sannigoのアラ還日記

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戦国時代の悲劇”21歳の若さで切腹した信康”を供養するため家康が建立した『清瀧寺』

🕖2023/03/27    🔄2023/03/30

こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

桜が咲き始めたと喜んだのもつかの間、雨続きで満開の桜をまだ愛でることができていませんが、今週こそビール片手に夜桜を!と意気込んでいるところです。

 

春分の日に『JRさわやかウォーキング』で訪れた天竜二俣は、『どうする家康』によりかなりの盛り上がりを見せ、天浜線[二俣駅]や、二俣城址は人でごった返しており感動でした。

 

今回は、その天竜二俣で今も愛され続けている武将、家康公の長男でありながら21歳の若さで切腹した信康公が祀られている『清瀧寺』について調べていきます。

 

さらに、家康は、どうして『長篠の合戦』の3年後に、実の息子の信康に自害を命じなければならなかったのでしょうか?その理由についても調べていますので、のんびりご覧になってください。

 

清瀧寺に掲げられた扁額

 

 

清瀧寺(せいりゅうじ)

 

清瀧寺は静岡県天竜市にある浄土宗知恩院の末寺で山号は信康山です。岡崎三郎信康は、徳川家康公の嫡男でありながら織田信長に謀反の疑いをかけられ、1579年(天正7年)9月15日に21歳の若さで家康公の命により二俣城で切腹しました。

 

その信康を供養するために、山号を息子信康の名前から『信康山』とし家康公によって建立されたのがこの清瀧寺です。

 

また、本田宗一郎氏が幼い頃30分早く鳴らしたという鐘もあり、ここで一足早いお昼ごはんを食べたという『早弁』の逸話も残されています。

 

 

場所:浜松市天竜区二俣町二俣1405

 

《アクセス》

 

電車・バス:天竜浜名湖線[二俣本町駅]から徒歩約10分

車:新東名高速道路[浜松浜北IC]から約10分
  東名高速道路[浜松IC]から約35分

駐車場:山門の坂を登った先の本堂前に5台分の駐車場あり。坂が急で狭いのでご注意ください。すぐ横には「本田宗一郎ものづくり伝承館」があり、多数のオートバイが展示されています。

トイレ:「本田宗一郎ものづくり伝承館」の横にあります。


二俣城跡の尾根つづきにあり、本堂には岡崎三郎信康の位牌が祀られ境内には信康廟が建立されています。また、門前には二俣城「水の手攻め」名残りの井戸櫓が復元されています。

 

本来なら家康公の嫡男として二代将軍になっていたであろう信康ですが、信長から処断を促された実の父親である家康の命により切腹したという、戦国時代の悲劇ともいえる出来事でした。

 

清滝

 

この寺の本堂へ向かう途中に池があり、その池にある小さな滝(清滝)から一筋の水が落ちています。この水は裏山から湧き出た水で、未だに枯れたことがないといいます。

 

未だに枯れたことがない小さな滝(清滝)

 

織田信長に謀反の疑いをかけられ切腹した信康の、くやしい涙が流れ続けているともいわれます。

 

二俣城井戸櫓

 

二俣城水の手攻め名残りの井戸櫓

 

池の横には二俣城で建てられたと伝わる井戸櫓が再現されています。

 

1572年に武田信玄は徳川家康の所領である二俣城を包囲しました。二俣城は天竜川の断崖に築かれ、周りを天竜川の要塞で守れらたお城であるため、武田軍は攻めあぐねなかなか落とすことが出来ませんでした。

 

徳川軍が天竜川から井戸櫓を使い水を汲み上げることで水を確保していることに気付いた武田軍は、天竜川に大量の筏を流しこの井戸櫓を破壊し兵糧攻めにしました。水がなくなってしまった徳川軍は降伏し、二俣城を開城したのです。

 

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信康堂

 

岡崎三郎信康について書かれている石碑

 

信康堂の中には信康像があり、人気スポットになっています

 

井戸櫓の近くに信康堂があります。徳川家康の長男である信康のお堂で、木造や信康の生涯がわかる案内が書かれた石碑もあります。

 

