こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
年末で誰もがお忙しいだろうと思いつつも、ついつい由緒ある神社・仏閣を訪ね歩いてしまった今年のクリスマス。
2022年最後の日曜日だったこともあり、訪ねたお寺さんや神社では”初詣”の準備に大忙しのようすで、『龍禅寺』の檀家さんでしょうか?「これから大きな”しめ縄”を張るところだよ」と教えてくださいました。
実は、中日新聞で週イチくらいで連載中の『浜松 歴史のとびら』で、浜松市中区龍禅寺という町の名前にもなっている『龍禅寺』、ここに遠州一の規模の大梵鐘があって、しかも奇跡の生還を果たしたと知り、いつか必ず訪ねたいとずっと思っていたのが、今回お参りしてきた『龍禅寺』です。
『龍禅寺』は町名にもなっている由緒ある寺院で「生き観音」の霊場として信仰を集めています。これは現世に暮らす人々にご利益を授けてくれる観音様のことです。
1年を通して多くの参拝者が訪れる龍禅寺ですが、初詣の日には特に1年の、無病息災・開運厄除を祈願するための多くの人たちで賑わうそうです。
金光院龍禅寺(りゅうぜんじ)
竜禅寺小学校のすぐ近くにあり、まさかの市街地真っ只中のお寺になります。浜松市中区龍禅寺町は丁番を持たない単独町名となっており、町名の由来はもちろん、1200年も前の飛鳥時代に開創されたと伝わる『龍禅寺』です。
場所:浜松市中区龍禅寺町357
《アクセス》
JR浜松駅から徒歩約17分
遠州鉄道:新浜松駅から徒歩約21分
第一通り駅から徒歩約25分
浜松における真言宗3ヵ寺(龍禅寺、鴨江寺、頭陀寺)の一つに数えられる龍禅寺は、高野山真言宗の古寺で開創以来1200年の歴史を数えるお寺です。
開運厄除、虫封じ、無病息災、縁結びなどにご利益があるとされ、一年を通して参拝者で賑わいます。特に初詣には家族連れが多く訪れます。
太平洋戦争の戦禍によって伽藍のすべてが消失し、長いあいだ仮の本堂を余儀なくされたそうです。第二次大戦末期、軍需工場が多くあった浜松市は連合軍の空襲の標的とされ、徹底的な爆撃を受けました。軍需工場があった龍禅寺町もその巻き添えになってしまったのです。
それでも昭和62年秋には諸堂の復興が行われ、当時を凌ぐ大伽藍が建てられ、現在は本堂を含め赤というか朱色を貴重とした”平安神宮”や”厳島神社”のような豪華さを感じます
本堂内には、千手観世音菩薩が安置されており、開創と深い関わり合いを持っているそうです。この仏様は聖徳太子が全国行脚の最中、馬込川河畔で千手観世音菩薩のお告げを受けたという伝説があり、現在その場所は「太子淵」と呼ばれています。
奈良時代には聖武天皇の勅願寺となり、平安時代に七堂伽藍が建立されたと伝わります。
一番人気のお守りは開運厄除のお守りで、「龍禅寺厄除観音」の文字が織り込まれています。年中行事も多く行われており、まさに浜松市民の心の拠り所として地域に根づいた寺といえそうです。
本堂と向かい合う築山には、元浜松藩士の俳人の堀川鼠来の句碑と、松島十湖と同じ小築庵春湖の門の松永蝸堂の句碑が並んでいます。
さらに、奇跡の生還を果たした遠州最大とされる大梵鐘(だいぼんしょう)もあります。煩悩を打ち消してくれる大梵鐘は必見の価値ありです。
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元浜松藩士の俳人 堀川鼠来の句碑
”まどうつや 秋をさだむる 夜の雨”
赤貧の生涯を送り恵まれなかった俳人 堀川鼠来(ほりかわそらい/元浜松藩下級武士)の代表作です。作った句の数は5、6千に達し、貧しさゆえの逸話がいくつか残っているそうです。
松島十湖と同じ小築庵春湖の門の松永蝸堂の句碑
”浮世には 遠し花にも 閑古鳥”
蝸堂は松島十湖と同じ小築庵春湖の門だった人です。誹諧教導職という箔のついた小築庵を嗣号したことで、それを切望していた十湖との間に生じた確執は誰もが知るところです。
『大梵鐘』奇跡の生還
浜松市内や磐田市などで見てきた鐘に比べて、やはり「かなり厚みがあるな」という印象を持ちました。さすがに戦争を生き延びてきた貫禄を感じます。
