sannigoのアラ還日記

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三ケ野坂を上り大日堂がある高台で本多忠勝のように武田軍が布陣した木原をながめてみた

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

1568年(永禄11年)、三河から遠江に進出した家康は、遠江の中心だった見付を手に入れようと、城之崎築城を始めたり、人心掌握のための様々な工作を行ったと伝わります。

 

見付の住人たちも家康に従い、馬で運んだ荷物の移動などの軍務に参加し、遠江支配に協力したといいます。家康は見付に築城し始めた城之崎城を拠点とする予定だったようですが、一説では織田信長の反対され、浜松を居城としました。

 

それでも、家康は見付をはじめとして磐田の各所に何度も足を運び、多くの足跡や伝承を残しています。1572年(元亀3年)、三方ヶ原の戦いに先立ち、遠江の各所で徳川家康と武田信玄の戦が行われました。

 

中でも、上洛を目指す甲斐の武田方が遠江に進出し、袋井の木原に本陣を置くと、これを迎え撃つため徳川勢は浜松城を出て、見付に布陣します。三ケ野に偵察に出た徳川方と武田方とが小競り合いが起こり、その後浜松へ撤退する徳川方とそれを追撃する武田方とが一言坂で戦火を交えます。

 

今回は、その三ケ野での小競り合いである「三ケ野坂の戦い」をくわしく見ていきましょう。

 

三ケ野坂を上った高台にある『大日堂』

 

 

三ケ野坂の戦い

 

1572年(元亀3年)10月10日、上洛を決めた戦国最強武将といわれる武田信玄は、約3万5千の兵をしたがえ大井川を渡り、遠江国になだれこみました。

 

小山城(静岡県吉田町)、相良城(静岡県牧之原市相良)と怒涛の勢いで遠江へ侵攻、塩買坂(静岡県菊川市)を超え、高天神城(静岡県掛川市上土方)に迫ります。高天神城主小笠原氏助は信玄に対抗したようですが、10月21日までには降伏しました。

 

徳川軍にとって高天神城を取られたことで、馬伏塚城(まむしづかじょう/静岡県袋井市浅名)が危うくなっただけでなく、遠州灘と懸川城の交通を遮断されてしまったのです。

 

武田軍は高天神城から入山瀬(掛川市/不入斗)を経て、懸川をかすめるように移動し、原川(掛川市)、国元(袋井市)、袋井へ入ったと思われます。(著平山優「徳川家康と武田信玄」)

 

先を急いだ信玄は馬伏塚城を攻略することなく、海沿いの狭道を避け、懸川から見付に向かい東海道を進みます。そして、太田川の手前で停止し、ここ木原・西島(袋井市)に布陣し、久野城主久野宗能を攻撃させますが、宗能は城をよく守り降伏しなかったといいます。

 

「信玄来たる」の報せに、武田軍の遠江侵攻を抑えるべく家康は自ら大久保忠佐、本多忠勝、内藤信成ら3千の兵を率いて出陣、見付(磐田市)まで進み布陣し、家康は本多平八郎忠勝と内藤三左衛門信成隊を、三ケ野(磐田市)へ前進させ、武田勢の物見を命じます。

 

先陣の本多忠勝らは三ケ野台に布陣し、武田軍のようすを三ケ野の丘陵の松の大木(物見の松)からみたところ、、東海道を西進して木原・西島付近に陣を張った武田勢がひしめく様子が見えたため、内藤信成が手勢を率いて木原まで、旗指物を伏せ目立たないようにさらに前進。

 

信玄の軍旗「風林火山」が見えた直後に内藤信成らは、こちらの動きを察知していた武田勢の猛烈な攻撃を受け、すぐに三ケ野の大日堂に向け退却したのですが、武田軍の追撃を受けて戦闘になったのがこの大日堂の高台です。この戦いが「三ケ野坂の戦い」といわれています。

 

