sannigoのアラ還日記

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『堀川城の戦い』では城兵約千人、『獄門畷』で女子供を含む約700人の首を討った家康

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の『徳川家康ゆかりの地 浜松』は『龍雲寺』に続き、家康だって残忍なこともしてまっせのテーマでお送りしていきます。

 

1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後、今川氏から独立した若き日の家康は、1568年(永禄11年)井伊谷周辺を味方につけ遠江に侵攻しました。

 

浜松市北区細江町周辺は、掛川や堀江と共に家康に激しく抵抗した地域であり、残虐な歴史もいくつか残されています。

 

現在の『堀川城跡』は田園の中にぽっかりと浮かんだ緑の島のように見えますが、「堀川城跡・古戦場」と書かれた石碑と、小さな首塚が一基、その残虐な歴史を伝えています。

 

『獄門畷』と呼ばれる場所は『堀川城跡』から北へ600mほどのところにあり、多くの村人が処刑された場所とされます。女子供を含む約700人もの人々を「獄門畷」の付近(都田川の堤)で首を討ち、その首を小川に沿った土手にさらしたともいわれます。

 

『堀川城の戦い』は、家康の生涯における戦の中で、最も残虐で非情な戦場と伝わっています。

 

約700人が『獄門畷』付近で首を討たれた

 

 

『堀川城跡』

 

現在都田川沿いの田園の中にある『堀川城跡』は、家康が堀川城を徹底的に攻め、立て籠もった城兵や領民を全滅させた城跡です。落城後も敗戦兵を探し出し処罰し、その後も近隣に居住していた反徳川の住民を捕らえ、その捕虜の首を都田川の土手に並べたという残虐な話が言い伝えられています。

 

 

場所:浜松市北区細江町5261

 

《アクセス》

バス・電車:JR浜松駅バスターミナル⑮乗り場から[気賀行き]のバスで約60分、[気賀]で下車、徒歩約10分

      天浜線[気賀駅]から徒歩約15分

車:東名高速道路舘山寺スマートICから約10分

駐車場:なし※近くの気賀関所を利用すると便利です。気賀関所から「堀川城跡」まで徒歩約5分です。

トイレ:なし

 

伝堀川城跡説明板

 

堀川城は遠江国引佐郡(現在の浜松市北区細江町気賀)にあった城で、1567年(永禄7年)今川氏への忠心が強かった気賀の村人たちによって砦が築かれ、地名から堀川城と名付けられたようです。

 

場所は、その80年前に起きた明応地震によって浜名湖が海とつながってできた三角州の湿地帯、奥浜名湖北岸に位置する都田川河口の南側です。

 

一見無防備に見えますが、湖を背にして前面は都田川の水を引き、満潮時には湖水がまわって島のようになり、船を使わないと城に入れない”都田川河口に作られた水辺の守りを固めた砦”であったと考えられています。また600mほど北には当時の主要街道である本坂通(姫街道)が通っています。

 

現在の浜松市北区細江町周辺は、室町時代は今川配下にあり、地侍や住民たちが今川家に忠誠を尽くし、かつての掛川や堀江と共に家康の遠江侵攻に強く抵抗した地域です。堀川城とほど近い刑部にも『刑部城』を築き、徳川家康の侵攻に備えたと伝わります。

 

1568年(永禄11年)三河の岡崎城から本坂峠を超えて湖北に侵攻した徳川家康は、井伊家の被官であった井伊谷三人衆、近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時らを調略し、彼らの本領を安堵しました。

 

これにより、家康は井伊谷から『刑部城』を落とし、引馬城からも今川勢を追い出して、遠江に前線を得て掛川城に迫ります。

 

今川方で近隣の堀江城主大沢左衛門は家康に抵抗しており、大沢氏と連携した土豪の新田友作、尾藤主膳、山村修理らは地元の農民など雑兵約1,700人を集めて気賀の堀川城に立てこもり強く抵抗しました。城主には祝田で寺子屋を開いていた浪人新田友作がなりました。

 

