sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

『只木神明宮』の前身は大田田根子命の子孫と伝わる三輪氏族の奉斎する『弥和山神社』

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回は静岡県浜松市浜名区のみかんがおいしい三ケ日の尾根にあり、縄文時代の人骨が発見された『只木遺跡』にほど近い場所にある『神明宮』をお参りしてきました。

 

この『神明宮』、実は調べているときからかなり興味津々だったのです。というのも、調べているときのこちらの名称はただの「神明宮」だったから。普通「〇〇神明宮」とか〇〇がつきませんか?ただの『神明宮』なんて!きっと何かしらの歴史が隠されているんじゃないの?って思ってしまったからなのです。

 

ところが、家でゆっくりとグーグルマップで調べると、しっかりと『只木神明宮(式内社 彌和山神社)』と出てくるじゃありませんか?まあ、けっきょくたどりついてお参りできたので”良し”としましょう。

 

こちらの『神明宮』実際に出かけてみて感じたのは、本当に静謐といいますか、すごく静かで安らかな空間でした。ちょっと歩いてではたどりつけないような尾根にありますので、お車でお出かけになることをおすすめします。

 

ちなみに、『神明宮』にほど近い『只木遺跡』とは、1959年(昭和34年)発見当時は、現世先人類の原人人骨が発見された!と騒がれ、なんと『三ケ日原人』として教科書にも載ったけれども、残念ながら2001年(平成13年)放射性炭素法測定で、旧石器時代、8200年~1万1000年まえの縄文時代の人骨とされ「三ケ日人」に置き換えられ県指定も外されてしまった三ケ日人骨出土の地です。

 

『只木神明宮』の拝殿

 

 

只木神明宮(式内社 彌和山神社)

 

 

場所:静岡県浜松市浜名区三ケ日町只木355

 

《アクセス》

 

電車・バス:天竜浜名湖線[三ヶ日駅]から徒歩約1時間

車:東名高速道路[三ヶ日IC]より約9分、ICから県道308号を北上し約6km。

  大福寺から県道68号を南進し、左折して県道308号を進むと約5分(約2.9km)。

駐車場:こんもりとした丘の下、道路沿いに空き地があります。

 

このような看板がある道路沿いに停められます

 

今回私が利用したルートは寸座~佐久米~東都築と浜名湖岸を進み、三ヶ日インター線から県道308号の山道(広いのにうねうねしている)の途中にある”こんもりと木々の茂った丘”を目指しました。

 

只木遺跡の看板を発見し、ここらへんだねと畑の中の細い道を入っていくとしっかり「只木遺跡」に到着してしまいました(笑)

 

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いやいや、違うんだけどと、少し坂を下ったところであの丘じゃない?と、その丘を目指し細い道を歩いていくと厳かな雰囲気の参道に出ることができ、うっそうとした参道を数分歩いてようやくひっそりと鎮座する『只木神明宮』に到着できました。

 

ただ、おすすめなのは「大福寺」から県道68号を南に進み、左折して県道308号に入る2.9kmのコースなら、車で約5分で『只木神明宮』のいにしえを感じる階段が左側に見えてきます。少し先の駐車場に車を置いてこの階段を登って、鳥居をくぐり、さらに階段を登って木々に覆われた参道の奥の境内に出るルートです。

 

御由緒

 

創始年代は不詳で、この神社の前身は、文献の存する限りで最も古い時代に浜名湖周辺に居住していたと考えられる大田田根子命の子孫と伝わる美和(三輪)氏族の奉斎する『彌和山神社』と称する『大物主命』を祀ったお社で、式内・弥和山神社です。

 

現在は天照皇大神を祀る神明宮ですが、古い時代には大物主神を祀っていたこともあり、従来の主祭神は出雲系だったようです。

 

神明宮へと変わったのは、平安時代の天慶3年(940年)8月、浜名地域が伊勢神宮の神戸となり、同地に御薗御厨(みそのみくりや)が成立したことによります。こちらの神明宮の所在地にも但木(ただき)御薗が成立したといい、この時にこれまでの御祭神であった大物主命から天照皇大神を奉斎したと推定されます。

 

御薗御厨とは?

