こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回の徳川家康ゆかりの地”磐田”で訪ねたのは、天竜川の河川敷にある『池田の渡し公園』です。
戦国時代の終わりごろ、磐田の地で武田軍との戦いに敗れた家康軍を船で天竜川を渡して逃がしたり、武田軍に船を使わないように隠すなど、池田村の人びとが家康軍に尽くしてくれた事に感謝した家康は、天竜川の渡船の渡船権利朱印状を池田地区の人びとに与え保護したといいます。
1573年(天正元年)、「誰の土地でも渡船に都合の良い場所で渡船して良い」を始めとし、「船方の年貢や諸役一切を免除」、「年二回寄附を集めても良い」など特権が認められています。1576年(天正3年)には、渡船利用者が船頭を殴れば死罪とする制礼を出すなどして、特権を認め保護したのです。
家康が船方に与えた定を高礼として、渡船場に立てられ「松板証文」と呼ばれ、船頭の誇りにしていたといいます。『池田の渡し公園』は、この家康により渡船権を保護された「池田の渡船」を記念して作られたそうです。
この公園は、のびのびと遊べる天竜川の広い河川敷にある芝生公園で、強い日差しを遮ることができる赤いパラソルにベンチもあったりして、真夏でもちょっと涼し気な公園で珍しい遊具もあります。
今年も春の訪れと共に一気に花々が咲き乱れ、静岡県花である「ツツジ」も浜松まつりで盛り上がるGWまで咲き続けられるか不安なほど、今が盛りと咲き誇っています。
この公園のすぐ近くにある『熊野(ゆや)の長藤』で知られる行興寺の境内でも、早くも長藤が咲き始め、まだ長さ1m以上にまではなっていないのに涼し気な長藤を見ようと、先週末は訪れる人も多く駐車場もかなり混んでいました。
長藤がもっと伸びてきれいに咲いているだろう4月下旬頃までなら、お弁当でも持って『池田の渡し公園』の赤いパラソルの下で広げればあっという間にリゾート気分!
緑あふれる自然いっぱいの川畔で開放感を味わい、さらに、歩いて5分もかからない行興寺の境内で『熊野の長藤』を楽しんでみてはいかがでしょう。
池田の渡し公園
『池田の渡し公園』は、東海道天竜川の渡しとして知られる「池田の渡船場」を河川敷に再現した公園です。公園内を流れる小川は、天竜川をイメージしているそうです。
また、池田の渡船については、この公園の東側にある「池田の渡し歴史風景館」や、堤防東側、中段の説明板でわかるようになっています。
公園の下流側の堤防沿い(熊野の長藤で知られる行興寺へ向かう堤防沿い)には、渡船場の跡を示す「天竜川渡船場跡」の碑があります。
場所:磐田市池田 国道1号線の天竜川橋を北へ約1km先の河川敷
《アクセス》
電車・バス:JR[豊田町駅]より徒歩30分
車:東名高速道路[浜松西IC]より約15分
国道一号磐田バイパス[森岡IC]より5分
駐車場:あります。熊野の長藤の見頃(4月15日(土)~25日(火)まで)には、天竜川河川敷に臨時駐車場設置されています
池田の渡し


磐田の地で武田軍に敗れ追われる家康軍に、家康軍を船で天竜川を渡したり、武田軍に船を使われないように隠したりと池田の渡船衆は尽くしたといいます。これらに感謝した徳川家康は、戦国時代の終わりごろ、池田の船守に天竜川の渡船の運営権を保障しました。
大昔の天竜川は流路が定まらず、人間が生活できる自然環境ではなかったといいます。
8世紀頃、奈良の都から地方の国へ国司や役人が往来したり、粗税を治めるための往来が必要となり、「暴れ天竜」と呼ばれる流れの激しい川幅の広い川を、地元の船に乗って渡るようになりました。
なかには命がけで歩いて渡る人もいたといい、古くから東海道を旅する人が天竜川を渡るのはとても大変なことでした。
平安時代になると、渡船の利用が一般的になり、当時の天竜川は磐田原台地のすぐ近くを流れ川の西岸にあった池田村(今の磐田市辺り)は東海道で有数の宿場町として栄えました。
鎌倉幕府と京・大阪の間には、人間の往来、物資の流通が盛んになり、当時は頼朝や平家の落人重衛(しげひら/平清盛の五男)も泊まった記録があるそうです。源平合戦や戦国時代には、織田信長や、徳川家康、江戸時代の朝鮮使節、維新の時の明治天皇など多くの武将が大軍を率い、天竜川に舟橋をかけさせて渡ったという記録が残っているそうです。
船橋とは、臨時に船を川に並べて、その上に板を敷き橋として渡れるようにしたもの。
室町時代になると川の流れが西に移り、ほぼ今の位置になったようです。宿場はしだいにさびれてきましたが、東岸になった池田村は渡船場として重要な役割を担うようになります。
