sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

家康ゆかりの地

湖西の『本興寺』は文化財の宝庫、家康最初の側室”西郡局”のお墓もあります

湖西市にある文晁寺(ぶんちょうじ)とも呼ばれる『本興寺(ほんこうじ)』はとにかく広くて静かできれい。山門までの参道はまっすぐと伸び、参道脇に植えられたツツジや公園の桜などのシーズンは、お花見のために訪れる人々も多く賑わいが増えると聞きます。

お茶畑が広がる牧之原台地の丘陵地、急勾配の坂を登れば堅固な守りの『勝間田城跡』

勝手に「徳川家康ゆかりの城」の一つと思いこんで、今回この「勝間田城」を訪ねてみました。駐車場からの登り坂はけっこう勾配がきついですけど、ほんの10分~15分で戦国時代を思わせる城跡に立てるんですから、本当に良いところだと思います。

三ケ野坂を上り大日堂がある高台で本多忠勝のように武田軍が布陣した木原をながめてみた

今回は、1572年(元亀元年]武田信玄が木原(袋井市)、西島(磐田市)に約3万5千の軍を敷き、三ケ野大日堂まで偵察に来た3千の徳川家康軍を攻撃した「三ケ野坂の戦い」が行われた『三ケ野坂古戦場』です。

磐田見付にある三河で一番の色男「大久保忠世」ゆかりの『淡海國玉神社』

今回ご案内する「大久保忠世」ゆかりの『淡海國玉神社』は、こま犬ではなく子うさぎを添えるように上を向いたかわいい「こま兎(うさぎ)」が出迎えてくれるんです。その理由は神社に祀られているのが、「因幡の白兎」で知られる大国主命(おおくにぬしのみ…

偵察に出ていた本多忠勝らが武田軍と遭遇して戦いになったと伝わる『木原畷の戦い』

「木原畷の戦い」後に「三ケ野坂の戦い」があり、「一言坂の戦い」「提燈野の戦い」から浜松城に逃げ帰り、そしてのちの「三方ヶ原の戦い」と続くと伝えられています。「一言坂の戦い」は1572年(元亀3年)10月に遠江に侵攻した武田軍と、それを迎え撃つべく…

ちょこんと座った姿がかわいらしい石像が目印の磐田御殿遺跡公園、御殿の門が移築された西光寺、西願寺

現在は市街地に没している、徳川家康が鷹狩りのおりに休憩・宿泊施設として築いた「中泉御殿」の表門は西光寺に、裏門は西願寺にと、付近のお寺に移築され現存しており、市指定文化財に指定されています。

高根城は信濃との国境にほど近く、国衆奥山氏が街道を押さえる拠点として築いた城

大河ドラマ『おんな城主直虎』でロケ地になり有名になった遠州最北端の山城『高根城』、武田軍が遠江に進出した際には武田信玄と徳川家康による戦国時代の攻防の地で実は”二重掘切”がすばらしいのです。

生涯で1,000回以上も鷹狩りを楽しみ、孫の家光も練薬で治すほどの薬をつくる家康

大河ドラマ『どうする家康』が好調だからなの?最近は歴史番組はもちろん、普段から放送しているクイズ番組まで”徳川家康関連”が多くてうれしい限り。ところで、家康の銅像は鷹狩りスタイルが多くない?どんだけ鷹狩りが好きだったの?それから「薬作り」も…

家康が鯛の天ぷらで食あたりを起こしたという藤枝の『田中城』の下屋敷を訪れてみた

家康好きが止まらないアラ還は、今度は浜松を飛び出し藤枝市の『田中城跡』を訪ねてきました。『田中城』といえば、一説では徳川家康の死因ともいわれる鯛の天ぷらを食したお城としてよく知られ、小説やドラマでも何回となく描かれています。

鍛冶屋や金工職人、鋳物屋の篤信を集める『金山神社』はまるでオアシス

今回の徳川家康ゆかりの神社は『金山神社』です。徳川家康をはじめ、歴代の浜松城主からも崇敬されていたといいます。家康が美濃国(岐阜県)南宮大社より御分霊を勧請し祀ったことが始まりとされます。

遠江侵攻を始めた徳川家康が最初に攻めた『宇津山城』は正太寺からの宇津山城跡散策コースがおすすめ

今回の徳川家康ゆかりの城は、遠江侵攻を始めた家康が最初に攻めたという湖西市の正太寺鼻にある『宇津山城跡』、ちょうどツツジがきれいな今なら城跡までの険しい山道も楽しいのでは?と考え思い切って訪ねてみました。

家康の伝承が残る樹齢1000年を迎える雲立の楠、『浜松八幡宮』に浜松の名前の起源があるの?