また、この信康堂は最近隠れた人気スポットとしても知られています。なぜなら、蓄財ができるパンフレットや明るい未来展望志願の方も祈願できるからです。

 

蓄財パンフレットには『金のなる木の伝』の紙が置かれており、徳川家康が小姓に話したといわれるエピソードが綴られています。お財布に納めて大事にすると幸せを授けてくれるかもしれません。

 

山門

 

山門は1668年(寛文8年)に建立された四脚門

 

井戸櫓の横にある坂を登っていくと山門が見えます。いつ頃建てられたかは不明のようですが、歴史を感じる作りになっています。

 

江戸時代は「下乘」の高札が建てられ、馬をもって乗り入れることは許されていなかったそうです。

 

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本堂

 

清瀧寺本堂

 

清瀧寺は京都知恩院の末院で御本尊は阿弥陀如来です。本堂内には徳川信康の木造や、信康の位牌が安置されています。

 

清瀧寺本堂に安置されている徳川信康像

 

9月15日、かねてから幽閉されていた二俣城で信康は切腹します。このときに介錯を務めたのが服部半蔵と伝わります。半蔵は涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの話が残っています。

 

信康の遺体は二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られました。翌年には家康によって同院に廟と位牌堂が建立され、その後家康が詣でた際に寺に清涼な滝があるのを見て寺の名を『清瀧寺』と改めさせたといいます。

 

ちなみに、ここに葬られているのは信康の胴で、首塚は愛知県岡崎の若宮八幡宮に葬られました。

 

信康廟

 

階段をのぼると信康廟がありますが、中には入れませんでした。

 

信康廟の案内板

 

この先に信康のお墓があるとのこと(入れませんでした)

 

本堂の左側から信康廟につながる道があります。階段を登っていくと信康廟があります。信康廟の前には三つ葉葵の紋が掲げられた赤い門があります。が、この先は入っていけないようです。

 

信康廟の案内板には大久保忠世のことも書かれています

 

信康廟の近くには、殉死した吉良於初(初之丞)、当時の二俣城主だった徳川家重臣の大久保忠世、三方原の戦いで討ち死にした中根平左衛門正照、青木又四郎吉継の墓石も並んでいます。

 

本田宗一郎ゆかりの地

 

本田宗一郎が鳴らしたと伝わる鐘

 

本田宗一郎の鐘の案内板


上の案内板に書かれているように、二俣城の麓の『清瀧寺』は、ホンダの創業者である本田宗一郎が幼少の頃、よく訪れたというお寺でもあります。

 

近くの二俣尋常高等小学校時代の宗一郎少年が、正午を知らせる鐘を30分早く突き、30分早くお弁当を食べたという『早弁伝説』が残る鐘も見ることができます。

 

なぜ家康は信康を切腹させなければならなかったのか?

 

どうして家康は、長篠の合戦の3年後に実の息子の信康に自害を命じなければならなかったのでしょうか?理由については諸説あります。

 

通説

 

通説では、1579年(天正7年)7月、信康の正妻で織田信長の娘である徳姫が、信康と築山御前が武田氏に通じていると信長に訴えます。訴えを聞いた信長が激昂し、家康に築山御前と信康の処断を求めたといいます。しかし、本当に信康が謀反を企てていたのかなどは今も謎に包まれています。

 

当時信長は家康にとっては同盟相手でしたが、力関係でみると圧倒的に信長のほうが強く家康にとっては逆らうことができない相手だったのです。

 

まず8月29日に、家康の正室で信康の母である築山御前が、我が子の命乞いをするため岡崎から浜松城に向かう途中、浜松の佐鳴湖の東岸の小籔村で38歳の若さで生涯を閉じます。

 

築山御前は井伊家の血を引く姫でした。ということは、嫡男の信康も井伊家の血を引く人だったということです。というのも、「おんな城主直虎」で登場した直虎の祖父で井伊家城主だった井伊直平の娘が今川に嫁いでいます。この嫁いだ娘が生んだのが築山殿、つまりは直平の孫だったということです。

 