戦国時代の終わりごろ、浜松城主の徳川家康は特に、池田渡船を重要視し、1573年(天正元年)船方の年貢や諸役の一切を免除、1576年(天正3年)には、渡しの船頭をなぐれば死罪とするという制令を出し、池田の船守に天竜川の渡船の運営権を保障しました。
それは、磐田の地で武田軍との戦いに敗れた家康軍を船で天竜川を渡して逃がしたり、武田軍に船を使わないように隠すなど池田村の人びとが家康軍に尽くしたからだといわれています。
他にも、一言坂の戦いで敗れ、池田まで逃れて来た家康を、善右衛門がかくまい、夜にまぎれて船で西岸の半場まで送ってくれたので、喜んだ家康が善右衛門に「”半場”の姓を与えた話」や、武田軍の追撃をはばむため、船や櫓を池に隠したという「船かくしの池」の話など、家康と池田渡船にまつわる伝承は数多く残っています。
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江戸時代の天竜川渡船


江戸時代には天竜川は東側を流れる川幅の広い大天竜と、西側を流れる川幅の狭い小天竜の二つの流れがありました。
大天竜の渡船は池田村が担当、小天竜の渡船は池田村と船越村(現在の浜松市中区船越町)が交代で行ったそうです。
渡船場は3ヶ所あり、下横町に市川本陣、上横町に平野本陣があり、宿屋も数件あって、間の宿(あいのしゅく)として栄えていました。
大天竜の渡船場は、池田村と中野町村(現在の浜松市中区中野町辺り)にあって、普段はほぼ真横に渡れたのですが、川の流れが速くなると上流から斜めに渡ったそうです。(『鎌倉殿の13人』で山本耕史さんがセリフで言ってましたっけね。)
江戸時代、池田は幕府領で、中泉代官所の支配を受けていました。村内は船方(渡船)と地方(宿方)に分かれていたとのこと。南北に東海道が通り、両側に家が並び、旅人のための「茶屋」もあり、なべやき・どじょう汁は街道名物だったといいます。
江戸時代に入ると、大きな川には政治的な理由等により、橋をかけませんでした。
渡船の渡船料は道中奉行(どうちゅうぶぎょう/五街道である東海道・中山道・日光道中・奥州街道・甲州道中および、五街道の付属街道として主要街道を支配下にした)が決めます。
渡船料は、武士等の特別な人、遠江国に住む人などを除き[一人当たり十二文]かかったそうです。天竜川は渡船による川越でしたが、水位が七尺(約2.1m)を超えると川留となり、その間は旅人で旅籠がにぎわったそうです。
このように以下での渡船の制度が整ったのは、江戸時代になってからで、家康は「天竜川の渡船」については、浜松城主時代から、池田の船方の特権を認めて保護に務めたといいます。
天竜川の上り下りした帆かけ船
江戸後期から明治に入り渡船がなくなった後、帆かけ船により天竜川上流部へ生活物資(米など)を送り、上流部からは材木・鉱石(銅など)を陸揚げし、人車軌道(トロッコ)にて中泉駅(現磐田市)まで運搬するための中継点として池田は活躍しました。
しかし、昭和になり、道路の整備やトラック運搬が発達し、川にはダムができ今までの物資を輸送することもなくなり、それと共に帆かけ船も見かけなくなりました。
有料だった池田橋
時代が江戸から明治へ変わり世の中が変化したように、天竜川の渡船も橋へと変わりました。旧豊田町でも、天竜橋・池田橋が明治初期にでき、このうち池田橋はこの池田渡船場付近に昇竜社によって建設されました。橋の長さは774m、幅2.7mの木製で、建設費は3,875円でした。
この橋は本橋で『橋銭』をとる有料橋だったため、大人三銭、小人二銭が必要でしたが、昭和8年に旧国道の天竜川鉄橋が完成したことにより廃止されました。
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【池田の渡し風景館】
池田の渡し公園から、堤防を超えて「熊野の長藤」で知られる行興寺に向かっていくと「池田の渡し風景館」があります。
場所:静岡県磐田市池田300-3
入館:無料
営業時間:9:00~17:00
休館日:毎週月曜 ※月曜が祝日の場合はその翌日
毎月最後の火曜日
12月28日~1月4日
天竜川で行われていた「池田の渡し」は、1000年も前から続いていたと記録されているとのこと。
徳川家康が池田の渡船衆に与えたとされる「朱印状のレプリカ」などもこちらに展示され、池田の渡船の歴史がわかりやすく紹介されています。
熊野の長藤(ゆやのながふじ/行興寺の境内)


場所:静岡県磐田市池田330
《アクセス》
電車・バス:JR[豊田町駅]から市営[ゆーばす(ゆや号)]乗車[熊野公園入口]下車