駿府から敗走した氏真が立て籠もった掛川城攻めが長引き、武田軍の遠江侵入の動きが伝わる中、気賀周辺の反徳川の動きも活発でした。こうした状況の中、家康は堀川城の兵の目を避けて、一旦三河へ戻っています。

 

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徳川家康堀川城攻撃

 

堀川城址古戦場の碑

 

『首塚』と書かれた堀川城跡の左の石門

 

首塚

 

翌1569年(永禄12年)2月に掛川城を落とした徳川家康は、同年3月27日再び本坂峠を越えて堀川城を3,000もの兵で堀川城を徹底的に攻めます。総攻撃は十二日の干潮とともに始まりました。

 

堀川城の城兵は2,000人とはいえ、百姓主体の男女入り混じった村人達なのですから、戦慣れした徳川勢に敵うはずもありません。

 

徳川家康の猛攻にはこの気賀の人々の抵抗もむなしく、城兵の半分の約1,000人が討たれ堀川城はひとたまりもなく陥落しました。

 

たったの1日でこの城を攻め落とした家康は、立て籠もっていた城兵や住民を一方的に殺りくしたのです。落城の後も家康は敗残兵を探し、半数は捕らえられました。

 

家康は石川半三郎に命じて捕虜を皆殺しとし、女子供を含む約700人もの人々を「獄門畷」の付近(都田川の堤)で首を討ち、その首を「獄門畷」の小川に沿った土手にさらしたともいわれます。

 

当時の古文書によると”給人(きゅうにん/今川の家臣)百姓討死”とあり、武士だけでなく農民も多く亡くなったことがわかります。

 

尾藤主膳は、堀江から部下10人とともに退却しましたが自刃したとのことで、細江町中川の寂しい場所に墓が残されているそうです。

 

山村修理(やまむらしゅり)は城から船で浜名湖へ出て、小引佐まで逃げましたが燃え盛る堀江城を見て”安穏に、くらせるひとは、幸せよ”と辞世の句を残し自害したと伝わります。三ヶ日一里塚近くの一里山の本坂通沿いには、自刃した山村修理の墓が残っています。

山村修理の妻は幼い子を連れて逃げましたが、その途中、徳川勢に発見され片腕を切り落とされたと伝わります。

 

竹田高正(竹田右京)は堀川城主・新田友作が徳川に寝返ったため、竹田高正が堀川城主になったともいわれます。燃え落ちる城内で、嫡男・竹田高直、次男・竹田高適とともに、竹田高正も討死しました。

 

新田四郎は剃髪して喜斎と名乗っていましたが、1606年(慶長11年)8月、代官石川半三郎によって捕縛、処刑されたそうです。

 

逃亡した新田友作はその後、葭本(よしもと)の金地院に戻り戦死者の菩提を弔っていたのですが、10年後に徳川方に見つかり都田川の堤で処刑されました。

 

一部の兵が対岸の堀江城に渡り落城の情報を伝え、堀江城は家康との和睦を選択します。同じ今川家に仕えた遠江の諸将には、それぞれにとって大きな選択の年になりました。

 

なお、井伊谷三人衆は家康の命で後に井伊直政につきますが、やがてそれぞれ独立していきます。

 

堀川の戦い当時、気賀七ヵ村(上村、下村、藤本、小森、油田、伊目、呉石)と刑部村の人口は合わせて3,000人位であったとされています。この1日で1,000人が殺され、後日さらに関係者として700人が処刑されているのですから、人口の半数以上が犠牲となったことになります。

 

悲惨極まりないものとして歴史に残ったその場所は、その後「獄門畷」と言われるようになったそうです。

 

この戦いに参加した大久保忠数が書いた「三河物語」には「だんじょともなで斬りにぞしたりける」との記述が残っています。

 

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獄門畷(ごくもんなわて)

 

”堀川武将 最後の地”の石碑がある『獄門畷』

 

堀川城跡から北へ600mほどのところに、”堀川武将 最後の地”の石碑があります。『獄門畷』と呼ばれる場所で、反徳川方の住民たちは、この付近で首を討たれたとも伝わっています。

