と、案内板

 

客殿は1637年(寛永14年)13世日渕の代に建立され、1773年(安永2年)25世日義の代に再建されました。

 

桁行10間・梁間8間の寄棟造りで、前面に桟瓦葺きの向拝がつき、側面に濡縁が巡らされています。比較的古式な客殿ですが、江戸時代の特徴をよく示しています。

 

平成23年度から24年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました。

 湖西市指定有形文化財 平成9年4月24日指定

 

千仏堂

 

客殿の奥に千仏堂があります。1700年(元禄13年)渡辺越中守婦人の発願にて建立されました。千体仏を安置しています。現在の千仏堂は、1841年(天保12年)再建されたものです。

 

三十番神堂(さんじゅうばんじんどう)

 

1821年(文政4年)に再建され三十番神堂と、扁額

 

番神堂は、日替わりの守護神である三十番神を祀る建物で、1472年(文明4年)5世日暹(にっせん)の代の創建。現在の建物は1821年(文政4年)29世日壇の代に再建されたものです。

 

建物は前舎・後舎にわかれ、前舎は桁行3間・梁間3間の入母屋造で、前方に1間の向拝があります。前舎の背面に接続する後舎は切妻造りで、三十番神を安置した宮殿があります。

 

前舎・後舎とも桟瓦葺きでしたが、平成25年その保存修理工事により茅葺き型鋼板葺きに変更されました。改修前の屋根は、紂王に二つの峰を持つ特殊な瓦を配置し、左右逆方向に瓦を葺くという特徴的なものでした。

 湖西市指定有形文化財 平成24年5月25日指定

 

弁天堂

 

弁財天女が祀られている「弁天堂」と、扁額

 

1700年(元禄3年)19世日芳の代に大檀那渡辺越中守方綱(だいだんなわたなべえっちゅうのかみまさつな/.正綱)夫人の寄進により建立されました。音楽・弁財・財福・智慧の徳がある弁財天女が祀られています。

 

1850年(嘉永3年)32世日宗の代に再建され、京都の岩倉実相院義賢研大僧正(いわくらじっそういんぎけんだいそうじょう)の扁額があります。

 

大黒堂

 

1744年(延享元年)に再建された「大黒堂」と、扁額

 

1684年(貞享元年)17世日観の代の建立で、1744年(延享元年)22世の日禅の代に再建されました。現世安穏、後生善処を願い招福、開運、学問増進の神である大黒天が祀られています。

 

建物は、桁行3間・梁間3間の入母屋造りで、外陣(げじん)の外側には扉や板壁などがなく、吹き抜けになっているのが特徴です。

 祭礼日 正月11日・甲子の日
 御礼・御守の授与あり

 

中門(ちゅうもん)

 

「朱門(あかもん)」といわれるように朱色の「中門」と、扁額

 

大書院玄関に通ずるこの門は「中門」と呼ばれ、主塗りの門であることから「朱門(あかもん)」といわれています。

 

2020年5月~2021年2月の保存修理の際に門の肘木に宝永地震や富士山噴火を記録する墨書きや、「巳ノ四月吉日 本光寺」や「天保十二年丑五月吉日 横山村住人石田政義齢四九歳」とへら書きされた瓦も見つかったそうです。

 

旧来、1686年(貞享3年)2月、17世日観の代に再建され、その後、1707年(宝永4年)の津波、地震、小富士(現宝永山)の噴火による被災後、1708年(宝永5年)8月より、1711年(正徳元年)11月に完工したもので、19世の日芳、20世の日逞の代による建立と判明したそうです。

 

もとは、客殿の正面に建てられていましたが、現在の場所に移されたのは1841年(天保12年)14世日融の代です。

 

形式は薬師門、切妻屋根と称され江戸時代に寺院の門として多く用いられたようです。2020年(令和2年)市指定文化財として解体保存修理が行われました。

 

山号額の大悲院は本興寺の院号になります。1932年(昭和7年)北原白秋が本工事に来られ、

夕早き庫裏のはひりは日たむろと 築地めぐらし朱き中門

を遺されています。

 湖西市指定有形文化財 平成元年5月1日指定

 

遠州流庭園

 

裏山の自然林を借景に配置された「遠州流庭園」

 

裏山の自然林を借景に大書院と奥書院に面して配置された庭園で、この遠江地方の作庭に大きな影響を残した小堀遠江守政一が関わったといわれています。

 

小堀遠州とは、江戸時代初期に徳川家康に仕えた大名で、作庭家としても知られ、小堀遠州が作庭したと伝わる庭は、京都や江戸、駿府、遠江国などに残っています。

 

