🕖2022/12/12 🔄2022/12/26
こんにちはsannigo(さんご)です。いつもありがとうございます。
今回私が訪ねた「家康公ゆかりの地」は、『頭陀寺のお薬師様』と親しまれる浜松市最古のお寺です。なんて読むの?と思われましたか?これで”ずだじ”と呼びます。
なんと、この浜松市南区にある『頭陀寺』ですが、徳川家康公、豊臣秀吉公、井伊直政公とも関わりのあるお寺で、浜松では有数のパワースポットになっています。
まずは、頭陀寺の場所やアクセスからはじめ、大河ドラマ『おんな城主直虎』をご覧になっていた方ならよくご存知かと思われる『頭陀寺城』、さらに三公と頭陀寺の関わり、特別に豊臣秀吉が頭陀寺で残した伝承「片葉の芦」と「藤吉郎とメダカ」の2つを載せていきます。
青林山頭陀寺
場所:浜松市南区頭陀寺町214
芳川北小学校の近くにある浜松の真言宗3ヵ寺の一つです。
《アクセス》
JR浜松駅から徒歩約30分
遠鉄バス浜松駅80番乗り場から乗車。頭陀寺バス停で下車で徒歩約10分
車:東名高速道路浜松ICより約20分
駐車場:頭陀寺の南東に参拝者専用の駐車場あり
資料館:300円
御朱印:300円※資料館の受付でお願いしました。
飛鳥時代(西暦680年頃)、遠州灘である漁師の網に瑠璃石の薬師像がかかり、その薬師像を丁寧にお祀りしたところ、豊漁が続くようになり、妻の病気も全快、家も大いに栄えるようになったそうです。
703年(大宝3年)には、薬師如来が文武天皇の夢枕に現れ「わたしは遠江国にいるから、奉安し祈念せよ。そうすれば国家安穏、万民豊楽、万病退散するから」とおっしゃったとか。
天武天皇が高野山真言宗僧”圓空上人”に命を下すと、行脚の途中で遠州灘の漁師の話を耳にしました。さっそく天皇にこの漁師の話を伝えると、天武天皇は直ちに仏閣建立の命を下し、「国家安泰、万民豊楽、万病平癒」の勅願寺とされ、「青林山」を賜ったといいます。
863年(貞観5年)清和天皇が、『青林山頭陀寺』を定額寺という国家に一定数を限った特別な寺としました。
以後、大漁祈願、海上安全、五穀豊穣、商売繁盛、身心堅固、傷病平癒等の祈願、信仰のお寺になったそうで、浜松市の古刹である頭陀寺は、鴨江寺、龍善寺とともに、浜松の真言宗3ヵ寺と言われています。
普段触れることのない高野山系の真言宗のお寺の中に入り、厳かな雰囲気を味わうことができ、本堂の中でお参りできます。
山門付近のボックスでいただける「境内案内図」通りに進めば、まずこの『歴史資料館』がスタートです。例え資料館を見なくても拝観順序と寺内にあるいろんな建物や三公像やきゅうり封じの穴などの説明も載っていますので、理解を深めながら寺内を回れるのでありがたいです。
山門・浜松市最古の道標
山門の右横に『浜松市最古の道標』の石柱があります。「頭陀寺薬師道」と刻まれています。こちらの道標は1711年(正徳元年)建立で浜松市地域遺産に認定されています。
説明板によると現在二基あり、こちらの一基と、もうひとつ本堂から墓地に向かう小路の横にもあるとのこと。元々は旧東海道沿いの植松町と、掛塚街道沿いの中島町にあったものを移転したと書かれています。
当時東海道を行き交う旅行者が多数、頭陀寺をお参りされたとの文書もあるようです。
客殿・歴史資料館
幕末当時の三重塔の写真や当時の賑わいを感じることができる写真などの歴史関連資料の展示から、先日も浜松に講演に来られていたり、歴史番組でおなじみのあの磯田先生の「頭陀寺ワンポイントガイド」と「秀吉・家康・直政ゆかりの頭陀寺城(松下屋敷)」ビデオを見ることもできます。
