sannigoのアラ還日記

アラ還女sannigo(さんご)の穏やかな毎日を記録しています。

浜松市内を見下ろす高台に鎮座する賀茂真淵をお祀りする『縣居(あがたい)神社』

こんにちは sannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。

今回の遠江の神社は、市内を見下ろす高台に鎮座する賀茂真淵をお祀りする『縣居(あがたい)神社』です。高台にあり景色も良いので、さわやかウォーキングの際にはお参りの前にたくさんある石碑の説明板を読みながら一服することもあります。

 

というのも、鳥居にたどり着くまで急な坂道でかなりしんどいので、鳥居をくぐってから一休みしないと前に進めない感じだからです。境内は決して広くありませんが、裏にある「賀茂真淵記念館」も見学すると知らず知らずに結構な時間が経ってしまいます。

 

縣居神社境内から見る浜松市内

 

『縣居神社』でお祀りする賀茂真淵は、、遠江国敷智(ふち)郡浜松庄伊庭(いば)村(現在の浜松市中央区東伊場)に岡部政信の三男として生まれます。

 

岡部家は賀茂神社の末社の神職を代々務める旧家でした。たったの10歳の時に杉浦国頭(くにあきら)のもとで手習いを受け、その後、和歌や古典を学びました。日本の古典を研究し古代の思想・文化を明らかにし、そこに生き方の拠り所を求める学問「国学」を究めた人、また歌人としてもよく知られるようです。

 

荷田春菊、本居頼長、平田篤胤とともに「国学の大人(しうし)」の一人とされ、その門流を縣居(あがたい)の号から「縣居学派」あるいは「県門」と称しました。50歳となっていた真淵は、御三卿田安徳川家の和学御用掛となって徳川宗武につかえます。

 

また、同じ遠江で浜松市天竜区に生まれた内山真龍が賀茂真淵の門人だったことは有名です。真龍は、病身の父親に代わり、21歳から大谷村の名主を勤めました。

 

学問が好きだった真龍は、忙しい仕事のかたわら1762年(宝暦12年)11月、賀茂真淵(かものまぶち)に入門するとともに浜松の渡辺蒙庵(わたなべもうあん)、本居宣長(もとおりのりなが)の弟子の田中道麿(たなかみちまろ)にも学びました。

 

真龍は、本を読んで研究するだけでなく、実際に現地調査を行い、多くの本を書いています。真龍の82歳の生涯は、名主として大谷村の発展に尽くすとともに国学の研究、弟子の育成につとめました。国学の研究につとめた真龍ですが、国学者としては異色ながら、仏典研究にも力を注いだといいます。

 

賀茂真淵をお祀りする『縣居(あがたい)神社』の拝殿[写真AC]

 

 

縣居神社

 

 

場所:浜松市中央区東伊場1-22-1

 

《アクセス》

 

電車・バス:JR[浜松駅]より徒歩20分
      JR[浜松駅]より遠鉄バス⑤入野宇布見線乗車、[商工会議所]下車、北へ徒歩5分 ※急な坂道できついです。
      [浜松駅]より遠鉄バス③鴨江佐鳴台線[鴨江坂上]下車、南へ徒歩7〜8分 ※道は平坦です。

車:東名高速道路[浜松IC]より約22分
駐車場:境内の駐車場は狭く3台ほどしか駐車できません。裏の賀茂馬淵記念館の開館中は記念館の駐車場が利用できます。※閉館中は記念館の駐車場は閉鎖しますので注意が必要です。

トイレ:裏の真淵記念館にあります

御朱印:いただけます

 

縣居神社の御朱印

 

御由緒

 

縣居神社の拝殿[写真AC]と、境内案内板

 

『縣居神社』の創立は1839年(天保10年)にさかのぼります。御祭神の賀茂真淵の崇拝者である浜松藩領主水野忠邦公を始め、遠州有玉の国学者高林方朗その他の人々が碑石と銀10枚を拝領、募金に奔走し大飢饉のさなか浄財80両余を集め、東伊場賀茂神社境内に霊社を建立されました。

