sannigoのアラ還日記

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磐田見付にある三河で一番の色男「大久保忠世」ゆかりの『淡海國玉神社』

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

ここ1年くらい家康に興味津々なアラ還の私、家康ゆかりの神社と聞けばついつい参拝に出かけがちです。

 

だいたいの神社は、本殿前に鎮座する魔除けのための「こま犬」がお出迎えをしてくれます。こま犬といっても獅子に似た像がほとんどです。中には、参拝される皆さまが撫で過ぎてなのか、自然の風化なのか、ただの石に近い状態の歴史あるこま犬もいます。

 

ですが、今回ご案内する「大久保忠世」の弟さんの「大久保忠佐」ゆかりの『淡海國玉神社』は、こま犬ではなく子うさぎを添えるように上を向いたかわいい「こま兎(うさぎ)」が出迎えてくれるんです。その理由は神社に祀られているのが、「因幡の白兎」で知られる大国主命(おおくにぬしのみこと)だからです。

 

しかも、この神社はあの「伝酒井の太鼓」が展示されている磐田の「旧見付学校」の横にあるのですから、家康ファンが立ち寄るにはもってこいの場所なのです。

 

「どこが大久保忠世ゆかりなんだよ!」とお怒りの皆様、実は徳川氏が北遠を治めた後、二俣城主となった大久保忠世の弟である大久保忠佐(おおくぼただすけ)が、1570年(元亀元年)に家康より淡海國玉神社の神官になることを命じられ、代々大久保家がこの『淡海國玉神社』を護っていました。

 

ちなみに、『淡海國玉神社』の兎は縁結びの神様としても慕われます。ご縁を結びたいどなたかがいらっしゃる方は、こちらを訪ねてみるのもいいまもしれません。

 

旧見付学校の東側にある「こま兎」がかわいらしい『淡海國玉神社』の鳥居

 

 

淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ)

 

『淡海國玉神社』は上記した通り本多忠勝とともに一言坂で戦い、家康に仕えた武勇に優れた大久保忠佐ゆかりの神社です。大久保忠佐は、実は徳川氏が北遠を治めた後、二俣城主となった大久保忠世(大河ドラマでは色男となっている)の弟さん、ですからつまりは、こじつけで「大久保忠世ゆかりの神社」というわけなのです。

 

淡海國玉神社は、遠江国の総社で「大国主命」を祀る神社で、他十六柱をお祀りしていますので、ここを参拝すると磐田にあるすべての神社をお参りしたことになります。主なご神徳は、家内安全、商売繁盛、五穀豊穣、縁結びなどです。

 

また、「大国主命」といえば、古事記で語られる神話「因幡の白兎」の話が有名です。

 

 

場所:磐田市見付2452-2 旧見付学校の東側にあります。

 

《アクセス》

 

電車:バス:JR磐田駅1番バス乗り場より遠鉄バス[磐田市立病院行]乗車、[旧見付学校]バス停で下車、徒歩約1分

車:東名高速道路[磐田IC]より約5分
  国道1号線バイパス[見付IC]より約3分

駐車場:旧見付学校南側にあります。

WC:旧見付学校南側にあります。

御朱印:見付天神でいただけます。

 

大久保忠世ゆかりの神社

 

縁結びで知られる『淡海國玉神社』

 

『淡海國玉神社』は、本多忠勝とともに一言坂で戦った大久保忠世(大河ドラマでは色男となっている)ゆかりの神社です。というのも、大久保忠世の弟である大久保忠佐(おおくぼただすけ)が、1570年(元亀元年)に家康より淡海國玉神社の神官になることを命じられ、忠利が神官を引き継ぐまで代々大久保家で300年以上にわたり神社を護ってきました。

 

2022年の10月に開催された「第19回見付宿たのしい文化展」では、『淡海國玉神社』の神官を代々務めた大久保家の邸宅で、徳川家康に仕えた大久保忠佐直筆の書状などが展示されたそうです(静岡新聞)。

 

大久保忠佐とは?