武田勢の追撃は速く激しく、戦闘になったのが三ケ野坂(みかのざか)、多勢に無勢で危ういと考えた徳川軍は撤退することになります。徳川軍は家康を逃がす時間を稼ごうと見付けの町に火を放ち、地の利に暗い武田軍を足止めしようとしました。

 

ところが、武田軍は遠江の土豪らを多数従えており、土豪たちが案内役をしていたため足止め作戦は失敗!すぐに追いつかれてしまった一言坂で、両軍の戦闘が始まり、これが『一言坂の戦い』です。

 

それでも、本多平八郎忠勝や大久保忠佐らの活躍で、徳川軍は無事に浜松城へ退却することができました。武田軍は天竜川畔で追撃を中止し、撤退後は二俣城攻略のため進路を北に向けることになります。

 

ちなみに、忠勝と忠佐が奮戦している間に天竜川を渡り浜松へ逃げ込むことができた家康は、殿をつとめた本多忠勝、大久保忠佐

を心配して、馬込(浜松市中区あたり)で待っていたと『浜松御在城記』に書かれているそうです。ちょっとかわいい家康君ですね。

 

参照元:三ヶ野坂古戦場

 

三ケ野坂(みかのざか)古戦場


1572年(元亀元年)武田信玄は木原(袋井市)、西島(磐田市)に約3万5千の軍を敷き、三ケ野大日堂まで偵察に来た3千の徳川家康軍を攻撃しました。これが「三ケ野坂の戦い」です

 

三ケ野坂での偵察の際、徳川軍の武将、本多平八郎忠勝は大日堂の大きな松に上り、敵の武田の陣の様子をうかがったと伝えられています。この大きな松が「物見の松」です。(物見の松は今はありません。)

 

そして、物見台として徳川軍が布陣したと考えられている三ケ野台にあるお堂が「大日堂」です。

 

三ケ野坂は磐田原台地の東端(標高38m)の東海道三ケ野坂に位置しています。現在の三ケ野坂は、鎌倉・江戸・明治・大正・昭和・平成時代に築かれた7本の道が通る交通の要です。

 

 

 

場所:磐田市三ケ野

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR磐田駅遠鉄バス80番[見付・磐田営業所行き]乗車、[磐田営業所]下車徒歩約11分

車:東名高速道路[磐田IC]から7分
駐車場:ありません

近くに「桶ヶ谷沼ビジターセンター」(磐田市岩井315)があります。こちらから歩けば、明治の道道標まで約7分、大日堂まで約12分ですが、許可されているわけではありませんので、公共交通機関のご利用をおすすめします。

 

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偵察に出ていた本多忠勝らが武田軍と遭遇して戦いになったと伝わる『木原畷の戦い』 - sannigoのアラ還日記

 

では、見晴らしの良い「大日堂」まで、少し汗をかきながら坂を上っていきましょう。

 

国道1号線から旧東海道の松並木を通り、鎌倉時代の古道を眺めながら三ケ野坂へ。

 

[桶ヶ谷沼駐車場]から国道1号線へ出ます。ここから、旧東海道の松並木をお供に西へ進むと、そこには「鎌倉時代の古道」があり、その先には「大日堂」があるはずの小高い丘が見えます。

 

小高い丘が見えたら、[さかした橋]を渡ります

 

小高い丘が見えたら、左前方に見える『さかした橋』を渡ります。そこには「鎌倉の古道」の石碑がありますし、「大日堂」の案内板の矢印通りに[江戸時代以前の東海道]を上がっていきます。

 

[鎌倉の古道]の石碑の横の整備された坂を上っていきます

 

奈良時代から平城京と地方を結ぶ交通路として、主要な役割を果たしていた東海道。特道中奉行を起き宿駅を設置し、道路の回収・並木の植樹・一里塚の築造などの整備をし、特に東海道には力を入れたといいます。

 

東海道はそれぞれの時代によって移り変わっていますが、見付宿の東はずれから三ケ野地内までは、この道路が江戸時代の東海道道筋でした。松並木は後世補植されて、現在に至っています。

 

竹林の坂を上ると[歴史がうつる三ケ野七つ坂]の案内板と[鎌倉の道]の石碑があります

 

やっと頂上に近づいてきました。[大日堂]の案内板が見えてきました。この小さなお堂が『大日堂』ですね。

 

[古戦場 大日堂]の案内板と『大日堂』を横からながめたようす

 

大日堂

 

今もかなり見通しの丘です。袋井方面が見えているんでしょうか?