こちらの庭園の広さは約300坪に及び、蓬莱式池泉観賞式庭園で遠江国に残る遠州三名園のひとつです。

 

背後の自然の山林を借景に深山幽谷の趣を呈し、池中に鶴島、亀島の二島を浮かべ、山畔には枯滝口が築かれ、その左手に三尊石、さらにその左手に須弥山石(しゅみさんせき)が配され、手前には礼拝石が据えられています。

 

庭園の期限は不明ですが、1563年(永禄6年)5月の今川氏真判物に「寺中園林」とあることから、古くから池泉があったことが想像されます。木石の配置も巧妙で、どこからみても美しく感じるつくりになっています。

 

天狗の碁盤

 

本興寺の第十六世の住職だった日隠上人は、非常な碁好きで、しかも強かったそうです。ある日書院の縁側で、独り碁を打っていると天狗が現れて「手合わせを」と言ってきました。

 

やはり天狗は和尚に勝つことができず、悔しさのあまり爪で碁盤の表面を引っ掻いたそうで、今でもこちらに残っているひっかき傷のある碁盤は、寺の宝物として展示されています。

 

また、本興寺には母の愛は強い!と実感できる「子育て飴」の昔ばなしが残されています。この話を知れば、誰もが赤ちゃんを産んで子育てをがんばっているお母さん・お父さんを応援したくなるのでは?

 

本興寺の子育て飴(あめ)

 

昔、昔の話です。
鷲津の村(今の湖西市鷲津のあたり)に、子どもが生まれるのを楽しみに待つ夫婦が住んでいました。

いよいよ出産という時に、運悪く母子ともに亡くなってしまいました。

一人残された夫は、希望が絶望に変わった現実を受け入れられず、取り乱すだけで何もできませんでした。この世でつらい思いをさせてしまった母子ですが、せめてあの世では幸せになってほしいと手厚く埋葬しました。

墓地のすぐ近くに、飴屋が一軒ありました。芋と麦で作った滋養糖という飴が名物のお店です。

「夜分遅く恐れ入ります。滋養糖をお一つください」

夜になると毎日のように若い女の人が滋養糖を買いに来るようになりました。

「今まで見かけなかった女の人が、毎晩飴を買いに来る。どうしたことだろうか」

店の主人は不思議に思いました。ある晩、木になって仕方のない主人は、飴を買った人の後をつけることにしました。

「どこへ行くのかな。この先は墓地しかないはずだ」と思っていると、女の人は墓地の入口の辺りで姿を消してしまいました。

主人は、まるでキツネかタヌキに化かされたのかと思いつつ、墓地に入っていきました。すると、どうしたことでしょう。最近埋めたばかりの墓地の周りに滋養糖の空き袋がいくつも落ちていました。

近くに行くと、赤ちゃんが泣くような声がかすかに聞こえました。主人が急いで墓地を掘り起こすと、中から丸々と太った男の赤ちゃんが見つかりました。

「死んでも死にきれないとはこのことか。命を落とした後もあの女の人は滋養糖でこの子を育てていたのか」

この日を境に、若い女の人が滋養糖を買いに来ることはなくなったそうです。

赤ちゃんが母子を葬った墓地から掘り出されたことを知った夫は、赤ちゃんをとても大切に育てました。

何年か過ぎたある日のことです。夫は、ここまで子どもと一緒に暮らせたのは御仏のおかげと感謝し、母の菩提をとむらわせる思いも込めて、本興寺(湖西市鷲津)に預けることにしました。

この時の子どもが修行を積み重ね、後に本興寺の住職日観聖人(にちかんしょうにん)になったと伝えられています。

 

引用元:遠州歴史のとびら<234>中日新聞

 

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西郡(にしごおり)御前のお墓

 

今回たどり着けなかった「西郡御前のお墓」[パンフレットより]

 

本興寺本殿の右奥に『西郡御前のお墓』があります。なぜ?と思いましたが、西郡局は本興寺の第十世である日梅のお姉さんにあたるそうですから、ご供養されたとしても不思議はありません。

 

大河ドラマ『どうする家康』では、築山御前が自ら「わが夫の側室になってください」とお願いするほど一生懸命で誠実、正室と於大の方からお墨付きをもらえるほど信頼される下女のお葉さんを、北香那さんが「LGBT絡み」で演じて話題になりました。

 

北香那さんは昨年の『鎌倉殿の13人』で源頼家の正室・つつじを演じて注目を集め、今年の大河にも出演されると発表されたときから期待する声が多く挙がっていましたから、あの”初のお床”での面白さは北さんだから出たものかもしれませんね。

 

