こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回の家康公ゆかりの地は、静岡県磐田市鎌田にある真言宗智山派の『鎌田山金剛院醫王寺(かまださんこんごういんいおうじ)』です。ご本尊は薬師如来で遠江薬師霊場第四十六番札所にもなります。
家康公ゆかりなのはどうして?と思われるでしょう。それは、元亀3年(1572年)のあの有名な『三方原の戦い』でのこと。武田信玄勢の兵火にかかり、こちら醫王寺の伽藍はことごとく焼失したのですが、そこで、のちの天正12年(1584年)、徳川家康は兵火による焼失をいたく惜しまれ、自ら浄財を出して再興を援助されたのでした。
現在の醫王寺(医王寺)は、約8000坪もの平地に”いにしえ”を感じさせてくれる客殿や庫裡が続き、参道には石畳が敷き詰められ「東海の苔寺」といわれるだけあって、スギ苔が発しているであろうマイナスイオンをたっぷりと味わうことができます。
※パンフレットでは醫王寺と表記されていますので、以下醫王寺表記にします。
私が出かけた12月初旬は、広いお庭でもみじが真っ赤に色づきちょうど見頃、去りゆく秋をたっぷり楽しむことができました。「東海の苔寺」と呼ばれるだけあって、参道のスギ苔が美しく紅葉にも映え、素敵な時期に出かけられた事をうれしく思います。
もちろんお庭にはスギ苔やもみじだけでなく、桜や紫陽花、山茶花、椿など様々な樹木も多く、四季折々に草花の魅力を味わうことができます。
ちょうど『JRさわやかウォーキング』で出かけた12/10には、山門前ではコーヒーを味わうことができたり、年末にぴったし「餅つき」行事が開催されていたおかげで、何年ぶりかに臼での餅つきを拝見できたのもラッキーでした。では、さっそく醫王寺をご案内していきましょう。
鎌田山醫王寺
場所:静岡県磐田市蒲田2065-1
《アクセス》
電車:バス:JR[御厨駅]から徒歩約5分
[御厨駅]から[東新田行き]のバスに乗り[鎌田]のバス停で下車
車:東名高速道路[袋井IC]から約15分
駐車場:10台の無料駐車場があります
営業時間:9:00~16:30
定休日:年中無休
拝観料:大人200円、小学生100円、中学生100円、未就学児無料
御朱印:いただけます(300円)
磐田市観光協会によると、「東海の苔寺」と呼ばれるこちらの『鎌田山醫王寺』は、奈良時代に創建され、徳川家康がこの寺で1ヶ月間幕府隆盛を祈願したといわれているそうです。
さらに寺伝によると、1635年(寛永12年)徳川幕府三代将軍徳川家光は、祖父の徳川家康がかつて与えた「黒印」を改めて、新たに石高135石の「朱印」を醫王寺に与えたとのこと。
寺伝によるとおよそ1200年前、天平6年~20年(734年~748年)にかけ、聖武天皇の勅命を奉じて、行基菩薩が当地を訪れこの地に薬師如来の霊験ありとし、山内の名木で薬師如来の尊像を一刃三礼のもとに刻んだ像をご本尊として祀ったのが始まりと伝えられています。故に醫王寺では、行基菩薩が開基と伝えられています。
平安時代の弘仁年間(810年〜822年)嵯峨天皇の厚い帰依を受け、七堂伽藍が整い、真言密教の根本道場となりました。その当時の山容は、広大な境内に、本堂、金堂、講堂、五重塔、三重塔、鐘楼堂、仁王門、三十六ヵ坊の末寺などが配置されていましたが、戦国時代の元亀3年(1572年)、武田信玄勢の兵火にかかり伽藍はことごとく焼失したのでした。のちの天正12年(1584年)徳川家康は兵火による焼失をいたく惜しまれ、自ら浄財を出して再興を援助されましたが、ついに旧観に復帰させることができませんでした。
慶長9年(1604年)ふたたび失火による火災による悲運に見舞われますが、徳川幕府のご寄進を受け醫王寺は復興を遂げました。1635年(寛永12年)徳川幕府三代将軍徳川家光は、祖父の徳川家康がかつて与えた「黒印」を改めて、新たに石高135石の「朱印」を与えられました。おかげで寺運は多いに振舞い隆盛を迎え、江戸時代末期までこの朱印135石を領していました。
当時の醫王寺は鎌田薬師の名称で親しまれ、金剛院を本寺とし多くの塔頭を擁していました。その坊のあった一帯は今でも『坊中(ぼうぢゅう)』という地名で呼ばれています。
金剛院の塔頭として構えられていたのが醫王寺でした。本寺にあたる金剛院が明治維新の廃仏毀釈、神仏分離により寺運が揺らいだため、1875年(明治8年)醫王寺を再興する形で法灯を守ったのです。