今回の徳川家康ゆかりの神社は、浜松市中心地にありながら緑あふれる森に鎮座する『浜松八幡宮』です。家康が三方ヶ原の戦いでの敗走時に逃げ込み身を隠した『雲立の楠(くもだてのくす)』が今も残る神社で、浜松城の鬼門を護る神社でもあります。

観覧車が目立つ舘山寺遊園地パルパルは『堀江城跡』の地に立つ

浜松の小学生、中学生諸君。君たちが大好きであろう『浜名湖遊園地パルパル』は、もともとはお城だったことをご存知だろうか?観覧車の下にひっそりと佇む堀江城の案内板に気付いていますか?

武田勝頼が築いた武田流築城術を駆使した大規模な山城『諏訪原城跡』

今回は、武田勝頼が遠江攻略のために築いた、武田流築城術を駆使した大規模な山城『諏訪原城跡』です。こちらを訪れたら、きっと誰もがそれまで想像していた「お城」そのものの印象がガラッと変わるのではないでしょうか。なんとなくですが、私的には「戦(…

家康公から天竜川の材木流運の特権を与えられた『筏問屋 旧田代家住宅』

先回JRと天浜線、さらに遠州鉄道がコラボした『さわやかウォーキング』で、家康の支城として知られる二俣城と鳥羽山城、そして戦国の悲劇信康が眠る清瀧寺を訪ねました。今回は、その際、立ち寄った家康公ゆかりの『筏問屋 旧田代家住宅』をご紹介しましょ…

現在も地名に残る家康にまつわる小豆餅、銭取の逸話。やっと本物の小豆餅食ったどー

今回、お花見を兼ねてでかけたのは『小豆餅』と『銭取』、どちらも地名に残された家康公の逸話が残されています。この辺りは現在の浜松市中区葵町になり、「小豆餅」を販売している『御菓子処あおい』もあり、小豆餅を購入しいただくこともできます。

家康、秀忠、家光が合祀される『三方原神社』は三方原に入植した旧幕臣の名残り

『三方原神社』の御祭神は東照大権現(徳川家康)ですが、秀忠公、家光公も合祀されています。1922年(大正11年)6月25日、旧浜松城内に祀られていた「東照宮」(元城神社)をゆかりの地三方原村へお迎えし、村民の信仰の中心となる神社としました。

今も三方ヶ原合戦を伝える、戦没者を葬った「精鎮塚」が 残されている『三寶山本乗寺』

今回の徳川家康ゆかりの寺は、三方ヶ原合戦の戦没者の墓が残されている『三寶山本乗寺』です。境内には「精鎮塚」と記された1573年(元亀3年)に行なわれた『三方ヶ原の合戦』の戦没者を葬った墓が残されています。

1568年に”井伊三人衆”の案内により侵攻した徳川軍に攻められ落城した『刑部城跡』

今回の徳川家康ゆかりの城は、堀川城と同様三河の家康が遠江に侵攻してくる徳川に備えて、今川方の豪族たちが築いたお城『刑部城』です。 刑部城には悲しい姫様の悲話も残されているということで、興味津々で調べてみました。

1200年もの歴史がある古刹『瑠璃山大福寺』は家康が愛した『浜名納豆』の発祥の地

今回の家康ゆかりの地は、三ヶ日みかんでよく知られる三ヶ日にある1200年もの歴史がある古刹『瑠璃山大福寺』です。家康が愛した『浜名納豆』の発祥の地であり、寺内に多数の文化財があることもご参拝の楽しみです。

『護法山地蔵院』には築山御前が生前携えていたとされる秘伝『腹籠地蔵尊』が祀られている

ドラマですから、松潤と一緒に架純ちゃんも大往生しても良いのでは?とも思うのですが!今回は築山御前が生前肌見離さず携えていたとされる秘伝「腹籠(はらごもり)地蔵尊」が本堂の位牌堂に祀られている『護法山地蔵院』です。

天浜線の『松潤ラッピング列車』が『どうして!?信康』駅(天竜二俣駅)に停まってた!