ポイントとして、当時馬の世話係だった豊臣秀吉の伝承に登場する「片葉の芦」のドライフラワーがあります。確かに片葉なので確認してみてください。
『歴史資料館』は300円で入館できますので、ぜひお参りする前にご覧になることをおすすめします。寺内にあるいろんな建物や「三尊仏」や「本堂」「薬師瑠璃光如来」「難除大師」などの説明も聴けますので、かなりわかりやすいと思います。
御手水
三尊仏
願掛三尊にお水を掛けてお参りできます。向かって右側から『波切不動明王』『水掛一願地蔵尊』『修行大師(弘法大師)』です。
庫裡・寺務所(里帰りの半鐘)
1844年(天保14年)に制作された半鐘が、第二次世界大戦中の昭和17年に金属供出を余儀なくされた半鐘が、44年ぶりに帰ってきたとのこと。
同じく南区にある龍禅寺の「大梵鐘」も、供出したけれどもその後三重県で無傷で見つか、り昭和21年に戻ったと聞きます。
こちらの半鐘は、現在も「庫裡」の玄関左側の軒先にあり、使用されているそうです。
本堂中央に御本尊「薬師瑠璃光如来」様
中央にお祀りされているのが、ご本尊の『薬師瑠璃光如来』様で飛鳥時代に漁師の網にかかったと伝わる仏様です。が、現在のお薬師様は江戸時代中期の作だそうです。
御開帳は年に一度で10月第3土・日曜に薬師祭を行っているとのこと、来年はぜひ御開帳の時期に訪ねたいですね。
本堂右側に「難除大師(弘法大師)」様
本堂右側の「難除大師(弘法大師)像」は、江戸時代初期に頭陀寺の住職だった法印意搏が徳川家康公寄進を受け、頭陀寺再興、興隆祈願、厄払いの為に自分の血を抜いて、漆に混ぜ造立した「弘法大師像」のことです。
以降、このお大師様像は、幾度かの火災・水害に遭いながらも無傷で、しかも太平洋戦争中の、空襲や艦砲射撃にも負けず、何の損傷もなく現在に至っているそうです。そんなところから、いつしか難除大師と呼ばれ、信仰を集めているそうです。
きゅうり封じの穴
「きゅうり封じ」とは、弘法大師の広めた真言密教の秘宝の一つとして、現代に伝わる「きゅうり」を身代わりにして、人々の邪気、病根を護符と共にきゅうりに閉じ込め、きゅうりを加持し持ち去ってもらうというものだそうです。
頭陀寺ではきゅうり1本50円で、7月の最終土曜日に行われているとのこと。ちなみに京都の伝統行事として、無病息災を願ってきゅうりに病を封じ込めるという行事もよく知られているそうで、「きゅうり加持」とも呼ばれています。
元々は、弘法大師空海が中国から伝えたという厄除けの秘法で、そのきゅうりに病気を封じ込めて人々の苦しみと病を取り除いたことに由来しているそうです。
参拝者はきゅうりに名前や病名などを記入し、祈祷の後に持ち帰り、体の悪い部分をそのきゅうりで撫で土に埋めて病気平癒を祈願するそうです。
寺内には豊臣秀吉、徳川家康、井伊直政を模した銅像『三公像』があります。NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』放送以降、ゆかりの深いお寺としてたくさんの方が訪れご覧になったり、写真を撮られたのではないでしょうか?
三公像
寺内には豊臣秀吉、徳川家康、井伊直政を模した銅像『三公像』があります。NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』放送以降、ゆかりの深いお寺としてたくさんの方が訪れご覧になったり、写真を撮られたのではないでしょうか?