 

大日堂は磐田市の三ケ野坂を上った高台にあるお堂のことです。ご本尊は大日如来で、創建は717年(養老元年)と伝わります。三ケ野坂を上った高台にあります。

 

大日如来は平安時代に弘法大師によって伝えられ、如来の光はあまねく一切平等で、陰をつくらない太陽にも勝る宇宙の根本佛で諸佛はこれを中心に展開するといいます。

 

場所:磐田市三ケ野1226-1

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR[磐田駅]から徒歩約70分、
      JR[磐田駅]から→7分→遠鉄バス[磐田営業所行き]乗車→11分→[磐田営業所]バス停下車、徒歩約10分

車:東名高速道路[磐田IC]から7分

駐車場:ありません

WC:あります。※蜘蛛の巣関係平気ならOKかも?

 

大日堂の由来

 

創建は717年と伝わる『大日堂』と案内板

 

明治時代に入り寺社制度の改革が行われ従来の佛堂が存続できなくなり、佛堂は極めて小さなお堂に改められ1922年(大正11年)に現在の大日堂が復興されました。(田原歴史愛好会による案内板)

 

大日堂辺りの歴史

 

戦国時代の初めごろは、遠江地方は駿河の今川氏の支配下におさめられていましたが、今川氏滅亡後は今川氏に代わって家康によって治められました。

 

ところが、1572年(元亀3年)上洛を目指す甲斐の武田信玄が遠江へ進出し、上記の木原に陣を敷いたのです。これを迎え撃つため徳川家康は浜松城を出て、三ケ野・見付宿・一言坂と戦います

 

本多平八郎物見の松

 

大きな「物見の松」はありません。が、小さな松の木がありました。

 

この大日堂の高台には、「本多平八郎物見の松」と伝えられる大松があったといいます。この丘陵に立てば、太田川から遠く袋井まで一望できるため、偵察にやってきた忠勝はこの大松に上り、武田の大軍がうようよしている木原(袋井市)・西島(磐田市)が目に映った時は、さぞやビックリしたことでしょう。

 

現在、大日堂付近で必死にこの大松を探しても見つかりませんが、太田川から遠く袋井方面が見渡せる丘陵の端にほっそりとした松が1本あります。大松の子孫かしら?と思ったのですが・・・。

 

ここにあったかもしれない大きな松、そのでこぼことした幹に本多平八郎がしがみついて、袋井の木原の偵察をした姿を思い浮かべると、忠勝ならきっと「たけだ~さあ来い!」と思っただろう。とか、知らせを聞いた家康公は「いよいよ戦国最強武将武田信玄との戦いが始まってしまう。どうしたらええんじゃ」と叫んだだろうかと妄想を楽しむことができます。

 

大日堂の石碑

 

静岡銀行寄贈の[大日堂]と書かれた石碑と、文化11年9月と書かれた手水鉢

 

ちなみに、現在この丘陵には「大日堂」と書かれた平成6年3月吉日に静岡銀行寄贈の石碑や、大日堂、いくつかの石碑や墓碑のようなものなどが残されています。また、入口には、両側に石にも見える狛犬と、文化11年9月と書かれた手水鉢が残されていました。

 

文化11年は1814年のことですから、享和の後、文政の前の江戸時代。町人文化が発展した時期で、政治の実権は11大将軍徳川家斉(いえなり)が握り、あの井伊直弼が生まれる前の年です。

 

各地の農民や町人による一揆、打ちこわしなどが例年起きていたころに、この手水鉢が作られたと思うと感慨深いです。

 