天浜線の『松潤ラッピング列車』をご存知ですか?しかも、天竜浜名湖鉄道の[天竜二俣駅]には、3月20日から副駅名(愛称)として『どうして!?信康』の看板がホームに誕生したのです。その二俣には苦笑いするほどチャーミングなお顔の『信康くん』もいます。

戦国時代の悲劇”21歳の若さで切腹した信康”を供養するため家康が建立した『清瀧寺』

天竜二俣で今も愛され続けている武将、家康公の長男でありながら21歳の若さで切腹した信康公が祀られている『清瀧寺』について調べていきます。さらに、家康は、どうして実の息子の信康に自害を命じなければならなかったのでしょうか?その理由についても調…

浜松市天竜区にある徳川氏と武田氏が攻防を繰り返した二俣城址と鳥羽山城址

家康が遠江に持っていた城は数多くあります。特に浜松城の支城として知られるのが二俣城と鳥羽山城です。武田信玄との間に2度、3度と大きな戦いが行われた城になります。長男の信康を供養するために、信康の廟所として家康公によって建立されたのが清龍寺で…

薙刀を片手に家康と懸命に戦うも命を落としたお田鶴の方がお祀りされている『椿姫観音』

三河から遠江に侵攻を始めた家康は、夫亡き後代わりに守っていた引間城主今川家臣・飯尾連龍の正室お田鶴の方に開城を求めます。が、今川方への深い忠心から要求を撥ね付けたお田鶴の方は、馬上で薙刀を片手に家康と懸命に戦うものの、命を落とします。

釣鐘には”源家康”の銘文あり「身代わり地蔵」としてよく知られる宣光寺

旧東海道にあり地蔵小路の奥に鎮座する『珠玉山宣光寺(しゅぎょくさんせんこうじ)』は寺伝によると1596年(慶長元年)の開創。豊川稲荷として知られる「妙嚴寺(みょうごんじ)」の25世太淵龍堂和尚によって開山された曹洞宗のお寺です。宣光寺は遠州三十…

家康が初めて手掛けた磐田見付の『城之崎城』ところが幻の城に!どうしたらええんじゃ~

城之崎城跡は現在形を変え、城山球場や城山中学校となっていますから、その遺構は多くはありませんが、土塁は球場のスタンドで、横堀の一部は球場東側で見ることができます。幻の城となってしまったおかげで浜松城が築かれこうして暮らせることに感謝です。

万葉の森公園で見頃のミツマタ、紙の原料として現れる最初の文献は家康の黒印状!

甘い香りの『ミツマタ』をご存知でしょうか?紙漉きの原料になるとか。ミツマタが紙の原料として現れる最初の文献は、徳川家康がまだ将軍になる前の1598年(慶長3年)に、伊豆修善寺にいた製紙工の文左右衛門にミツマタの使用を許可した黒印状なんですぞ!

地元で井伊谷宮といえば「節分」南北朝時代に活躍した宗良親王をお祀りしていることも忘れないで!

今回は、地元民として節分には福豆や福餅、お菓子などを拾うために訪れていた『井伊谷宮』を改めて調べてみました。ただただ『節分』を楽しむだけに井伊谷宮を訪れていた自分が情けないです。

春はしだれ梅が咲き乱れ、かつて家康が本陣をおいた龍尾神社や『松ヶ岡』(旧山崎家住宅)

2月下旬~3月上旬に見頃を迎えるしだれ梅、掛川で名所として知られる『龍尾神社』の花庭園を訪ねてみました。龍尾山は城の攻守の要であり、かの天王山の戦では、徳川家康公が本陣をおいた場所としても知られています。