sannigoのアラ還日記

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『萬松山龍潭寺』は徳川幕府を支えた井伊家歴代当主の菩提寺でお庭も有名

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回訪ねる『萬松山龍潭寺』は、徳川幕府を支えた井伊家歴代当主の菩提寺です。現在放送中の大河ドラマ『どうする家康』では、板垣李光人さんが演じる24代井伊直政公の墓地も境内にあります。

 

24代井伊直政は15歳で家康に仕え活躍、徳川四天王と称され、徳川幕府の基礎づくりに大きく貢献しました。

 

忘れてはいけないのが、この浜松が舞台にもなった2017年放送のNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』ゆかりの地でもあることです。

 

主人公の直虎は龍潭寺二世住職南渓和尚の協力で出家し、井伊谷地方を治める井伊家の女城主となりました。また、直虎は後に徳川家康の家臣として活躍することになる徳川四天王の一人、井伊直政の後見人となり養育した人物です。

 

ちょうど今は境内にある「梅」が満開になり始め、玄関前の「しだれ梅」が鮮やかなピンク色で咲き始めたところだそうで、おでかけに最高なシーズンです。

 

さらに、井伊家のルーツを探っていたら、なんと平安時代に井伊氏の祖となる藤原共資(ともすけ)が住み築いた館とされる『志津城』の存在を知ることができ、現在その場所に「共資公墳墓顕彰記念碑」が建てられていますので、こちらも詳しく記しておきましょう。

 

 

龍潭寺本堂は県指定文化財

 

 

萬松山龍潭寺

 

萬松山龍潭寺は今からおよそ1300年前の奈良時代の733年に、行基菩薩によって創建された歴史の古い臨済宗妙心寺派の寺院です。

 

平安時代からこの地を治め、家康の家臣として活躍した井伊家の歴代当主の御霊が眠る菩提寺としてもよく知られています。

 

1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで戦死した井伊直盛の戒名をとり「龍潭寺」と寺号を改めたそうです。

 

 

場所:浜松市北区引佐町井伊谷1989

 

《アクセス》

バス・電車:JR浜松駅から遠鉄バス[奥山行き]約50分[神宮寺]下車徒歩約10分
      JR掛川駅から天竜浜名湖線[気賀駅][金指駅]徒歩約30分

車:東名高速道路[三ヶ日IC]から約20分
  新東名高速道路[浜松いなさIC]から約10分
  舘山寺温泉より20分
  奥山方広寺より15分
  竜ヶ岩洞より5分

駐車場:あり(無料) 大型バス12台、乗用車40台

 

龍潭寺縁起

 

龍潭寺井伊家歴代の墓

 

寺伝によると龍潭寺の歴史は古く、奈良時代に行基菩薩開創とされます。龍潭寺のある井伊谷は古くは「井の国」と言われ、「井の国の大王」が治めた土地でした。

 

平安時代井伊氏の元祖井伊共保が生まれ、井伊氏は遠江の有力武士として、すでに「保元物語」にその名を連ねていました。

 

鎌倉時代源頼朝に仕え、南北朝時代には後醍醐天皇皇子である「宗良親王」を井伊城に迎え、北朝軍と戦った名門です。

 

室町時代20代井伊直平に帰依された黙宗瑞淵禅師が新たに龍潭寺の開山となり、遠州地方に京都妙心寺派も流れをくむ臨済宗を広め、臨済宗妙心寺派の法灯を伝えています。

 

24代井伊直政は徳川家康に仕え、井伊の赤鬼と恐れられる活躍をしました。この直政を後見人として養育したのが22代井伊直盛の一人娘井伊直虎です。龍潭寺二世南渓和尚の計らいでおんな城主として井伊家を支え、御家断絶の危機を救ったのでした。後に、直政は徳川四天王の筆頭に出世し、関ケ原の戦いの後、彦根に移ります。

 

その後も井伊家では幕末開国の偉業を成し遂げた直弼を含め5人が大老を務めるなど、江戸時代を通して徳川幕府を支えました。

 

その千年余り40代の祖霊を祀る井伊氏の菩提寺として彦根龍潭寺と共にその歴史を今日に伝えています。

 

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龍潭寺といえば、本堂北側の小堀遠州作の国指定名勝の庭園が有名です。歴代の井伊当主も眺めたであろう庭園を楽しむことができます。

 

龍潭寺庭園(国指定名勝)

 

小堀遠州作の池泉鑑賞式の庭園『龍潭寺庭園』

 

小堀遠州作の龍潭寺庭園は、江戸時代初期に造られた池泉鑑賞式の庭園です。小堀遠州は滋賀・長浜の出身で「遠州流」の茶道を興し、二条城の作庭などをした当代一の文化人として知られます。

 

また、駿府城の作事奉行を務め、同じく作事奉行を務めた25代直孝とは親しくその依頼により造られたといいます。

 