ここ最近は深夜でなく、お昼間に「除夜の鐘」をついていたと聞きます。今年はどんな感じなのでしょう?ちょっと気になります。
『大梵鐘』奇跡の生還をより皆さまに理解していただくには、やはり『遠州 歴史のとびら』から記事を引用するのがイチバン!かと思いまして、まんまる引用しておきます。
浜松市中区龍禅寺にある大梵鐘は江戸時代に作られたもので、文化11年(1814年)2月に鋳造された歴史的遺産で、その規模は遠州一だといわれています。
大梵鐘の大きさは、直径1.24メートル、高さ2.04メートル、肉厚15センチ、重さ1.34トンと巨大です。
江戸時代後半、今から200年ほど前の1814年、龍禅寺の大梵鐘は、祖先が徳川家康から頂いた駿遠両国鋳物師大工職(すんえんりょうごくいものしだいくしょく)の朱印を持つ森(今の周智郡森町)の鋳物師山田七郎左衛門が鋳造しました。
延べ数百人が働き、境内で鋳造されたものです。主な材料は青銅で、金銀を鋳込むと鐘の音が一段と良くなるといわれています。
現世でのご利益を得ることを願った信者が、進んで金や銀の手鏡やかんざしなどを提供したと言います。金や銀を寄進した人々は、遠江(県西部)をはじめ、駿河(県中部)、三河(愛知県東部)にも及んだ」そうです。
浜松には「龍禅寺の生き観音、鴨江寺の死に観音」という言葉があり、古くから鴨江寺が故人の供養を彼岸で賑わうのに対し、龍禅寺は現世に生きる人の願い事に利益があるといわれ、多くの人がお参りしました。境内には、本堂や護摩堂、仁王門など立派な七堂伽藍が建てられていました。
その後、資源の乏しい日本は戦争が長く続き武器などを造る金属が不足したため、家庭や工場など広く社会に金属回収が呼びかけられ、龍禅寺もさまざまな金属類の回収に協力しました。
1942年(昭和17年)には寺宝の大梵鐘までも供出しました。が、戦後、三重県四日市市の金属回収会社で見つかり、1946年(昭和21年)3月に無事に寺に戻り奇跡の生還を果たしたのです。
1945年(昭和20年)4月30日、浜松に約70機の米軍爆撃機が襲いかかりました。龍禅寺町だけで179発の爆弾が投下され、町内の死者251人、全壊家屋200戸以上、全焼家屋289戸という記録が残っています。
この空襲で龍禅寺の多くの建物も全焼してなくなってしまいました。多くのものを失いどうすれば立ち直れるのかと戸惑っている戦争直後に届いたのが、「大鐘楼が見つかった」という知らせでした。
寺に戻った大鐘楼は遠州地方では最大の大きさを誇り、昭和、平成、令和と折に触れて鳴らされ続けています。
除夜の鐘を鳴らすのは、煩悩を取り払い清らかな心で新年を迎えるためだといわれます。普段、朝夕などに鳴らすのは、時報の役割とともに、鐘の音を通して「すべての人が幸せになりますように」という仏様の願いを届けているそうです。
参照元:中日新聞[遠州 歴史のとびら172] 浜松歴史のとびら
龍禅寺のクロマツ
龍禅寺の境内にあるわけではないのですが、浜松市保存樹のクロマツが、お寺から北に100mほど離れた大きな集合住宅近くの月極駐車場内に立っています。保存樹と書かれた看板もあります。
樹高は27m、目通り幹囲は3.3mで、この松も奇跡の生還を果たした大梵鐘同様、戦争を経験しています。戦前から地域のシンボルとして愛され続けてきた龍禅寺のクロマツは、そのたくましく上に伸びる姿から戦禍で途方に暮れる市民たちに勇気を与えたと伝えられます。
指定当時は、浜松市内で指定されている保存樹の中でも最高樹高だったそうです。現在はアスファルトで覆われ、長生きできそうな環境ではないようです。今回は残念ながら行きそびれてしまったので、次回龍禅寺をお参りした時には絶対に立ち寄ってみたいと思っています。
山門
では、山門をくぐってお参りしていきます。朝日が眩しいくらいによく晴れたクリスマスで、青空に山門が映えます。
再建記念碑
山門をくぐって、すぐ左側に「再建記念碑」があります。昭和62年秋には諸堂の復興が行われたとのことですので、この時に作られたのでしょうか?