 

徳川氏家臣・大久保忠員の長男として三河国上和田(現在の愛知県岡崎市)で生まれたのが大久保忠世。その忠世の次に生まれた次男が忠佐(ただすけ)です。

 

大久保忠佐も父や兄の忠世と共に、松平広忠、家康に仕えた忠佐は、元亀元年に家康より『淡海國玉神社』の神官になることを命じられて磐田の地へ。

 

忠佐は武勇に優れ、1572年(元亀3年)の一言坂の戦いでは本多忠勝と共に殿軍を務め、1575年(天正3年)の長篠の戦い、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いにも参加して武功を挙げています。

 

1590年(天正18年)に家康が関東に移ると、上総国茂原において5,000石を与えられます。1600年(関が原の戦い)には、徳川秀忠に従い真田昌幸・信繁(幸村)に翻弄されたため戦には間に合いませんでしたが、1601年(慶長6年)には駿河河津2万石の大名になっています。居城は沼津城(三枚橋城)でした。

 

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時代は過ぎ、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)に従い、統幕のため江戸に向かった遠州報国隊の中心となって活躍したのは、賀茂真淵やその弟子である内山真龍の元で国学を学んだ神官たち。

 

磐田市見付の遠江国総社『淡海國玉神社』の神官であった大久保春野もその1人でした。

 

「淡海國玉神社」の神官だった大久保春野の先祖も、軍を統率する武将。春野が自ら報国隊の一員として従軍し、幕府軍と一戦交えていたのは、そんな先祖の血を引く者として、当然の成り行きだったのかも知れません。

 

「淡海國玉神社」に今も残る大久保住宅は、遠州報国隊の集まりの会場にもなったと思われる歴史的な建物。切妻の瓦屋根を乗せた棟門の向かって右側にくぐり戸が設けられています。表札は今も「大久保」だそうです。

 

八畳の間の南門が元の玄関だったのですが、正面上には、5本のやりの柄が欄間のように掛けられています。

 

大久保忠世と大久保忠佐の兄弟ともに「徳川十六賞将」にも数えられ、しかも、「蟹江七本槍」にも名を挙げられていますので、この槍柄の欄干には、そんな先祖への敬いの気持ちが溢れているのかもしれません。

 

古事記で紹介されている「因幡の白兎」

 

左のこま兎が右手を子うさぎの頭に添えている雄。右が左手で玉を押さえている雌

 

境内にある石製の「こま兎」、高さは1mの台座に上に載る75cmほどの像です。2006年に地元の見付三社氏子崇敬者会によって建立されそうです。

 

本殿に向かって左側が雌で、右手を子うさぎの頭に添えています。右側が雄で、左手で玉を押さえています。

 

「因幡の白兎」とは?

 

大穴牟遅神(おおなむじのかみ/大国主命)は、因幡の八上姫(やがみひめ)に求婚しようとする八十神(やそがみ)たちのお供をして因幡におもむきます。

 

気多之前に来たとき、そこに裸の兎がいました。大穴牟遅神がわけを尋ねると、淤岐ノ島本土に渡ろうと思い、海のサメをだましてその背を踏んでここまで来ました。

 

今まさに地上に降りようとした時、サメに騙したことを告げると、怒ったサメが兎を捕まえて毛を剥ぎ取ってしまったのです。

 

そこへ通りかかった八十神の教えで、海水を浴びて高山の頂上に伏していたのですが、海水が乾くにつれて皮膚が風でひび割れ、苦痛のあまり泣いていたのだといいます。

 

かわいそうに思った大穴牟遅神は、兎に水門へ行って真水で体を洗い、蒲の穂を敷いて転がるようにと教えました。教えのとおりにすると、兎の体は元通りになりました。

 

恩を感じた兎は、美しい八上姫にやさしい大穴牟遅神のおかげで体が元通りになった経緯を伝えます。すると、八上姫は、この優しい大穴牟遅神と結婚しました。

 