このとき、三十六ヶ坊のほとんどが廃寺になっています。そして、1894年(明治27年)京都市東山七条の智積院(ちしゃくいん)の末寺に属し、真言宗智山派の寺院として今日に至っています。それ以前は京都市宇治の報恩院の末寺でありました。
1944年(昭和19年)第2次世界大戦中、本土空襲の激化のため、疎開命令が出され、東京の国民学校初等科児童は次々と集団疎開をすることになりました。磐田市近辺にも多くの児童が疎開することになり、寺院などが受け入れ先になりました。医王院では、蒲田国民学校の児童108名を受け入れました。これは一ヶ寺の受入人数としては磐田市内最大でした。
1986年(昭和61年)3月醫王寺の屋根は老朽化にともない、雨漏りなどもあったため、銅板に葺き替えられました。
では、さっそく令和2年に登場した『JR[御厨(みくりや)駅]』を出発!『醫王寺』を目指しましょう。
ちなみに、「御厨」の厨(くりや)とは台所の事で、伊勢神宮の台所をまかなうための神宮領に指定されており、物産を貢納する地域であることから御厨(みくりや)と呼ばれていたそうです。
開発が進んではいるものの、造成中という感じが否めない駅前を歩きすすめると、砦のような石垣にびっくりします。積まれた石は小さく高さもあり見応えたっぷりの『百姓積みの石垣』で、戦国時代のお城や武家屋敷などをイメージさせます。
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いよいよお寺の境内に入っていきます。すると、江戸時代に造園された小堀遠州のお庭では?といわれる『枯山水の庭園』が現れます。
枯山水の庭園
江戸時代初期の元和年間(1620年頃)に造園された枯山水の庭園は、小堀遠州作とも、京都智積院能化第7世運敞僧正(うんしょうそうじょう)作とも伝えられ判然としていません。
石組みや作風などは小堀遠州の作庭する庭とよく似ているようですし、小堀遠州の旅行記が『醫王寺』に残されているそうなので、きっと小堀遠州作なのでしょう。
このお庭ですが、なんと『客殿』の西側と南側を合わせて約1,000平方メートルもあるそうです。
今回は紅葉と苔のコントラストを楽しませていただきましたが、サツキが咲き終わった5月下旬刈り込みをしたあとの庭園はもっとも整っているそうですし、4月上旬から5月上旬にかけて白いアヤメのような胡蝶花(別名:シャガ)で境内一面覆われるといいます。ぜひその時期にもう一度出かけたいものです。
ちなみに「とげなし山椒」のお話はご存知でしょうか?山椒といえばうなぎ、うな重には絶対山椒を!の私です。山椒は香りが良く健康にも良いとされ、健康オタクの家康もお気に入りだったといいます。
実はこの「醫王寺」境内の山椒にはなぜかトゲがないとか。そのため「トゲなし山椒」と呼ばれ、家康がこの山椒の葉の佃煮を大変気に入ったそうです。
以来江戸城に献上するようになったとのことで、けっきょく家康の山椒好きは令和に生きる私達も知ることになったというわけです。
山門
1847年(弘化4年)に建立されたと伝わるだけあって、歴史を感じさせる『山門』は総けやき造りで、静岡県内でも外観や彫刻など他に類を見ない立派な作りです。
四方の獅子、龍、雌雄の鶏の彫刻が素晴らしく、当時は極彩色であったであろう姿を想像しながらいつまでも眺めていたくなります。
山門をくぐると、自然たっぷりのお庭の中に客殿・書院・庫裡が目に入り、”いにしえ”の時を感じさせてくれます。
薬師堂
こちらの薬師堂は1947年(昭和22年)に浜松市鴨江寺の兼務寺院である、和地山の養源院の本堂を移築したものだそうで、現在は醫王寺の御本尊「薬師如来」と、十二神将を守るお堂です。「玄武」や「青龍」の彫刻は見ごたえがあります。
大師堂
1834年(天保4年)に建立された大師堂は、行基菩薩、弘法大師空海、興教大師覚鑁(かくばん)の3人のお祖師さまをお祀りする『三祖御影堂』という名目だったようですが、現在は便宜上『大師堂』と呼ばれています。
庫裡(こり)
1857年(安政5年)に建立されたと伝わる庫裡は、当時考えられるあらゆる技術を使って、地震に強い設計が施されているとのこと。というのも、以前の庫裡は、江戸時代後期の1855年(安政元年)11月にあった安政の東海地震で壊滅的な被害を受けたからです。
幕末から大正時代に入るまで、醫王寺では周辺の人達による食事当番の制度があったそうです。土間にあるかまどを使い、大勢の食事をまとめて作っていたといいます。