ゆとり地蔵
かわいらしい「ゆとり地蔵」さんが手を合わせていらっしゃいます。お寺さんをお参りする時くらいは、心にのんびりとしたゆとりを持ちましょうよ。なんて話しかけられているような気持ちになりました。
役の行者
奇跡の生還を果たした『大梵鐘』と同じちょっとした丘の上に、けっこう恐い感じのお顔をされた『役の行者』さまがいらっしゃいます。
説明看板には以下のように書かれています。
享保3年癸亥(みずのとい)年金剛日
別名慈雲尊者とも云い、奈良大峯山の開創僧である
神変力を示し衆生を加護すると云われている
本願主中田島村大石五郎七、
西ノ江村三輪三郎右衛門の発起により佛工、
江戸西村和泉村
藤原政時作となっている
お手水
修行大師
説明看板には以下のように書かれています。
開祖弘法大師空海は
若き日、仏門に入り
山岳修行で山水を渉覧し
吉野、紀伊国や四国八十八ヶ所を修行した
室戸岬では一沙門にならった
虚空蔵求聞持法を修法し
真言を一日ニ万回となえて
最後の日、明けの明星が
空海の御口に来影し結願した
また空海は紀伊国での修行で
蓮の花びらの様な八葉連峰の
高野山と出会い
晩年この地に真言密教の
修行道場を開き
生きながらにして入定し
永遠の座定に入った
延命地蔵(身代わり地蔵)
「延命はしたくないけれども、悩みや病気は身代わりになってほしいのですけど・・・」なんてことをお伝えしていしまったのが、こちらの『延命地蔵(身代わり地蔵)』です。
説明看板には以下のように書かれています。
このお地蔵様は大地の母とか
大地の蔵ということを意味し
お釈迦様入滅後五十六億七千万年して
弥勒菩薩(未来仏)がこの世に現れるまでの間
人びとの悩みや苦しみを救済する菩薩である
延命地蔵は大地の堅固のように菩薩心が堅固で
願をかけると自分が身代わりになって
諸の苦しみ、さまざまな病苦を受けて下さり
それを打ち消すもので延命を
授けて下さるお地蔵様です
大日塔
塔の頂部に金色の宝珠、緑の屋根と赤い壁、まるでクリスマスのような配色ですが、宇宙の真理そのものを現すという大日如来を掲げている『大日塔』です。
説明看板には以下のように書かれています。
大日如来は宇宙の真理そのものを現すとされている
密教の絶対的中心の本尊である
その真理とは一つに六大といい
地・水・火・風・空・識
がこの世をつくっているとされる
それを所成という
内陣に装飾している両部曼荼羅は
身体・言葉・心の三種のはたらきをもち
それを三密といい現実世界にあらわれる
大日如来の法身はこのような色も形も活動もあり
あらゆる所であらゆる御説法を
しつづけてくださっているといわれている
佛足石(ぶっそくせき)
お釈迦様の足跡をしのんで、足の裏を刻みつけた石です。古くは仏の像を刻むことをじないで、菩提樹、華座などを仏がそこにいるものとして、礼拝の対象としていたそうですが、後に仏の足跡を刻んで、これを礼拝するようになったといいます。
手でなでたりして功徳をいただいてください。とありますので、足で踏むわけではないのでご注意ください。
賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)
本堂の中に、何だかとてもハンサムな侍顔をされた「おびんずる様」がいらっしゃいました。
本堂の中には鎌倉時代作の『賓頭盧尊者』が置かれています。通称「おびんずる様」と呼ばれ、堂の前に置かれている 「なで仏」で、病んでいる部位をなでると除病の功徳があるといわれます。
お釈迦様が在世のころ、特別の神通力の持ち主であった賓頭盧尊者が、その神通力を世の人々に自由自在に誇示して見せたので、お釈迦様がお怒りになって、「お前は究極の悟りを得ず、この世にとどまって仏法を守り、人間の病を癒し、多くの衆生を救いなさい」と命令されました。
尊者はお釈迦様の言葉を守り、今に至っても人々を救う菩薩です。頭をなでて病気平癒・身体健全を祈りましょう。
まとめ
今回は、地元の『龍禅寺』を訪ねてみました。江戸時代に作られ奇跡の生還を果たした遠州一大梵鐘を見たくて出かけたお寺さんです。
大梵鐘はさすがの存在感で、あちこちで見る鐘よりも肉厚な感じがして、実際に見ることができて感動しました。
境内がすごく広くて、いろいろとお願いできたり、癒やしてくれたり、延命までしてくれるお地蔵さままでいらっしゃって、ゆっくりと過ごしたくなるようなお寺さんでした。
ですが、お寺の名前のりゅうは「龍」、小学校の名前のりゅうは「竜」という謎が生まれてしまいました。またそのうちに解決したいです。
今回、浜松市保存樹のクロマツがを探すのを忘れてしまって、見ることができませんでした。お寺から離れた集合住宅近くの月極駐車場内に立っているそうなので、早めに時間を作って見学してみたいと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。