もちろん、3体の銅像には、それぞれの武将と頭陀寺との関わりが残されています。さっそく解説していきましょう。
浜松時代の少年豊臣秀吉公[14歳]
秀吉公は1551年(天文20年)14〜16歳までの3年間を、ここ頭陀寺城(松下屋敷)で過ごしました。
ふるさとの尾張国(名古屋市中村区)から針を売りながら、この地にきて、豪族・松下嘉兵衛に見出され、その家来となったのです。
頭陀寺は秀吉公が初めて武家への仕官を叶えた土地です。『太閤素性記』によれば、ここでの秀吉公は、よく働き、よく学び「主人の心にかなわぬことがなかった」といいます。
今も頭陀寺地区の天白神社脇には、秀吉公がそこの水で鎌を研ぎ、メダカ相手に松の葉で手裏剣の稽古をした、などの伝説を残す「鎌研ぎ池」があります。
その後、秀吉公は尾張国へ戻って織田信長公に仕え、武将として出世し天下人にまで上り詰めました。
竹千代時代の徳川家康公
家康公は竹千代と呼ばれた幼い頃に、中村屋敷(雄踏町)から馬に乗ってこの頭陀寺城「松下屋敷」を訪れた。と、こちらの頭陀寺では言い伝えられているそうです。
また1568年( 永禄11年)12月、家康公が遠江国に攻め入った時、頭陀寺の松下一族は、いち早く家康公に味方しました。この時、家康公はまず橋羽村(天竜川町)の妙遠恩寺を本陣としましたが、安間村から頭陀寺にかけても陣取りをしたようです。
「武徳編年集成」には、「18日、神君(家康公)・・・頭陀寺ニ張陣シ給フ」と記されているとのことです。
ここを足がかりに、家康公は引間城(元城町)を手に入れようと、松下与右衛門等を使いに立てて城の明け渡しを迫りましたが、応じなかったため、これを攻め落として入城。
引間城を「浜松城」と名付け、以降17年間住みました。浜松時代の家康公は、生涯最大の負け戦とも言われる「三方ヶ原の戦い」があったり、戦に継ぐ戦で苦労しました。が、浜松時代の苦労から多くを学び取ったといいます。そして、時間は掛かりましたが還暦を過ぎて天下統一を成し遂げました。
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松下家の養子となった頃の井伊直政公[14歳]
この地は井伊直政公(虎松)ゆかりの地です。直政公は幼くして戦乱で父を失いました。母は直政公を守るため、頭陀寺城(松下屋敷)から出た松下源太郎清景と再婚しました。
そして、直政公は松下姓を名乗りました。松下一族は修験(山伏)と繋がりが深く、徳川家の隠密も出しました。
直政公は鳳来寺(愛知県)やこの地で武士のたしなみを学び、1575年(天正3年)15歳で大河ドラマ『おんな城主直虎』の主人公・井伊次郎法師の計らいで、徳川家康公にお目見えし、側に使える小姓となったのです。
翌年直政公は武田家の忍びに襲われた家康公の危急を救い、井伊谷に3,000石を与えら井伊家再興を果たしました。
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その後も家康公最愛の家臣として天下取りを手伝い、譜代大名では日本最大の18万石の城主となったのです。
参照元:三公の関り|頭陀寺
松下稲荷堂
松下稲荷堂は元は松下屋敷にあり、明治35年にこちらに遷座されました。松下家の先祖の応神天皇・敦実親王が祀られ、稲荷大明神も祀られています。
えっ?松下屋敷って何?ってことになりますよね。松下屋敷は、戦国武将の松下嘉兵衛之綱の屋敷跡です。頭陀寺の山門をまっすぐ東へ進んだすぐそばにあり、現在は『頭陀寺第一公園』になっています。
松下屋敷跡(現在の頭陀寺第一公園)
松下屋敷は戦国時代の領主、松下氏が居を構えた場所です。別名『頭陀寺城』とも呼ばれています。松下氏がいつこの場所に屋敷を建てたのか?は現在も研究中だそうです。
頭陀寺城
場所:浜松市南区頭陀寺町310-4
頭陀寺城は引間城の支城で、松下氏によって開かれた城です。
現在は城址の西側にあたる部分の『頭陀寺第一公園』に、わずかな土塁の面影を残す所があり、「松下屋敷石碑」があります。
松下氏屋敷神を祀る「松下稲荷」の本殿のあった場所で、かつては応神天皇と敦実親王を祀っていたところです。松下稲荷は頭陀寺の境内に移転しました。
頭陀寺城は、現在の高野山真言宗の古刹・青林山頭陀寺の門前にあった戦国時代の日本の城で、地元の伝承では別名市場城ともいいます。
