sannigoのアラ還日記

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観覧車が目立つ舘山寺遊園地パルパルは『堀江城跡』の地に立つ

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

春休みも終わり、そろそろ給食やお弁当のランチ付きの本格的な授業も始まったと思われる、小学生、中学生諸君。

 

君たちが大好きであろう『浜名湖遊園地パルパル』は、もともとはお城だったことをご存知だろうか?観覧車の下にひっそりと佇む堀江城の案内板に気付いていますか?

 

鎌倉時代に名門大沢家によって築城されたと伝わる『堀江城』は、江戸時代には堀江陣屋と称され高家旗本大沢家の陣屋となった場所です。

 

また、戦国時代の「三方ヶ原の戦い」で、『堀江城』は開戦の鍵を握ったとされます。が、明治の激変に翻弄され第20代・大沢基寿による「万石事件」によって、いよいよ大沢家は没落していきます。

 

小さい頃から遊園地だった場所が、戦国時代には「戦」が行なわれていた『堀江城』の跡地だったとは・・・。

 

しかも、あの家康の長男である悲劇の信康が、自刃する二俣城に移る前にこの堀江城に滞在していたとは!ということで、今回の徳川家康ゆかりの城は『堀江城』、いろいろ調べていますのでお楽しみに!

 

風光明媚な浜名湖で観覧車が一際目立つ舘山寺遊園地パルパル

 

 

堀江城

 

戦国時代の三方ヶ原の戦いで、開戦の鍵を握ったとされる『堀江城』は、現在の浜松市西区舘山寺町堀江にあった城です。江戸時代には堀江陣屋と称され、高家旗本大沢家の陣屋となった場所です。

 

大沢家は中臣鎌足や藤原道長の子孫にあたる名門で、戦国時代、大沢基胤は今川氏が衰退する中でも離反せず、徳川家康の遠江侵攻に抵抗していました。

 

かつての堀江城跡には現在、観覧車が目立つ『浜名湖遊園地パルパル』が立っています。遺構はあまり残されていませんが、観覧車の下に案内板が設置されています。舘山寺温泉バス停にも案内板があります。ホテル九重(すでに廃業)には鬼瓦が展示されていました。

 

 

場所:浜松市西区舘山寺町1891

 

《アクセス》


電車・バス:JR[浜松駅]遠鉄バス[舘山寺温泉行き]に乗り→約45分→[浜名湖パルパル」バス停で下車すぐ

車:東名高速道路[浜松西IC]から15分

  新東名高速道路[浜松いなさIC]から40分

駐車場:あります(800円/日)

 

堀江城の概要

 

『堀江城』は大沢基久が鎌倉時代に築城したと伝えられています。戦国時代も大沢氏が城主でしたが、今川氏の勢力下に入り、宇津山城、浜名城とともに、三河に対する押さえとして機能したお城です。

 

1568年(永禄11年)12月、城主の大沢基胤(おおさわもとたね)は、今川に背くことを潔しとせず、家康の遠江侵攻に際しては対決する姿勢をとりました。

 

1569年(永禄12年)3月12日に 堀江城の支城であり大沢元胤の属将が率いる『堀川城』を徳川家康に滅ぼされ、立てこもった農民も惨殺されます。続いて家康は25日に井伊谷3人衆に命じて元胤がいる堀江城を攻撃させます。

 

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元胤は今川方最後の拠点として激しく防戦したのですが、徳川方への帰順の条件として「本領安堵(その地を本領の所有権をそのまま 認めること)」を約束する誓書を与えられ、結局は和睦する形で降伏しています。以降は徳川軍の配下として従軍し、家臣として各地の戦場を転戦、数々の武功をあげています。

 

徳川家康の嫡男の岡崎二郎信康が二俣城で自刃するのですが、二俣城の前には堀江城にも滞在しています。もともと今川家臣だった大沢元胤と、母親が築山御前で今川の血を引く信康なのですから、堀江城は信康にとって最後の安堵の地だったのかもしれません。

 

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1605年(慶長10年) 近隣に名を轟かせた元胤は、80歳の長寿を全うして他界しました。

 

元胤の子元宿(もといえ)は1550石を与えられ旗本になり、1603年(慶長8年)に高家となり幕末まで続きました。

 

ですが、明治維新に乗じて第20代・大沢基寿(もとすみ)が不正に石直しを申告して大名になろうと画策、一旦は成功したものの、廃藩置県後に不正が発覚して処罰されました。これを「万石事件」と呼びます。

 

堀江藩

 

堀江藩は、明治維新期の短期間、遠江国に存在した藩です。藩庁は遠江国敷知郡の堀江陣屋(現在の浜松市西区舘山寺町)。

 