優しい大穴牟遅神は大国主命といわれ、人々から尊敬されるようになりました。という誰もが多少なりとも聞いたことのある神話です。

 

一説には大国主命の奥さんになった八上姫が、「白兎」を使者として結婚相手を探したとも言われています。自分の身体を傷つけてまで、大勢いる兄弟神様の中から清い心の持ち主の大国主命を見つけ出す役目を、果たしたわけです。

 

この兎のおかげで大国主命と八上姫がめでたく結婚されたことから、兎は縁結びの神様としても慕われています。

 

心ひそかに思うお相手がいらっしゃるようでしたら、こちらの『淡海國玉神社』で、縁結びの神様として慕われる「白兎」にお祈りしてみてはいかがでしょう。

 

因幡の白兎にゆかりが深い鳥取市の『白兎神社』の参道の脇に並んでいる燈籠の上には、白兎の石像が載っているそうです。

 

ちなみに、埼玉県さいたま市の『調神社(つきじんじゃ)』(『調宮(つきのみや)』とも呼ばれる)の境内にもこま犬ではなく、「こま兎」が置かれているそうです。こちらは鳥居のない不思議な歴史の神社として知られるようです。

 

遠江国総社(とおとうみのくにそうしゃ)

 

創立年代は不詳ですが、平安時代の初期と伝えられています。ここは、遠江国の神々を合わせた神社ですから「総社(そうしゃ)といわれ、ここを参拝すると磐田にあるすべての神社をお参りしたことになります。また、都から赴任してきた国司が最初にお参りする由緒ある神社です。

 

夏の「祇園祭(ぎおんさい)」には、天御子神社より神輿が渡御してきます。平安時代、この祇園祭において、「舞車の神事」が盛大に行われていました。現在は行われていません。

 

秋の「見付天神裸祭」には、深夜の暗闇の中、矢奈比賣神社(やなひめじんじゃ/見付天神)から神輿が渡御します。

 

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見付地区 祇園祭

 

磐田市見付の祇園祭は、遠江国総社淡海國玉神社と、天御子神社(あまみこじんんじゃ)の例祭です。祭典は、宵祭(金)・例祭(土)・終祭(日)の3日間で構成されます。

 

第1日目「宵祭(よいまつり)」

中央町の天御子神社より遠江国総社である淡海國玉神社へ御神霊が渡御します。

 

第2日目「例祭」

総社。神輿前での天御子神社例祭を行います。この日には謡曲「舞車」奉納も行われます。

 

第3日目「終祭(しゅうさい)」

御神霊が、総社より三本松・河原町のお旅所を経て、天御子神社にお帰りになります。

 

参照元:淡海國玉神社 公式サイト | 遠江国総社   自然と歴史の中を歩く!:大久保家と淡海国玉神社①―槍柄の欄間

 

最後に

 

三河で一番の色男「大久保忠世」の弟さんの大久保忠佐(おおくぼただすけ)が、1570年(元亀元年)に家康よりこちらの『淡海國玉神社』の神官になることを命じられ、この『淡海國玉神社』を護っていたと聞き、「なんと!」と目を見開きました。

 

磐田に住んでいた友人に「こま犬」ならぬ「こま兎」が可愛い神社があるよ、と教えてもらい、何度かお参りにでかけたあの神社が大久保忠世と関係あるなんて!とびっくりしたので、今回記事をまとめてみました。

 

「一言坂の戦い」で活躍した本多忠勝に大久保忠佐。その大久保忠佐(大久保忠世の弟)が神官を務めた『淡海國玉神社』で家康公を感じることができると喜ぶなんて!

 

大久保忠佐さんは忠世と同じ「徳川十六賞将」に数えられ、しかも、「蟹江七本槍」にも名を挙げられていますし、磐田では知らない人はいないほど有名な人だったとは!

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。