引馬城主・飯尾氏を寄親とする寄子の土豪・近江源氏の松下氏の居城で、松下氏は頭陀寺の寺侍であった可能性が強いとされています。川匂庄(かわわのしょう)の領家は頭陀寺でした。
1551年(天文20年)頃から約3年間、まだ無名の豊臣秀吉が松下之綱(まつしたゆきつな)に仕えたと「太閤巣上記」に記されています。
松下之綱は飯尾氏に仕えていましたが、1564年(永禄7年)遠州忩劇(えんしゅうそうげき/遠江国内の主に天竜川流域における複数の国衆による駿河今川氏への大規模な反乱のこと)で、引間城主・飯尾連龍が今川氏真を攻めた際に頭陀寺城も焼き討ちに遭い炎上します。
江戸時代は長男暁綱の家系が、松下屋敷の当主となって1905年(明治38年)まで居住していたといいます。
遺構は1945年、アメリカ軍による空襲と艦砲攻撃で、頭陀寺の本堂、仏殿、三重塔、行者堂、庫裏、御影堂、仁王門などとともに壊滅しました。約1町ともいわれる土豪の一般的な大きさをもつ広さで、頭陀寺自体を含めるともっと大きかったかも!?ともいわれています。
かつての城の周囲は田になっていて、戦国時代の頭陀寺城は通称「松下屋敷跡」(別名:田中屋敷)といわれる場所の地下約80cmにあることが、2001年(平成13年)10月の発掘調査でほぼ明らかになっています。
また、焼き討ちにあったことを裏付ける炭跡も確認されています。井戸跡からは大きな硯石や高級青磁の破片が発見されているため、松下氏は交易商人であった可能性もあるとされています。
頭陀寺は秀吉公が初めて武家への仕官を叶えた土地です。「太閤素性記」によれば、ここでの秀吉公は、よく働き、よく学び「主人の心にかなわぬことがなかった」といいます。武芸・学問・兵法などを教えたとされる松下之綱(まつしたゆきつな)は、秀吉公にとって恩人だと言われます。
となると、頭陀寺山門からこの頭陀寺城跡までの道が、当時からの古の道だとすれば、きっと井伊直政は当然のこととしても、馬の世話係だった秀吉公も何度かこの道を歩いたことでしょう。
そして、家康公の中村家から馬でこの道をさっそうと駆け抜けたかも知れないのです。こう思うと、やっぱり歴史ってロマンがありますよね。
まあ、そんなことから、遠州には秀吉に関して『片葉の葦(かたはのあし)』と『めだか』の伝承が残されています。どちらも、頭陀寺で14〜16歳までの3年間を過ごしたころの秀吉は、勤勉で、殿様思いだったことがよくわかるエピソードになっています。
まずは『片葉の葦(かたはのあし)』からご紹介しましょう。
片葉の葦(かたはのあし)
昔、昔、その昔、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、ふるさとの尾張国(名古屋市中村区)から針を売りながら、この地にきて、頭陀寺(現在の浜松市南区頭陀寺町)城主・松下之綱に見出され、その家来となったのです。
お殿様から鎌を研ぐように言われた藤吉郎は、頭陀寺地区の天白神社脇の池に出かけました。
きれいな水を砥石にかけ、刃先がピカピカに光るまで何度も何度も磨き、「お殿様の大切な鎌だ。お殿様に満足していただけるような研げているか試し切りをしておこう」
ピカピカに光る鎌でも、切れ味が悪くてはいけません。お殿様の鎌を持った藤吉郎は池の周りの葦の茂みを見つけ、試し切りをしてみます。
力で切れる堅い茎ばかりでなく、風に揺れるやわらかい葉まで切り落とせるようなら、きっとお殿様も喜んでくれるだろう。と小刻みに揺れる葦の葉に鎌を振り下ろし切れ味を確かめた藤吉郎。
葦のやわらかい葉が1枚、さらりと風に乗って飛んでいきました。念のため2度3度試しても、やはり、切れ味抜群に研げているようです。藤吉郎は、歯こぼれがないか鎌を確認しますが、傷一つないことに満足し、お殿様に急いで届けようと城に駆け戻ります。
鎌を手にしたお殿様は、さっそく鎌を試し、見事な切れ味にたいそう感心し家来を集め藤吉郎の働きぶりをほめました。
切れ味に驚いた家来たちも、自分の鎌も研いで欲しいと次々に藤吉郎に持ちこむようになりました。そんな家来たちにも藤吉郎は、お殿様に対してと変わることなく、嫌な顔ひとつせず鎌を研ぎ続けるのです。
藤吉郎が鎌を研ぐのは、いつも同じ天白神社脇の池でした。次々と鎌を磨き、仕上がるたびに葦の葉を試し切りします。