もともと高家旗本大沢家の知行地(堀江領)でしたが、大政奉還後の1868年(明治元年)に実高が1万石以上あると届け出、明治政府から藩として認められます。

 

1871年(明治4年)の廃藩置県により一度は堀江県(ほりえけん)となるのですが、石高の虚偽申請が発覚して知藩事の処罰に発展しました。

 

大沢家

 

藤原氏の血脈に連なる皇族木寺宮(きでらのみや)の血を引く母を持つ大沢家の第10代・元宿は1588年(天正16年)に従五位下・侍従に叙任されています。

 

関ケ原の戦い後は敷知郡堀江村など6か村で1550石を安堵されています。江戸幕府と朝廷との折衝に当たり、吉良義弥とともに「高家」の職務を務めた最初の人物とみなされています。あの「赤穂浪士の討ち入り」の吉良上野介と同じ職務です。

 

1609年(慶長14年)には従四位下・右近少将、のちの近衛権中将に昇叙。さらに、元宿の子、元定は公家の持明院家の婿養子として同家を相続しています。

 

大沢家はこの地に陣屋を構え、高家旗本として室町から戦国・安土桃山・江戸時代、そして明治の廃藩置県まで収めていました。

 

江戸時代を通して大沢家は高家としてその領地と地位を維持し、領地が変わらなかった家は珍しいと言われてきました。しかし、明治の激変に翻弄されて、いよいよ没落していきます。

 

大沢基寿(おおさわもとすみ)

 

幕末から明治維新の頃の当主である第20代・大沢基寿は、和宮親子内親王降嫁に際してはその築添役を務め、徳川慶喜の大政奉還ではその旨を朝廷に伝奏(てんそう/取次すること)する重責を担っていました。

 

さらに新政府軍の東征に際してその案内役を務めたことにより、新政府から従来どおりの堀江領3550石の知行を許されます。

 

1868年(明治元年)8月に新政府に対して行った検知報告で、敷知郡16村、豊田郡1村、山名郡1村からなる堀江領は実高5485石に過ぎなかったものの、基寿は浜名湖の湖面の一部を「開拓予定地」として架空の新田内高4521石を計上、都合1万6石という虚偽の報告を行いました。

 

新政府は裏付けも取らないで額面通り受理、その結果堀江領は1万石以上の諸侯(大名)になり、同年9月18日に基寿は晴れて堀江藩士として認められました。さらに、華族の身分まで得ることができたのです。

 

版籍奉還で藩から県になり、華族の身分を得て大沢基寿は県知事となりました。この廃藩置県当時現在の静岡県内に存在したのは、韮山県(伊豆国)、静岡県(駿河国と遠江の大部分)と、この堀江県の3県だけでした。

 

表高3550石の高家にすぎない大沢家の取ってつけたような1万6石への石直しは、あまりにも無茶なものでした。

 

そこで新政府が再調査を行ったところ、報告の虚偽が露見してしまいました。同年11月、基寿には士族へ落としたうえ禁錮1年、実際の虚偽申告をおこなった家臣5名は平民へ落としたうえ禁錮1年半という処罰が下ります。

 

また、堀江県は静岡県西部の遠江国部分を分割して新設した浜松県に合併され、大沢家20代約500年にわたるこの地の支配は幕を閉じることになりました。

 

ところが、大沢基寿は明治時代には出版業に携わる一方、1883年(明治16年)頃には東京都下谷区の区会議員も務めていたのです。

 

また、1895年(明治28年)には条野採菊らと共に、廃業していた三遊亭圓朝を招いて円朝会を催していた事でも知られています。

 

引用元:堀江藩を巡る情景 第2弾「万石事件」|we love 浜松〜浜松エンジョイ情報倶楽部〜 堀江藩を巡る情景 第1弾|we love 浜松〜浜松エンジョイ情報倶楽部〜

 

三方ヶ原の戦いで武田が目指したのは堀江城?

 

桜越しに見える徳川家康が築城した『浜松城』

 

三方ヶ原の戦いは1572年(元亀3年)に起きました。武田軍の本隊は駿河方面から遠江に進攻。二俣城(浜松市天竜区)を落とし進軍、浜松城を目指しているかのように見えたのに、途中で進路をくるりと変え、追撃した家康と合戦になったのです。

 

信玄に挑むまでの経緯は、家康の家臣が江戸期にまとめた『三河物語』には、多勢に無勢と家臣が出陣しないよう進言したのですが、家康は「わが屋敷の裏口を踏み破って通ろうとするのに、とがめない者があろうか」と打って出たといいいます。

 