車:東名高速道路[浜松西IC]より約15分
駐車場:長藤の見頃(4月15日(土)~25日(火)まで)は天竜川河川敷に臨時駐車場設置されています。
御朱印:いただけます。600円
トイレ:「豊田熊野記念公園」にあります
入場:無料


磐田市の行興寺境内にある「熊野の長藤」は、年度によっても異なりますが、最大長さ1.5m以上にもなり、年によっては2mに達したこともあるというほど見事な長さで知られています。過去には「地面に届くほど」と言われたこともあったようです。
一面に広がる藤棚には、国指定の天然記念物にもなっている巨木な老木によって、美しく壮観な藤棚が広がっています。辺りは藤の花のさわやかな甘い香りが風の流れに乗って、日々の疲れを癒やしてくれます。
藤棚の面積は369平方メートルとのことでしたが、最近は境内北側に隣接して設置された「豊田熊野記念公園」の藤棚と合わせると、約1,600平方メートルという広大な藤棚が広がります。「豊田熊野記念公園」には、長藤を鑑賞できるベンチや芝生の広場もあり、お弁当を広げてランチを楽しむ人たちで賑わっています。さらに熊野伝統芸能橄も隣接しています。
見頃は年々早くなっているようで、今年は4月15日(土)〜25日(火)まで。「熊野の長藤まつり」も行われているため、露天でおいしそうな鯛焼きやかき氷も楽しめますし、いろいろなイベントも行なわれる予定です。
「熊野(ゆや)」は地名ではなく、世阿弥の能として知られる「熊野」の登場人物も熊野御前から名付けられたものだそうです。
熊野御前は実在した人物で、平安時代末期にこの池田で池田庄の庄司藤原重徳の娘として生まれ、熊野権現に祈願して生まれたため「熊野(ゆや)」と名付けられたといい、成長すると才色兼備の女性として知られるようになり、1180年(治承4年)に京に上り、平宗盛の寵愛を受けた女性のことです。
やがて生まれ故郷の池田に住む実母が重病と知らされ、主人である平宗盛に暇を願い出るのですが、聞き入れられず、母親思いの優しい熊野は、涙ながらにその心情を和歌に託したといいます。
それを知った宗盛はさすがに哀れと思い、熊野の願いを聞き入れ、熊野は故郷の遠江国池田に舞い戻ったのです。
これらの由来から、熊野御前は親孝行者の女性として後の世に言い伝えられ続け、母の冥福を祈った熊野御前がお堂を建立したことが「行興寺」の始まりと伝わります。
池田(現在の磐田市池田)は能楽の熊野の中に登場する「遠江の国池田」のことで、「熊野」とその母の墓所と伝えられる立派な宝筺(ほうきょう)塔2基がここ池田の行興寺にあります。
国の天然記念物に指定されている境内の藤の老樹も、その起源はフジの花をこよなく愛する熊野御前が植えたものという伝承が残されているほど、長い歴史を持つフジ(野田藤)の老樹・銘木であり、1932年(昭和7年)7月25日に国の天然記念物に指定されました。
境内には巨大な藤棚が設けられ、国指定天然記念物として1株、静岡県指定天然記念物5株のフジの巨樹から多数の花房が長く垂れ下がり、例年4月中旬~5月初旬の開花シーズンにはたくさんの人が訪れます。
行興寺
熊野御前が母の供養に建てた庵が、1290年(正応3年/約700年前)に遊行派眞教上人を招いて開山したと伝わります。境内には「熊野」とその母の墓所と伝わる立派な宝筺塔2基が行興寺境内にあります。
\母の日にフジの花はいかが/
最後に
今回は、その起源はフジの花をこよなく愛する熊野御前が植えたものという伝承が残され、国の天然記念物に指定されている行興寺境内の『熊野の長藤』の甘い香りと、最大1.5mにもなるであろう長藤を楽しんできました。まだちょっと短めでしたけど(笑)
親孝行者の女性として後の世に言い伝えられ続ける熊野御前が、母の冥福を祈ってお堂を建立したことが境内で長藤が見られる「行興寺」の始まりだそうです。
また、その『熊野の長藤』を見るため多くの方が集まるので必要になる臨時の駐車場、この臨時に用意される駐車場辺りこそが、まさに『池田の渡し公園』になっています。
長藤を見にでかけたことがある方ならきっと、天竜川畔に赤い和風の大きなパラソルを見かけたことがあるのでは?そこが、家康が天竜川の渡船権利を与え保護した『池田の渡し』の渡船場跡辺りになります。
例年GWが見頃だった『熊野の長藤』も年々早く咲くようになり、今では5月始めには終わっている可能性もあります。今週末が最高の見頃だと思います。『池田の渡し公園』も一緒に楽しんでこられてはいかがでしょう。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。