 

大正13年10月28日に工事が完成し、賀茂神社境内に「縣居神社遺趾」の碑を残して、現在地に遷座されました。しかし残念ながら、御社殿は戦災により焼失しました。その後、地域の有志によって昭和59年4月15日、現在の御社殿が再建されました。

(縣居神社ホームぺージより)

 

尚、御祭神の本家筋にあたる岡部譲氏が、大人の学徳を称(とな)え、所蔵の図書を寄贈され、その後を受けて、現在「縣居文庫」として文庫の拡充を図っているそうです。国学関係の書物などの寄付も受け付けているようです。

 

御祭神

 

縣居神社の鳥居と、紅葉が映える手水舎[写真AC]

 

賀茂真淵大人命(かものまぶちうしのみこと)

 

賀茂真淵とは?

 

賀茂真淵は江戸日本橋浜町の住居に住み、その地を縣居(あがたい/田舎の住まい)と呼び、縣居翁と言われたそうです。縣居神社の名前はここからのようです。

 

遠州有玉の国学者高林方郎(みちあきら)は真淵50年霊祭後、天保の改革で有名な浜松城主、時の江戸城西丸の老中水野忠邦にはたらきかけ、碑石と銀10枚を拝領、募金に奔走し大飢饉のさなか浄財80両余を集め1839年(天保10年)東伊場賀茂神社境内に霊社を建立しました。


大正13年神社移転に伴いこの場所に設置。忠邦は方郎の国学の弟子にあたります。
町内の縣居小学校も真淵の遺功を受け継いで名づけられました。

 

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愛読している中日新聞で毎週末楽しみにしている記事があります。『浜松歴史のとびら』と題する記事で週に1回登場するのですが、私は貧乏くさいかも?ですが、毎週切り取ってファイリングしています。2020/04/22掲載の『賀茂真淵 万葉集を研究 日本の古典広める』の記事がわかりやすかったので、全文引用しておきます。

 

賀茂真淵 万葉集を研究 日本の古典広める

賀茂真淵(1697〜1769年)は、今の浜松市中央区東伊場に生まれました。

真淵は、日本の古典を研究して古代の思想・文化を明らかにし、そこに生き方のより所を求める学問、国学を究めた人です。真淵は、本居宣長らとともに「三哲」「国学の四大人(しうし)」の一人として、多くの人々から尊敬されています。

真淵は、11歳のころ読み書きなどの手習いを教わり、その後、和歌や古典を学びました。

真淵が一番力を入れた研究は、儒教や仏教が中国や朝鮮から日本に伝わる前の人々の生活や考え方を調べることでした。その当時のことを調べることによって、日本の「もと」の姿をつかもうとしたのです。そのため、日本で最も古い歌集である「万葉集」の研究に特に力を入れました。歌には人々の暮らしの様子や生き方、考え方が表れているからです。

真淵は、和歌を研究するとともに、自分の作品も数多く作りました。特におおらかでの伸び伸びと、しかも力強くはつらつとした歌は、江戸時代に肩を並べる人がいなかったといわれています。

真淵が50歳の時には、8代将軍徳川吉宗の次男田安宗武(たやすむねたけ)に国学を教える和学御用になりました。

真淵は常に落ち着き、意志が強く、自分の信じることは必ず実行します。
学問に対し「大を好みて大を得たる人なし、小をつくして大にはいるべし」という心構えで研究に取り組みました。これは「小さなことでも努力し続けると大きな目標を達成することができる」という意味です。

真淵の教えを求める門人には、「まず土台を作って、それから一歩一歩高く上り、最後の目的に達するようにしなさい」「深い研究を組み重ねて、師の意見や考え方と違いが生じても、恐れ怯むことなく研究に打ち込みなさい。」と諭しました。

真淵は心が広く、人の考えを素直に受け入れる真心をもった人でした。真淵の教えを受けた門人は数多く340人ほどもいました。この中には、国学者として、そして、歌人として有名な人が何人も出てきました。