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家臣からの信頼も厚く、将来を嘱望されていた信康に切腹を命じることを、家康の家臣は反対していたといいます。が、家康は苦渋の決断で信康に切腹を命じ、9月15日にかねてから二俣城に幽閉されていた信康は自害します。享年21歳。

 

なんといっても『信康』という名は、信長と家康の清洲同盟の証しで、「信」は織田信長から、「康」は徳川家康からとって改名したものです。しかも、同盟を結んだときに、信長は自分の7歳の娘「徳姫」を、7歳の信康の嫁にするほど密な関係だったのですから、どうしてこうなった?と疑問も残ります。

 

ただ、最近は古文書などの研究が進み、徳姫から信長に送られたという『12か条の訴状』の8条しか残っていないことや、内容が女性の文章ではないのでは?から始まり、家康が信康を徳川家の後継者と決めていたならば、松平信康ではなく「徳川信康」と名乗っていたのではないだろうか?など、通説以外の説も考えられるようになってきたそうです。

 

~他の説を見てみましょう~

 

家康(浜松派)と信康(岡﨑派)の確執があったから

 

他の説では、信康が自害に追い込まれた理由は信長からの命ではなく、家康(浜松派)と信康(岡﨑派)の確執があったからというものがあります。

 

一向一揆のあと、家康は家臣団を整備して、東三河の旗頭を酒井忠次、西三河の旗頭を石川数正(岡崎城の城代もつとめる)としています。

 

ところが、酒井忠次の家臣”家忠”が「実際にあったことだけ」を書いたという、かなり信憑性の高い『家忠日記』によると、どうやら家康が構築した三河国衆への指示系統と、後継者として振る舞う信康の行動が、家康の軍事制度と一致しないため国衆にとまどいがあるような事実が書かれています。

 

家康の軍事制度が信康によって壊されたことで家康家臣団が壊れてしまう可能性もあり、何よりも尾張の同盟関係にある織田信長がどう思うかが、家康にとって大いに気になったのかもしれません。

 

さらに、『家忠日記』には「信康と徳姫の仲違いを家康が治めにやったきた」などと書かれていることから、信康と信康の正室徳姫つまりは信長の娘の不仲が、信長の怒りに触れないかと家康が心配していたことがわかります。

 

信長の命で叔父の水野信元暗殺

 

家康の母である於大の方の兄で家康の叔父にあたる水野信元は、松平元康(のちの家康)が今川家から独立して岡崎城に復帰すると、1562年(永禄5年)に織田信長と徳川家康の間を仲介し、清洲同盟の締結に貢献しています。信元は1563年(永禄6年)家康が三河一向一揆に苦戦するとこれにも援軍しました。

 

さらに三方ヶ原の戦いでも家康の援軍として参陣、信元は籠城戦を主張し野戦にこだわる家康と対立しますが、結果として野戦で敗走し憔悴した家康の代わりに指揮しています。

 

※水野信元が松平家から織田家に寝返ったことをきっかけに、今川寄りの松平家はまだ3歳の家康の母である於大の方を離縁します。その後於大の方は阿久居の坂部城主・久松俊勝に再嫁しています。

 

1576年1月(天正3年12月)、織田家の佐久間信盛が「武田勝頼の家臣秋山信友との内通や、兵糧を武田勢に送った疑いがある」と信長に報告したため、信長からの命で甥である家康が三河大樹寺に呼びつけ平岩親吉に暗殺させています

 

刺客役を命じられた平岩親吉(ひらいわちかよし)は、宣元を斬ったのち信元を抱き上げ「信元どのに私怨はないが、君命によりやむをえず刃を向け申した」と涙ながらに侘びたといいます。

 

案内役をしていた久松俊勝は「こんな事になるとは知らずに、妻である於大の方の兄の信元を迎えに来て討たれてしまうとは」と家康を恨み出奔してしまいます。その後、夫に出奔された於大の方とその子供たちは家康が引き取ります。

 

兄を殺された於大の方は石川数正を深く恨み、その後の家康嫡男・松平信康と、その母築山御前の粛清や、石川数正出奔の原因と考える人もいます。

 

そんなこともあったことから、家康は信長に信康が粛清されることを心配してか、信康を岡崎城から退去させ大浜(愛知県碧南市)へ、さらに浜名湖堀江城(現在の浜名湖パルパルの場所)へ移します。

 

家臣たちにも信康との手紙のやり取りを禁止していたようです。さらに信康を二俣城に移した家康は、そこで信康を自害させます。信康の亡骸は、城から嶺続きにある小松原長安院(のちの清瀧寺)に葬られました。

 

家康は信康の菩提を弔うために小松原長安院の山号を信康山と変え、行基が作ったとされる聖観世音像を奉納したとされていますから、決して信康を嫌っていたとは思えません。

 

酒井忠次見ごろし説!