四季折々の変化に富み、多くの来観者が訪れている庭園で、1936年(昭和11年)国の名勝記念物に指定されました。守護石・仁王石・礼拝石・心字池を配する典型的な寺院庭園は、東海一の名園です。

 

寺院からの眺めは、井伊家当主がご先祖さまに対して挨拶された”遥拝の庭”(ようはいのにわ)になっています。奥行きのある庭の先に御霊屋、その奥に井伊家墓所が一直線上に位置しています。

 

寺宝

 

井伊氏の菩提寺である龍潭寺は、その歴史と共に貴重な文化財を残しています。境内地1万余坪は御朱印地96石の由緒を残し、そこに立つ宝塔6棟は江戸時代の建築物として県の有形文化財に指定されています。

 

また、国指定重要文化財「宋版錦繍萬花谷(きんしゅうばんかこく/金沢文庫)」、県指定文化財金屏風「遊楽の図」、さらには織田信長公遺品、井伊家拝領の多くを所蔵しているそうです。

 

本堂

 

江戸時代前期に建立された『龍潭寺本堂』

 

江戸時代前期に建立された本堂。臨済宗の禅寺の建築方式にのっとった伽藍は、西遠地方に現存する唯一の物です。御本尊は虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)で知恵と福徳を授かるといいます。

 

鐘楼堂

 

一度でいいので龍潭寺鐘楼堂で鐘をついてみたいものです。

 

現在の鐘楼堂は、1971年(昭和46年)に再建されたものです。正月1日~5日までの間、「いのりの鐘」を撞くことができるようです。

 

参照元:龍潭寺パンフレット

 

井伊共保公出生の井戸

 

田園風景の中の『井伊家初代・共保公が出生したという伝説の井戸』

 

伝説の井戸を上からのぞいたところ

 

場所:浜松市北区引佐町井伊谷1989 龍潭寺門より徒歩で5分
料金:無料

 

龍潭寺の東の囲いの中に佇むのが、約1000年前に井伊家初代・共保公が出生したという伝説のある井戸です

 

直虎の先祖である井伊氏初代「井伊共保公」が平安時代1010年に生まれた井戸と伝えられています。

 

志津城跡碑

 

志津城は、正暦4年(993年)遠江国司・藤原共資(ともすけ)によって築かれたといわれる城です。共資は、井伊氏の祖・井伊共保(ともやす)を成人するまで養育したと伝えられています。

 

 

場所:浜松市西区村櫛町4598

 

《アクセス》

 車 :東名浜松西ICより20分
駐車場:なし 

 

案内版には、「戦国時代の旧地形と城跡の分布」の図と、以下のような文章が書かれています。

 

浜名湖畔の半島に築かれた城跡です。現在は埋め立てが進み、湖面から離れています。井伊谷に伝わる古文書によると、平安時代に井伊氏の祖となる藤原共資(ともすけ)がこの地に住んで館を築いたとされます。周囲には城山・根吉屋(ねきや)などの地名が残りますが、城の主要部は湖面埋め立てのため削り取られて失われました。共資が葬られた場所を御山塚(おやまづか)といい、子孫から日蓮が輩出したという縁で、共資公墳墓顕彰記念碑が建てられました。

 

志津城は、正暦4年(993年)遠江国司・藤原共資(ともすけ)によって築かれたといわれる城です。共資は、井伊氏の祖・井伊共保(ともやす)を成人するまで養育したと伝えられています。

 

共保は共資の養子となり、家督を継ぐと故郷の井伊谷に居館(井伊谷城)を構えて井伊氏を名乗るようになります。巡見使として遠江へ下向した共資が築城し遠江国司として居城していましたが、子の共保の時に井伊谷に移り廃城となったといいます。

 

現在城址の遺構はありませんが、浜名湖国際頭脳センター付近に「志津古城址」と刻まれた石碑が建てられています。

 

ガーデンパークからの帰り道に見つけた道路脇の「志津古城址」と刻まれた石碑。城址碑の南側にちょっとした空き地があったので、ちょっと止まって見たかったのですが・・・。「先を急ぐ身ゴメン」と通り過ぎてしまったのです。

 

そこで、志津城跡というメモだけ残し帰宅後PCでポチポチして見つけたのが、遠江国司・藤原共資の居城跡だったと知ったところです。

 

西側の道路から城址に向かう道もあるということでしたので、次にガーデンパークにでかけた際に寄ってみたところ、車を止めておく場所もなく、草などで荒れ果てやようすで入って行くことは不可能と判断し早々にあきらめました。

 

志津城主の藤原共資は、井伊氏の祖・井伊共保を成人するまで養育したと伝えられているんですよね。それって絶対に、2017年放送のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」に関係あるはず!当時なら多少は整備されていたかも!?