三ケ野坂の七つ道

 

[大正の道]の石碑と、[明治の道]の石碑

 

現在の磐田の三ケ野坂には、鎌倉の古道、江戸の道(東海道)、明治の道、大正の道、昭和の道(国道1号線)、平成の道(磐田バイパス)、質屋通いの間道(質道)の七つの道が集まっています。このことを「三ケ野坂の七つ道」と呼ばれ、時代別に順次作られた七つ道が、1ヶ所にまとまって見られるのは珍しいといいます。

 

[江戸の道]はこちらの案内板と、[江戸の道]の石碑

 

「質屋通いの間道」とは、この案内板のある大日堂付近から見付に抜ける間道のことで「質屋通いの隠れ道」と呼んでいたようです。ちなみに質屋には「七ツ屋」なんて隠語もありますが、この七つ道には関係なさそうです。

 

「歴史がうつる三ケ野七つ道」の案内板には以下のように書かれています。

 

南北朝時代に宗良親王がその心境を三ケ野橋に託して、ここを通ったときの歌が残されているように、この辺りは歴史や地形上からも東西の交通の要衝であった。また武田軍の遠州侵攻のときは古戦場になった。

旧東海道の松並木・車井戸跡・鎌田薬師道道標・立場茶屋等を見て、隣接の桶ヶ谷沼・鶴ヶ池を廻る家族向けの人気のハイキングコースとして好評を博している。

東から三ケ野橋を西進すると、標高38mある大日山の急斜面を、這うように江戸時代の旧東海道と交差する。そこを200m西進して、北向きに明治27年築造のなだらかな坂道を降りる。ここは大正6年築造の道路と交差していて、その横は昭和30年築造の国道1号線となる。

交通量の増加で磐田バイパスが計画されて、立体交差袴道橋が平成2年に完成した。国道の地下道を抜けると、北側は桶ヶ谷沼に続く。ここから見付に抜ける間道は、俗に言う質屋通いの隠れ道であった。時代別に順次作られた七つ道が、1ヶ所にまとまって見られるのは珍しい。

 

もちろん、磐田も大好きなので、こちらの桶ヶ谷沼・鶴ヶ池をハイキングしたこともあります。秋の終わりぐらいからは、渡り鳥にまざり、オオハクチョウまで訪れたりしてニュースになるので、その都度オオハクチョウを求めて訪れますが、まだお会いできたことはありません。

 

三ケ野立場跡(たてばあと)

 

立場とは、街道の辻に設けられた休憩所の事で、ここ東海道の三ケ野にも立場があったようです。

 

三ケ野車井戸之跡

 

“車井戸之跡”という新しい石碑があります。
あまり目立たないのですが、その隣には、[明治の道(緑のトンネル)]という石碑もあります。

 

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まとめ

 

今回は、1572年(元亀元年]武田信玄が木原(袋井市)、西島(磐田市)に約3万5千の軍を敷き、三ケ野大日堂まで偵察に来た3千の徳川家康軍を攻撃した「三ケ野坂の戦い」が行われた『三ケ野坂』を上り、三ケ野坂での偵察の際、徳川家臣の本多平八郎忠勝は大日堂の大きな松に上り、敵の武田の陣の様子をうかがったと伝えられている『大日堂』を訪ねてみました。

 

やはり古戦場みたいなところは自然が一杯で、歩いたり坂を上って汗をかくと気分爽快で、血の巡りが良くなり身体が生き返ったような気分になります。もちろん、お天気も良かったおかげで、高台からの眺めは最高でした。

 

それでも古戦場という限りは、勝ち負けはあれどいくらかの人が亡くなっているわけですから、ご冥福を祈りながら歩くべきなのかもしれないですね。お墓みたいなところへ健康のため出かけて良いものかちょっと不安になります。

 

でも、ご近所の方はペットのお散歩でスイスイと坂道を上がっていかれるので、平和を祈りながら上ればOK!とも思っています。さて、次はどこの家康ゆかりの地を訪ねましょう。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。