 

天竜川右岸、現浜北市南部から浜松市北東部一帯に比定される伊勢神宮領の御厨蒲かば御厨(現浜松市)の北方に位置する。
平安時代末期の伊勢神宮の所領状況を示した伊勢大神宮神領注文(神宮雑書)に「美園御厨二宮」とみえ、給主は故九条女三位家(藤原俊成妹)子息(藤原顕頼息の惟方)であった。
当御厨は往古よりの神領で、天養二年(一一四五)に改めて立券され、仁平元年(一一五一)に奉免の宣旨が出されたという。
「神鳳鈔」によれば面積は五〇〇町歩で、内宮に上分米二〇石・口入米二〇石を、外宮に上分米二〇石・雑用米二〇石・長日御幣紙三六〇帖を納めている。

(コトバンク)

 

古くに祭神が変わったためか式内社・弥和山神社の比定では湖西市新居町橋本説などがあったと聞きます。

 

しかし、輸租帳(ゆそちょう/律令政府が国司の政務実績を調査するために毎年1年間に実際に収納した田租・地子に関する正確な数値を書き上げさせた上で、国司が都に派遣する四度使のうち調帳を提出する貢調使に携帯をさせて民部省に提出させた帳簿。租帳(そちょう)とも呼ばれいる。/輸租帳 - Wikipedia)などの資料から現在は三ヶ日町只木の神名宮が式内社・弥和山神社と比定されています。

 

こちらの神明社周辺は、古来、宮山・宮平と呼ばれていたそうですが、これは、「弥和山」から転訛したものと考えられているといいます。

 

御祭神

 

天照皇大御神 

 

鳥居

 

県道308号から見えるいにしえを感じる階段と鳥居

 

神様がいる場所と私たちが暮らす俗世を隔てるという石の鳥居ですが、どこの神社の鳥居よりもすごく隔たりを感じる鳥居でした。山の中を走る近代的な広い道路と、こんもりとした深い緑の丘にある静謐なイメージの階段や境内は、まさに強い隔たりを感じさせます。

 

百度石と手水舎

 

たくさんの参拝者が使ったであろう『百度石』と、新しめの『手水舎』

 

拝殿

 

『拝殿』と拝殿から見える『本殿』

 

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拝殿後方の本殿

 

拝殿奥にある『本殿』と、拝殿横に掲げられた「神明宮経略」

 

拝殿奥に見える本殿は神明造のようです。拝殿横に掲げられた『神明宮経略』には以下ような神明宮経略が書かれれています。

 

神明宮経略

抑も当神明宮の濫觴は上古期浜名湖周辺に定着繁巣した三輪(美和・神)氏族の奉斎にかかる式内弥和山神社に当たるものにて、平安中期の天慶3(940)年伊勢神宮神領神戸が五券寄進され、その内外に御薗御厨が成立するにおよび、当神社の所在地にも但木御薗の成立を見たのであり、それに及んで旧来の祭神大物主命の霊に代るに天照皇大神を奉斎したと考えられます。その時期は鎌倉時代初期天福元(1233)年かと推察されます。
 明治維新まで摂社として西ノ宮、二ノ宮の2社のみが存したことは、式内社時代の旧態を良く物語っており、天福元年但木御薗記銘の懸仏の残されていることは神明宮奉斎の時期を示しています。
次いで室町時代の当社の姿は貞治4年(1365)大江末光奉納にかかる掛け仏二体によって覗うべく、近世江戸時代初期以来明治まで十数度の神殿修造葺上あり、現存棟札の最古のものとしては、元和6年(1620)3月5日当時住民の代表左近右衛門真次、源右衛門秀正、源兵衛秀勝以下惣村人等により上葺が行われたときのものであります。そして明治維新におよび、明治12年9月10日村社に列格奉斎されましたが、今次大戦の結果昭和20年村社の格を廃されました。
現在の本殿は、昭和34年9月伊勢湾台風の災禍により倒壊したものを氏子総代区長以下氏子一同鋭意再興に当たり成立したものであります。
昭和50年10月竣工の拝殿および付属する祝詞殿・渡殿は、伊勢神宮の式年遷宮による古材御下渡しの恩典に浴し、これが□領交渉の往来など建設委員長以下氏子一同の血の滲むような努力の結晶と、更には当区を郷とする300余名にのぼる元氏子の寄進に与かる力大である故を後世に永く識らせるものであります。かくして茲に、当区にとって千載一遇の盛事を醸成したと言えるでしょう。
昭和50年10月 識

(拝殿横の「神明宮経略」)

 

本殿横の摂社

 

本殿横の『摂社』と、境内社であると思われる『石のお社』


摂社、境内社ともに御祭神はわかりません。かなりの歴史が深そうな石のお社ですが、しっかりとしめ縄で守られています。

 

三輪氏族が大物主命を祀った『彌和山神社』?