そんなことが繰り返されるうちに、さて?どうしたことでしょう。藤吉郎が何度も何度も葦の葉を切り落としたため、藤吉郎がいつも試し切りする側の葉だけが、茎の付け根から切られてなくなってしまいました。
きっと、藤吉郎が鎌をと研ぐために通った池の葦は、「葉を切られては大変だ」「どうせ葉を出しても切られてしまう」「藤吉郎の手が届かない方に葉を生やさないように葉を茂らそう」と思ったのでしょう。いつの間にやら、葦の片方にしか葉を生やさないようになったそうです。
やがて、天白神社近くに住む村人たちは、片方にしか葉を付けない葦を「片葉の葦」と呼ぶようになったそうじゃ。
引用元:浜松 歴史のとびら56より 浜松歴史のとびら
鎌研池(かまとぎいけ)
頭陀寺から歩いて10分ちょっとの所に藤吉郎(後の豊臣秀吉)が鎌を研いだといわれる『鎌研池』があります。が、今は水はないようです。
【藤吉郎とメダカ】
松下屋敷(今の浜松市南区頭陀寺町)で松下之綱に仕えていた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、武士になりたい一心で誰よりも仕事に励んでいたといいます。
ある日のことです。藤吉郎は、殿様の馬の世話をする役を命じられ、お褒めの言葉をいただきたい一心で、馬の餌になる草をあちこち探しました
屋敷の土手に、馬が喜びそうな草が生い茂っているのを見つけ、草を一束刈り取り屋敷に駆け戻り、馬に差し出しました。馬はなんともおいしそうに食べてくれたそうです。
「この草なら大丈夫。殿様もきっと喜んでくれるはず」と、毎日川に通い一生懸命に馬のため草を刈りました。稽古熱心な藤吉郎は、草を刈りながらも「いつかは武士の大将になって、殿様のように馬に乗りたい」などと考えます。
草刈りに疲れたので、今度はメダカを捕まえようと水の中に手を入れます。が、一匹も捕まらない。何度やっても逃げられてしまいます。
あんなにたくさんいるメダカが一匹も捕まらないなんて、武士を目指す男の名折れじゃ」と、今度はメダカめがけて小石を投げました。これまた、メダカにはかすりもしません。
研究熱心な藤吉郎は、「毎日川に来て草刈りをしている時間を無駄にはできない。あのすばっしこいメダカを使って、武士になる稽古をしよう」と考えたのです。
ちょうどよく大きな松の木を近くに見付け、松葉の手裏剣で敵兵に見立てたメダカを倒そうよ、小さくすばしっこいメダカを的にした手裏剣の練習を始めたのです。
草刈りのたびに松葉の手裏剣を投げ続け、腕前は驚くほど上達しました。最初は逃げられていたメダカの体にかするようになり、体に当たるようになりました。
そして、とうとう泳いでいるメダカの目を松葉で刺すことができるまでになったのです。が、あら?どうしたことでしょう。
いつしか藤吉郎が草刈りをした川は、片方の目が傷ついたメダカが目立つようになってきたそうです。
そんなことから、藤吉郎が草刈りをした川と伝えられる辺りに「目刺橋通り」「目刺橋」(浜松市南区三和町と安松町に架かる)と名付けられた通りが、今も残っています。
引用元:浜松歴史のとびら115より 浜松歴史のとびら
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最後に
遠州に残る、14〜16歳までの3年間を頭陀寺で過ごしたころの豊臣秀吉に関して、『片葉の葦(かたはのあし)』と『めだか』の伝承は知っていました。
ですが、頭陀寺が井伊直政のゆかりの寺だったとは、来年放送の『どうする家康』をきっかけに歴史をいろいろ勉強し始めるまで知らなかったのです。
国の重要文化財に指定されている『中村家住宅』に自身で出かけて、家康の自害した嫡男信康以外に、この中村家で生まれた二男の結城秀康の存在や、その後についても、詳しく知ることができて喜んでいました。
そして、今度は竹千代と呼ばれた幼い頃の家康公が、この中村家から「頭陀寺」まで馬で出かけたというじゃありませんか?少しずつ家康のことに詳しくなっていく自分が怖いくらいです。
ってことで、今年中にはこの「頭陀寺」も実際に訪ねてみる予定でしたので、しっかりとケーキを食べるほかには、予定のなかったクリスマスに決行いたしました。調べただけではわからないロマンを今ヒシヒシと感じています。
最後までお読みいただきありがとうございます。では、またです。