引用元:中日新聞『浜松歴史のとびら』2020/04/22掲載

 

また、賀茂真淵記念館で「賀茂真淵や内山真龍が学んだ『江戸時代の浜松』を散策してみませんか?」ということで、『散策ガイド編』という資料もいただきました。参考にしていただけたらと思い載せておきます。

 

資料館でいただいた「江戸時代の浜松・・・散策ガイド編」

 

杉浦国頭(くにあきら)・雅子(真崎)夫妻の家の跡

町の中心部にあった諏訪神社の神主宅「杉浦家」に11歳から通い学び始めました。杉浦家は、現在の五社公園の場所にありました。雅子は、京都伏見稲荷の神官で、後に真淵が入門する国学の師、荷田春満(かだのあずままろ)の姪にあたります。真淵は、雅子に師事し、てならいから学びはじめ、夫の国頭や燐家の五社神社神主森暉昌(もりてるまさ)から、古事や和歌などを学びました。この家で開かれた歌会で詠み人を務めた記録が残されています。雅子の伯父荷田春満と出会い、国学への道を歩み始めた場所といえます。公園の北隅に杉浦邸跡の石碑があります。

真淵が婿養子に入った梅谷本陣跡(伝馬町交差点)

伝馬町交差点にの南東の角には。梅谷本陣の娘と結婚し、長男真滋(ましげ)が生まれます。

真淵も真龍も学んだ渡辺蒙庵(もうあん)の竹亭(ちくてい)跡

真淵、真龍の共通の師、漢学者渡辺蒙庵の私塾「竹亭」は、現在の伝馬町若宮八幡宮の場所にありました。境内西南隅に蒙庵邸跡の石碑があります。真龍は、天竜の自宅からこの地まで歩いて通い学びました。農閑期には近隣に家を借り、朝から夕方まで蒙庵の塾で学んだと言われています。なお、真龍は、蒙庵の孫娘を妻に迎えています。蒙庵の墓は、元魚町の本称寺にあります。

引用元:真淵記念館でいただいた資料より

 

御神徳

 

縣居神社の扁額と、「縣居翁霊社」と書かれた石碑


賀茂真淵大人命は、中国の儒教が徳川幕府の官学となり、世の中が中国思想で覆われていた時代に生まれ、日本の国柄を明らかにし、これを護るのが国民の努めであると唱導し、自ら進んで国学の開拓に一生を捧げ、身をもってこれを実践しました。また、明治維新の素因の一部を作った人として知られます。

 

その学徳で永く国学の四大人の一人として後世に輝いており、この世を去っても、その学風は本居頼長をはじめとして300余名の門人を通じて全国におよび、世に学問の守護神・学徳成就の守護神として崇敬されています。

 

賀茂真淵記念館

 

賀茂真淵を祀った『縣居神社』の裏には浜松市立賀茂真淵記念館があります。真淵をはじめ国学者の、遺墨・遺著に詳細な解説をつけて展示しています。

開館時間:午前9:30~午後5:00まで

休館日:月曜日※ただし、国民の祝日。振替休日の場合は開館→翌火曜日が休館、年末年始

 

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最後に

 

浜松市民として賀茂真淵というお名前は聞いたことがありました。ただ、実際のところ小鳥のような脳みそしか持たない私にとっては、金原明善と同じような4文字熟語のようなお名前で、どんな方なのか一切不明という感じでした。

 

さわやかウォーキングで何度かこちらの『縣居神社』をお参りさせていただく機会を得て、資料館にもうかがわせていただいて、どうやら明治維新前の時代に国学の研究に没頭し、特に万葉集の研究に力を入れ、ご自身でも和歌を作られたということのようです。

 

浜北の『万葉の森公園』にのしょっちゅう出かけているのに、自然の植物しか見ていなかったことが判明、今度出かけたときは資料館にも立ち寄ってみたいと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。