食事の準備が整うと、醫王寺の半鐘を打ち鳴らし、みんなで揃って食事をしていたそうです。しかし、1980年(昭和55年)頃から、土間のかまどは全く使用されることがなくなり、庫裡のてっぺんに作られていた「煙抜き」も取り壊されたそうです。
また、同じ幕末から大正時代に入るまでは、醫王寺の土間に浴場もあって、周辺の人たちが曜日を決めてお風呂に入りに来ていたとのこと、若干高い位置に建立されていたため、醫王寺に来るまでには必ず坂を登る必要があって、その坂のどれにも「風呂坂」という呼び名が付けられていたといいます。
当時のこのあたりに住んでいた人々が、ご近所さんと誘い合って醫王寺のお風呂に入りに行くという姿を想像すると、なんとも穏やかでなつかしい感じがします。
客殿
1714年(正徳4年)に建立されたと伝わる『客殿』はもとは客殿本来の使われ方をしていたようですが、1884円(明治17年)には位牌堂を増築し、現在は普通の寺院の本堂と同じような用途で使われています。
『客殿』は西側と南側に枯山水の庭園が広がり醫王寺の中心となる建物で、回忌の法事や元旦護摩修行、節分会、施餓鬼会、大般若転読会などの仏教行事の殆どがこちらに客殿でおこなわれいるため、一番馴染みのある建物になっているようです。
位牌堂の中央には大日如来をお祀りし、さらに松平伊豆守信綱により寄進された御前立ちの薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩も安置されています。
欄間の彫刻
お参りしながら上を見上げると目に入るのが、客殿欄間飾りの素晴らしい彫刻『鳳凰』『龍』などです。当時は極彩色をしていたことが想像できる色付きで、彫りが深く、まるで生きているかのような彫刻には感動しました。
方丈の間
客殿の一番奥にある『方丈の間』には、寺宝や貴重な資料が展示されています。その昔は醫王寺の住職が寺務を執り行った部屋です。
鎮守堂
醫王寺の鎮守堂は1837年(天保7年)に、境内の中でも北東、鬼門の方角に位置し醫王寺に降りかかるあらゆる災いごとを鎮めることを目的に建立されたといいます。
鎮守堂は、伊豆の安良里の石(伊豆石)を積み上げた石垣の上に建立されています。約3.8mの高さから、醫王寺を見下ろし、兵火、風水害、火事などの災害から寺院を守っています。
鎮守堂の石垣は境内にある百姓積みの石垣とはちがい、専門の石工である”大川徳三郎”が手掛けた”石の継ぎ目もわからないほど精密に寸分の狂いもなく積み上げられた石垣”です。
坊中学校
1872年に建設され、1809年には焼失してしまった『坊中学校』とは、医王院敷地内に明治5年に建設された日本最古の木造様式3階建校舎を持つ学校でした。
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最後に
今回訪れた「医王寺」では、定期的にバザーやイベントなどが行われていると聞きます。この日はまさに山門では苔を眺めながらコーヒーが楽しめる『醫王寺カフェ』、寺内ではジャムや美味しい手作りのお菓子にお茶まで販売していて、まさに地域のコミュニティーといった感じでした。
ちなみに、来年のお彼岸(2024年3/24)には『古今亭菊之丞 らくご会』が開かれる予定とのことで、チラシをいただきました。〜春の醫王寺、菊之丞で笑い咲く〜とのこと。
幕末から大正時代に入るまで、周辺の人達による食事当番の制度があって食事の準備が整うと半鐘を打ち鳴らしみんなで揃って食事をしていたとか、土間には浴場もあって、周辺の人たちが曜日を決めてお風呂に入りに来ていたなどの話を聞くと、醫王寺と周辺の人々との長いコミュニケーションの歴史を感じます。
現在こちらで盛り上がっているバザーやカフェなどからは、古くからの人々との関わりが深い”醫王寺”だからこそ生まれる”人”のパワーを強く感じ、こういうのって日本だからこその素晴らしさなんだと心惹かれました。
”いにしえ”を感じさせてくれる客殿や庫裡が続き、参道には「東海の苔寺」といわれるスギ苔に古代のロマンを感じることができる『醫王寺』。
奈良時代創建というとんでもない歴史があるのに、浜松に居ても還暦を迎えるまで知らなかった!お参りしてなかった!という自分に、JRさんがクリスマスのプレゼントをしてくれたのでは?と感じるほどに、幸せを感じることができた『醫王寺』の参拝でした。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。