 

信康の謀反の疑いを晴らすため信長の元へ派遣された忠次は、一切弁明することなく信長の処分を受け入れたという説があります。

 

『えびすくい』の忠次も信康に何かしら感じるところがあったのかもしれないし、逆に信長の信康切腹への決意がゆるぎないもの過ぎて、忠次がうなずくことしか出来ないほどの迫力があったとか・・・。

 

この説の要因は、後に他の徳川四天王が10万石以上の石高を与えられるも、酒井家はわずか3万石に留められた原因が、忠次のこの行動を家康が恨んだからというのです。

 

実はこんな逸話も残されているとか。忠次が「息子にも加増して欲しい」と家康に頼んでも、「お前も息子がかわいいか」と軽くあしらったという逸話。無きにしもあらず!という逸話ですね。

 

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家康と信康の確執説

 

『家忠日記』の中に、”家康と信康が物別れになった”、”家康は家臣に信康と連絡を取らないように起請文を書かせた”という記述があるそうです。

 

これらの記述から「信康が家康に反旗を翻した可能性がある」というのです。信康の性格は非常に乱暴だった。家臣たちの支持も得られていない。家康が将来を考えて今のうちに、信康の処断を下して徳川の今後をきちんと作っていこうとしたという説です。

 

忠次が信長を訪れたのは弁明役としてでなく、信康の処断の了承を得るためではないかというものです。忠次としては切腹まではさせずに、剃髪させて仏門にでも入れたらという方法を考えていたかもですが、そこは家康の考えに従ったというわけです。

 

忠次が創建したという『復鎮霊社(ふくちんれいしゃ)』

 

旧庄内藩の鶴岡には信康を祀る祠『復鎮霊社』があるそうです。酒井忠次が信康事件に関わりを持っていたため、1685年(享保2年)に信康の霊を弔うために創建したと記されています。

 

信康の切腹は酒井家にも大きな影を落としたと考えられます。徳川家康が信康の切腹を裁断したということについて、酒井家としては信康の切腹に関与していたことは事実だったので、ずっと心の奥に残っていたと思われます。

 

忠次は信康を切腹に追い込んだ事を悔やんでいたのではないでしょうか?信長から強く処断を求められ、信康を守れなかったことに負い目を感じていたように感じます。なぜなら、酒井家は代々信康の魂を供養し続けているからです。

 

信康の一件は後々まで大きく影響し、忠次は不遇な晩年を送ったと伝えられていますが、酒井家は明治維新まで庄内藩主を全うしていることから家康と忠次の絆は途切れることなくつながっていたと感じます。

 

石川数正は豊臣へ、平岩親吉は信康のために命も投げ出すと!

 

家康の嫡男信康が元服してから、その後見人を任され西三河の旗頭も務めていた石川数正は、信康の自害後には信康に代わって岡崎城を預かり城代になります。が、のちに豊臣秀吉に臣従して家康を驚かせます。

 

岡崎城代だった石川数正は、織田信長が本能寺で死去し代わって豊臣秀吉が台頭するようになると、その交渉役としてその担当になります。そんな中、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いが終結すると、翌年11月13日に数正は突然豊臣秀吉に向かって出奔し臣従し、家康を震撼させたことは有名です。

 

この出奔は未だに謎とされ、その明確な理由はわかりません。秀吉との交渉を担当した結果、秀吉に引き抜かれた?もしくは、徳川と豊臣の和睦を主張し、家中での立場がなくなってしまったから?など諸説あります。

 