 

この神社の前身は、むかし浜名湖周辺に居住していたと考えられる大田田根子命の子孫と伝わる美和(三輪)氏族の奉斎する『彌和山神社』だったということですが、大田田根子というのですから、歴史に弱い私はてっきり女子かと思ったのですが、男性のようです。

 

そして、聞いたことがあるような、ないような、あの「崇神天皇の時代に疫病が流行っったり、百姓(おおみたから)は流離したり反逆したりで国内情勢が不安になった時、天皇はその原因は天照大神・倭大国魂神の2神を自身の居所に祀ったことだと考えた天皇。天孫降臨以来、天照大神は天皇おそばでお祀りされていたものを、なんと天照大神を皇居外のふさわしい場所にお祀りすることを決めてしまった」という話を思い出してみましょう。

 

まずは、天照大神を皇女豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が笠縫邑に神籬(ひもろぎ)を建てて大御神をお祀りさせ、一方の倭大国魂神は渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)につけて祀らせたですが、髪はおち、身体はやせてまつることができなかった。

 

その後、天照大神は豊鍬入姫命から離され、倭姫命(やまとひめのみこと/垂仁天王皇女)に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着く事になるというあのお話です。先日記事で紹介した『浜名惣社神明宮』にも天照大神が40余日祀られていたといわれてましたっけ。

 

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大田田根子の登場はその後なんですよね。事態を憂慮した天皇が占いをすると「わしは大物主神だ」と自己紹介した神に「わしを祀れ、そうすれば疫病は和らぐ」と言われ、おっしゃる通りにお祀りしたのに効果がなかった。

 

そこで、斎戒沐浴し「殿(みあらか」)のうちを清めて「自分の信心が不十分なのでしょうか。夢の中で教えてください」と頼んだ。

 

その日の夢に大物主神が現れ「「疫病は自分の仕業であること、自分の血を引く大田田根子の手によって祭られればそれは収まる」と告げたため、天皇は大田田根子を探し出し彼を大物主神の祭主に据えたという、ここで大田田根子が登場しています。

 

大田田根子とは?

 

「オオ」は「大」で美称、「ネコ」は尊称を意味し、『古事記』『日本書紀』の伝承に登場する人物で、三輪山(奈良県桜井市)の神である大物主神の子、または事代主神の子孫または子といわれ、神君(三輪氏、大三輪氏、大神氏)、鴨君(賀茂朝臣氏)、石辺公の祖先とされています。

 

日本書紀によると崇神天皇の時代、疫病が流行(国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった)したとき、天皇の夢に大物主神が現れて、「疫病は自分の仕業であること、自分の血を引く大田田根子の手によって祭られればそれは収まる」(天皇よ、そんなに憂えなさるな。国の治まらないのは、吾が意(こころ)によるものだ。もしわが子大田田根子に、吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう)と告げます。

 

そこで大田田根子が茅渟県の陶邑(ちぬのあがたすえむら)で捜し出され、彼は、「父親は大物主大神で、母親は陶津耳(すえつみみ)の娘の活玉依媛(いくたまよりびめ)である」と答えたため、彼を大物主神の祭主に据えます。

 

それから、伊香色雄(いかがしこおのみこと/『記紀』等に伝わる古墳時代の豪族・物部氏の祖)に沢山の平瓮(ひらか/平らな土器。平たい皿様の器)を神祭の供物とし、大田田根子を大物主大神の祭主、市磯長尾市を倭大国魂神の祭主にした、といいます。

 

これにより、疫病は収まり、国内も鎮まり、五穀が実って、百姓は賑わい国内は平安を取り戻したということです。

 

この大田田根子が三輪君の始まりであるといわれ、現在、奈良県桜井市三輪にある『大神神社(おおみわじんじゃ)』の摂社で、国重要文化時の「大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)」に祭られているそうです。

 

参照元:大田田根子 - Wikipedia

 

最後に

 

こちらの『神明宮』を実際にお参りしてみて感じたのは、すごく静かで安らかな空間だったということです。

 

すぐ近くには縄文時代の人骨が発見されているわけですから、やはり丁寧に模様を入れたような土器を作り、木の実や山菜を収集し、狩りや魚を獲って暮らし、決して争わなないような人々が暮らし、長らく平和な時代が続いた地域なのではないかと想像します。

 

現在もこちらの「神明宮」の境内はきれいに掃除され、清潔感あふれる空間であり続けていることは、もしかしたらこの縄文時代から受け継いできたものが今も生き続けているのでは?なんて思ったりもします。

 

いわゆる神様にとても近い距離で暮らす人々という感じで、「日本終わった」とか「マジうざい」とかは言わないのでは・・・。そんな人々に1㎜でも近づけますように!と結局神頼みで終わるつまらない人間です。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。