 

「大河ドラマ」ファンとして、当時興味を持たなかったことを本当にもったいないことをしたと反省しております。

 

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御山塚(藤原共資公の石碑)

 

場所:志津城跡の石碑の近くの小高い山

 

藤原共資が葬られた場所を御山塚といいます。志津城跡の石碑の近くの小高い山にあるそうです。案内版にもあるように”子孫から日蓮が輩出したという縁”で、『共資公墳墓顕彰記念碑』が建てられたとのことです。

 

藤原共資自身の事はあまり知られておらず、国司という説と巡見使という説の二つがあるようです。

 

『井伊谷伝記』によると、藤原共資について、「大繊冠藤原鎌足12代の子孫で、備中守(藤原)共資公は公家にて天皇の命令で遠州村櫛に住む。
遠江国を巡検して毎年禁裏へ年貢を納める。数年経ち、遠州一国を預かり村櫛の入り江のところにある城に住んだ。

引用元:村櫛町自治会

 

とあるそうなので、藤原鎌足の12代の孫といわれ、勅を奉じて遠江の国に下り、当地に居館を設けたとされます。

 

共資は後に国司になったといわれますが、その居を移すことなく当地に住み続け、背後の丘(御山塚)に葬られたと伝えられています。

 

志津城主の藤原共資は、井伊氏の祖・井伊共保を成人するまで養育したと伝えられ、共資の養子だった井伊共保が「自浄院」を設立します。これが、後に井伊直虎・直政に関わる『龍潭寺』とのことです。

 

そして、この井伊共保が、武勇に優れた優秀な人物で、井伊谷周辺を取り仕切り、その後の遠江の井伊谷を支配する井伊家の先祖となったのです。

 

遠江の井伊谷は、井伊川の中流にある地で、戦国時代に徳川家康に仕えた井伊直政の井伊家が治めた地です。

 

大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公は、次郎法師の異名を持つ井伊直虎。井伊直虎は、戦国時代から安土桃山時代にかけての遠江井伊谷の領主です。

 

井伊家の先祖は、遠江の国司だった藤原共資(ともすけ)の養子「共保(ともやす)」が、井伊谷に住み井伊姓を名乗ったのが最初です。

 

井伊軍志では、井伊氏の祖についての伝説を紹介しています。

 

井伊家の先祖:藤原共資&井伊共保の伝説

 

1010年(寛保7年)井伊谷八幡宮の井戸脇で、八幡山地蔵院の和尚が生まれたばかりの赤子を見つけました。

よく見ると美貌で眼光鋭い男児。そこで、神主は家に連れ帰り、7歳まで育てたのです。
7歳の時、神童と称され、その噂を聞きつけた遠江の国司 藤原共資は女子ばかりで男子の跡継ぎに恵まれなかったため、神宮に頼み込んで、養子に貰い受けました。

その養子こそが共保、井伊氏の祖、初代共保です。その後、藤原共資の娘を娶り、家督を継いだそうです。

1032年(長元5年)一家の主となった共保は井伊谷に戻り、井伊氏を称して独立し居館(井伊谷城)を構えました。これが井伊氏のはじまりです。共保は1093年(寛治7年)84歳で没し、八幡山地蔵寺(現在の龍潭寺)に葬られました。

 

まるで、日本昔ばなしのようなお話ですが、近江彦根藩の祖となった井伊直政のご先祖に箔をつけるために、このような伝説を作ったのでは?なんて話もあるようです。

 

1010年といえば平安時代の真っ只中です。ちょうど藤原氏の全盛時代で、藤原道長が摂政になったのが1016年とのことですから、史実もいろいろあるようです。

 

龍潭寺の門から徒歩約5分の場所に、一面田園に囲まれたのどかな雰囲気の中に、少し様子の違う石組みの塀に囲まれた場所が見えてきます。中に入ると、石造りの大きな井戸と石碑が並び、その佇まいを今に残しています。

 

 

参照元:https://www.touken-world.jp/tips/17166/ 井伊家のご先祖は、遠江の藤原共資&井伊共保 | 戦国歴史どっとねっと



最後に

 

今回徳川家康ゆかりの地浜松で訪ねたのは、井伊家歴代の当主の菩提寺の『萬松山龍潭寺』です。

 

井伊直政と言えば『彦根城』をイメージするお城好きの皆様も、たまには小堀遠州作のお庭をのんびり眺めるのも良いのでは?

 

今が盛りの梅の香りをまといながら、江戸時代前期の山門(総門)から庫裡、東門(旧鐘楼堂)、開山堂などをゆくっりと味わうのもこの時期ならではの楽しみ方です。

 

龍潭寺の門から5分ほど歩けば、広い田園の囲いの中に約1000年前に井伊家初代・共保公が出生したという伝説の井戸が佇んでいます。

 

井伊家の祖まで興味があるようでしたら、村櫛まで足を伸ばして『志津城跡碑』を眺めてみるのも面白いかも!?城跡といえるかは別として、ここから井伊家が始まったのねと感じるものがあるのでは。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。