家康さんにとっては、自身が攻め滅ぼした上ノ郷城主・鵜殿長照(野間口さんのメガネ無しが話題になった)の分家筋にあたる家の娘さん(父親は鵜殿長照の可能性もあるとか)ですから、いつ寝首をかかれてもおかしくない状況です。しかも耳を執拗に攻められたりして(笑)、結局、次女となる督姫(播磨御前、良正院)を産んでくれたお葉を溺愛することになったとか。

 

実際の西郡局は、1590年(天正18年)に家康が江戸に移るとそれに伴い、1606年(慶長11年)に伏見城で逝去したといいます。西郡局は本興寺十世「日梅」の姉と伝わります。

 

家康と西郡局との間に生まれた次女督姫は、あの『督姫毒まんじゅう事件』で知られています。

 

『督姫毒まんじゅう事件』

 

西郡局が生んだ家康の次女徳姫は、織田信長の死後、父家康と北条氏直による天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)の和睦条件の一つとして1583年(天正11年)8月15日、北条氏直の正室として嫁ぎました。

 

氏直との間に2女をもうけますが、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐で戦国大名としての北条氏は滅亡します。この時、氏直は義父の家康の助命嘆願で秀吉により高野山に流されました。

 

督姫は後に赦免された氏直の下へ赴くのですが、翌年の1591年(天正19年)に氏直が死去し、父家康のもとへ戻ります。

 

後の1594年(文禄3年)12月27日、秀吉の肝いりで池田輝政に再び嫁ぎます。督姫と輝政は仲が良かったようで、5男忠継、忠雄、照澄、政綱、輝興(てるおき)と2女をもうけました。

 

輝政は1601年(慶長6年)に姫路城を大改築し、9年後の1609年(慶長14年)に完成した姿が現在の姫路城といわれます。姫路城は平成5年12月に世界文化遺産に登録されました。

 

督姫の一子、忠継が誕生したとき、輝政の長男利勝は16歳、次男政虎は10歳。そこで、忠継を次男とし、政虎を三男とします。その後督姫が生んだ4人の子、政虎は七男になったとのこと。正室の子を側室の子より優先する”ならい”から、年齢的には上の政虎は七男とされたわけです。

 

池田家一族は、姫路52万石、次男・忠継28万石、三男・忠雄6万石、弟・長吉6万石をあわせ、92万石の所領となり、輝政は「西国将軍」「播磨宰相」「姫路宰相」ともいわれます。

 

1613年(慶長18年)1月、輝政が50歳で痛風で亡くなると、督姫は良正院(りょうせいいん)を号します。亡き夫の後は先妻の絲(いと)の息子、利隆(としたか)が継ぐことになりました。

 

督姫が実子の忠継を世継ぎにしようと、「毒入りまんじゅう」で嫡子利隆の毒殺を企てたのに、なんと、その饅頭を大事な忠継が食べて死んでしまうという悲劇が起こります。悲観した督姫も毒をあおって後追い自殺をしたという『督姫毒まんじゅう事件』はドラマや映画にもよく登場します。

 

ただ、1964年(昭和39年)に忠継の墓所移転に伴い骨を鑑定したところ、毒物反応は検知されませんでした。実際に督姫と忠継は1615年(慶長20年)に相次いで亡くなり、翌年6月には利隆も亡くなります。

 

このように3人が連続して亡くなったことから生まれた噂が、『督姫毒まんじゅう事件』として残っているものと考えられます。

 

池田氏の主要人物の不幸が相次ぎ、家中が不安定になり、幕府から因幡国(鳥取県東部)に国替えを命じられ転封となりました。

 

参照元:督姫 - Wikipedia 本興寺パンフレット 寺内の案内板

 

最後に

 

GW前の4月18日にこちらの『本興寺』に車で出かけてみて、まず驚いたのが駐車場の広さでした。

 

これは期待できそう!と本堂に向かうのですが、長い参道の静けさと脇に咲くツツジの綺麗さ、新緑の香りに、お参りする前からすっかり心が洗われたような気分になったのでした。

 

そして、国や県、市の指定文化財の多いこと!茅葺きの本堂が醸し出す雰囲気というか空気が、室町時代なのか江戸時代なのかはわからないけど、ちょんまげ姿の武士がお参りしそうな感じが堪りません。

 

大書院で文晁の絵をしっかとながめ、遠州風庭園も縁側に座りこみのんびりと味わうことができて最高でした。

 

一番楽しみにしたいた「惣門」と「奥書院」、まだ豊橋の吉田城跡に行けてませんがなんとなく気分だけは味わえました。浜松から豊橋は近いので、そのうちに出かける予定です。