 

獄門畷の説明板

 

徳川に立ち向かった人びとの戦いの歴史が刻まれた『獄門畷』、現在ここにある説明板には下記のように書かれています。

 

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで、今川義元公が戦死した後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、領主の今川氏のために堀川城を造り、最後まで戦った。堀川城址は、ここから南へ600メートル程にある。

永禄12年(1569年)3月27日、堀川城に2,000人の男女が立てこもり、3,000人の家康軍に攻められて、落城したといわれている。 大久保彦左衛門の記録に、「男女共になで切りにした。」とある。そして、その後に捕らえられた約700人の人々も、同年9月9日にこの付近で首を討たれた。その首をこの小川に沿った土手にさらしたので、「ごくもんなわて」と言われるようになった。

     昭和63年3月20日
     細江町教育委員会

 

『堀川城の戦い』は家康の生涯における戦の中でも、最も残虐で悲惨な戦いだといわれています。

 

参照元:堀川城 - Wikipedia 堀川城跡/ハローナビしずおか 静岡県観光情報

 

「浜松市立細江中学校」脇の小川は”ボラ”でいっぱい

 

 

ここまでかなり深い歴史が残る気賀をご紹介してきましたが、実際に『獄門畷』や『堀川城跡』に歩いて向かう道中、何度も「浜松市立細江中学校」の校舎が目に入ります。

 

そして、その脇に流れる小川をちらっと眺めると、誰もがかなりびっくりすると思われますが、現在小川の端から端まで小さい『ボラ』で埋め尽くされているんです。

 

ニュースで「ボラが多すぎで酸素不足のせいか死骸が浮かんでいる」なんていう地元のニュースは目にしていましたが、本物はすごかった!

 

こちらのボラの大軍もぜひ!お楽しみに♪2023年2月5日の情報でした。

 

\静岡の城を知るならこちら/

アンソロジーしずおか戦国の城

 

最後に

 

桶狭間の戦いで織田信長に今川義元が討たれ、徳川家康は今川氏から独立、織田信長と同盟を組み、最強武将武田信玄没後、いよいよ遠江への侵略を始めます。

 

”輿に乗って戦場に現れる公家かぶれの武将”というイメージをドラマ『どうする家康』で一気に払拭した感のある今川氏。

 

室町時代よりその今川配下にあり、今川家に忠誠を尽くしてきた地侍や住民たちが今川家康の遠江侵攻に強く抵抗した地域が”堀江”、”掛川”、そして今回の『堀川城跡』や『獄門畷』の伝承が残る”遠江国引佐郡”でした。

 

戦国時代ですし、家康の馬印「厭離穢土、欣求浄土(お(え)んりえど、ごんぐじょうど」ウイキペディアによるところの

この娑婆世界を「穢れた国土」(穢国)として、それを厭い離れるという意味であり、阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味

 

要するに、誰もが安心して暮らせる戦のない世の中を目指していればこそ、残虐の限りを尽くしてでも、反徳川の芽を摘む必要があったのでしょう。

 

最近は ドラマ『どうする家康』のおかげで、私の中でも「たぬき親父」の異名も返上し、260年もの平和の時代への礎を築いた偉大な武将というイメージが強くなりつつある徳川家康です。

 

今回、家康ゆかりの地 浜松にも『堀川城跡』や『獄門畷』に出かけてみたことで、「家康だってやっぱ”残虐非道”もやってんなあ!」と強く感じましたし、浜松って犀ヶ崖にしろ三方原台地にしろ、あっちにもこっちにも戦の影が色濃く残っているんだなと。

 

改めて考えてみれば、日本国中にどの戦争かはわからないけど、その爪痕は至るところに残されているってことを、普段はすっかり忘れていたことを思い出しました。

 

だから、家康にも最大の汚点といっても過言でない『堀川の戦い』があったことも忘れてはいけない気がします。戦国時代だから仕方ない!ではなく、やはり戦争からは何も生まれない。そして、失うものばかりだ。ということを改めて感じることができました。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。