はっきりしません。が、徳川家の事を充分すぎるほど知り尽くした家臣が、豊臣家に移ったとなれば一大事です。とりあえず、家康は軍政を従来のものから武田流に改めたとされています。

 

もう一人、信康の元服以降、傅役(もりやく)として補佐していた平岩親吉は、織田信長から信康の切腹を家康が要求された時に「責任は自分がかぶり、自らの首を信長に差し出すこと」を求めたのですが、信康の処断を防ぐことができず、その責任を感じて蟄居謹慎しました。もちろん後に家康に許され、再び家臣として復帰しています。

 

この平岩親吉とは、徳川家康と同い年で、幼少の頃には織田氏や今川氏へ人質として送られていた時代をともに過ごした親友です。遊び友達であり、同級生でもあり、そして家臣でもある親吉は、終生にわたり家康に仕え続けた人です。しかも子のいない親吉に自分の子を養子にするほど、固い絆で結ばれていました。

参照元:徳川家康 - Wikipedia

 

信康武者行列復活!?

 

2023年は5月5日(金)に「天竜二俣ここにあり」ということで、家康の長男信康をしのぶ『信康武者行列』が中区で開催されるというニュースが飛び込んで来ました。

 

浜松でGWに開催される『浜松まつり』は、凧揚げや御殿屋台の引き回しなどで有名です。なんと!今年は松潤を招いて5月5日に『騎馬武者行列』に登場することが決まり、観覧の定員が2万人と発表された今、参加希望の応募が始まる4月3日を待ちわびている人もおおいことでしょう。

 

しかし、そこで父上には負けていられないと立ち上がったのが、父親である家康公の命で命を落とした信康です。

 

『浜松まつり』で松潤の『騎馬武者行列』と同じ中区の浜松駅周辺の800mを、信康と妻の徳姫(信長の娘)、当時の二俣城主大久保忠世のほか、信康の後を追って自害したと伝わる小姓ら3人の役を先頭に鉄砲隊や女武将たち50人が連なり練り歩くそうです。

 

信康行列はこれまで毎年11月3日に、信康が自害した二俣城跡のある天竜区二俣町で周辺で100人を超す盛大な規模で開催されていたのですが、コロナ禍の影響で2019年以来開催できずにいたそうです。この行列はまさにリベンジ!という感じなのでしょう。

 

こちらの記事でご紹介した人気の信康くんも登場するかも知れません。5月5日がますます楽しみになった浜松市民です。

 

最後に

 

今回は、『春を先取り!徳川家康公の長男信康ゆかりの地を辿る』という何とも長いネーミングのJRさわやかウォーキングに参加して訪ねた場所の中で、一番印象深かった『清瀧寺』のことを調べてみました。

 

『清瀧寺』は静岡県天竜市にある浄土宗知恩院の末寺で山号は信康山。岡崎三郎信康が、徳川家康公の嫡男でありながら織田信長に謀反の疑いをかけられ、1579年(天正7年)9月15日に21歳の若さで家康公の命により二俣城で切腹しました。

 

その信康を供養するために、山号を息子信康の名前から『信康山』とし家康公によって建立されたのがこの『清瀧寺』です。

 

供養するくらいなら最初から殺すな!と言いたいのは山々ですが、そこは戦国時代であり、しかもあの織田信長と同盟を結んだあとの家康に起きた事件であることや、恩を受け武将になるための知識まで授けてくれた大恩人の今川義元を討った信長と同盟を結んだことなど仕方のないことの連続だったのだから、仕方ないと思うしかない気がします。

 

もしかしたら、家康にはその頃から「戦のない平和な時代を築く」という意志、そこまでの道のりのはっきりとしたビジョンがあったのかもしれませんし。

 

なんてことを想像して、私のような一般ピープルが勝手に物申せるのは、『赤色立体地図』から玉城の説明をしてくれるようなテレビ番組がある令和の時代だからです。

 

戦国時代、毎日が生きるか死ぬかのギリギリの時代の武将にとっては、親子・夫婦であれ[命の選択]は仕方ないことだったのでしょう。今思えば争いからは何も生まれないってことで良いでしょうか?

 

ということで、今回はこのへんでおしまい。最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。