これまでは、同盟を結んでいる織田信長も家臣も籠城を勧めるのに、家康は浜松城を目の前にしてただ通り過ぎていく武田軍に対して「戦わず素通りを許せば遠江国衆らの信頼を失い、武田側になびくのを防ぐためだった」とか「メンツのため」などという見方が主流でした。

 

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他にも出陣した理由には、そんなに信長を怖がっていたかは不明ですが、同盟する織田信長の指揮を得ていたため、やり過ごすことができなかったなどの説もあります。が、愛知県三河方面からの補給や援軍の鍵を握る交通の要所だった『堀江城』(浜松市西区舘山寺町)を奪われる恐れもあったという新しい説が出ています。

 

大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を務めていらっしゃる歴史学者の平山優氏が昨年出版した新著や、さらに昨年末12月4日に浜松市中区の市福祉交流センターで行なわれた『三方ヶ原の戦い450年シンポジウム』で、三方ヶ原で家康が籠城することなく信玄に戦いを挑んだ理由について、信長の家臣が書いた「信長公記」に注目し、「武田軍が三河方面ではなく、浜名湖畔の堀江城に向かおうとして開戦につながった。浜松城の補給ルートを抑えられる懸念があったため」としています。

 

現在の西区村櫛町付近や、湖西市新居町に船関があり、往来する接岸が義務付けられるなど、浜名湖畔にあった堀江城は水運の要衝にあったとされます。三方ヶ原の合戦の前に堀江城主大沢基胤(もとたね)が出した書状には「三方原の交通路を抑えてしまえば、徳川は難儀するだろう」との内容があるとのこと。

 

平山さんは、三方原は海沿いの東海道だけでなく、城近くの本坂道(姫街道)や鳳来寺道(金指街道)などの陸路を抑える拠点でもあったと指摘します。

 

家康は「武田海賊衆」(今川氏真を倒して駿河を領してから、信玄が海上貿易と同じく海に面している北条氏に対抗すべく組織した水軍)により、遠州灘の制海権が危うくなり、大事な要塞堀江城を奪われれば、愛知県三河方面から浜松城への補給ルートが封鎖される恐れ、さらに信長からの援軍にも支障を来す恐れがあり、信玄の狙いを見越して、家康は出撃せざるを得なかったと説明しています。

 

平山さんは、「じつは信玄は浜松の弱点をよく知っていて、封鎖のための準備を着々と進めていたのだろう」と強調、メンツだけではなく、家康にとっての存亡の危機、補給や援軍の問題もあっての出撃だったとしています。

 

他にもNHKBSPの番組では、あの広報浜松にも寄稿されていた過去を持ち、元城町東照宮(引間城跡)の入口に立派な名前入りの石碑、さらに東照宮の二公像の案内文にもサインが入っている磯田先生も、織田信長はどこよりも穀倉地帯に恵まれていたため、同盟する浜松に定期的に穀物を援助していたでしょうから、援軍も然りですが、愛知県三河方面から浜松城への補給ルートが封鎖されることは大変困ることだったでしょう。とおっしゃっています。

 

参照元:中日新聞

 

最後に

 

ただの遊園地だと思っていたのに、こんなにもたくさんの歴史をたどって、今は観覧車が目を引く『舘山寺遊園地パルパル』になっていたとは!?

 

最近あちこちの家康公ゆかりの地を巡って、ようやく気付いたことがあります。それは「ちょっとした山や丘には気をつけろ!もしかしたら、そこは歴史ある戦国時代の史跡が残されているかも」ということ。堀江城もしかり。

 

今回の『堀江城』は鎌倉時代に大沢基久によって築かれ、中臣鎌足や藤原道長の子孫にあたる名門「大沢家」が、この地に陣屋を構え、高家旗本として室町から戦国・安土桃山・江戸時代、そして明治の廃藩置県まで収めていた場所でした。

 

戦国時代は今川氏の勢力下に入り、宇津山城、浜名城とともに、三河に対する押さえとして機能したお城であり、浜名湖畔にあった堀江城は水運の要衝にあったと考えられます。

 

今川氏にとっても、徳川にとっても、また武田氏にとっても『堀江城』は、兵糧、武器などを手に入れるための重要な場所であったがゆえ、争いに巻き込まれたり、大きな戦の要因にもなり得たのでしょう。

 

最終的には、大政奉還の影響により第20代・大沢基寿による「万石事件」が起き、大沢家20代約500年にわたるこの地の支配は幕を閉じることになったわけです。

 

時代の波に翻弄されながらも、徳川家でさえ、1603年の徳川幕府の始まりから1867年まで15代でおよそ265年というのに、20代で約500年もの長い間この地を支配していた大沢家ってすごくない!?ということで、今回はこのへんでおしまい。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。